第2話 はじめての居場所
ヘリコプターの音は、思っていたよりずっと近かった。
ばさばさ、と夜風をかき乱すみたいな重たい羽音が、橋の上に落ちてくる。川面が波立ち、桜の花びらが巻きあげられて、わたしのスカートの裾に張りついた。
光は、まだ、わたしの手のひらで揺れていた。
「……どうしよう」
消し方が、わからない。
いまさらそんなことに気づいて、わたしは少しだけ困った。十六年間、まともに力を使ったことなんてなかったのだ。小さいころ、お母さんに「だめよ」と泣きそうな顔で止められて以来、一度も。
けれど、困っているうちに。
橋の向こう側から、黒い車が滑りこんできた。
ぴたり、と音もなく停車する。
高そうな車だ、と思った。映画で政治家の人とかが乗っていそうな感じの、つやつやした黒塗りのセダン。後部座席のドアが開いて、中から男の人が降りてきた。
長い黒髪を後ろでひとつに束ねた、すらりとした人だった。
年齢は……二十代後半くらいだろうか。
黒いコートを着ている。ネクタイまで黒いせいで、なんだか夜そのものが人の形をして歩いてきたみたいだった。
でも、その人は。
わたしを見るなり、息を呑んだ。
正確には、わたしの手のひらの光を見て。
「……本当に、観測値どおりか」
小さく呟く声が、風に溶けた。
男の人は橋の手前で立ち止まり、それから、ゆっくり頭を下げた。
「初めまして。祓暁庁特務対策室室長、観月冬真と申します」
声は電話のときと同じだった。
落ち着いていて、静かな声。
だけど、さっきより少しだけ緊張しているように聞こえる。
「白瀬朔耶さん。お迎えに参りました」
お迎え。
その言葉が、胸に引っかかった。
白瀬家では、「迎え」なんて、いつだって宵子のための言葉だったから。
式典の送り迎えも。
聖女の演習も。
ドレスの採寸も。
わたしはいつも、「ついで」に車へ乗せられる側だった。
だから、一瞬だけ、返事が遅れた。
「……あの」
「はい」
「わたし、そんなすごい人じゃないです」
観月さんは、きょとんとした。
「はい?」
「たぶん、なにかの間違いで……その、光も、勝手に出ただけというか……」
だんだん声が小さくなる。
自分でも情けないと思う。
だってこの人は、わざわざ政府の機関を名乗って来たのだ。なのにわたしは、「間違いかもしれません」なんて、コンビニで返品する人みたいなことを言っている。
けれど観月さんは、笑わなかった。
「間違いではありません」
きっぱりと、そう言った。
「現在、東京湾全域に高純度の聖域波長が広がっています。観測機器は三度、誤作動を疑いました。ですが結果は同じでした」
観月さんの視線が、わたしの光へ向く。
「これほどの聖力反応は、過去三十年、一度も確認されていません」
「……」
「少なくとも、“無能”では絶対にありえない」
その言葉に。
胸の奥が、ちくり、と痛んだ。
無能。
慣れているはずの言葉だった。
なのに、他人の口から「違う」と否定されるだけで、こんなに苦しいなんて思わなかった。
わたしは、とっさに視線を逸らした。
橋の下の川が、街灯を映して揺れている。
「……でも、わたし、祓いなんてちゃんとしたこと、一度も」
「ええ。でしょうね」
観月さんは、あっさり頷いた。
「むしろ、それでよく東京が無事でした」
「え?」
「普通の聖女なら、力を抑圧し続ければ、いずれ暴走します。ですがあなたの聖力は、異常なほど安定している」
観月さんはそこで言葉を切って、少しだけ目を細めた。
「まるで、“誰かに守られていた”みたいに」
どくん、と胸が鳴った。
お母さん。
その言葉が、頭をよぎる。
だけど、聞き返すより先に。
ぶるるる、とスマホが震えた。
画面を見る。
父だった。
着信履歴は、もう二十件を超えている。
その下には、宵子からのメッセージ。
『お姉ちゃん、どこ?』
『お父様すごく怒ってるよ』
『いい加減にして』
『ねえ返事して』
『まさか逃げるの?』
最後の一文を見た瞬間。
不思議なくらい、心が静かになった。
逃げる。
うん。
そうかもしれない。
でも。
「……逃げちゃ、だめなのかな」
ぽつり、とこぼれた声に。
観月さんは、ほんの少しだけ目を丸くした。
それから。
「いいえ」
迷いなく、言った。
「逃げてください」
風が吹いた。
桜の花びらが、ふわりと宙を舞う。
「あなたは、もう十分戦いました」
その声は静かだった。
静かだったのに。
どうしてだろう。
その言葉だけ、胸の奥へ、まっすぐ落ちてきた。
戦った。
わたしが?
