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公の場での婚約破棄は「王家の盟約違背」として処理いたします  作者: 逆立ちハムスター


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愚者の暗転

アスター公爵家本邸の南翼に位置する『硝子の冬園』は、大陸全土から蒐集された稀少な魔力植物が四季を問わず咲き誇る、我が家が誇る至宝の空間である。天井まで届く巨大なクリスタルガラスを通じて降り注ぐ陽光は、魔力石の緻密な温度管理機構によって常に最適な春の暖かさを保っており、外界の冷気など微塵も感じさせない。

私は、純白のレースが幾重にもあしらわれた昼用のドレスに身を包み、大理石の円卓に用意された最高級のダージリンの香りを静かに楽しんでいた。ティーカップは、王室すら所有していない東方大陸の透かし彫り磁器である。その繊細な縁に唇を寄せる私の正面には、昨夜の夜会で王城のバルコニーに現れたあの男――ルキウス・ヴァン・オブシディアン辺境伯が、静かな威圧感を纏って座していた。


彼は、夜会の際の漆黒の外套とは異なり、本日は辺境伯家の当主に相応しい、深い黒と銀糸で彩られた軍服調の正装を身に纏っていた。左眼を覆う革製の眼帯と、歴戦を物語る逞しい体躯は、優雅な冬園の雰囲気とはおよそ対極にあるはずなのだが、彼が放つ絶対的な強者の覇気は、不思議とこの豪奢な空間を支配し、調和すら生み出している。


「素晴らしい茶だ。北方の過酷な気候では、これほど繊細な香りを堪能する機会はなかなかない」


ルキウス閣下は、大きな手で優雅にティーカップを扱いながら、微かに口角を上げた。その所作には、武骨な軍人という世間の評価を覆す、高位貴族としての完璧な洗練が宿っている。


「お気に召したようで何よりでございます、辺境伯閣下。アスター家の交易網は、世界中のあらゆる至高の品を掌握しておりますゆえ。……さて、優雅な前置きはこの程度にしておきましょうか。昨夜の申し入れに対する具体的な協議を行うために、閣下はわざわざお越しいただいたのでしょう?」


私の言葉に、ルキウス閣下は満足げに黄金の隻眼を細め、懐から一葉の分厚い羊皮紙を取り出し、卓上へと滑らせた。そこには、オブシディアン辺境伯家の厳格な紋章が血のように赤い封蝋で刻印されている。


「いかにも。これが、私から貴女への正式な『盟約』の提案だ。目を通していただきたい」


私は姿勢を正し、羊皮紙を手に取って流麗な文字で記された条項に目を通し始めた。

第一項、オブシディアン辺境伯家は、アスター公爵家の政治的および経済的活動に対し、保有する全軍事力を以て絶対的な後ろ盾となること。

第二項、アスター公爵家は、オブシディアン辺境伯領のインフラ整備および魔力技術の提供を無償かつ優先的に行うこと。

ここまでは、昨夜の立ち話で想定された軍事と経済の相互互助契約である。極めて合理的であり、双方に莫大な利益をもたらす。

しかし、私の視線は、第三項の記述においてぴたりと止まった。


『第三項。上記の同盟を盤石たるものとし、永続的な血の結束を証明するため、ルキウス・ヴァン・オブシディアンとセレスティア・ヴァン・アスターは、本契約の署名と同時に正式な婚約を結ぶものとする』


私は、表情の筋肉を微塵も動かすことなく、ゆっくりと顔を上げ、眼前の凶星たる男を静かに見据えた。


「……辺境伯閣下。これは、いかなる冗談でしょうか。軍事と経済の同盟条約の中に、個人的な婚姻契約が紛れ込んでいるようですが」


「冗談などではない。私は常に、いかなる戦場においても最短かつ最善の策を取る主義でな」


ルキウス閣下は、微動だにせず私の視線を受け止め、低く響く声で続けた。


「貴女の有する知略と、いかなる窮地にあっても感情を制御し、敵を冷酷に追い詰めるその精神性。それは、私が長年求めてやまなかった『対等の伴侶』の条件を完璧に満たしている。アスターとオブシディアンの同盟は、単なる紙切れ一枚の契約では弱すぎる。互いの背中を完全に預け合い、この国の腐敗した構造を根底から作り変えるためには、王室すらも手出しできぬ強固な血の結びつきが必要不可欠だ。……貴女にとっても、悪くない提案のはずだが?」


