反対側の景色 後編
学生時代の終わりに付き合った彼女は、小動物みたいな人だった。
彼女を認識し始めたのは一年の文化祭。友達の付き合いで、俺は入ってもいないサークルの下働きをさせられていた。
あまりにもコマ使いみたいに無遠慮に使われるので、隙を見てサボっていた時だ。誰も来なそうな廊下で階下の喧騒を眺めながら、ようやるわ、とジュースを飲んでいた。
視界の端から腕章を付けた小さな女性が走ってくる。確か同じ学部の、くらいの認識で、うわー実行委員とかやってるんだ、と小馬鹿に思った。
各屋台にプリントを配りながら何やら声をかけている。ペコペコしながらニコニコして、でも疲れた様子はなくて。テキパキと動く彼女は少し誇らしげで、キラキラして見えた。
そこから何となく目で追うようになった。
彼女はよく動き、よく笑い、リーダータイプではなかったが、広く穏やかな交友関係を築いているように見えた。
人当たりがいいし、気遣いも丁寧で、俺とは真逆の性格だな、と思った。
当時の俺は、両親の離婚からしばらく経ってはいたものの、高校時代の失恋も相まって、なるべく交友範囲を拡げないように、深めないようにしていた。
付き合う人間が増えるほど、気遣うことも増え、煩わしさも増える。特別が増えるほど、失った時の代償も大きい。
だからゼミで同じクラスになった時は嬉しいような、ちょっと面倒なような、そんな気持ちだった。
向こうは俺のことなんか知らない癖に、勝手にあれこれ考えている自分に呆れたりもした。
四年に上がって、研究テーマを絞り込む時、不可抗力で彼女とふたりきりになった。
勝手に気まずさを感じながら、カチコチと時計の音だけが響くパソコンルームで、全く終わりそうもない作業に向き合う。
地獄のようだ、と思ったけれど、途中で帰らなかったことを思うと、心の奥底では一緒にいられることが嬉しかったのかもしれない、と後から思った。多分、初めて見た時からずっと惹かれていたんだ。
何かのきっかけで会話して、お互いに好きなバンドが一緒で話すようになった。
家のゴタゴタを慰めるように聴いていた曲たちばかりだったから、思い入れも深く、詳細は省きながらも、ここに共感する、とか、このフレーズが泣ける、とか、そういう話を全部、彼女はうんうん、わかるーと聞いてくれた。
全部が全部、話せたわけではなかったけれど、曲と共にあった自分の中の苦しさや虚しさを受け止めてもらえた気がして、とても嬉しかった。
その先の関係になりたい、と思わない訳ではなかったけれど、色々と拗らせた俺は、とりあえずこのままでいいじゃないか、と自分を誤魔化して彼女の隣に居続けた。均衡を崩したのは彼女だった。
「すき、なんだ、けど」
その言葉に、一瞬固まって言葉が出なかった。関係が崩れてしまう。これまで通りでなくなってしまう。
なんて言おうか戸惑って彼女を見ると、真っ赤な顔をして項垂れていて、それがとても、愛おしく思えた。
「…えっと…それは、俺のこと、ですかね?」
小さく頷く彼女に、自分の体温が上がるのがわかった。気付いたらキスまでしていた気がする。散々悩んだ癖に、何やってんだ俺は。
彼女との日々は想像以上の楽しさだった。
付き合いたての夏休み、彼女がひとり暮らしなのを良いことに転がり込んで、ほとんど毎日一緒に過ごした。就活を早々に終えていた数ヶ月前の自分に心から感謝した。
いろんなことを思いつく彼女は、スイカ割りをしたい!と丸いスイカを買って来たはいいけれど、割る所がなくて狭い風呂場で目隠しして、ふたりでわーわー言いながらやったり、公園で何度も花火をしては通報され、お巡りさんと顔見知りになったり。
夏の終わりにはふたりで一緒にライブにも行った。
