反対側の景色 前編
「高畑主任〜いつになったら私と付き合ってくれるんですかあ〜」
「世界の終わりがやってきたらかなあ」
まーた適当なこと言ってえ、と俺の目の前で笑うのはまだ三年目の若手だ。
「ほい、書類チェック終わり。経理出しといて」
「はあーい」
「あと距離近過ぎ。暑苦しいわ」
「はあーい」
見た目はチャラいがしっかりしたヤツで若手の中では有望株とされている。三年前、俺がOJTを組んだ相手でもある。
「おーい、◯◯鉄鋼さんの打ち合わせするぞー」
「ほら、呼ばれてんぞ、行ってこーい」
「…はーい」
金曜の夕方から会議なんてさいあくぅ〜と悪態をつきながら資料を持って会議室へと消えて行く。ああ見えて仕事はキッチリしているから、若手ながらいろんな現場に引っ張りだこだ。
「相変わらずイチャイチャしてんね〜」
「やめてくださいよ」
好青年的な笑顔を浮かべながら部長がやってくる。四〇を過ぎたくらいだったか。若々しいし、ニコニコしていて柔らかい印象だが、定期的に大きな仕事を取ってくるやり手で、結果を出しているからこそ、多少の無茶はねじ込めるので取引先からも頼りにされている。
「いいじゃん、一回付き合ってみたら?」
「社内恋愛しない派なんで」
「そう?公私混同しなければ、全然OKだけどね」
飄々と言ってのけたこの人は先月、超美人として昨年入社してきた新人と式を挙げた。大学院卒とは言え、ひと回り以上下だ。
恋愛は得意じゃない、というかそもそも人間関係が苦手で、じゃあ何で営業なんかしてるんだ、と言われたら、それしかできる事がなかったから、と答える。
お袋と弟は専門分野で優秀だが、残念ながら俺は特別何かに秀でてはいなかった。
忘れ物、忘れ物、とさっきの後輩が自席に戻ってくる。
「あ、そー言えば、主任が好きなバンドさん、今度ライブやりますよね」
何年か振り?みたいな結構話題になってて〜知ってます?と探し物をしながら話しかけてくる。
「んー」
「一緒に行っちゃいます?」
「行かない」
「ですよね〜」
あ、あった、とまた別の資料を持って会議室へと歩を向ける。
「会議終わったらそのまま帰れよ」
「あいあいさー」
「残業するなよ、帰れよ」
「ほーい」
営業結果を出すには本人の技量や持って生まれたものも多少はあるが、大抵は結果に見合った努力がその裏にある。
最近オーバーワーク気味なあいつに強めに念を押した。
「そういうところだよなあ」
まだ俺の後ろに立っていた部長が微笑ましそうに呟く。
「何がですか?」
「面倒見いいからなあ」
「あいつにだけじゃないですよ」
「まあ、そうなんだけどね」
結構いいコンビだと思うけど、ふふっと笑って去って行く。何しにきたんだあの人。
でも、ああやってフロア内をフラフラと雑談しながら下の人間とも関わりを持って、特性や行動を把握し、困りごとも早めにキャッチしてくれる。さすが若くして部長に登り詰めるだけはある。
静かになったデスクで事務処理をする。
主任、といっても部下はたったの三人だし、自分自身もまだまだプレイヤーだから、持っている営業先の仕事をしつつ、チームメンバーのフォローをする感じだ。
一応、みんなそれぞれ自分で動けるから、請求書の最終確認に、相談があれば提案資料のチェック、時々は先方にも顔を出して、くらいが業務内容。適当に流してもいいのだが、この先に進むことを考えると、少しでも好成績を残しておきたい。
体力勝負だけで良かった時代はもう終わりに差し掛かっていて、社内折衝や先方との駆け引き、空気や流れを読むことがより重要になり、年々、気力がどんどん吸い取られている気がする。
金曜日ともなってくると正直、めちゃくちゃしんどい。だから淡々と出来る事務仕事を残しておく。
はっと気がつくともう終業一〇分前だった。
デスクには外回りを終えた部下たちが帰ってきて各々に週の締め作業をしている。席を立って彼らに声を掛けに行く。
今週の進捗、困り事はないか、今日はもう上がれるのか。この一年、それなりに彼らと関わり、就業後の付き合いもした結果あってか、着実に信頼関係は築けていて、チームの成績も好調だ。
