第3話 知らない部屋の、やさしい匂い
目が覚めたとき。
最初に見えたのは、白い天井だった。
知らない天井だ、と思った。
ぼんやりした頭でそんなことを考えて、それから、ゆっくり瞬きをする。
やわらかい光。
薄いカーテン。
どこか、石けんみたいな匂い。
白瀬家の部屋とは、なにもかも違っていた。
「……ここ」
喉が、少しかすれている。
身体を起こそうとして、わたしは、はっとした。
ベッドがふかふかだった。
沈む。
なにこれ。
白瀬家のベッドも高級だったはずなのに、こんなふうに身体を包みこむ感じはなかった。まるで大きな綿あめの上に寝かされているみたいだ。
恐る恐る、シーツを触る。
さらさらしている。
すごい。
ホテルみたい。
そこで。
こんこん、と、控えめなノックの音がした。
「白瀬さん。起きていますか」
観月さんの声だった。
わたしは慌てて背筋を伸ばす。
「あっ、はい!」
「失礼します」
ドアが開く。
観月さんは昨日と同じ黒いスーツ姿だったけれど、ネクタイだけ外していた。少しだけ疲れて見える。
たぶん、あのあとも仕事だったのだろう。
「気分はどうです」
「えっと……大丈夫です」
「それはよかった」
観月さんは部屋へ入ってきて、テーブルの上に紙袋を置いた。
「着替えです」
「……着替え?」
「昨夜のままでは不便でしょう」
言われて、自分の制服を見る。
スカートの裾は汚れているし、袖にはうっすら黒い染みまでついていた。たぶん穢れと戦ったときのものだ。
わたしは急に恥ずかしくなった。
「す、すみません」
「なぜ謝るんですか」
「え?」
「必要なものを用意するのは当然です」
当然。
その言葉に、少し戸惑う。
白瀬家では、“わたしのため”に何かが用意されることは、ほとんどなかったから。
観月さんは紙袋を見て、少しだけ視線を逸らした。
「女性職員に任せたので、サイズは問題ないかと」
「ありがとうございます……」
中をのぞく。
シンプルな白いワンピース。
カーディガン。
それから、下着まで入っていて、わたしは思わず固まった。
「…………」
「どうしました」
「い、いえ」
観月さんは数秒沈黙したあと、察したらしい。
「ああ」
そのまま、すっと後ろを向いた。
「十五分後に迎えに来ます」
「は、はい……!」
ドアが閉まる。
静かになる。
わたしは紙袋を抱えたまま、しばらく動けなかった。
なんだろう。
変な感じだ。
昨日からずっと、変な感じが続いている。
怒鳴られない。
急かされない。
失敗してもため息をつかれない。
その代わり。
みんな、当たり前みたいに、わたしを気遣う。
それが、落ち着かない。
十五分後。
着替えを終えたわたしは、観月さんに案内されて、施設の廊下を歩いていた。
広い。
とにかく広かった。
白い廊下の両脇を、忙しそうな人たちが行き交っている。
スーツ姿の人。
白衣の人。
制服姿の人。
みんな、わたしを見る。
正確には。
わたしを見るたび、ぎょっとした顔をする。
「あ」
「えっ」
「本物……?」
ひそひそ声。
なんだろう。
ちょっと心が痛い。
「……わたし、変ですか」
小声で聞くと、観月さんは真顔で答えた。
「現在、庁内で最重要人物です」
「最重要」
「機密レベルSSSです」
「SSS」
ゲームみたいだ。
わたしが困惑しているうちに、エレベーターが止まる。
案内されたのは、大きな食堂だった。
朝の光が窓から差しこんでいる。
そして。
いい匂いがした。
焼き魚。
お味噌汁。
お米。
その瞬間。
ぐぅぅぅぅ。
お腹が鳴った。
かなり大きな音で。
わたしは固まった。
観月さんも止まった。
数秒の沈黙。
「……失礼しました」
「いえ」
観月さんは、なぜか少しだけ口元を押さえた。
笑っている。
絶対。
「昨夜からなにも食べていませんからね」
「……そういえば」
言われて気づく。
昨日の放課後から、なにも食べていない。
なのに緊張で、空腹を忘れていた。
「食事にしましょう」
食堂の奥では、数人の職員がこちらを見ていた。
でも。
その視線は、白瀬家で向けられていたものと少し違った。
軽蔑ではない。
怖れと。
好奇心と。
それから。
ほんの少しの期待。
わたしは、その視線の意味を、まだ知らない。
ただ。
トレーを受け取ったとき。
配膳のおばちゃんが、にこっと笑って言ったのだ。
「たくさん食べなさいねえ」
その声が。
あんまり、やさしくて。
わたしはなぜだか、その場で泣きそうになってしまった。




