第7話 『返ってきた言葉と、狂い始めた歯車』
「大丈夫って……白瀬さん、声、全然大丈夫そうじゃないよ……」
安西さんの声は、少しだけ震えていた。
体育館でのあの出来事。みんなが嘲笑うか憐れむ中で、安西さんだけが本気でオロオロと泣きそうな顔をしていたのを覚えている。
「私、あのあと九条くんに言ったんだから。『白瀬さんは悪くない』って。そしたら九条くん、『白瀬は白瀬家の恥だ、お前には関係ない』なんて……ひどいよ。白瀬さん、本当にどこにいるの? 帰れてるの?」
畳みかけるような問いかけに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
白瀬家には、私の味方なんて一人もいなかった。
いつも「朔耶が悪い」「無能のくせに」と言われ続けて、それが当たり前だと思っていた。
でも、違ったんだ。
「……ううん。私、もうあそこには帰らないよ」
「え……?」
「婚約破棄も、家を出るのも、自分で決めたことだから。だから安西さん、心配しないで。私、今……すごく親切な人たちと一緒にいるの」
「白瀬さん……」
電話の向こうで安西さんが息を呑むのが分かった。
少しの沈黙のあと、安西さんは鼻をすする音をさせて、力強く言った。
「そっか……。うん、白瀬さんが自分で決めたなら、私、応援する! 学校、来づらかったら無理しなくていいからね。あ、でも、ノートは取っておくから!」
「ありがとう、安西さん」
「また連絡してよね! 絶対だよ!」
通話を切ると、静かな部屋にスマートフォンの画面の光だけが残った。
涙が零れそうになって、慌てて両手で頬をぬぐう。
「……温かいですね」
振り向くと、少し離れた柱の陰に観月さんが立っていた。
いつからそこにいたのだろう。相変わらず足音がしない。
「盗み聞きをするつもりはありませんでしたが。……良いご友人ですね」
「……はい。とっても」
私が頷くと、観月さんはポケットから一枚の端末を取り出し、淡々と口を開いた。
「白瀬さん。先ほどからあなたのスマートフォンに着信を繰り返している『白瀬家』および『九条家』からの通信ですが、こちらで完全にブロックおよび追跡遮断処理を行いました」
「えっ……あ、ありがとうございます」
「それと、報告です。あなたが白瀬家を離脱した件について、白瀬家当主──あなたのお父上から、対魔庁へ『重要参考人の連れ戻し』の名目で要請が入りました」
私の心臓が、跳ね上がった。
連れ戻される?
また、あの暗い離れに?
宵子のために雑用をさせられて、お母さんの遺言を守るために息を潜める毎日に?
ぎゅっとスカートの裾を握りしめる。
そんな私を見て、観月さんの目がほんの少しだけ柔らかくなったように見えた。
「安心してください。拒否しました」
「……え?」
「当然でしょう。我が防衛特命部隊が正式に保護・管轄している重要防衛資産──失礼、国家級の要人を、一地方名家の私怨で引き渡すわけがありません」
観月さんは手元の端末を操作しながら、どこか不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「白瀬家は『無能な長女が逃亡した』と主張しているようですが……愚かですね。彼らはまだ理解していないようです。自らが何を失ったのかを」
「あの……失った、って……?」
「天城からの最終検査レポートが上がってきました。あなたの聖力純度、および広域浄化適性値です」
観月さんが差し出してきた端末の画面には、見たこともない複雑なグラフと数値が並んでいた。
一番下に、赤い太字で書かれた一行。
『測定不能(特級測定限界超過)』
「白瀬家の現在の繁栄は、表面上は『天才聖女』と呼ばれる妹の宵子氏によるものとされていました。……ですが、記録を精査したところ、彼女が浄化したとされる大規模な『穢れ』の発生地域、そのすべてにおいて、あなたが事前に『雑用』として掃除や見回りに訪れていた」
観月さんの視線が、まっすぐに私を捉える。
「あなたが無意識に──あるいは意識的に落としていた圧倒的な聖力の『残滓』だけで、その地域の穢れは九割方無力化されていた。宵子氏が行っていたのは、すでに芽を摘まれたあとの、最後の仕上げに過ぎなかったということです」
「そんな……私はただ、離れの周りやお屋敷の敷地を綺麗にしていただけで……」
「それが『規格外』だと言うのです」
観月さんはため息を吐き、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「あなたが白瀬家を去って、今日で丸一日。すでに白瀬家が管轄する東部管区の霊脈濃度が、異常な勢いで濁り始めています。遠からず、あちらから悲鳴が上がるでしょうね」
その頃──都内、白瀬家の豪華な応接室。
「どういうことだ透真くん! なぜ対魔庁が朔耶の居場所を隠蔽する!?」
白瀬家当主・白瀬 忠重は、テーブルを激しく叩いた。
その向かいには、五大家筆頭・九条家の跡取りであり、昨日朔耶との婚約を破棄したばかりの九条透真が、苦々しい顔で座っている。
「分かりません……。ですが、対魔庁の特務課が直接介入しているのは事実です。朔耶の奴、まさか国に泣きついたのでは……」
「ハッ、あの無能がそんな立ち回りをできるわけがないだろう!」
忠重は吐き捨てるように言った。
その横では、可憐な衣装に身を包んだ妹の宵子が、不安そうに眉をひそめている。
「お父様、透真さん……お姉様、大丈夫でしょうか? 無能なお姉様が一人で外に出たら、穢れに当てられてすぐに死んでしまうわ……」
「宵子、お前は本当に優しいな。あんな出来損ないの姉のことなど心配する必要はない」
透真は宵子の手を優しく握りしめた。
「白瀬家にはお前という本物の『天才聖女』がいる。無能な朔耶が一匹消えたところで、何の問題もない。むしろ、九条家と白瀬家が正式に結ばれることで、東部管区の浄化体制は盤石になるはずだ」
「はい……透真さん……!」
うっとりと頬を染める宵子。
だが──その穏やかな時間を破るように、応接室のドアが勢いよく開け放たれた。
「当主様! 大変です!!」
息を切らせた家臣が飛び込んでくる。
「何事だ、不作法な!」
「と、東部第四地区の結界が崩壊しました! 中級以上の『穢れ』が大量発生し、管区の浄化部隊だけでは抑えきれません!」
「何だと!?」
忠重は立ち上がった。
「馬鹿な、第四地区は昨日、宵子が浄化巡回を終えたばかりの場所だぞ!?」
「そ、それが……宵子さまの聖影を施したはずの霊脈が、まるで魔法が解けたように一瞬で濁り、穢れを引き寄せてしまったようで……!」
「そんな……っ! 私の聖力が破られるなんて、あり得ないわ!」
宵子が顔を青くする。
透真もまた、信じられないというように目を見開いた。
「おい、どうなっているんだ白瀬どの! 宵子の力があれば、結界は数か月は持つはずだろう!?」
「わ、分からん! すぐに予備の聖具を使え! 朔耶がいつも清めていた離れの聖水は残っているか!?」
「そ、それが……!」
家臣は青ざめた顔で首を振った。
「朔耶様が去られてから、離れの湧き水はただの『腐った水』に変わり、保管していたすべての聖具から、聖力が完全に抜け落ちております……!」
応接室に、凍りつくような沈黙が落ちた。
彼らはまだ知らない。
自分たちが「無能」と蔑み、ゴミのように捨てた少女こそが、白瀬家という巨大な楼閣を支えていた唯一の『礎』であったことを。
そして、その少女が二度と戻らない場所で、静かに自分の人生を歩み始めたことを。




