崩壊の玉座と新たなる戴冠
正門前での醜悪なる喧騒から背を向け、私とルキウス様は本邸の奥深く、父であるアスター公爵の待つ執務室へと歩みを進めた。大理石の床を叩く私たちの足音だけが、静寂を取り戻した広大な廊下に規則正しく響き渡る。
先ほどのアルトリウスの哀れな姿を脳裏に反芻しても、私の心には一滴の同情も湧き上がることはなかった。かつて彼に向けられていた、王家の存続を願うがゆえの献身や、次期王妃としての義務感。それらはすべて、彼自身が公の場で放った妄言によって跡形もなく消し飛んだのだ。残されたのは、国庫を食い潰し、己の欲望と狭隘な視野だけで権力を振りかざそうとする、一個の無能な生物に対する冷徹な評価のみであった。
「……それにしても、まさか単騎で公爵邸に乗り込んでくるとは。王太子としての矜持はおろか、自己保身のための最低限の知能すら持ち合わせていないと見える」
ルキウス様が、隣を歩きながら微かに嘲笑を交えた声で呟いた。その黄金の隻眼には、弱者をいたぶる歓喜ではなく、ただ純粋な呆れが浮かんでいる。
「ええ、全く同感でございます。王宮の機能が停止し、周囲の貴族たちが次々と彼から離反していく中、自らの足元が完全に崩れ去った現実を、ようやくその身を以て理解したのでしょう。しかし、その結果として選んだ行動が、私への直談判、それも恫喝まがいの責任転嫁であるとは。……私が長年、あのような者の背後で国政を支えるための教育を受けてきたと思うと、己の費やした時間がひどく無価値なものに思えてまいります」
「いや、貴女の費やした時間は決して無駄ではない。あの愚物がその程度の器であったからこそ、貴女は王妃という狭い檻から解放され、こうして私の隣に立ち、真の覇道を歩む権利を手にしたのだ。すべては、この盤面を完成させるための布石であったと考えるべきだろう」
ルキウス様の言葉に、私は静かに頷いた。彼の仰る通りだ。もしアルトリウスが並程度の知性を持ち、私を無難に王妃として迎えていれば、私は生涯、己の知略と魔力を隠し、凡庸な王を立てるための影として生きねばならなかった。この決別は、私にとって大いなる福音に他ならない。
執務室の重厚な扉を開くと、父・マクシミリアン公爵はすでに我が家の情報部がもたらした最新の報告書に目を通しているところであった。我々の入室を確認すると、父は静かに書類を置き、深く重みのある声で口を開いた。
「正門での騒ぎは耳に入っている。あの愚物が、いよいよ追い詰められて本性を現したようだな。セレスティア、そしてルキウス辺境伯。二人の正式な婚約成立、まことにおめでとう。これで、我がアスター家とオブシディアン辺境伯家は、名実ともに不可分なる一体の権力機構となった。もはや、この国に我々の意志を阻むものは何一つ存在しない」
「ありがとうございます、お父様。アルトリウス殿下への通告は完了いたしました。彼は完全に戦意を喪失し、あるいは恐怖に呑まれて王宮へと逃げ帰ったはずです。……今後の展開についてですが、王宮の現状はいかがなっておりますか」
私が問うと、父は手元の報告書を指先で弾き、極めて冷酷な笑みを浮かべた。
「もはや『王宮』と呼べるような機能は有していない。先ほどの御前会議にて、莫大な違約金の請求書を目にした国王陛下が倒れられたことはすでに報告した通りだが……先ほど、筆頭医師からの極秘の連絡が入った。陛下は意識を取り戻すことなく、崩御されたそうだ」
その言葉が執務室に響き渡った瞬間、空間の温度が数度下がったかのような錯覚を覚えた。
国王の死。それは、単なる一人の権力者の死を意味しない。この国を辛うじて一つにまとめ上げていた、最後の精神的支柱がへし折れたことを意味している。
「……心労による急死、でございますか」
「表向きはな。だが、真の死因は絶望だろう。アスター家の支援なしには王家が存続し得ないことを最も理解していたのは、他ならぬ国王陛下ご自身であったのだから。自らの息子がその唯一の命綱を断ち切ったと知れば、老齢の心臓が耐えきれるはずもない」
