【第1話】さよならは、思っていたよりもずっと、軽い
四月の体育館は、つめたい。
足の裏から冷気が這い上がってくるのを、わたしは上履きごしに感じていた。スカートのプリーツが、エアコンの風で揺れる。となりに並んだクラスメイトの安西さんが、退屈そうに小さくあくびをした。
校長先生の話は、もう十五分以上つづいている。 「新学期を迎えるにあたって──」とか、「諸君らの自覚と責任が──」とか。 正直、ぜんぶ右の耳から左の耳へ抜けていく。代わりに、わたしの頭のなかでは、今朝、妹がドライヤーで髪を乾かしながら鼻歌を歌っていたことを、ぼんやり思い出していた。
宵子の鼻歌は、いつも上機嫌だ。 わたしが朝ごはんの卵焼きを焦がしても、お父さんに「やっぱりお前は使えない」と言われても、お手伝いさんに「お嬢様、こちら、宵子様の制服にアイロンを」と頼まれても──いや、わたしの制服にアイロンが当てられたことなんて、たぶん、もうずいぶん前から、ない。
それでも、よかったのだ。
「朔耶、絶対に、力を見せちゃダメよ」
お母さんの最後の言葉が、わたしのなかで、ずっと、お守りみたいに光っている。 理由は教えてくれなかった。だけどお母さんは、わたしの手をぎゅっと握って、「お願い」と言った。それだけで、十分だった。だってお母さんは、わたしのことを「ばか」とか「のろま」とか、一度も呼ばなかった、たったひとりの人だったから。
だから、わたしは無能でいる。 それは、たぶん、わたしがこの世界で一番うまくできる、唯一のことだ。
「──以上で、新学期にあたっての訓示を終わります」
校長先生が、ようやくマイクから離れた。 ぱらぱらと、形だけの拍手。
つぎは、生徒会長の挨拶──のはずだった。
「先生。少し、お時間をいただけますか」
ステージの端から、よく通る声がした。
ぴくり、と、わたしの肩が小さく跳ねた。
知っている声。聞かないわけがない。だって、十二歳の春から、わたしの「婚約者」だと教えられている男の声なのだから。
九条透真。 五大家の筆頭・九条家の次期当主で、うちの高校では生徒会長で、女子からは「九条様」と呼ばれている、たぶんわたしの人生でいちばん、わたしのことを見ない人。
「九条くん? いえ、それは構いませんが──」
校長先生が困惑する間に、透真くんはもう、ステージの中央に出ていた。 全校生徒の目が、彼の長身に吸い寄せられる。冷たい蛍光灯の光が、まっすぐな黒髪の上で滑った。
「みなさん。突然で恐縮ですが、ひとつ、報告があります」
体育館が、しん、と静まりかえる。 となりの安西さんが「えっなになに」と、わたしの肘を小突いた。 わたしは、笑顔の用意をしておこうと思った。なにを言われても、にこにこしていれば、たいていのことはやり過ごせる。それは家でわたしが身につけた、唯一の技術だった。
透真くんの目が、生徒たちの列を、ゆっくり、ゆっくり、舐めるように移動して──
止まった。
わたしの上で。
ああ、と、わたしは思った。 来るな、とも思った。 ここ、学校だ。みんないる。せめて、せめて、家のなかでなら、よかったのに。
「白瀬朔耶」
呼ばれた。 となりで安西さんが、ひっ、と小さく息を吸い込んだのが聞こえた。 わたしの後ろの列で、だれかがスマホをひそかに構えたのが、空気でわかった。
わたしは、顔を上げる。 できるだけ、ゆっくり。
透真くんの目は、まっすぐわたしを射貫いていた。 氷みたいに、きれいで、つめたい目だった。
「無能なお前との婚約は、ここで破棄する」
──ことん。
なにか、軽いものが、わたしのなかで落ちた音がした。 たとえばそれは、長いあいだ机のはしっこで埃をかぶっていた消しゴムが、ふいに床に落ちる、あの音みたいだった。
「妹の白瀬宵子と、改めて婚約を結ぶ。白瀬家と九条家の盟約は、彼女が本物の聖女である以上、彼女と結ぶのが筋だ。──異存はないな?」
異存。
異存って、なんだろう。 たぶん、「いやだ」とか「やめて」とか、そういうことを、お行儀よく言うときの言葉。
