第1巻 第14話 私たちがまだ知らないこと
静かな月の下にいる生き物
第1巻
第14話 私たちがまだ知らないこと
戦いが終わった森には、静寂が戻っていた。
先ほどまで辺りを満たしていた青い光は、跡形もなく消え去っている。木々の間を吹き抜ける風が葉を揺らし、地面に散らばった枯れ葉をかすかに舞い上げていた。
ケイルは、地面に倒れているレンを見下ろした。
レンは意識を失ったまま、ぴくりとも動かない。
「……まったく。次から次へと問題を起こしてくれる」
ケイルは小さく息を吐いた。
しかし、その声には先ほどまでの緊張とは違う響きがあった。
ほんの一瞬、彼の口元にかすかな笑みが浮かぶ。
ケイルはそばに落ちていた刀を拾い上げ、腰の鞘に収めた。それからレンをそっと抱き上げると、周囲を警戒しながら森の奥へと歩き始めた。
ここに長く留まるのは危険だった。
先ほどの二人が再び戻ってくる可能性もある。何より、今のレンには自分の身を守る力がない。
しばらく進んだところで、ケイルは大きな木の根元に腰を下ろした。
レンの小さな体を膝の上に落ち着かせ、静かに周囲を見渡す。
今のところ、追っ手の気配はない。
「……少しは休めるか」
ケイルがそうつぶやいた、そのときだった。
レンの耳が、ぴくりと動いた。
「……ん……」
小さなうめき声とともに、レンの青い目がゆっくりと開く。
ぼんやりとした視界の中で、最初に目に入ったのは見知らぬ木々だった。
そして、そのすぐそばには――。
「……俺、生きてるのか……? それとも、もう死んでるのか……?」
レンはかすれた声でつぶやいた。
彼の視線が、隣にいる人物へと移る。
長い髪ではない。見慣れない耳の形をした、どこか人間離れした雰囲気の人物。
そして、印象的な金色の瞳。
レンはしばらくその顔を見つめた。
「……待って。君って、もしかして美少女? 俺、天国に来ちゃったのか?」
ケイルの眉がぴくりと動いた。
「余計なことをしゃべるな。お前は生きている」
「そっか……まだ生きてるのか」
レンはほっとしたように息を吐いた。
だが、次の瞬間、何かに気づいたように顔を上げる。
「待てよ……ってことは、俺、気絶してたのか? それで、ここまで運んでくれたの?」
「違う。お前が自分で飛んできた」
「えっ! 俺、飛べるの!? そんな能力があったなんて知らなかった!」
ケイルは深いため息をついた。
「……お前には、もう何を言っても無駄だな」
「ちょっと! なんで俺のせいなんだよ! 飛んできたって言ったのは君だろ!」
ケイルは答えなかった。
「おい、無視するな!」
それでも、ケイルは黙ったままだった。
レンは不満そうに頬を膨らませた。
もっとも、今の彼の顔でそれをやっても、威圧感などまるでなかった。
しばらくして、レンはふとケイルの腕に目を留めた。
「……あれ?」
彼は身を乗り出し、ケイルの腕をじっと見つめた。
「ちょっと待ってくれ。君の腕……傷が治ってるじゃないか!」
先ほどの戦いで、ケイルは確かに負傷していたはずだ。
それなのに、今の腕には傷ひとつ見当たらない。
「どうして? さっきまで怪我してたよな?」
「お前の力だ」
「……俺の?」
ケイルはうなずいた。
「お前の力が暴走したとき、あの二人を吹き飛ばした。それだけじゃない。俺の傷も、そのときに治ったらしい」
「らしいって……君にも、はっきり分からないのか?」
「お前自身が制御できていない力だ。俺にすべて分かるはずがない」
レンは自分の小さな前足を見つめた。
「俺、そんなことをした覚えがないんだけど……」
「だろうな。意図して使った力ではなかった」
「つまり、俺が何をしたのか、俺自身にも分かってないってこと?」
「そういうことだ」
レンはしばらく黙り込んだ。
自分の中に、まだ理解できない力がある。
しかも、その力は自分の意思とは関係なく発動することがあるらしい。
便利だと喜べるような話ではなかった。
「……これ、ちゃんと制御できるようになるのかな」
「それを確かめるためにも、まずは自分の力を理解する必要がある」
「簡単に言ってくれるなあ……」
レンは小さくため息をついた。
それから、先ほどの戦いを思い出したように顔を上げる。
「そういえば、さっきの二人は何者なんだ? どうして俺たちを襲ってきた?」
「女のほうは、ニラ・ヴォス。王直属の狩人だ。男はセドリック・ハルヴァーン。王に仕える役人の一人だ」
「王直属の狩人に、王の役人……?」
レンは目を丸くした。
「ちょっと待って。なんでそんな人たちが、こんな森にいるんだよ?」
「おそらく、俺たちを捕らえに来たのだろう」
「そりゃそうだろ! 俺たちを捕まえに来たに決まってるじゃないか!」
ケイルはレンを一瞥した。
レンは慌てて両前足を上げる。
「おい! 俺もそう言ってるんだって!」
ケイルは何も答えなかった。
「……本当に無口だな、君は」