父の言葉には、かつての主君に対する哀悼の意は微塵も含まれていなかった。アスター公爵家にとって、王家とはあくまで「保護するに足る利益」をもたらす存在であったに過ぎない。その利益が損なわれ、あろうことか我が家に牙を剥いた以上、彼らはもはや排除すべき障害でしかなかったのだ。
「国王陛下が崩御されたとなれば、王位継承権第一位であるアルトリウスが即位することになりますが……現在の彼に、玉座に座る資格を認める貴族など一人もおりますまい」
ルキウス様が、腕を組みながら冷徹に状況を分析する。
「その通りだ。現在、王都に滞在している有力貴族の九割が、すでに我がアスター公爵邸に忠誠を誓う密使を送ってきている。彼らの要求はただ一つ。国政を麻痺させ、国家を滅亡の危機に追いやったアルトリウスの即位を阻止し、アスター家を中心とした新たな統治機構を樹立してほしいという懇願だ」
父は立ち上がり、壁面に掛けられた巨大な王国の全図へと歩み寄った。
「もはや、腐敗した王家をすげ替える程度の温存策は不要である。セレスティア、そしてルキウス。我々はこれより、貴族院の総意を以てアルトリウスの王位継承権を剥奪し、国家反逆罪および背任罪の咎で彼を特別高等法廷に引きずり出す。その後、我がアスター家がこの国の新たな玉座に就き、オブシディアン辺境伯家と共に、盤石なる新国家を建設する」
それは、実質的なクーデターの宣言であった。しかし、武力による血生臭い簒奪ではない。経済を掌握し、実務を取り上げ、法的な正当性と貴族たちの総意を背景にした、極めて合法的で洗練された王朝交代劇である。
私は静かにドレスの裾をつまみ、未来の国王となる父に向けて、最も深く、美しいカーテシーを捧げた。
「御意のままに、お父様。このセレスティア、アスター家の新たな歴史の幕開けに、我が持てるすべての知略と魔力を捧げることを誓いますわ」
────
それから一週間後。
王都の中心に位置する『最高位貴族院・中央裁定議事堂』は、建国以来かつてないほどの異様な熱気と、氷のような冷徹な視線に包まれていた。
半円形に配置された数百の議席には、この国のすべての高位貴族たちが居並び、中央に設けられた被告人席を見下ろしている。議事堂の最上段、かつては国王が座していたはずの玉座には、今は我が父、マクシミリアン公爵が臨時執政官として座し、その右隣には私、セレスティアが、左隣には婚約者であるルキウス様が控えている。
被告人席に引き立てられてきたのは、手足に魔力封じの重い手かせを嵌められた、二人の罪人であった。
一人は、かつての栄華の欠片も見当たらないほどにやつれ果て、虚ろな目を宙に泳がせている元王太子、アルトリウス。
もう一人は、粗末な麻の服を着せられ、恐怖と混乱で震え上がりながら、ひたすらに涙を流し続けている元男爵令嬢、リリアナ・ヴェイルであった。
議事堂内は水を打ったような静けさに包まれている。誰一人として、彼らに同情の視線を向ける者はいない。自らの感情と色恋沙汰のために国を滅ぼしかけた大罪人に対し、貴族たちが抱くのは激しい憎悪と軽蔑のみであった。
「――これより、元王太子アルトリウス、並びに元男爵令嬢リリアナ・ヴェイルに対する特別高等裁判を開廷する」
進行役を務める法務卿の厳格な声が、議事堂内に響き渡った。
「被告アルトリウス。貴殿は、次期国王としての責務を著しく放棄し、公の場において正当な理由なくアスター公爵令嬢セレスティア様との婚約を一方的に破棄した。これにより、アスター公爵家をはじめとする多数の貴族との盟約を破壊し、国家の経済および防衛機能を深刻な麻痺状態に陥らせた。これは、国家そのものに対する重大な反逆行為と認定される。何か申し開きはあるか」
法務卿の問いかけに対し、アルトリウスは力なく首を振り、ひび割れた声で呟いた。
