華麗なる決別と崩壊の序曲
王立アカデミーの卒業を祝う大夜会は、建国以来の歴史を誇る白亜の王城、その中枢に位置する『鏡花の水月亭』にて執り行われていた。
天蓋から降り注ぐのは、数多の魔力石を精緻に組み合わせて造られた巨大なシャンデリアの輝きである。それは単なる光源ではなく、王家の威信と富の象徴として、眼下に広がる豪奢な空間を冷徹なまでの光で照らし出していた。壁面を飾る歴史的なタペストリー、床に敷き詰められた深紅の絨毯、そして、そこに集う貴族たちの身に纏う最高級の絹やベルベット。空間のすべてが、計算し尽くされた美と権力の誇示によって構成されている。
弦楽四重奏が奏でる優雅なワルツの調べが、貴族たちの静かな談笑とグラスの触れ合う音に溶け込み、夜会特有の甘美で退廃的な喧騒を創り出していた。
私、セレスティア・ヴァン・アスター公爵令嬢は、会場の最奥に設けられた一段高い賓客用の席にて、その光景を静かに見下ろしていた。
アスター公爵家は、建国より王家を支え続けてきた筆頭貴族である。王国の歳入の三分の一を担う広大な領地と、国境線を守護する最強の騎士団を擁する我が家は、事実上、王家に次ぐ権力を持っていた。そして私は、その公爵家の長女であり、次期国王となる王太子アルトリウス殿下の婚約者として、幼き日より王妃教育という名の過酷な修練を積んできた身である。
政治、経済、歴史、法学、宮廷作法、さらには他国の言語や魔術理論に至るまで。私の十五年は、ただひたすらに「完璧なる王妃」となるための研鑽に捧げられてきた。私個人の感情や願望などというものは、とうの昔にアスター家の矜持と国家への忠誠という重い鎖の下に封印している。そう、幼き頃、宮廷作法の夜会服の重みに耐えかねて擦りむいた皮膚の痛みを、私は今でも鮮明に覚えている。あの時、アスターの娘として涙を流すことは許されなかった。私の皮膚は、痛みの代わりに冷徹な微笑みを貼り付ける術を、最初に覚えたのだから。
手元のグラスに注がれた黄金色の果実水を微かに揺らしながら、私はふと、あるべき人物がこの場に不在であることに思考を巡らせていた。
本日は卒業を祝う祝賀会であると同時に、王太子であるアルトリウス殿下が、次期国王としての威容を国内外の貴族たちに示す重要な公務の場でもある。婚約者である私をエスコートし、共に会場の耳目を集めるのが彼の果たすべき義務であった。しかし、夜会が始まってすでに二時間が経過しようというのに、殿下は一向に姿を現さない。
周囲の貴族たちも、表面的には取り繕いながらも、その視線の端々に王太子不在への疑問と、一人残された私への同情、あるいは好奇の色を浮かべているのが手に取るようにわかった。しかし、私は背筋を僅かたりとも曲げることなく、完璧な微笑を唇に貼り付けたまま、優雅に時を待っていた。アスター公爵令嬢が、婚約者の遅刻程度で動揺を見せるなど、あってはならないことだからだ。
突如として、優雅なワルツの調べが不自然な形で途切れた。
楽団の奏者たちが何事かと入り口へ視線を向け、それに釣られるようにして、数百名の貴族たちの視線が一斉に大扉へと注がれる。重厚なオーク材の扉が、近衛騎士の手によって重々しい音を立てて開かれ、そこに二つの人影が姿を現した。
一人は、輝くような金髪とサファイアの瞳を持つ、見目麗しい青年。我が婚約者、王太子アルトリウス殿下その人である。
しかし、問題は彼の隣に寄り添う存在であった。殿下の腕に自らの腕を絡ませ、まるで庇護を求める小鳥のように寄り添っているのは、男爵家の出でありながら、最近「光の魔力」を発現したことで特例としてアカデミーに編入してきた少女、リリアナ・ヴェイルであった。