わたしは、唇を、なめた。 リップを塗ってこなかったから、すこし、唇の皮がめくれていた。 ああ、痛いな、と思った。
「白瀬さん──?」
担任の桐谷先生が、なにかを察したらしい顔で、わたしを見ていた。 クラスメイトのざわめきが、波みたいに広がっていく。 「えっ、白瀬さんって、九条くんと婚約してたの?」「うそ、聞いたことない」「あの地味な人が?」──それは、わたしのよく知っている音。家でも、ずっと、ずっと、わたしの背後で鳴っていた、おなじ種類のざわめき。
ステージの上には、もうひとり、人がいた。
宵子だ。
いつのまにステージにあがったのだろう。たぶん、最初から段取りに入っていたのだ。彼女はいつもどおり、舞台の照明がいちばんよく似合う角度に立っていて、髪は丁寧に巻かれていて、頬は薄桃色に紅潮していて、まるで、いまから春のドラマが始まる予告編みたいな顔をしていた。
宵子と目があった。
宵子の唇が、ほんのすこし、片側だけ持ち上がった。
──お姉ちゃん。
声には出ていなかった。 だけど、口の動きで、わかった。 「お姉ちゃん。ごめんね。ぜんぶ、わたしのものにするね」
ああ、そう。 そうなんだ。
わたしのなかで、もうひとつ、なにかが、ことん、と落ちた。 今度は、もうすこし、重たい音だった。 たぶん、十年くらいかけて積みあげてきた、お母さんの遺言と、家族の体面と、わたしの「無能でいよう」という決意の、その全部が、いっぺんに崩れた音。
ふしぎなことに、悲しくはなかった。
悲しいよりも先に── わたしの胸の奥で、なにか、明るいものが、ぽっ、と灯った。
それは、たとえばそう── ずっと閉めきっていたカーテンを、ためらいながら、すこしだけ開けてみたときの、あの光に似ていた。
「──朔耶。返事を」
透真くんが、急かすように言った。 彼の声は、自信に満ちていた。彼は、わたしが泣くと思っていたのだろう。あるいは、すがると思っていたのだろう。「待って、わたしを捨てないで」と、みっともなく、わめくと。
そうしてくれたら、彼は満足だったのだろう。 それが「無能な婚約者」にふさわしい、彼の脚本どおりの結末だった。
ごめんね、透真くん。
わたしは、息を吸った。 四月の、つめたくて、ほこりっぽい体育館の空気を、胸いっぱいに。
それから、笑った。
「はい」
短く、はっきり、わたしは答えた。
「ありがとうございます」
体育館が、いっしゅん、無音になった。
透真くんの眉が、ほんのわずかに、動いた。 ステージの宵子の笑顔が、写真にとったみたいに、止まった。 桐谷先生は、口を半分ひらいたまま、わたしを見ていた。
わたしは、もう一度、ちゃんと言った。
「九条さん。婚約破棄、お受けします。──妹のこと、どうぞよろしくお願いします」
ぺこり、と、頭をさげた。
その動きで、肩にかかっていた髪が、すこし揺れた。 肩のあたりが、ふしぎなくらい、軽かった。
──そのあとのことは、よく覚えていない。
朝礼が解散になって、わたしは教室に戻った。 安西さんがおろおろしながら「ねえ、ねえ、大丈夫?」と何度も聞いてきて、わたしはそのたびに「うん、大丈夫」と答えた。たぶん本当に大丈夫だった。声がふるえていない自分に、わたし自身がいちばん驚いていた。
授業中、スマホがふるえた。 父からだった。
『今日は学校が終わったら、まっすぐ帰ってきなさい。話がある』
ああ、わかる、と思った。 たぶん、家でもう一回、「無能」と言われるのだろう。 「お前のせいで九条家への顔向けができない」とか、「これからは宵子に従って暮らせ」とか、そういうことを。
わたしは、スマホをスカートのポケットにしまった。
それから、机の上のノートを見た。 数学の問題が、半分だけ解かれていた。 わたしは続きを解こうとして──そして、ふと、シャープペンの先を止めた。
胸の、おくの、おく。 あの、朝、灯ったままの、小さな光。
それが、まだ、消えていない。
それどころか、すこし、大きくなっている気がした。
放課後、わたしは家には帰らなかった。
