黒曜の盟約と静かなる報復の幕開け
夜の冷気が、火照った頬を心地よく撫でていく。王城のバルコニーから見下ろす王都の街並みは、まるで宝石箱をひっくり返したかのように煌びやかであった。しかし、その光の恩恵の半分以上が、我がアスター公爵家の財力と魔力石の供給によって維持されているという事実を、あの愚鈍なる王太子は理解しているのだろうか。否、理解しているはずがない。彼は生まれながらにして与えられるものを当然の権利として享受し、その基盤を支える者の労苦に思いを馳せるだけの知性を持ち合わせてはいないのだから。
「辺境伯閣下。このような夜更けに、しかも王城の片隅にて密談を持ちかけるとは、貴方様もなかなかに数奇なご趣味をお持ちのようだ」
私は、背後に立つ漆黒の外套を纏った男――ルキウス・ヴァン・オブシディアン辺境伯へと向き直り、完璧な礼儀作法に則った微かな笑みを向けた。彼の放つ圧倒的な覇気と、歴戦の猛者特有の血の匂いは、着飾った貴族たちがひしめくこの夜会において、あまりにも異質であった。
「公爵令嬢殿こそ。先ほどの、あの見事なまでの冷徹な舞台回し。我が軍の誇る第一級の軍師ですら、あれほど鮮やかに敵の退路を断ち、自らの正当性を確保することは不可能であろう。私はただ、その類稀なる才覚に敬意を表し、同時に、一つの有益な提案を申し上げるために参上したまでだ」
ルキウス辺境伯の黄金の隻眼が、月明かりを反射して鋭く光る。彼の言葉には、社交界特有の虚飾や追従といったものが一切含まれていなかった。それは純粋な評価であり、同時に、これから始まるであろう権力闘争における値踏みでもあった。
「提案、でございますか。王家との繋がりを絶たれ、いばらの道を歩むことになったこの私に、辺境伯閣下がいかなる提案をなされるというのでしょう」
「いばらの道、とはご謙遜を。貴女の瞳には、王家の軛から解放された歓喜の炎が宿っている。アスター公爵家が本気で牙を剥けば、この王国の経済と中枢機構は数ヶ月と持たずに完全に麻痺する。貴女はすでに、あの愚かな王太子と、彼に盲従する国王派の貴族たちを、いかにして盤上から掃討するか、その手立てを構築し終えているはずだ」
辺境伯の指摘は、的確に私の思考の核心を突いていた。私は手にした扇を静かに広げ、口元を隠しながら言葉を紡いだ。
「仮にそれが事実であったとして、閣下はどのようにお動きになるおつもりですか。北方の軍事力を一手に担うオブシディアン辺境伯家が動けば、それは単なる政治的制裁にとどまらず、国家の存亡を揺るがす内乱へと発展しかねません」
「私が求めるのは、無益な流血ではない。腐敗し、真の実力者を見誤るような惰弱な王家が戴くこの国の体制を、根底から作り変えることだ。そのためには、圧倒的な『武力』と、それを支え、国家を再構築するための完璧な『財力』と『知力』が必要となる」
ルキウス辺境伯は一歩、私へと歩み寄った。その距離感は、貴族の男女が公の場で保つべきそれを大きく逸脱していたが、私は一歩も退くことなく、彼の射抜くような視線を正面から受け止めた。
「セレスティア・ヴァン・アスター公爵令嬢。私と盟約を結べ。オブシディアンの武力は、貴女の復讐と国家掌握のための、勇ましきの剣となろう。代わりに、アスターの財力と貴女のその明晰なる頭脳を以て、私の理想とする新たな秩序の構築に協力していただきたい。これは、単なる政略ではない。対等の立場における、戦友としての契約である」
その言葉の響きに、私は自らの心臓が、かつてないほどに強く、そして冷ややかに脈打つのを感じた。