定時になり、皆それぞれ帰路に着く。
今日は会議中のあいつ以外はみんな早々に上がれそうだ。そのまま帰るように!とあいつの机に走り書きのメモを置いて、タイムカードを切った。
外に出ると、夕方の風が気持ちよく肌に触れる。夏はまだ先だけど、日中は気温が高く、クールビスが流行って久しい社内では営業職でも背広の着用は五月末くらいから任意になっている。
カチッと着こなしていない方が全力で頑張ってくれている、と好感を持つ相手先も多く、先方の顔色を伺いながら使い分けている。
駅に向かう途中でレコードショップが目に入る。
件のバンドのポスターがでかでかと貼られ、ニューアルバムが店頭にずらっと並んでいた。久しぶりに覗いてみるか、と足を向ける。
音楽アプリが台頭してからショップに足を運ぶ数は確実に減っているのだろう。金曜の夜なのに人はまばらだった。
サンプルCDが掛けられていて、いまだにこういうのあるんだな、とヘッドフォンをつける。昔は新曲が出る度に追っていたのに、今ではアルバムの半分以上がわからない曲だ。
それでも、馴染みのある声は変わらずやさしくて、この声にずっと助けてもらってきたなあ、と懐かしく思う。
中学からどハマりしたこのバンドの、歌詞が何より好きだった。
ボーカルが描く世界観は、全てを理解できるわけではないのに、どこか俺に向けて歌ってくれているようで、苦しい時や辛い時、寄り添って、側にいて、時に背中を押してくれた。
思春期を家庭のゴタゴタの中で過ごしていて、逃げるように音楽に浸っていたから、特に、その期間の曲は身体に染み込んでいる。
新しいアルバムでは当時の曲をリカバーしていて、歌詞はそのままに洗練された音が、今の俺にも響いてきた。
やっぱいいなあ、と音楽に浸っていると、スマホが揺れる。画面を見ると弟からの着信だった。
「…何?」
「にーぃちゃーん!何してんだよう、遅いよお!今日、俺こっちいる日じゃん!母さんたちも、もう来てるよ!」
「え?うちにいんの?」
そーだよう、言ったじゃーん、早く帰ってきてよねー!騒々しく言いたいことだけ言ってプツッと通話は終わった。
はあ、とひとつため息をついて、CDを1枚取り、レジに向かった。
***
大学で大阪に行った弟はそのまま向こうで職を見つけ、エンジニアとして働いている。
結構有能らしく、大阪を拠点に日本各地に留まらず、最近はアジア諸国にも足を伸ばしているらしい。
仕事一辺倒かと思いきや、プライベートもちゃんとしていて、この夏、大学時代から付き合っていたという彼女と結婚する。
駅に隣接するデパ地下に向かいながら、母さんたち、と言っていたから旦那さんもいるんだろなあ、と考える。
父さんと離婚した後、母さんは会計事務所に一般職員として入社した。家から近く、給与が他よりも少し高かったから。
資格は持っていなかったけど、真面目で数字にめっぽう強い母さんはぐんぐんと実力を挙げ、上司の後押しもあって公認会計士の資格に挑戦し、二年掛かって合格した。合格率一〇%を下回る難関資格をたった二年で突破した母さんを、心の底から尊敬したと同時に、やっぱり俺とは格が違うなあ、と劣等感を感じたりもした。
母さんが公認会計士として働き始めた頃、父さんの会社が傾き始め、あれよあれよという間に業界最大手の企業に買収された。
父さんは、買収後、すぐに早期退職した。しがない営業マンだったから、きっとろくな仕事も与えられず、ぞんざいに扱われていたんじゃないだろうか。
だから抵抗せずに受け入れた。辛い状況は同じ営業マンとしてなんとなく想像ができる。
それでもまだ、大学生だった弟のことは考えて欲しかったな、と思う。母さんの稼ぎがあればなんとかなると見込んでいたのかもしれないけれど、現実はそう甘くなく、俺も泥をかぶることになったから。
***
「おーかえりぃー!」
ご機嫌に玄関のドアが開く。
「今日来るって聞いてないけど」
「うん!確認したら連絡し忘れてたわ!」
ごめんね〜と笑いながら俺を中に通す。