彼の言葉は、燃え盛る炎のような熱情と、氷のような理性が完璧に融合したものであった。

王太子アルトリウスとの婚約が「抑圧と義務」であったのに対し、ルキウス閣下の提案は「解放と共犯」の誘いである。彼は私を保護すべきか弱い令嬢としてではなく、共に盤上を支配する強大な女王として求めているのだ。

その事実を理解した瞬間、私の心の奥底で、昨日から燻っていた黒い愉悦が、美しい花を咲かせるように開花した。


「……狂気を孕んだ、しかし極めて合理的なご判断ですこと。私が昨夜、婚約破棄されたばかりの瑕疵ある身であるという世間体など、閣下は微塵も気になさらないと?」


「世間体などという下劣な尺度で、貴女という至宝を測るような愚を犯す私ではない。貴女の真の価値は、その冷徹なる知性と、気高き魂にこそある」


私は静かに目を伏せ、一つ深呼吸をした後、卓上に置かれた羽根ペンを手に取った。

迷いは、一切なかった。アスター公爵家の次期当主として、いや、セレスティアという一人の意思を持つ人間として、これほど魅力的で、これほど恐ろしい盤面は他に存在しない。


「承知いたしました、ルキウス閣下。いえ、ルキウス様。この誓約、確かに私の血と誇りを懸けてお受けいたします。共に、あの愚かなる者たちに、彼らが壊したものの大きさを骨の髄まで理解させてやりましょう」


私が羊皮紙に流麗なサインを記し終えた瞬間、ルキウス様は立ち上がり、私の手を取ってその手の甲に恭しく、しかし強い独占欲を孕んだ口づけを落とした。

それは、新たな覇者の誕生を告げる、黒曜石のごとき重く冷たい誓約の儀式であった。


─────


契約の余韻が冷めやらぬその時、冬園の重厚な扉が静かに開き、執事長のセバスチャンが一礼して進み出てきた。その手には、見慣れた銀の盆と、分厚い羊皮紙の束が載せられている。


「お嬢様、ルキウス閣下。お寛ぎのところ大変申し訳ございません。王都の中心部、および王宮より、本日の『正午の報告』が上がってまいりましたので、お耳に入れたく存じます」


「構いませんわ。読み上げなさい」


私は姿勢を崩すことなく、ルキウス様と共にセバスチャンの報告に耳を傾けた。


「はっ。まず、本日の正午に開催されました王室御前会議についてでございます。病気療養中であられた国王陛下が、王宮の異常事態を察知し、無理を押して会議に出席されました。そこで、我がアスター公爵家の弁護士団が、アルトリウス殿下からの『一方的かつ不当な婚約破棄』に対する正式な抗議文と、違約金および慰謝料の請求書を提出いたしました」


「それで? 国王陛下の反応はどうでしたの?」


「請求額が、国家予算の五年分に相当する莫大な額であることを確認された瞬間、国王陛下は顔面を蒼白にされ、その場で血を吐いて卒倒されたとのことです。現在、王宮の筆頭医師が治療に当たっておりますが、意識は戻っておられません」


「……想定よりもお弱いことですわね。自らの息子がしでかした罪の重さに、精神が耐えきれなかったのでしょう。ルキウス様、これでは王室の崩壊も早まる一方ですわ」


私がルキウス様へ視線を向けると、彼は冷酷な笑みを深めて頷いた。


「いかにも。王が倒れれば、実権は王太子に移行するはずだが……現在の王宮は、アスター家の息のかかった官僚たちが一斉に職務を放棄しており、麻痺状態にある。あの無能な王太子に、この未曾有の危機を打開できるはずがない」


「その通りでございます、ルキウス閣下」と、セバスチャンが報告を続ける。「会議の場において、アルトリウス殿下は『アスター家の暴挙を止めよ』と他の貴族たちに命令を下しましたが、誰一人として殿下に賛同する者はおりませんでした。むしろ、多くの有力貴族たちが、殿下の軽率な行動によって国が滅ぶと激しく非難し、次々と王太子派からの離脱を宣言しております。現在、殿下は王宮内で完全に孤立無援の状態となっております」


「当然の帰結です。王室の権威というものは、我々高位貴族の経済的、政治的な支援があって初めて成立する虚像に過ぎない。その足場を自ら蹴り飛ばした者に、誰が従うというのでしょうか」