色違いでお揃いのライブTシャツを着て、タオルにリストバンド、ポーチまで買って、はしゃぎ過ぎかな、と苦笑する彼女に、たまにだからいいんじゃん、と言うと、そうだよね!と満面の笑みが返ってきた。
イントロが流れる度に表情がコロコロと変わる彼女がとても可愛いらしかった。
今までの人生になかったスパイスをたくさん教えてくれた。
楽しいこと、嬉しいこと、愛おしいこと。
だから、余計に話せなかった、それまでの自分を。ネガティブなことで、その幸せを、壊したくなかった。
学生のうちはそれで問題なかった。
これからもきっと問題ない、そう思っていたけれど、現実は厳しかった。
就職して半年も経たず、親父のリストラ、金銭面の躓き、現実的な問題がずしりと乗っかってくる。
希望の職種に就いた彼女は日々楽しそうに忙しくあって、会える頻度はガクッと下がり、だからこそ、せっかく会えた時に暗い話はしたくなかった。
社会人になって初めての夏休み。
正直、大きな出費はしたくなかったけど、せっかく彼女と過ごせる時間にケチケチしたくなかった。
楽しいはずなのに金のことばかり気にかかる、そんな自分も嫌だった。屈託なく笑う彼女に、隠し事ばかりの自分が苦しかった。
夏が終わり、彼女の仕事はより忙しくなった。曜日を問わず働いているようだった。ほとんど会えなくなった。連絡さえも取れない。
俺自身も平日は忙しく働いていたけれど、土日になるとポッカリと時間が空く。
そんな時に暗い感情は足元からヒタヒタと忍び寄る。先の見えない不安、どうしようもない寂しさ。
耐え難くなって、彼女に会いに行った。
タイミングとしては最悪だった。今言うべきでないことはわかっていた。
それでも、もう、限界だった。
健康補助食品を片手にパソコンに向かう彼女に言った。
「…ちょっと聞いてほしいことあんだけど」
「え〜なに〜?」
「家の話。ちょっと重い」
「…あー…ごめん、今ちょっと余裕ない」
わかってはいた。
でも、実際に彼女の口から聞くと、こんなにも重い。
「うん、そうだよな。ごめん」
傷付いたことをなるべく悟られないように、意識的に穏やかな声で言った。
その後、どうやって家に帰ったのか覚えていない。
翌日から、俺は狂ったように仕事に打ち込んだ。
残業を積極的に受け入れ、先輩達に取り入って仕事を貰い、兎に角がむしゃらに働いた。
そうする事で金にもなるし、色んなことが忘れられるから。
その姿勢が今どき珍しい積極的な若者、として年配者の目に留まり、気にかけて貰えるようになった。
言われたことを素直に聞き行動する、ハキハキ喋り、上っ面の会話でニコニコする。
全部が結果に繋がるなら、こうすることで楽になるのなら、もう全部どうでもよかった。
有難いことに酒もそこそこ強く、夜の街も誘われれば行った。仕事に精を出し、付き合いも悪くない、上司が求める部下を演じた。
その中でも当時係長だった今の部長が目を掛けてくれて、家の事情も少し話すと、役職が付くよう、いろんな面で取り合ってくれた。お蔭で今、同期の中でも出世頭となっている。
彼女とはメッセージのやり取りで別れた。
ちゃんと会って話すのが道理だろうと理性が言うが、仕事に全振りで体力も気力も使ってしまっていたから、それさえ煩わしく感じた。
でも、それはきっと当時の自分を守る言い訳に過ぎなくて、結局はただ、怖かっただけなんだ。
いつだって真っ直ぐに話す彼女に、自分も真っ直ぐ、向き合うことが。
***
『昼休みひま?ランチミーティングできる?』
週中の昼間、部下達は出払ったオフィスでデスクワークをしていると、同じく社内にいる部長からメールが飛んできた。