王太子アルトリウスとの婚約は、あくまで「従属」を前提としたものであった。私がどれほど優秀であろうとも、王妃という立場は、王を立て、王の陰に隠れ、自らの才能を押し殺すことを強要するものであった。しかし、眼前に立つこの男は違う。彼は私の力を、私の知略を、一切の妥協なく最大限に引き出し、利用し尽くそうとしている。そして同時に、彼自身も自らのすべてを盤上に晒す覚悟を決めているのだ。
「……面白いご提案ですわね、ルキウス閣下。しかし、口約束のみでアスターの命運を預けるほど、私も我が父も愚かではございません」
「当然だ。故に、私は我が身と、辺境伯家のすべてを担保として提示しよう。具体的な契約の細部については、後日、貴女の指定する場所にて協議を行うこととしたい。ただし、時間はあまり残されていない。あの王太子が、自身のしでかした事の重大さに気づく前に、我々は初手を打たねばならないからな」
「初手など、とうの昔に打たれておりますわ」
私の言葉に、ルキウス辺境伯は微かに眉を動かした。私は扇を閉じ、凛とした声で事実のみを告げた。
「私がこの夜会の場にて婚約破棄を受諾した瞬間から、我がアスター家が王室に対して提供していた特別融資の口座はすべて凍結される手はずとなっております。また、王宮で実務を取り仕切っている優秀な文官や魔術師団の幹部のうち、アスター家の息がかかった者たちには、一斉に長期休暇を取得するよう、数日前から内令を下しておりました。明日になれば、王宮は書類一つ満足に処理できない大混乱に陥るでしょう」
辺境伯は目を見開き、やがて、夜空の静寂を震わせるような低く響く声で笑い声を上げた。
「くっ、ははははっ! これは恐れ入った。まさか、あの茶番劇が起こる前から、すべてを予測し、すでに首を真綿で絞め始めていたとは。……ますます貴女を手放すわけにはいかなくなったな、セレスティア嬢」
「過分な評価、感謝いたしますわ。では、同盟の件につきましては、前向きに検討させていただきます。詳細な協議の場は、我が公爵家の本邸にて設けましょう。追って招待状をお送りいたします」
私は彼に向けて優雅に一礼し、バルコニーを後にした。背後から注がれる熱を帯びた視線を感じながらも、私の足取りは決して乱れることはなかった。
────
王城を後にし、アスター公爵家の紋章が刻まれた豪奢な馬車に揺られながら、私は自らの内に渦巻く冷たい怒りと、それを遥かに上回る高揚感を静かに反芻していた。
車窓から流れる王都の夜景は、今日を境にその意味合いを大きく変えることになるだろう。明日から始まるのは、武力に頼らない、極めて合法的な、しかし最も残酷な国家の包囲網である。
一時間後、馬車は王都の第一区画、王城に隣接する広大な敷地を有するアスター公爵家の本邸へと到着した。
深夜であるにもかかわらず、正門には重武装の騎士たちが整然と並び、馬車の到着を完璧な敬礼で迎えた。玄関ホールに入ると、執事長をはじめとする数十名の上級使用人たちが、一糸乱れぬ動きで出迎える。彼らの表情には一切の動揺も見られない。アスター家の者たちは、いかなる時も感情を表に出さず、ただ主人への絶対的な忠誠と完璧な職務遂行を至上命題としているからだ。
「お帰りなさいませ、お嬢様。旦那様が、執務室にてお待ちでございます」
白髪の執事長、セバスチャンが静かに一礼して告げた。私は微かに頷き、重厚な絨毯が敷かれた廊下を真っ直ぐに歩み進めた。向かう先は、我が父であり、この王国の事実上の支配者であるアスター公爵の執務室である。
二人の護衛騎士が重々しいオーク材の扉を開く。中に入ると、壁一面に天井まで届く書棚が並び、魔力石のランプが照らす巨大なマホガニーの執務机の奥に、一人の男が座していた。
灰色の髪に、私と同じ冷たい青の瞳を持つ男。アスター公爵、マクシミリアン・ヴァン・アスター。彼は手元の書類から視線を上げることなく、静かな声で問いかけた。
