第5話 少年の決意
よれよれの白いポロシャツを着た杉山は、永島を見るとすぐに駆け寄り、年齢の割に丁寧な態度で挨拶をしてきた。
そしてすぐに、中古のレーシングカートを売って欲しいと言った。
中学生や高校生が、レーサーを夢見て永島のもとに来ることは珍しいことではなかった。そんな時、永島はまず親の了承を得てくることを求めた。
ほとんどの子供は、親の支援のもとでレース活動を行うことになる。生活のリズムがレースを中心にしたものになることもそうだが、経済的に決して安くはない負担が親にはかかる。
加えて永島が一番懸念しているのは、怪我に対するリスクだ。親がよく知らない間に怪我をして訴訟にでもなったら、たまったものではない。
永島が親の了承について聞くと、なぜそれが必要なのかと杉山は返した。
永島が経済的な負担や怪我について伝えると、杉山はぽそっと、親はもういないと答えた。
母親は杉山を生んですぐに、そして父親も最近亡くなったとのことだった。
両親がいない子供が永島のところに来たのは初めてのことだった。
永島も幼い時に父親を病気で亡くしていた。片親がいないだけでも経済的に楽ではない暮らしであったので、目の前の少年の今後を案じ、金銭的な無理はさせられないと思った。
それまでコース脇で立ち話をしていたが、永島は杉山を事務所に招き入れた。
杉山は古びた応接ソファに座るなり、皺の入った茶封筒をテーブルの上に出した。
「これでカートを買いたいんです」
永島が封筒を開けると、中には十八枚の一万円札が入っていた。
「今はこれしかないんです」
ここまで永島の目を見て話していた杉山が、初めてうつむきながら話す。
金額が少ないことを自覚しているのであった。
厳しいことを言うがと前置きし、レーシングカートをやるには、特にレースに出るには額が足りないこと、そして、両親がいないなかでカートをやって生活は大丈夫なのかと永島は問うた。
杉山はゆっくりと、今度は永島の目を見つめて説明した。
去年、父親とレンタルカートに乗りに来て、杉山は父にレースをしたいと願い出た。
裕福な家庭ではなかったので、父は平日の工場勤務以外に、週末も配送業のアルバイトを掛け持ちし、杉山も朝の新聞配達をして資金を貯めていた。
もう少しで新車のカートに手が届きそうな時に、事故は起きた。
それは、五月末の小雨の降る週末の夕方であった。
交差点で小学生が車に撥ねられた。
少年は足首を骨折し、立ち上がるのがやっとで歩けず、交差点の真ん中で立ち往生していた。そこへ、配送中の杉山の父が通りすがり、車を停めて助けに向かった。
しかし運悪く、スリップした別の車が突っ込み、杉山の父は跳ね飛ばされた。
即死だった。
杉山の父を轢いた犯人は事故後に逃げ、未だ捕まっていない。
両親を失った杉山は、亡き母の兄である伯父に引き取られた。
葬儀は伯父が中心になり執り行われた。
杉山の父が勤務していた工場の人達が杉山を気の毒がり、多額の香典を出してくれた様子だったが、それは全て伯父の手に渡った。
杉山の父は、カート資金捻出のために生命保険を解約しており、補償は受けられなかった。
加えて、ひき逃げ事件のため加害者への損害賠償請求はできず、国から支給された補償金は、生活費の名のもとに伯父が管理している。
更に伯父は、杉山親子が貯めたカート資金の存在を知り、伯父一家のために墓を買い、そこに杉山の両親の骨も入れてやるので金を出すようにと言い出した。杉山にとってその資金は父との最後の思い出であり抵抗したが、一部を残して巻き上げられた。
その残りの資金が、茶封筒に入っている十八万円であった。
中学二年生には過酷すぎる出来事に、永島はしばらく押し黙った。
何も喋らない永島の前に、杉山は一枚の紙を差し出した。
A4用紙の一番上には、鉛筆書きで「カート計画書」と書かれており、今後四年間のスケジュールと予算が書かれていた。
一年目 中古カート購入と練習 三十万円
二年目 入門クラス参戦 三十万円
三年目 地方選手権参戦 五十万円
四年目 全日本選手権参戦 八十万円
永島から見るとあまりに稚拙な計画書だったが、杉山の走りのセンスだけで考えれば、実現不可能なものではないと思えた。
ただ、予算額が圧倒的に足りない。
なおかつ、今の杉山の境遇では、書かれた金額を用意することさえ不可能であろう。そう考える永島に対して、杉山は言った。
「C1で世界チャンピオンになりたいです」
今まで、多くの子供がその言葉を口にするのを見てきた。
ほとんどの子供は、恥ずかしがりながらそれを言うか、ある程度レースで結果を残してから口に出していたが、まだレースにも出場したことのない子が、これだけ堂々と落ち着いて永島にC1への希望を伝えてくるのは初めてであった。
永島が杉山に取れる態度は二つだった。現実を突き付けて追い返すか、ほぼ達成不可能な未来に向けて背中を押すかだ。
永島は少し迷った後、後者を選んだ。
永島は現実的な男だったが、両親を亡くし、親類にも恵まれない十四歳の子供から、夢を奪うことはできなかった。
「金はどうやって用意するんだ」
あえてぶっきらぼうな言い方をした永島に、杉山は答える。
「中学生の間は、今まで通り新聞配達で稼ぎます。高校生になったらバイトを掛け持ちするつもりです。」
「カートをやることを、一緒に住んでいる伯父さんに許可してもらっているのか。危ないスポーツなんだぞ」
杉山は淀みのない目で永島を見つめて言う。
「伯父夫婦は父とは折り合いが悪かったので、僕が生きようが死のうが気にしないと思います。」
中学生の口から出たとは思えない言葉を聞き、永島は、杉山の置かれた境遇が見えたような気がした。
杉山にとってC1を目指すのは夢ではなく、今を生き延びるための微かな光なのかもしれない。
永島は目の前の少年に、できる限りのことをしてやろうと腹を決めた。