チラッと席を見るとアイコンタクトを返してくる。何か人に聞かれたくない話だろうか。
大丈夫ですよ、と返信すると、場所を指示され部長はそのまま席を立った。少し間を空けて後に続く。
指定された場所は会社の近くにある定食屋で、奥に半個室の席がある。
社内にもそこそこ立派な食堂があるのに違う場所、ということは、まだ公にしたくない何かなのだろう。
部長は既に席について出されたお茶を啜っていた。
「お〜忙しいのに悪いね」
「いえ」
お茶を持ってきた店員に日替わり定食を頼んで席に着く。
「何かありました?」
「んーまあ、ね」
で、最近どう?といつもの口調で聞いてくる。チームの現状や気に掛かっていることを話しているとふたり分の食事が届く。
「相変わらず美味しそうですね」
にこりと店員に声を掛ける部長は、根っからの人たらしだよなあ、と思う。
こういう人が上に立つんだろうな。箸をつけながら、部長が本題を話し始めた。
「君のところのさ、元気な彼女、別部署にもらってもいい?」
「…随分急ですね」
話を聞くと隣の課に家庭の事情で退職する人がいると言う。同じチームのひとりは来月から産休に入る予定で、欠員二名はキツい、とのことだった。
「いつからですか?」
「ほんとは今すぐにでも、と言いたいところなんだけど、現実的には厳しいから下半期からかな」
うちの会社は十二月決算なので、九月を境に上期と下期が分かれている。
「二ヶ月後ですか…彼女の持っている担当はどうします?」
「大きなところは残して、小さなところは今のチームで分担する形を取ってほしい」
期待の若手、と言えどまだ三年目のあいつが持っている担当はそんなに多くない。業務的には実現可能な所だろう。
スケジュールアプリを開きながら確認していると、部長が付け加えるように口を開いた。
「それに、そろそろ潮時でしょ?」
怪訝な顔をする俺に、部長は苦笑しながら続けた。
「君たちの関係。深くするつもりがあるにしろないにしろ、ちょっと離れた方がいいよ」
思わぬ話題の展開に頭がついていかない。
「側から見ていて、仕事をするにはちょっと健全じゃない」
そう言って部長は味噌汁を啜る。俺は箸を持ったまま固まっていた。
「仲良いように見えたから、君にその気があるなら付き合ってからって思ってたんだけど。彼女の気持ちに応えるつもりはないんでしょ?」
「…ない、ですね」
あいつが妹のように懐いていた所から、少しずつ変化しているのは俺にもわかっていた。
だけど、徹底的な何かがあった訳でもないのに、こちらの態度を変えるのもおかしいだろう、とそのままにしてきた。
「今はまだみんな微笑ましく見てるけど、このままいくとあんまりいい感じにならないと、僕は思う」
だから、ちょっと物理的に距離を置いたらどうかなって。淡々と言う部長を、そんな所まで配慮して人事ってするのか、と驚いていると、
「普通はここまで配慮しないよ。僕なりに君のことは気に掛けているんだ」
部長は笑った。
「弟さん、来月結婚式だろ?家のことも落ち着いて、君自身もプライベートを考え始めるんじゃないかなって。その時に、いろいろ、関係性も変わってくるでしょ」
仕事に影響出そうなところは整理しとくに越したことはない、そう締め括り、お茶を飲んで一万円札を置いた。
「話はそれだけ。彼女には僕から伝えようか?」
「あ、いえ、私から」
そう?じゃあ、よろしく、と部長は席を立った。
ひとりポツンと置いていかれた俺は、まだ頭の中の整理がつかないまま、とりあえず目の前の飯を腹の中に入れた。
***
社内が騒つく金曜の夕方。