彼女の装いは、厳格なドレスコードが定められたこの公式な夜会において、致命的なまでに常識を逸脱していた。格式高い夜会に相応しい重厚な絹織物ではなく、肌の露出が過剰に多い、薄桃色の軽薄なシフォンドレス。宝飾品も身につけず、ただ無造作に降ろされた髪には安価な花飾りが挿されているのみ。それは「純真無垢」を演出しているつもりなのだろうが、礼儀作法を重んじる高位貴族たちの目には、王室の威厳を泥に塗る無作法な道化にしか映らない。
会場全体を、凍りつくような静寂が支配した。誰もが息を呑み、信じ難い光景を前に言葉を失っている。
私はゆっくりと立ち上がり、賓客席から大階段を見下ろす位置へと歩みを進めた。ドレスの裾が床を擦る微かな音だけが、不気味なほど静まり返った空間に響き渡る。
アルトリウス殿下は、会場の異様な空気など全く意に介する様子もなく、むしろ自らが正義の体現者であるかのように胸を張り、リリアナを伴って広間の中央へと進み出た。そして、階段の上から彼を見下ろす私を力強い、しかし酷く浅薄な怒りを孕んだ眼差しで睨み据えた。
「セレスティア・ヴァン・アスター公爵令嬢!」
魔力を帯びた、会場の隅々にまで響き渡るような大声。それは、次期国王としての威厳を示すためのものではなく、単なる感情の爆発に過ぎなかった。
「貴様の顔など、もはや見たくもなかったが、今日という晴れの舞台において、貴様の犯した大罪を白日の下に晒さねばならぬ。よって、こうして足を運んでやったのだ!」
大罪。その言葉の響きに、会場からは隠しきれない動揺のざわめきが波のように広がった。私は表情を一切崩すことなく、ただ静かに、冷ややかな視線を彼へと注ぎ返した。
「アルトリウス殿下。まずは、公の場への到着が大幅に遅れましたこと、そして、身分に合わぬ装いの同伴者をお連れになったことに関しまして、何らかの合理的な理由がおありかと推察いたします。しかし、大罪とは穏やかではありませんね。私がいかなる罪を犯したというのでしょうか」
私の声は、決して声を荒げていないにもかかわらず、確かな浸透力を持って会場に響き渡った。感情を一切排した、事実のみを確認しようとする冷徹な響き。それこそが、私が長年培ってきた「王妃としての声」である。
私の落ち着き払った態度が気に食わなかったのか、アルトリウス殿下はギリッと歯を鳴らし、さらに声を張り上げた。
「白を切る気か、この不実なる女め! 貴様が我が愛するリリアナに対して行ってきた、数々の陰湿なる迫害の証拠はすでに揃っている! 彼女の教科書を切り裂き、階段から突き落とそうとし、さらには雇わず者を使って彼女を誘拐しようとしたであろう! すべては、光の魔力を持つ彼女の才能への嫉妬と、私の寵愛が彼女に向いていることへの醜い執着から出た凶行である!」
殿下の言葉が終わるや否や、リリアナは殿下の腕にしがみつき、「殿下、もういいのです。私は、セレスティア様を恨んでなどおりませんから……」と、涙ぐんだ声で懇願するような芝居を打った。その態度は、加害者を前にして怯える哀れな被害者を演じるには十分なほどの完成度であったが、私から見れば、あまりにも滑稽な憐れみを乞う稚拙な狂言に過ぎなかった。
私は内心で深く、しかし一切の表情の変化を伴わずに溜息をついた。
彼が並べ立てた「罪状」とやらには、論理的な整合性が微塵も存在しない。
第一に、私が男爵令嬢の教科書を切り裂くなどという、下劣で直接的な嫌がらせを行う理由が皆無である。私には私兵とも呼べる優秀な隠密組織が仕えている。もし仮に私が彼女を排除しようと考えたのであれば、不器用な嫌がらせなどではなく、社会的に完全に抹殺するか、あるいは物理的にこの世から消し去るかの二択しかない。
