第4話 白瀬家の長女
「……たくさん食べなさいねえ」
配膳のおばちゃんの声が、耳の奥にやさしく残っていた。
わたしはトレーを持ったまま、小さく頭を下げる。
「……いただきます」
食堂の隅の席に座る。
焼き魚。
お味噌汁。
白いごはん。
卵焼き。
それから、小鉢のおひたし。
なんてことのない朝ごはんだ。
でも。
湯気が立っていた。
ちゃんと、あたたかい。
そのことが、どうしてか、胸にじんわり沁みた。
白瀬家では、食事の時間はいつも宵子が中心だった。
宵子のスケジュールに合わせて料理が並ぶ。
宵子が好きなものが優先される。
わたしは空いた席で、冷めたお味噌汁を飲むことが多かった。
別に、それが嫌だったわけじゃない。
慣れていただけだ。
「口に合いませんか」
向かい側に座った観月さんが言った。
わたしは慌てて首を振る。
「ち、違います。すごくおいしいです」
「そうですか」
観月さんはコーヒーを飲んでいた。
ブラックだ。
苦そう。
「……観月さんって、あまり食べないんですね」
「朝はコーヒーだけです」
「身体に悪そうです」
ぽろっと言ってから、しまった、と思った。
偉い人に失礼だったかもしれない。
でも観月さんは少しだけ目を瞬いて、それから小さく笑った。
「よく言われます」
そのとき。
食堂の奥が、急にざわついた。
「あっ」
「来た」
「おい、まじか」
職員たちの視線が、一斉に入口へ向く。
わたしもつられて振り返った。
そこにいたのは、女の人だった。
長い茶髪を高い位置で結んでいて、片耳にピアスが光っている。スーツ姿だけれど、どこかラフな雰囲気の人だ。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。
その人は食堂へ入るなり、まっすぐこちらへ歩いてきた。
そして。
「うわ、ほんとに女子高生だ」
第一声が、それだった。
「…………」
「…………」
わたしと観月さんが同時に黙る。
女性は気にした様子もなく、ずいっと身を乗り出してきた。
「はじめまして! 祓暁庁実働二課所属、榛名依子! 二十六歳! 彼氏なし!」
「最後の情報いるか?」
観月さんが即座に突っ込む。
榛名さんはけらけら笑った。
明るい人だ。
食堂の空気まで、急ににぎやかになった気がする。
「いやー、庁内めちゃくちゃになってるよ。『真聖女確認』なんて前代未聞だもん。偉い人たち徹夜で会議してるし」
「榛名さん」
「はいはい、機密ね機密」
そう言いながら、榛名さんはわたしを見る。
じーっと。
観察するみたいに。
でも、その目には悪意がなかった。
「……えっと」
「緊張しなくていいよ。取って食べたりしないから」
「榛名。お前は距離感を学べ」
「観月が堅すぎるんだって」
ぽん、と。
榛名さんが、わたしの肩を軽く叩いた。
その瞬間。
「……っ」
身体が、反射的に強張った。
空気が止まる。
榛名さんの手が止まった。
観月さんの視線が、こちらへ向く。
しまった、と思った。
違うんです、って言わなきゃ。
でも。
言葉が出る前に、榛名さんがぱっと手を離した。
「――ごめん」
その謝罪は、とても自然だった。
言い訳も。
誤魔化しも。
気まずそうな空笑いもない。
ただ、「嫌だったよね、ごめん」と伝わる声。
わたしは少しだけ目を見開いた。
白瀬家では、謝られることなんて、ほとんどなかったから。
榛名さんは、それ以上その話に触れなかった。
代わりに、わざと明るい声を出す。
「で? ごはんおいしい?」
「あ、はい……」
「ここの食堂レベル高いんだよねー。前なんか防衛省の人が視察来たとき、カレー三杯おかわりしてた」
「それはお前だ」
「あ、バレた?」
くすくす、と周囲から笑いが漏れる。
その空気のなかで。
わたしは、少しだけ、息がしやすくなっている自分に気づいた。
食事を終えたあと。
観月さんに連れられて、わたしは別棟へ向かっていた。
外は快晴だった。
海が見える。
潮風が、髪を揺らした。
「今日は簡単な適性検査を行います」
「適性検査……」
嫌な響きだ。
テストみたい。
わたし、テストはそんなに得意じゃない。
特に数学。
「安心してください。筆記ではありません」
「よかった……」
思わず本音が漏れて、観月さんが少しだけ肩を震わせた。
笑った気がする。
たぶん。
検査棟の入口まで来た、そのとき。
突然、背後から声がした。
「おい」
低い声。
空気が、変わる。
振り返ると、男の人が立っていた。
大柄だった。
黒い戦闘服みたいな制服。
短く刈った髪。
鋭い目。
腕を組んだまま、こちらを見下ろしている。
「そのガキか」
観月さんの眉が、わずかに寄った。
「東雲。言葉を選べ」
「事実だろ」
東雲と呼ばれた男は、わたしを見る。
値踏みするみたいな視線だった。
「……女子高生ひとりに、日本の命運ねえ」
その声には、隠そうともしない不信感があった。
わたしは、少しだけ唇を引き結ぶ。
怖い、と思った。
でも。
少しだけ、安心もした。
ああ、と思う。
この人は、ちゃんと疑ってる。
当たり前だ。
昨日まで無能扱いされていた高校生が、いきなり「最強です」と言われても、普通は信じない。
そのほうが、自然だ。
東雲さんは、ふっと鼻で笑った。
「観測値なんざ、いくらでも誤差が出る。期待しすぎんなよ」
そのまま、すれ違おうとして。
ぴたり、と止まる。
東雲さんの視線が、わたしの右手に落ちた。
「……?」
次の瞬間。
彼の顔色が変わった。
「おい、待て」
低い声。
観月さんも足を止める。
「どうしました」
東雲さんは答えなかった。
ただ、わたしの右手首を見ている。
正確には。
制服の袖から、少しだけ見えていた場所を。
「それ、誰にやられた」
「……え?」
わたしは自分の手首を見る。
そこには、薄い痣が残っていた。
昨日、父に掴まれた跡。
たぶん、逃げようとしたわたしを止めたときのものだ。
あ。
隠し忘れてた。
そう思った瞬間。
東雲さんの目つきが、すっと変わった。
不信感ではない。
もっと冷たい何か。
「……白瀬家か?」
風が吹く。
海の匂いがした。
わたしは、答えられなかった。