レンはあきらめたように前足を下ろした。
だが、すぐに別の疑問が浮かんだ。
「それにしても、あの男……ほとんど戦ってなかったよな?」
「ああ。女が男に下がるよう指示していた。邪魔になる、と言っていたな」
「つまり、あの男は彼女を助けるためについてきたってことか?」
「その可能性はある。王が狩人の補助と森の案内役として、あの男を同行させたのかもしれない。……あくまで俺の推測だが」
「なるほど……」
レンは納得したようにうなずいた。
しかし、考えれば考えるほど、分からないことが増えていく。
なぜ王は自分たちを捕らえようとしているのか。
なぜ森の中で、あれほど強力な力が発動したのか。
そして、そもそも自分は何者なのか。
「……なあ、ケイル」
「何だ」
「さっきの女、君のことを知っているように見えたんだ。それに、俺があの女について聞いたとき、君は『残念ながら』って言ったよな。あれはどういう意味だったんだ?」
ケイルは少しの間、答えなかった。
金色の瞳が、わずかに細められる。
「……以前、あいつとは会ったことがある」
「会ったことがある? それだけ?」
「今は、それ以上話すつもりはない」
「ええ……気になるんだけど」
「聞いても答えない」
レンは不満そうにケイルを見上げた。
「少しくらい教えてくれてもいいだろ……」
「必要になれば話す」
「その『必要』って、いつなんだよ……」
ケイルは答えなかった。
レンは大きく息を吐き、ひとまず追及するのをあきらめた。
今は無理に聞き出そうとしても、何も教えてもらえそうにない。
それよりも、先に考えるべきことがあった。
「でもさ……あの二人が俺たちを捕まえに来たってことは、王は俺たちのことを知ってるんだよな?」
「おそらくな」
「どうして? 俺たち、別に何もしてないぞ」
ケイルは静かにレンを見た。
「本当に、何もしていないと思うか?」
「……え?」
レンは思わず言葉に詰まった。
ケイルは続けた。
「最初に現れた魔物を覚えているか?」
「森で俺たちの前に現れたやつ?」
「ああ。あの魔物は、最初は俺たちに近づいたものの、攻撃せずに立ち去った。だが、その後、再び現れ、今度は襲いかかってきた」
「それは……覚えてる」
「そして、俺が村へ向かう途中でも、普段なら集まらないような場所に魔物が現れることが増えていた」
レンは眉をひそめた。
ケイルの言葉を聞いていると、確かに不自然なことが続いているように思える。
「村でも、人々はお前を見て妙な反応をしていた。そのうえ、別の魔物まで現れた」
「でも、それが俺のせいだって証拠にはならないだろ?」
「そのとおりだ」
ケイルはあっさりと認めた。
「疑わしいというだけで、原因だと決まったわけではない」
「だったら……」
「だが、村の長老は一連の出来事を王に報告した。そして、エコーの塔にも異変が起きた」
「エコーの塔?」
レンは聞き慣れない言葉を繰り返した。
ケイルは続けた。
「塔が反応したことで、王は警戒を強めたのだろう。魔物の異常な行動、村での出来事、そして塔の反応。それらが重なった結果、お前たちを調べる必要があると判断したのかもしれない」
レンは黙って話を聞いていた。
「……でも、やっぱり俺が原因だって決まったわけじゃないんだな?」
「そうだ。疑いと証拠は違う」
その言葉に、レンは少しだけ安心した。
少なくとも、ケイルは自分を無条件に犯人扱いしているわけではない。
「それなら、どうして君は王に逆らったんだ?」
レンはふと気になっていたことを尋ねた。
「王が俺たちを捕まえようとしているなら、君が従っていれば、こんなことにはならなかったんじゃないのか?」
ケイルはしばらく黙っていた。
やがて、静かな声で答えた。
「理解できないという理由だけで、誰かが死ぬのを見過ごすことはできなかった」
レンは目を瞬かせた。
その言葉は、予想していたものとは少し違っていた。
ケイルは王の命令に逆らった。
自分の立場がどうなるかも分かっていたはずだ。
それでも、彼はレンを見捨てなかった。
「……そっか」
レンは小さくつぶやいた。
いつもの軽口は出てこなかった。
少しの間、二人の間に静かな時間が流れた。
やがてレンは、別のことを思い出したように顔を上げた。
「そうだ。王って、誰なんだ?」
「アルドリック・ヴェイルソーン」
「アルドリック……ヴェイルソーン」
レンはその名前を繰り返した。
「それで、この国の名前は?」
「ヴァレルドーン王国だ」
「ヴァレルドーン……」
初めて聞く名前だった。
当然ながら、レンの知っている地名のどれにも当てはまらない。
彼は少し考えてから、さらに尋ねた。
「王は、どうしてそこまで俺たちを警戒してるんだ?」
ケイルの表情がわずかに変わった。
「何百年もの間、眠り続けている古代の力を恐れているのだろう」
「古代の力?」