「ご苦労だった、セレスティア。それで、あの愚か者は、事前の予測通りに動いたか」
「はい、お父様。アルトリウス殿下は、大勢の貴族が注視する中、私に対して根拠のない罪状を並べ立て、婚約の破棄を一方的に宣言なさいました。もちろん、私はその宣言を、王家の正式な意思として受諾してまいりました」
私の報告に、父は初めて顔を上げ、満足げな笑みを微かに浮かべた。
「よくやった。十五年に及ぶ、あのような薄汚れた王城での忍耐の日々、真にご苦労であった。お前という至宝を、あのような猿にも劣る知能の王太子に嫁がせることなど、私としては最初から耐え難い屈辱であったのだからな。だが、あれが自らの口で破棄を宣言したことで、我がアスター家は『被害者』としての絶対的な大義名分を得た。これで、すべての準備が整ったというわけだ」
「はい。すでに各方面への根回しは完了しております。明日より、アスター商会を通じた王家への生活必需品、並びに奢侈品の納入はすべて無期限で停止いたします。また、王立銀行における王家の信用借入枠も完全に封鎖。さらに……」
私は、淀みなく次々と報復の手段を並べ立てた。
王国の防衛網における、アスター騎士団の配置転換。魔力石鉱山からの供給制限。王宮内で働く実務担当者たちの一斉ボイコット。それらはすべて、法的には一切の瑕疵がない、正当な権利の行使に過ぎない。しかし、その影響は王国の根幹を揺るがすほどの破壊力を持っている。
「見事だ、セレスティア。感情に流されることなく、相手の最も痛い腹を、最も冷酷な方法で抉り取る。お前は、アスターの歴史上、最も優秀な公爵令嬢であると断言しよう」
「恐れ入ります、お父様。それと……今宵、王城のバルコニーにて、ルキウス・ヴァン・オブシディアン辺境伯閣下より、同盟の申し入れがございました。彼は、アスター家の財力と頭脳を求め、自らの武力を提供すると」
その報告に、父の瞳の奥に鋭い光が宿った。
「あの『死神』が、自ら接触を図ってきたか。北の守護者を味方に引き入れることができれば、王太子派の軍事的な反抗の芽は完全に摘み取ることができる。交渉の席は、早急に設ける必要があるな」
「ええ。すでに本邸への招待状をしたためる準備をしております。すべては、我々アスター家の誇りを守り、そして、あの愚かな王家へ相応の対価を支払わせるために」
父と娘の間に、多くを語る必要はなかった。我々の目的はただ一つ。アスター家を軽んじ、無実の罪を被せて公の場で侮辱した者たちに対し、絶対的な絶望と後悔を与えることである。
──
そして、運命の翌朝が訪れた。
私の寝室の窓から差し込む朝日は、昨日までと同じように美しかったが、世界はすでに決定的な変貌を遂げていた。
豪奢な天蓋付きのベッドから起き上がると、すでに控えていた専属の侍女たちが、静かに、しかし流れるような手つきで私の身支度を整え始める。
これまでは、王妃教育の一環として、常に王室の好む地味で堅実な色合いのドレスを強制されていたが、今日からは違う。私は自らの意思で、アスター家の象徴である深い青色に、銀の刺繍が施された最高級の絹のドレスを選んだ。鏡に映る自身の姿は、もはや抑圧された人形ではなく、自らの運命を切り拓く気高き統治者のそれであった。
朝食の席に着き、香り高い紅茶の最初の一口を含んだその時、執事長のセバスチャンが、銀の盆に載せた数通の急ぎの報告書を携えて入室してきた。
「お嬢様。王都の各方面より、報告が上がってきております。王宮は現在、未曾有の大混乱に陥っているとのこと」
「詳細を読み上げなさい」
私は紅茶のカップをソーサーに置き、冷ややかな視線を向けた。