日頃の弟を見ていると、とても有能には見えないのだが、一度家のネットワーク関係をお願いした時に、ものの数分で設定し終えていて、流石だな、と感じた。アンテナの置き位置やケーブルの長さも完璧で、家のネットワーク環境が快適なのはこいつのお蔭だ。
「おかえり〜」
「お疲れ様」
母さんと共に旦那さんがリビングから顔を出す。
父さんが死んで一年くらいした時、母さんから神妙な面持ちで、相談がある、と話を切り出された。仕事先でアプローチを受けている、どうしたらいいと思う?と、まさか、まだ自分も結婚していない中で、親から恋愛相談をされると思わなかった。
お相手は仕事もプライベートも真面目な方で、付き合う時には息子の俺たちにもきちんと挨拶をしてくれて、まあ、いいんじゃない、と言うと、母さんはちょっと恥ずかしそうに、少女みたいに朗らかに笑った。
ふたりは堅実に付き合いを重ね、昨年末に籍を入れた。
「食べ物あるかなって思ったけど、おつまみとスイーツ買ってきたよ」
「さすが、気が効くわねえ」
「あー!俺の好きなジャーキーあるじゃーん、にいちゃん、わかってるう」
「僕が持ってきたお酒にも合いそうだね」
手土産を渡し、和やかな雰囲気を耳に感じながら洗面所へ向かう。
ここは父さんが死んだ時に母さんが買った家だ。前の家を売った分と保険とを合わせてほとんどキャッシュで。
お父さんのお金を変に遺しておきたくない、と。ここぞと言う時の女性の思い切りは、男よりもよっぽど肝が据わっている。
弟はもう拠点を大阪に持っていたし、母さんと俺、ゆくゆくは母さんが自分ひとりの終の住処にしようとしていたから、そう広くなく、大人四人入ると少し手狭に感じる。
結果的に母さんは今の旦那さんと結婚し、父さんの気配があるここは新居として避けられ、今は俺がひとりで住んでいる。
三十路前にして持ち家あり、悠々自適な独身ライフだ。
「そーいえばさー」
弟が能天気な声をあげる。
「にいちゃんの好きなバンド、今度ライブすんじゃん?もうチケット買っちゃった?」
「いや、買ってない、っていうか東京日程お前らの結婚式の日だろ」
「それ二日目でしょ。初日は前日じゃん」
まあ、確かにそうではあるが、翌日弟の結婚式なのに前日にライブ行くほど流石に俺も若くない。
「そんな体力ねえよ。前日から大阪入りするつもり」
「いや、実はさー」
こっちのことなんてお構いなしに話を続ける。でも、そこに嫌味がないのが弟の良いところでもあり、狡いところでもある。
「うちの奥さんもそのバンド好きで、ライブ日程発表の時に絶対東京ドーム行きたーい!ってなって、チケット取ったんだけど」
「取ったんかい」
「いや、前日だからその日のうちに帰れば翌日式でも大丈夫じゃね?ってなって」
でもさ、とちょっと恥ずかしそうに、幸せそうに弟は続ける。
「赤ちゃん、いるのわかっちゃったじゃん?で、つわり?みたいなのも結構辛いみたいで、やっぱライブは辞めようってなって」
そう。おめでたいことは続くもので、つい先日、弟の婚約者の妊娠が発覚したのだ。
入籍前とは言え、婚約はしているし、順番は間違っていないのだが、ドレスやら何やらで少しバタついているらしい。
「体調は大丈夫なの?」
母さんが口を挟む。
「うん。食べられないものも多いんだけどフルーツとかは大丈夫みたいだから、とりあえず食べられるもの食べて、休める時に休んでってしてる」
「そんなパートナー置いて、こんなところで油売ってていいのかよ」
「ほんとは俺だって今日帰りたかったよ!でも、明日の朝どーしても一件現場行かなきゃだから今日は泊まりなの!」
ぷんぷん、みたいな形容詞が周りに見えるようだ。犬みたいな奴だなあ、と思う。
「あ、そう、でね!チケット余っちゃうから、せっかくだったらお兄さんどうですかって、奥さんが」
奥さん、というワードに、へへっと照れる顔をちょっと可愛いな、と思えるくらいには俺も弟に甘いんだろう。
「そういうことなら行こうかな。勿体無いし。いくらよ?」
財布を探そうとすると、弟は大袈裟にぶんぶんと手を振って止める。