「昔の時代には、今の人間には想像もできないほど強大な存在がいた。だが、すべてが倒されたわけではない」
レンは黙って耳を傾けた。
「滅ぼすことができず、封印された存在もいる。今もどこかで眠り続けているものもな」
「……それが、俺と何か関係あるってこと?」
「まだ分からない。だが、お前の力も、エコーの塔の反応も、王にとっては無視できないものなのだろう」
ケイルは少し間を置いてから続けた。
「この国には、かつて古代の脅威と戦った六人の古代騎士の伝承が残されている」
「六人の古代騎士……?」
「ああ。それぞれが異なる力を持ち、当時の戦いで重要な役割を果たしたとされている」
ケイルは、一人ずつ名前を挙げた。
「大剣を操るカエラン・ドラヴェール」
「前線で戦った女騎士、セラフィーナ・ヴァルクレスト」
「槍を使うダリウス・フェンホルト」
「古代魔法を扱ったエロウェン・ソーンヴェイル」
「重武器を振るったガリック・ヴォスメア」
「そして、魔法と封印を担ったリサラ・ムーンクレスト」
レンは、聞いた名前を頭の中で繰り返した。
「……ずいぶん大層な人たちなんだな」
「伝承が事実ならな」
「そのリサラって人は、どんな魔法を使ったんだ?」
「彼女が扱ったとされる力の一つに、『アストラル・ドミニオン』がある」
ケイルは淡々と説明した。
「星界の力を操る能力だ。そして、『永遠の封印』と呼ばれる術によって、倒すことのできなかった存在を封じたと伝えられている」
「永遠の封印……」
「その力に関連する術として、『星界の牢獄』というものも伝承に残されている」
レンは目を丸くした。
「星界の牢獄って……名前からして、ものすごく強そうだな」
「名前だけで強さを判断するな」
「いや、だってそうだろ! 星界だぞ? 牢獄だぞ? 普通に考えてすごいじゃないか!」
「……お前の普通は、あまり信用できないな」
「なんでだよ!」
ケイルは小さく息を吐いた。
「いずれにしても、古代騎士の力が今も残っているのか、それとも伝承だけなのかは分からない。王が何を恐れているのかも、すべてが明らかになっているわけではない」
「じゃあ、俺の力がその古代の力と関係しているかどうかも……」
「今は分からない」
レンはしばらく黙り込んだ。
古代の存在。
封印。
エコーの塔。
そして、自分の制御できない力。
どれも気になることばかりだったが、今の彼には何一つ確かめる手段がなかった。
「……なんか、考えることが多すぎるな」
「今すぐすべてを理解する必要はない」
「それはそうだけどさ……」
レンは大きくため息をついた。
そして、何かを思い出したように顔を上げた。
「ところで……ムーンベリーって、いつ取りに行くんだ?」
ケイルはレンを見た。
「……お前、今起きたばかりだろう」
「だから?」
「気を失っていたうえに、まだ体力も戻っていない」
「俺、歩けるぞ!」
レンはそう言い切ると、勢いよく立ち上がった。
……立ち上がった、つもりだった。
小さな前足が木の根に引っかかる。
「あっ――」
体が前へ傾いた。
次の瞬間、ケイルが素早く手を伸ばし、レンを受け止めた。
しばらくの沈黙。
レンはケイルの腕の中で、何事もなかったかのように顔を上げた。
「……今のは、わざとだ」
「そうか」
「そうだ。ちょっと試しただけだ」
「何を?」
レンは少し考えた。
「……君がちゃんと受け止めてくれるかどうか」
ケイルは無言でレンを見下ろした。
「……あまり頻繁に試さないでくれ」
「分かったよ。でも、ちゃんと歩けるようになったら、ムーンベリーを取りに行こうな!」
「考えておく」
「それって、行くってことだよな?」
「考えておくと言った」
「いやいや、そこは素直に『行く』って言ってくれよ!」
ケイルは返事をしなかった。
レンは不満そうにしながらも、さっきより少しだけ表情を緩めた。
まだ分からないことは山ほどある。
自分の力の正体も、この世界のことも、王が何を恐れているのかも。
そして、ケイルがニラ・ヴォスと過去に何があったのかも。
答えは、どこにも見つかっていなかった。
それでも、今は前に進むしかない。
レンは自分の小さな前足を見つめ、それから森の奥へと視線を向けた。
「……とりあえず、木の根っこに負けないくらいには強くならないとな」
「まずは普通に歩けるようになることだな」
「分かってるって!」
レンは抗議したが、ケイルはわずかに口元を緩めただけだった。
やがて二人は立ち上がり、森の道を歩き始めた。
まだ、すべてが解決したわけではない。
王の疑念も、古代の力も、レン自身の能力も、謎に包まれたままだ。
それでも、二人は歩みを止めなかった。
そして――。
二人が気づかないまま、少し離れた茂みの奥で、何者かが静かにその後ろ姿を見つめていた。
風が吹き、葉がかすかに揺れる。
次の瞬間、そこにはもう、誰の姿もなかった。
続く……