「はっ。まず、王宮の厨房より悲鳴が上がっております。本日予定されておりました他国の特使を招いての昼餐会に使用するはずの最高級食材が、一切納入されておりません。王室御用達の商会はすべてアスター家の傘下にあるため、昨夜の決定に基づき、納入をストップいたしました。代替の品を用意しようにも、王室の口座が凍結されているため、市場での買い付けも不可能な状態とのことです」
「当然の帰結ですわね。他国の特使に粗末な食事を出せば、王国の威信に関わる。アルトリウス殿下は、ご自身の愛する『真実の愛』の相手とやらが手作りした家庭料理でも振る舞えばよろしいのではないかしら。……次を」
「次に、法務院及び財務省の実務が完全に停止しております。各部署の長及び実務の要を担っていた官僚百二十名が、昨晩から今朝にかけて一斉に『体調不良』を理由に長期休暇の届け出を提出。彼らが不在では、いかなる決済も下りず、国家予算の執行そのものが止まっております。王太子殿下は烈火のごとく怒り狂い、彼らを強制出仕させようとしたようですが……」
「彼らはすでに、アスター公爵家の領地内にある保養地へと移動を完了しておりますわ。いかに王家といえど、我が領地内に軍を踏み入れ、強引に連れ戻すことなどできはしない。もしそのような凶行に及べば、それは公爵家に対する宣戦布告と同義となる。殿下のような浅薄な思考の持ち主に、そのリスクを背負う覚悟などあるはずもありません」
「仰る通りでございます。さらに、王立魔術師団においては、本日支給されるはずであった訓練用及び防衛維持用の魔力石の配給が停止されました。これにより、王都を取り囲む広域防衛結界の出力が著しく低下しており、近衛騎士団はパニックに陥っております」
私は小さく、しかし極めて冷酷な笑みを漏らした。
たった一晩。アスター家が手を引いただけで、この国の機能はこれほどまでに脆弱なものへと成り下がるのだ。
アルトリウス殿下は、自身が「王族である」というだけで国が回っていると錯覚していたのだろう。リリアナという、政治的価値も実務能力も皆無な小娘を隣に置き、愛さえあれば国が治まると本気で信じていたのだ。
その幼稚な幻想を打ち砕くための鉄槌は、まだ振り下ろされたばかりである。
「殿下は今頃、ご自身の発した『婚約破棄』という言葉が、どれほどの重量を持っていたのかを、骨の髄まで理解し始めている頃でしょう。しかし、これはまだほんの序曲に過ぎません」
私は立ち上がり、バルコニーの窓へと歩み寄った。
眼下には、アスター公爵家の広大な庭園と、その向こうに広がる王都の街並みが見える。
「慰謝料および違約金の正式な請求は、明日の正午、王室会議の最中に叩きつけるように手配なさい。金額は、王家が所有する全資産を売却しても到底支払いきれない額――国家予算の五年分に設定しなさい」
「承知いたしました、お嬢様。必ずや、そのように手配いたします」
「リリアナ・ヴェイル。彼女にも、身の程をわきまえさせてあげる必要がありますわね。彼女の男爵家が抱えている負債、すべてアスター家の名義で買い取りなさい。そして、即日の一括返済を迫るのです。返済できなければ、直ちに領地を差し押さえ、彼らを路頭に迷わせなさい」
慈悲などという甘美な言葉は、私の辞書には存在しない。
無実の罪を着せられ、公の場で辱めを受けた代償は、彼らのすべてを奪い尽くすことでしか清算されないのだ。
王太子アルトリウス。
そして、リリアナ・ヴェイル。
貴方たちが選んだ「真実の愛」の代償がどれほど高く、どれほど絶望的なものなのか。私という絶対的な存在を敵に回した愚かさを、その身を以て、じっくりと味わわせて差し上げましょう。
アスター公爵令嬢セレスティアの、完璧で、華麗で、そして極めて残酷な報復劇は、まだ始まったばかりであった。