第二に、階段から突き落とそうとしたという件。その時刻、私は筆頭国務大臣と共に、隣国との関税条約の改定案について三時間にわたる会議を行っていたという明白な証左がある。その場には十名以上の高官が同席していたのだ。
第三の誘拐未遂に至っては、もはや論評に値しない。王都の治安維持を担っているのは我がアスター公爵家の騎士団である。私が自らの管轄下において、そのような杜撰な犯罪を企てるなど、アスター家の情報網と実行力を侮辱しているとしか言いようがなかった。
しかし、私はそれらの反証を口にすることはしなかった。
論理的思考能力を放棄し、安直な感情と「真実の愛」という名の自己陶酔に浸りきっている愚者に対して、事実を並べ立てたところで何の意味もないからだ。彼はすでに、私を悪役と定め、自らを悲劇のヒロインを救う英雄と思い込んでいる。または、彼はリリアナに狂っているのではない。肥大化しすぎたアスター公爵家の影響力を削ぐため、新興の「光の魔力」という大義名分を盾に、王権の絶対化を狙った一世一代の博打のつもりなのかもしれない。――その博打の計算が、致命的なまでに稚拙であるという点において、やはり彼は愚者でしかなかったが。
「……殿下。それが、貴方様が調べ上げられた『真実』であると、そう仰るのですね」
「いかにも! 言い逃れはさせぬ! これほどまでに邪悪で嫉妬深い女を、未来の王妃として迎えることなど断じて不可能である! よって、私アルトリウスは、国王陛下の名代としてここに宣言する! セレスティア・ヴァン・アスター、貴様との婚約を、只今この瞬間をもって破棄する!」
決定的な言葉が放たれた。
その瞬間、会場の空気は凍りついたという表現すら生温いほどの、絶望的な沈黙に包まれた。誰もが、今この場で何が起きたのかを理解しながらも、その恐るべき政治的影響を想像し、顔面を蒼白にしている。
王家とアスター公爵家の結びつきは、この王国の地盤そのものである。それを、このような公の場で、明確な裏付け調査も経ずに、男爵令嬢一人への妄信を理由に一方的に破棄するなど、国家に対する反逆行為に等しい愚行であった。
私は、微かに伏せていた目線をゆっくりと上げ、アルトリウス殿下を、いや、かつて私の主君となるはずであった男を、感情の一切抜け落ちた絶対零度の瞳で見据えた。
「――承知いたしました。アルトリウス殿下」
私の口から紡がれたのは、抗議でも、悲鳴でも、弁明でもなく、極めて事務的な、氷のように冷たい肯定の言葉であった。
そのあまりにもあっさりとした同意に、アルトリウス殿下もリリアナも、一瞬だけ意表を突かれたように目を見開いた。彼らはきっと、私が泣き喚いてすがりつくか、あるいは怒り狂って醜態を晒すかのどちらかを期待していたのだろう。
「ただし」と、私は水を打ったような静寂の中に、一際冷徹な声を響かせた。「この婚約は、国王陛下と我が父アスター公爵が血の盟約によって結ばれた、国基に関わる不可侵の約束。殿下私議の発言とはいえ、これなる大夜会の場で宣された以上、王家全体の『破約の意志』と受け止めさせていただきます。なれば、後日、法務院を通じて正式なる破約受諾の親書、ならびに王家の違背による莫大な損害補填、および我が公爵家の名誉を損なったことへの代償を、国法に則り正式に王宮へ要求いたします」
「なっ……! 盟約違背に伴う補償の要求だと!? 有責はお前にあるのだぞ!」