失敗しないように息を潜めて。
怒られないように笑って。
宵子の邪魔にならないように、小さく、小さく生きてきただけなのに。
それでも。
それでも、戦っていたのだろうか。
「……っ」
急に、涙が出そうになった。
だめだ、と思った。
ここで泣いたら変だ。
政府の人の前で泣く女子高生なんて、かなり困る。
だから、わたしは慌てて顔を伏せた。
その拍子に、手のひらの光がふわりと揺れて。
――ぱちん。
小さく弾けた。
次の瞬間。
橋の欄干に積もっていた黒い染みみたいなものが、音もなく消えた。
「……え?」
わたしは目を瞬いた。
いまの、なんだろう。
でも観月さんの顔色が変わっていた。
「まさか」
彼はすぐに欄干へ近づき、指先でそこをなぞる。
「穢れが……浄化されている」
「穢れ?」
「この橋は数年前、自殺者が続いた場所です。微弱な穢れ反応が残留していた」
観月さんは振り返った。
その目は、さっきまでと違っていた。
驚愕と。
そして、どこか畏れるみたいな色。
「普通の聖女は、穢れを“祓う”だけです」
夜風のなか、低い声が響く。
「ですがあなたは今、“消滅”させた」
わたしは、自分の手を見る。
光は、まだ優しく揺れていた。
まるで。
「大丈夫だよ」とでも言うみたいに。
そのときだった。
――ぞわり。
空気が、変わった。
観月さんの表情が鋭くなる。
「下がってください」
低い声。
同時に、橋の下から、ぐちゃり、と濡れた音がした。
川面が、黒く染まる。
いや、違う。
黒い。
なにかが、いる。
どろどろとした影みたいなものが、水のなかから這い上がってきていた。
人の形をしているようで、していない。
目だけが、ぎらぎら赤かった。
『――ァ』
耳障りな声が、橋に響く。
わたしの背筋が凍った。
これが。
穢れ。
観月さんが片手を振る。
空中に青白い術式が走った。
「退魔コード起動――」
けれど。
穢れの動きのほうが速かった。
黒い塊が、一瞬で橋の欄干を越える。
観月さんへ飛びかかる――その直前。
わたしの身体が、勝手に動いた。
「あっ」
伸ばした手から。
光が、溢れた。
夜が、白く染まる。
次の瞬間。
穢れは、悲鳴すらあげられず。
春の雪みたいに、静かに消えた。
あとには、なにも残らなかった。
沈黙。
橋の上に、風だけが吹いている。
観月さんが、呆然とわたしを見ていた。
わたしも、自分の手を見ていた。
いま。
わたし。
「……消しちゃった」
ぽつり、と呟く。
すると観月さんは、額を押さえて、小さく笑った。
「ええ」
疲れたみたいな声だった。
「とんでもないものを、政府は見つけてしまったらしい」
遠くで、またヘリの羽音が近づいてくる。
夜の東京が、きらきら光っていた。
その景色を見ながら。
わたしは、ほんの少しだけ思った。
――ああ。
もしかしたら。
わたし、本当に。
人生が変わるのかもしれない。