校門を出て、駅とは反対の方向に、ゆっくり歩いた。 四月の風は、まだつめたいけれど、もう、冬の風ではなかった。桜の花びらが、アスファルトの上を、ころころと転がっていた。
ポケットのなかで、もう一度スマホが鳴っていた。 たぶん、父か、家政婦の岡本さんか、運転手の田川さんか──そのうちの、だれか。
わたしは、出なかった。
橋の上で、立ちどまった。
ふだん、登下校で渡る、なんてことのない橋。 川は、夕日を映してきらきらしていた。
わたしは、欄干に手をついて、川を見おろした。 それから、自分の右手を、目の前にかざした。
ほっそりとして、爪のかたちが、お母さんによく似ているといわれる、わたしの手。 高校に入ってから一度も、「あれ」を出していない手。
「……出していい?」
だれにいうともなく、わたしは、自分自身に小さくつぶやいた。
風が、髪を撫でていった。 もちろん誰からも返事はない。 だけど、お母さんの「お願い」も、もう、ここにはいなかった。
だって、わたしは、もう、白瀬家の長女ですらないのだから。
家のためでも、妹のためでも、お母さんの遺言を守るためでもなく── ただ、わたしが、わたしのために。
わたしは、手のひらを、上に向けた。
息を、吸って。
吐いた。
ぽう、と。
手のひらの上に、光が灯った。
見たことのない人なら、たぶん、それはホタルの光に似ているかもしれない。 だけど、ホタルよりも、もうすこしだけ、あたたかい。 そして、もうすこしだけ、しずかな光。
ふわふわと、わたしの手のひらの上で、それは膨らんでいった。
ピンポン玉くらい。 野球ボールくらい。 両手で抱える、まりつき毬くらい。
それでも、まだ、おさまらない。
光は、わたしのなかから、こんこんと湧きあがってきていた。
ああ──、と、わたしは思った。
こんなに、たまってたんだ。
十六年ぶんの、ぜんぶ。
橋の下の川面が、わたしの光を映して、ゆらゆらと白く揺れた。 夕暮れの空を渡っていた一羽のカラスが、なにかを察したように、ふっと方向を変えて、遠くへ飛んでいった。
そして──気のせいかもしれない。 気のせいかもしれないけれど。
街のずっと向こう。 ビルの隙間の、まだ夕日の残る西の空のあたりで、ちりん、と、なにか鈴のような音が、たしかに、鳴った気がした。
それは、たぶん。
『穢れ』が、目を覚ました音。
スマホが、また鳴った。
今度は、知らない番号からだった。 わたしはなんとなく、出てみた。
「もしもし」
『──白瀬朔耶さん、ですね』
知らない、男の人の声だった。 落ちついた、おとなの声。 だけど、その奥に、なにか、息を呑むような、ふるえが、たしかにあった。
『私は、政府特務機関 祓暁庁 の、観月と申します』
ふつぎょう、ちょう。
聞いたことのない、長くてかたい名前を、わたしは口のなかで、ゆっくり、もういちどなぞった。
『単刀直入に申し上げます。──いま、東京湾上空、観測史上最大級の聖光反応が観測されました。発生源は、あなたの現在地です』
わたしの手のひらの上で、光は、まだ、ふわふわと揺れていた。
『白瀬朔耶さん。あなたは、ご自身を「無能」だと、教えられていますね?』
「……はい」
『──ぜんぶ、嘘です』
橋の上を、四月の風が、もういちど、吹き抜けていった。
わたしの髪が、ふわりと持ちあがって、頬に当たった。 それは、なんだか、お母さんの手のひらに、似ていた。
『あなたは、この国で唯一の、真聖女です。──いまから、お迎えにあがります』
電話の向こうで、ヘリコプターの、低い羽音が、聞こえはじめていた。
そういえば、今朝、家を出るとき。
宵子が、鼻歌を歌っていた。 ドライヤーで、髪を乾かしながら。
わたしは、玄関で、靴を履きながら、その鼻歌を、ちょっとだけ、いいなあ、と思った。
ちょっとだけ。
でも、いまは、思わない。
だって、わたしの胸のなかでも、いま、おなじ種類の音楽が、しずかに、鳴りはじめているのだから。
──さよなら、白瀬家。
それは思っていたよりもずっと、軽い四月の風みたいな、別れだった。