私は冷ややかな声で断じた。感情で政治を動かそうとした愚か者の末路としては、あまりにも陳腐で、救いようのない光景であった。


「さらに、リリアナ・ヴェイル男爵令嬢に関する報告も入っております。お嬢様のご指示通り、アスター商会がヴェイル男爵家の抱える全負債を買い取り、本日午前中に一括返済を迫りました。当然、彼らに支払う能力はなく、直ちに領地および屋敷の差し押さえが執行されました」


「見事な手際です。彼女の家族はどうなりました?」


「ヴェイル男爵本人は、過去の領地開発に関する補助金横領の証拠を我が方の情報部が突き止め、即刻、王都の治安維持局へと引き渡され、投獄されました。残されたリリアナ令嬢とその母親は屋敷を追放され、現在、身の回りの品だけを持って王都の安宿を転々としているとのことです。リリアナ令嬢は泣き喚きながら、王宮のアルトリウス殿下のもとへ助けを求めて面会を要求したようですが……」


「殿下に、彼女を庇う余裕などあるはずがないでしょう」


「仰る通りでございます。王宮の警備兵は、殿下からの『いかなる者も通すな』という厳命により、彼女を王宮の門前で無慈悲に追い払ったとのことです」


「真実の愛、とやらの底が知れるというものですわね。権力と富という後ろ盾があってこその甘美な夢であったと、彼女も今頃、絶望の底で理解していることでしょう」


報告を聞き終えた私は、ふうと静かな溜息をついた。

すべてが、私の描いた盤面の通りに進んでいる。しかし、相手の知能が予想以上に低かったためか、あまりにも呆気なく崩壊が進みすぎており、復讐の甘美な味わいが幾分薄れてしまうような気すらした。


その時であった。

冬園の外、本邸の正門の方向から、けたたましい馬の嘶きと、怒号のような騒ぎが微かに聞こえてきた。アスター公爵家の厳格な規律を乱すような喧騒など、平時であれば決して起こり得ないことである。


「……何事かしら?」


私が眉を顰めた直後、一人の護衛騎士が血相を変えて冬園へと駆け込んできた。彼は私とルキウス様の前で膝をつき、慌ただしく報告の口を開いた。


「申し上げます! 正門に、アルトリウス王太子殿下が単騎で押し掛けられ、『セレスティアを出せ!』と激しく喚き散らしております! 警備の騎士が制止しておりますが、王族の身分を盾に取り、強引に門を突破しようとしており……!」


「……なるほど。すべての逃げ道を絶たれ、ついに理性すらも放棄して直接乗り込んできたというわけですね」


私は冷たく呟き、静かに立ち上がった。

国を傾かせた元凶が、自身の愚かさを認めることもできず、最後はかつての婚約者の温情に縋ろうというのか。あるいは、責任をすべて私に押し付けようというのか。いずれにせよ、これ以上ないほど滑稽で、哀れな結末である。


「セレスティア」


ルキウス様も立ち上がり、私の傍らへと並び立った。彼の黄金の隻眼は、獲物を前にした極北の狼のように冷酷な光を放っている。


「私も同行しよう。貴女の新たな婚約者として、あの愚物に最後の現実を突きつける義務があるからな」


「心強いことですわ、ルキウス様。では、参りましょうか。私たちの前座を演じてくれた哀れな道化に、引導を渡すために」


私は、ドレスの裾を優雅に翻し、冬園を後にした。

正門へと向かう私の胸中にあるのは、かつての婚約者に対する未練や怒りなどでは断じてない。ただ、不快な害虫を駆除するための、極めて事務的で冷徹な意思のみであった。


アスター公爵家の巨大な白亜の正門前に到着すると、そこには、昨夜の夜会での華麗なる姿とは打って変わり、髪を振り乱し、軍服の襟元をはだけさせたアルトリウスの姿があった。彼は血走った目で周囲の騎士たちを睨みつけ、手にした剣の柄に手をかけて威嚇している。