「有責の証明は、法廷にて行われるべきものです。殿下がご提示された幼稚な……失礼、主観的な事象の羅列を、我がアスター公爵家の優秀な公爵家お抱えの律法家たちが法的にどう判断するか。それは後日のお楽しみといたしましょう。無論、私が無実であることを証明する証拠と証人は、すでに完璧に揃っております」
私の言葉に、アルトリウス殿下の顔から徐々に血の気が引いていくのが見えた。彼はようやく、自らが犯した行いの「政治的な意味」に思い至り始めたのだろう。アスター家の支援を失えば、王家の財政は半年と持たずに破綻する。その事実を、彼は完全に忘却していたのだ。
「それでは、私はこれにて失礼いたします。このような場にこれ以上滞在することは、アスター公爵家の名誉に関わりますゆえ」
私は誰の助けも借りず、片手でドレスの裾を優雅に摘み上げると、アルトリウス殿下とリリアナに向けて、王妃として叩き込まれた最も格式高い、そして最も冷酷な意味を持つ「決別のカーテシー」を披露した。
頭を下げ、膝を曲げ、完璧な姿勢で礼を尽くす。
顔を上げた時、私の唇には、彼らを完全に見下す、氷のように冷たく美しい微笑が刻まれていた。
私は踵を返し、出口へと向かって歩き出した。
群衆となっていた貴族たちが、私の歩みに抗う者とてなく、ただ、割れた波のように左右へ退るのみであった。誰も私と目を合わせようとしない。ただ、圧倒的な威圧感と、これから始まるであろう王宮を巻き込む巨大な政治的粛清の予感に震え上がっているのだ。
王家のために、感情を殺し、青春を捧げ、ひたすらに完璧を求めてきた十五年間。
それが、こんなにもあっけなく、一人の愚か者の妄言によって終わりを告げるとは。
胸の奥底で、重く冷たい鎖が音を立てて砕け散るのを感じた。それは喪失感ではなく、圧倒的な解放感であった。
もう、自らの知性を隠して彼に歩み寄る必要はない。
もう、巨大な魔力を封じ込めて凡庸を装う必要はない。
夜の冷気が立ち込める王城のバルコニーへと出た瞬間、背後から静かな、しかし確かな存在感を持つ足音が近づいてくるのを察知した。
振り返ることなく立ち止まると、低い、ベルベットのように艶やかな男の声が、耳元に響いた。
「見事な立ち回りであったな、セレスティア公爵令嬢。いや、今は『元』婚約者殿、と呼ぶべきか」
月明かりの下に姿を現したのは、漆黒の外套に身を包んだ、鋭い隻眼を持つ長身の男。
北方の国境線を守護し、隣国から「死神」と恐れられる最強の武将にして、王家の血を引くもう一人の実力者――辺境伯ルキウス・ヴァン・オブシディアン。
普段は社交界に一切姿を見せないはずの男が、なぜこのような場所にいるのか。
「……立ち聞きとは、辺境伯閣下も悪趣味でいらっしゃる」
「最高の喜劇が上演されると聞いてな。わざわざ国境から馬を飛ばしてきた甲斐があったというものだ」
ルキウス辺境伯は、隠帯の奥にある黄金の瞳を細め、猛禽類が獲物を狙うかのような危険な笑みを浮かべた。
「あの愚物の呪縛から解き放たれた貴女が、これからいかなる盤面を描き、この腐敗した国をどうやって蹂躙していくのか。……私は、特等席でそれを見届けたいと思うのだが」
その挑発的な言葉に、私は今日初めて、心の底からの純粋な笑みを浮かべた。
冷たい夜風が、私の長く銀色に輝く髪を舞い上げる。
「ええ、ご期待に沿えるよう、最高の脚本を用意いたしましょう。まずは……あの愚鈍なる者たちへ、徹底的な絶望を賜ることから始めなくてはなりませんね」
私の内に眠っていた、規格外の魔力が、喜びの産声を上げるように脈打ち始めていた。
王妃という檻から解き放たれたアスターの公爵令嬢が、いかにしてこの世界を自らの足元に傅かせるか。
華麗なる決別と、残酷なまでの崩壊の序曲が、今、静かに幕を開けたのである。