「……私は、ただ……真実の愛を、貫きたかっただけなのだ……。セレスティアが、リリアナを虐めていると……そう、信じていた……。誰かが、私にそう吹き込んだのだ……」
そのあまりにも幼稚で無責任な言い訳に、議席のあちこちから失笑と怒号が漏れ聞こえた。己の調査能力の欠如と判断の誤りを、見えざる他者のせいにしようとするその姿勢。もはや、為政者としての資質を問う以前の問題であった。
「静粛に」
私が澄み渡る声で短く告げると、議事堂内の喧騒は一瞬にして静まり返った。私はゆっくりと立ち上がり、最上段からアルトリウスとリリアナを見下ろした。
「アルトリウス殿下。真実の愛を貫くこと自体は、個人の自由であり、誰にも咎められる筋合いのものではありません。しかし、貴方様は『王太子』という国家の運命を背負う立場にありながら、その愛のために国家の基盤たる同盟関係を犠牲にいたしました。権力には、それに伴う絶対的な責任が存在します。貴方様は、権力の甘美な蜜だけを啜り、責任という重い十字架から逃げたのです。それが、どれほどの罪か。いまだにご理解いただけていないようですね」
「セレスティア……すまない、私が愚かだった……! どうか、どうか許してくれ! 私は王位などいらない、ただ、命だけは……!」
かつて私を見下し、大勢の前で私を「毒婦」と罵った男が、今は泥に塗れ、涙と鼻水にまみれて私の足元に命乞いをしている。その姿はあまりにも滑稽であり、私の心に僅かな感慨すら呼び起こすことはなかった。
続いて、私は視線をリリアナへと向けた。彼女は私の視線に気づくと、怯えた小動物のように身をすくませ、「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
「リリアナ・ヴェイル元男爵令嬢。貴女もまた、己の立場をわきまえず、特異な魔力に驕り、王太子の寵愛を笠に着て宮廷の秩序を著しく乱しました。貴女が本当に『純真無垢』であったなら、殿下が国を傾けるような決断を下す前に、全力でお止めするべきでした。しかし、貴女は自らの虚栄心を満たすため、殿下の凶行を止めず、むしろ助長させた。これもまた、許されざる罪です」
「ち、違います……! 私は何も知りませんでした! 殿下が勝手にやったことで、私はただ愛されただけで……!」
リリアナの自己保身に満ちた叫びに、隣にいたアルトリウスが信じられないといった顔で彼女を見た。
「リリアナ……? お前、何を言っているのだ? 私たちが永遠の愛を誓い合ったではないか。お前がセレスティアに苛められていると泣きついてきたから、私はお前のために……!」
「嘘よ! 私はそんなこと言ってない! あなたが勝手に勘違いして暴走したんじゃないの! 私のせいじゃない、私を巻き込まないで!」
被告人席で繰り広げられる、醜悪な責任のなすり合い。かつて「真実の愛」とやらで結ばれていたはずの二人は、己の命惜しさに互いを糾弾し合い、最も醜い人間の本性を曝け出していた。
私は冷たく目を細め、静かに言い放った。
「……もはや、聞くに堪えませんわね」
私が席に着くと、父・マクシミリアン公爵が荘厳なる声で判決を下した。
「此度の証言および状況証拠に鑑み、判決を言い渡す。元王太子アルトリウス、並びに元男爵令嬢リリアナ・ヴェイル。両名から一切の貴族としての身分を剥奪し、平民へと降格する。その上で、両名を国家反逆の罪により、極北の魔力石鉱山における終身の強制労働に処す。二度と王都の土を踏むことは許されない。……衛兵、両名を引き立てよ」
「いやだ! 私は王族だぞ! 離せ、離せえええっ!」
「嘘よ、嘘よ! 私には光の魔力が……! 光の魔力があるのよおおおっ!」
衛兵たちに両腕を掴まれ、引きずられていく二人の絶叫が、議事堂内に響き渡る。リリアナが必死に光の魔力を放とうとしていたが、魔力封じの手かせの前に、それは蛍の光ほどの輝きさえ放つことなく消え去った。