「どけ! 私はこの国の王太子であるぞ! セレスティアを呼べ! あの悪女が、私の国を……私の権力を不当に奪おうとしているのだ!」


「――不当、とは聞き捨てなりませんわね、アルトリウス殿下」


私の静かな、しかし魔力を帯びた絶対的な冷たさを持つ声が響き渡ると、正門の周囲を支配していた喧騒が、水を打ったように静まり返った。

アルトリウスは弾かれたように私の方を向き、その顔に安堵と憎悪が入り混じった醜悪な表情を浮かべた。


「セレスティア! 貴様、ついに姿を現したか! 今すぐ、あの莫大な違約金の請求を取り下げろ! そして、官僚どもを王宮に戻し、魔力石の供給を再開しろ! 婚約破棄された腹いせに国を危機に陥れるなど、貴族として、一人の人間として恥を知れ!」


そのあまりにも自己中心的な、論理の破綻した叫びに、私は微塵の感情も動かされることなく、ただ憐れみを含んだ氷の視線を彼へと注いだ。


「腹いせ? 恥? ……殿下は、ご自身のお立場と、昨夜ご自身が発せられた言葉の重みを、いまだに理解されておられないようですね」


私は一歩、彼へと歩み寄った。


「私が請求したのは、貴方様が『公の場において一方的に婚約を破棄した』ことに対する、法的に正当な違約金に過ぎません。また、アスター家の官僚たちが休暇を取ることや、我が家が所有する魔力石の供給を停止することも、すべてアスター家という一貴族の正当な権利の行使です。国が危機に陥ったのは、私のせいではありません。王国の基盤がアスター家に依存しているという『現実』を無視し、感情のままに最大の後ろ盾を切り捨てた、貴方様ご自身の無能と愚かさが招いた結果ですわ」


「なっ……! 貴様、私を誰に向かって口を利いていると思っている! 私は次期国王たる……!」


「次期国王?」


私の言葉を遮るように、低く、地を這うような男の声が響いた。

私の背後から、ルキウス様がゆっくりと歩み出て、アルトリウスを見下ろすように立ち塞がった。その圧倒的な体格差と、死線を潜り抜けてきた本物の殺気に、アルトリウスは怯えきったように一歩後ずさった。


「ル、ルキウス辺境伯……? なぜ、貴様がここにいる……!?」


「私の愛愛しい婚約者が、薄汚い害虫に煩わされていると聞いてな。駆除の手伝いに出向いたまでだ」


「こ、婚約者だと……!? 馬鹿な、セレスティアは昨日、私と別れたばかりだぞ!」


「ええ、その通りですわ、アルトリウス殿下」


私はルキウス様の屈強な腕にそっと自らの腕を絡ませ、この上なく優雅な微笑を浮かべて宣言した。


「私、セレスティア・ヴァン・アスターは、只今を以て、ルキウス・ヴァン・オブシディアン辺境伯閣下と正式に婚約いたしました。オブシディアンの武力とアスターの財力は、今この瞬間より完全に一つとなったのです。……もはや、貴方様のような知性も力も持たぬ者に、私たちが頭を垂れる理由など、この世界のどこにも存在いたしません」


その瞬間、アルトリウスの顔から完全に血の気が引き、彼の瞳に、かつてないほどの巨大な絶望と恐怖が浮かび上がった。

北の絶対的な軍事力と、王国の経済を握る巨大な財力が結合した。それは、彼がいかに王族という肩書きを振りかざそうとも、決して覆すことのできない、国家そのものを凌駕する巨大な権力の誕生を意味していた。


「あ、あ、ああ……」


アルトリウスは、喉の奥で引き攣ったような音を漏らしながら、その場に力なくへたり込んだ。もはや怒号を上げる気力すら失い、ただ虚ろな目で私たちを見上げるだけの、哀れな敗北者の姿がそこにあった。


「さあ、お帰りくださいませ、元王太子殿下」


私は冷徹に見下ろしながら、最後の一撃を放った。


「貴方様の愛した『真実の愛』とやらと、崩壊していく王宮の中で、せいぜい美しい悲劇の主人公でも演じられるとよろしいでしょう。私たちが築く新たな秩序において、貴方様の居場所など、もはや一片たりとも残されてはおりませんから」


私は踵を返し、二度と振り返ることなく、ルキウス様と共に正門の奥へと歩みを進めた。

背後で、アルトリウスの絶望に満ちた嗚咽が微かに聞こえたような気がしたが、それはもはや、私にとって路傍の石の転がる音ほどの価値も持たないものであった。


燦然と輝く朝日は、崩れゆく古い王国を冷酷に照らし出し、そして、我々がこれから歩む新たな覇道への門出を、祝福するように光を投げかけていた。

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