デスク一台と椅子が四脚だけある狭いミーティングボックスに、あいつと、あいつを呼び出した。俺との打ち合わせが嬉しいのか、まるで尻尾が見えるみたいにニコニコで部屋に入ってきたあいつは、異動の話をすると、神妙な顔をしながら、特に意義もなく、わかりました、と言った。
まあ、異議を唱えたところで、もうほぼ決定している事項に一社員があれこれいえる訳ではないから、当然と言えば当然なのだが。
今後のスケジュールを一緒に確認し、簡単に引き継ぎなどの話をする。詳しくはまた週明けに、と区切って部屋を出た。
幾つかのタスクを片付けて、まだ残っている部下達に声を掛け、退社する。
あいつはもう自席には居なかった。異動はあいつにとっては本意ではないだろう、憂さ晴らしに飲みにでも行ったかな、と思った。
エレベーターに疲れた身体を乗せる。ここ数年で、夕方になると目が霞むようになってきた。
同期にポロッと溢したら、おっさんかよ、と笑われた。昇進も早い分、プレッシャーも大きいから、身体も心も老化が早いんだよ、と言い返しておいた。
「ふう」
一息ついてエントランスをくぐる。
「主任!」
急な呼びかけに驚く。
その俺を見てあいつが笑う。
「わはは、びっくりさせちゃいました?」
「お、おう。帰ったんだと思ったわ」
えへへ〜と笑いながら、ちょっと言いにくそうに照れながら口を開く。その仕草に女を感じた。
「主任と飲みに行きたくて」
その一言に、身体の芯がスッと冷えた気がした。
勘弁してくれ、そのセリフが真っ先に出てきた。
とりあえず会社から離れるように歩きながら話す。
「あ〜」
「先約ありですか?」
いや、えっと…どうしたらいいんだ?こんな時。ちらっとあいつを見ると、期待と不安が入り混じった顔をしている。
まだ二〇代中頃の表情は、今の俺からすると随分と幼く思えた。
「いや、ふたりでは行けないかな」
ニコッと外面を作る。こいつの思いには応えられないが、部下として、人として、こいつが嫌いな訳じゃない。
だったら逆にちゃんと、気持ちがないことを示してやらないといけないのかもしれない。
えっと…と戸惑うあいつの目を見て言う。
「俺はお前の上司だから。それ以上でもそれ以下でもないよ」
いつもチャラチャラとして、明るいあいつの瞳が分かりやすく曇る。
ほんの少しだけ、何言ってんですが、そんな下心ないですよ〜と笑ってくれるのを期待した。
でも、それは叶わなかった。目の前のそいつは、明らかなショックを隠せない顔をこちらに向けている。
俺だって言いたくなかったよ、こんなこと。
少しの沈黙の後、あいつが口を開いた。
「そ、そーですよねー、うん、うん、ごめんなさい!えっとお…お疲れ様でした!」
足早に街の喧騒に消えていく。
あいつが見えなくなるまで見送って、地下鉄の階段を降りた。
***
「疲れた…」
駅前のスーパーで買い込んだ惣菜やビールを袋ごと机に置いてソファにぼすん、と腰を下ろす。
終業後の一連のやり取りを思い出し、また気持ちが重くなる。恋愛、マジで苦手だわ…。
缶ビールを開け、AIスピーカーに音楽再生を頼む。もう来週末にライブを控えた彼らの音楽が空気に流れ込む。
結局残ったチケットは売りに出し、ほぼ定価で返ってきた金は、弟達の好意に甘えてライブTシャツにした。それでも余った分はプラスにしてご祝儀に乗せるつもりだ。
三〇前の男がひとりでライブ参戦、しかもTシャツ着てとか痛いかな、と思ったけど、まあ祭りみたいなものだし、せっかくだから、と買ってみた。それでも一番地味な、わかる人にしかわからないようなデザインを選んだ。
彼らの声とビールが身体に沁みる。
もう、なんか全部嫌だ。全部めんどくさい。
ろくに着替えもせず、ローテーブルに突っ伏した。音楽だけ耳に入れながら、目を瞑る。
俺ひとりにとっては広すぎる部屋の真ん中で。