「いいの、いいの!にいちゃんには、ほんと、たくさんお世話になってるし、奥さんとも話してあげる形にしたいねって」
だから貰ってよ、ね!と笑顔で言う。
「でも、俺、一緒に行くようなヤツいないけど」
「誰でもいーじゃーん。友達でも会社の人でも、あ、もちろん気になっている人がいるならその人でも!」
「いねえよ」
そっかー、とちょっと哀しそうに弟は笑った。
「でも、一枚残ってもなんだし、せっかくだから二枚貰ってよ。何ならリセールしてその分でグッズとか買ってもらっても構わないから」
にいさんが使って、そう言って弟は電子チケットのURLをポンっと送った。
酒とつまみでお腹を満たし、会話の中心は翌月の弟の結婚式の話や仕事のこと。当たり障りない話をしてお開きとなった。
家族といえど、もうそれぞれが立派に大人で、分かり合える部分も、そうでない部分があることも互いにわかっている。
だからこそ踏み込まないし、踏み込んでこない。その距離感がちょうど良くもあり、すこしだけ寂しくもある。
弟にも母さんにも、自分の家に帰れば、もっと奥まで分かち合える相手がいる。
でも、俺は…まあ、だからと言ってそういう相手を見つけるための行動をしていないんだから仕方ないんだけど。
日々の生活で精一杯、正直そこに割く気力はないよなあ。
「はあ…」
それが言い訳だってことも、頭の片隅でわかってはいる。母さんたちが帰り、弟も寝床についたしんとしたリビングでひとり、グラスを傾けながらため息をついた。
***
翌朝、早くからゴソゴソと動き出した弟の気配で目が覚める。リビングに行くと、もう出社準備を終えた弟がコーヒーを淹れているところだった。
「あ、おはよー。起こしちゃった?」
「…ん」
「コーヒー飲む?」
「…ありがと」
眠い目を擦って椅子に腰掛けると使い慣れたマグカップがことん、と置かれた。
斜め前に座る弟は、朝日を浴びながらパソコンを開き作業をしていて、こういう所が自分と違うんだな、と痛感する。
「ん?どうかした?」
視線に気がついて弟が声を掛ける。
「いや、良い男になったなって思って」
ぶはっとコーヒーを思い切り吹いて、あ、やべ、沁み、と布巾片手に焦る弟を頬杖付いて眺める。
「何、急に」
「別にー」
「もー」
机を拭きながら笑う弟が眩しかった。
「チケット」
「ん?」
「ライブのチケットね、売ってもいいんだけど、俺はできればにいちゃんに誰かと行って欲しいと思うよ」
少し申し訳なさそうに笑う。最近、弟はたまにこういう表情をする。
「ひとりでも楽しいことは、ふたりになるともっと楽しくなるから」
「…うん」
現場に行く前に会社寄ってく、と早々出掛ける弟を見送って、空っぽになった家の中、ソファにひとり脱力する。
両親の離婚理由は、よくある不倫だった。
会社の後輩と何度か飯に行くうちに、親密になり、一線を越えた、ということらしい。
母さんがいる癖に他の女に手を出すなんて、と、当時の俺は全く理解できなくて、軽蔑し、顔を合わせるのさえ吐き気がしたが、今になって少しだけ、親父の気持ちがわかるように思う。
家事育児に加えて仕事まで立派にこなす母さん、コミュニケーション能力に長けプライベートも仕事も毎日を心から楽しんでいる弟、そこに劣等感を感じないか、と言われると口篭ってしまう俺がいる。
きっと、父さんも同じだったんじゃないか。
完璧すぎる母さんと自分を比べて耐え難くなった時に、そこを埋めてくれたのが、不倫相手だったのだろう。
まあ、許されることではないけどな、と思いながら昨夜弟からもらったチケット画面を開く。公演まで一ヶ月ちょっと。売るなら早い方がいい。
「誰かと一緒に、ねえ」
ソファにゴロンと寝転がり、二枚表示された画面を見る。一緒に行く相手なんて、全く頭に浮かばない。
ほんの少しだけ会社の部下が頭を掠めたが、ないな、と、画面を閉じる。まだ眠たい身体がソファに沈んでいく。
最後にライブに行ったのはいつだったか、記憶を遡りながら眠りに落ちる。俺の名前を甘く呼ぶ、ちいさな背中を思い出していた。




