第8話 『青空の下の朝食と、崩れ去る平穏』
翌朝。目を覚ましたわたしは、部屋のベッドの上で小さく息を吐いた。
ふかふかの枕。太陽の光が優しく差し込む大きな窓。
白瀬家の離れにいた頃は、カビの匂いが漂う薄暗い部屋で、早朝から宵子の衣装の手入れや屋敷の清掃に追われていた。こんなに静かで温かい朝を迎えたのは、生まれて初めてかもしれない。
着替えを済ませて廊下に出ると、香ばしい出汁の香りが鼻をくすぐった。
「あ、朔耶ちゃん! おはよう!」
食堂へ向かうと、割烹着姿の榛名さんが弾けるような笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます、榛名さん」
「フフ、夕べはよく眠れた? ほら、今日の朝ごはんは焼き魚と特製のみそ汁だよ。しっかりお食べ!」
テーブルに並べられたのは、温かい白米に大きな鮭の塩焼き、具だくさんのみそ汁。
白瀬家では、わたしに与えられるのは妹や父の残飯か、冷めきった味のしない粥だけだった。
おはしを手に取り、一口食べる。
「……おいしい」
「でしょー! どんどんおかわりしてね!」
思わずほころんだ頬を抑えていると、向かいの席に観月さんと天城さんが座った。
天城さんは相変わらず少し眠そうに目をこすりながら、コーヒーカップを手に持っている。
「白瀬さん、体調はどうですか? 昨日の精密検査の反動で、聖力酔いとか起こしてませんか?」
「はい、全然大丈夫です。すごく体が軽くて……こんなに気分が良いのは久しぶりです」
わたしの言葉に、天城さんと観月さんは一瞬だけ視線を交わした。
「それは重い枷が外れたからです」
観月さんが静かに言った。
「あなたの聖力はあまりにも巨大すぎた。白瀬家という狭い枠組みの中で、力を押さえつけ、さらに妹の宵子氏の『浄化』の肩代わりまでさせられていたのですから。本来なら、立っていることすら奇跡的な負荷がかかっていたのですよ」
「肩代わり……」
「ええ。白瀬家が誇っていた『天才聖女』の威光は、あなたが陰で垂れ流していた過剰な聖力を吸い上げることで成立していた『張り子』に過ぎなかった。……そして、その給水塔が消えた今、彼らの化けの皮が剥がれ始めています」
観月さんは手元のタブレット端末を操作し、画面をこちらに向けた。
そこに映し出されていたのは、ニュース番組の速報画面だった。
『東部第四地区にて大規模な穢れの集中的発生。白瀬家および九条家の合流部隊が防衛戦を展開するも、難航』
『現地住民からは結界の急激な弱体化を指摘する声が相次ぐ』
画面の向こうで、汗だくになりながら必死に剣を振るう九条透真の姿と、青ざめた顔で泣き叫ぶ宵子の姿がチラリと映る。
「そんな……宵子ちゃんたちの力が……」
「あなたが心配する必要はありません」
天城さんがコーヒーを一口飲み、真面目な顔で言った。
「彼らは自分たちの欲望のために、あなたを虐げ、利用し、最後には『無能』と蔑んで捨てたんです。自分たちが蒔いた種は、自分で刈り取るのが世界のルールですよ」
「天城の言う通りです」
観月さんがタブレットを閉じ、まっすぐにわたしを見つめた。
「白瀬さん。あなたにはこれから、本当の意味でご自身の力と向き合っていただきます。誰かの身代わりではなく、誰かを踏みみにするためでもなく──あなた自身の意思で、その力をどう使うかを選ぶために」
「わたしの……意思……」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
ずっと「無能」と言われ、「目立つな」と母に言われ、ただ命令に従うことだけが自分の存在価値だと思っていた。
でも。
(安西さんに届いた、あの『大丈夫?』の一言)
(榛名さんが作ってくれた、温かいご飯)
(観月さんや天城さんがくれた、認められた感覚)
この温かい場所を守れるなら。
わたしを「白瀬朔耶」として見てくれる人たちの力になれるなら。
わたしの口から、自然と言葉がこぼれ落ちていた。
「わたし……学びたいです。自分の力のこと。そして……誰かを助けられるようになりたいです」
その言葉を聞いた瞬間、観月さんの唇が、かすかに満足そうに吊り上がった。
「結構です。では──本日より、あなたを対魔庁特務第一部隊の『特別顧問聖女』としてお迎えします」
◇
一方──混乱の渦中にある東部第四地区。
「ハァ……ハァ……! なぜだ! なぜ穢れが退かない!?」
九条透真は息を荒らしながら、地面に膝をついた。
いくら剣に聖力を込めて叩き込んでも、次から次へと黒いモヤのような怪異が湧き出してくる。
「透真さん! 助けて! 怖い……怖いよぉ!」
後ろでは、宵子が綺麗にセットしていた髪を振り乱し、なりふり構わず叫んでいた。
「宵子! 結界を展開しろ! お前の『天才聖女』の力で、この程度の穢れくらい一瞬で浄化できるだろう!?」
「や、やってるわよ! でも……全然効かないの! 力が……力が出ないのよぉっ!」
宵子の放つ白い光は、怪異の表面を撫でるだけで、消滅させるどころか勢いを増させている。
「バカな……! 今まではお前が手をかざすだけで、どんな穢れも消え去っていたはずだぞ!?」
透真の脳裏に、ふと昨日の体育館の光景が蘇る。
静かに微笑み、「はい。ありがとうございます」と言って去っていった、地味で無能なはずの婚約者──白瀬朔耶の姿。
『……お父様、大変です! 朔耶様が去られてから、離れの湧き水はただの腐った水に変わり、保管していたすべての聖具から聖力が完全に抜け落ちております!』
家臣の報告が、頭の中で鋭く響く。
「まさか……白瀬朔耶の奴が……何か工作をして逃げたというのか……!?」
「透真さん! 来る! 助けてぇぇぇ!!」
目の前に迫る巨大な黒い影。
二人はただ、恐怖に顔を歪めて悲鳴を上げるしかなかった。
自分たちが捨てた少女が、二度と届かない高みへ登り始めていることにも気づかずに。