彼らの叫び声が完全に遠ざかり、重厚な扉が閉められると、議事堂は再び静寂に包まれた。それは、旧時代の完全なる終焉を告げる、粛然たる静けさであった。
父が立ち上がり、全貴族を見渡して宣言した。
「これにて、王室の血脈はその役割を完全に終えた。これより我がアスター公爵家は、貴族院の推挙を受け、この国の新たなる王として玉座に就く。そして、我が娘セレスティアを次期女王とし、オブシディアン辺境伯ルキウスをその王配として迎えることを、ここに宣言する!」
その瞬間、議事堂を揺るがすほどの割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。
誰もが、新たな覇者の誕生を熱狂的に祝福している。腐敗した旧体制は完全に払拭され、圧倒的な知力と財力を誇るアスター家、そして最強の武力を誇るオブシディアン家による、新たなる黄金時代の幕開けである。
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喧騒の冷めやらぬ夜。
王城の最も高い塔に位置する『星見のバルコニー』に、私とルキウス様は立っていた。数日前、私が婚約破棄を突きつけられ、一人で夜風に吹かれていたのと同じ城ではあるが、眼下に広がる王都の灯りは、もはや我々自身の所有物として、かつてないほどに力強く輝いて見えた。
私は、新たに仕立てられた漆黒と深い青が織りなす豪奢な夜会服に身を包み、隣に立つルキウス様を見上げた。彼の黄金の隻眼は、王都の灯りを反射し、優しく、しかし確かな熱を帯びて私を見つめ返している。
「見事な結末であったな、セレスティア。いや、これからは『女王陛下』と呼ぶべきか」
ルキウス様が、私の腰にそっと腕を回し、自身へと引き寄せた。その力強い腕の感触に、私は微かに目を伏せ、唇に優雅な微笑を浮かべた。
「私への呼称は、二人きりの時であれば『セレスティア』のままで構いませんわ、ルキウス様。王冠の重みは、貴方と共に背負うからこそ意味があるのですから」
「……ならば、遠慮なくそうさせてもらおう。私の気高き妻よ」
彼は私の顎をそっと指先で持ち上げ、その視線を真っ直ぐに私の瞳へと絡ませた。
「初めて貴女を見た時から、その冷徹なまでの美しさと、瞳の奥に隠された野心に惹かれていた。あのような愚物の隣で、自らを押し殺して生きるには、貴女はあまりにも眩しすぎた。……私のもとへ来てくれて、心から感謝している」
ルキウス様の言葉には、一切の虚飾がなかった。それは、共に血と策謀の道を歩むことを誓い合った、戦友としての深い敬意と、一人の男として私に抱く絶対的な愛情の吐露であった。
私は、自らの内に、これまで感じたことのない温かな感情が満ちていくのを自覚した。王妃教育の過程で徹底的に排除してきた「個人の感情」。しかし、この圧倒的な実力と覚悟を持つ男の前でならば、それを解放してもよいのだと思えた。
「私の方こそ……貴方様がその手を差し伸べてくださらなければ、私はただアスターの利益を守る冷徹な機械として、一生を終えていたかもしれません。ルキウス様。貴方の武と、私の知略。我々が揃えば、この国は、いや、この大陸全土すらも、新たな秩序の下に平定することが可能でしょう」
「いかにも。我々の覇道は、まだ始まったばかりだ。セレスティア、共にいかなる困難も踏み越え、最も美しく、最も冷酷で、最も完璧な国家を築き上げよう」
夜風が、私たちの髪を優しく揺らした。
私はゆっくりと目を閉じ、ルキウス様からの、誓いの口づけを受け入れた。
それは、古い時代の残骸の上に成り立つ、新たなる覇者たちの、永遠の愛と共犯の誓いであった。
もはや我々を縛る者は何処にもいない。
華麗なる決別から始まったこの騒動は、今、至高の玉座という最高の結末をもって、完璧なる完成を迎えたのである。




