第31話 蒼い車
残り十五周を切り、状況に変化が生じた。
ここまで水樹が杉山よりも僅かに速いラップを刻んでいたが、その差がなくなり、二人の間の距離が開かなくなった。
チームジャニスのピットは、勝利を確信した水樹が早くもペースを抑え始めたと思い、まだペースダウンするには早いと無線で指示を出した。
水樹は短く、
「了解」
とだけ回答したが、ペースを落としているつもりはなかった。
水樹と杉山の差は約5秒。
水樹は、チャンピオンを意識し過ぎて、自身の走りが守りに入っているのではないかと思い、意図的にペースを上げた。
それでも杉山は離れなかった。
コース前半で杉山が差を縮め、コース後半で水樹が離す。数周の間、5秒の間隔を保ったまま、攻防が続いた。
そしてラスト十周を切ったとき、場内に歓声が起こった。このレースで初めて、杉山がベストラップを刻んだのだ。一周で水樹よりも0.5秒も速く、二人の差は4.5秒になった。
水樹は焦った。二人のマシン性能に大きな差はなく、タイヤの状況も変わらないはずだった。加えて水樹は限界に近いスピードで走っている。杉山が0.5秒も詰められる理由が浮かばなかった。
焦りは、千分の数秒単位で水樹の操作に破綻を生じさせていた。
杉山は、変わらずハイペースを維持していた。
特に、水樹よりも遅かった後半区間のタイムが改善され、裏ストレートのスピードが伸びている。
チームジャニスのピットから、水樹に報告の無線が入った。
杉山のストレートスピードが今になって伸びている現実を、水樹は飲み込めなかった。バックミラーに映る青い車体が、徐々に大きくなっていく。
追い込まれた水樹は、小さなミスを重ね続けた。それは、外から見て分かるレベルのミスではなく、水樹自身しか気付かないほどのものだったが、ミスをしているという感覚が、水樹をさらに追い詰めた。
残り五周、差は2.5秒を切った。杉山はペースを維持していたが、水樹は走りを乱すことがあり、二人の差は縮まっていく。
残り二周。杉山が再びベストラップを更新した。ストレートスピードも伸びたままだった。
二人の走りを見る観客たちは、次第に口数が少なくなり、例えようのない息苦しさが、サーキット全体を包んでいった。
一ノ瀬誠は、この日も140Rで撮影をしていた。既に杉山を何十枚と撮っているが、納得できるものはまだなかった。
レースはファイナルラップに入った。水樹と杉山の差が1秒を切ったと、実況アナウンスの叫びが場内に響く。
まだ姿は見えないが、トップを争う二台が、上り勾配の裏ストレートに入ったと音で分かる。
坂を上り切った二台の姿が、一ノ瀬の視界に入った。すかさずファインダーを覗き込む。今週最後のシャッターチャンスだ。
ぴったりとくっついた二台を西陽が照らす。
裏ストレートの最後で杉山が横に出た。銀と青の二台が横並びのまま、140Rに進入する。
その時だった。
水樹の銀色の車体に西陽があたり、杉山の青い車を一瞬照らした。
その瞬間、ファインダー越しにとらえた杉山の車が、青とも緑ともつかない光をまとったように見えた。
蒼い――
今まで数えきれないほど写してきた杉山の車が、初めて見せた色だった。
二台は並んだまま目の前を駆け抜けた。周囲の喧騒は大きくなったが、一ノ瀬の耳には入らなかった。
一ノ瀬は、杉山が水樹を抜いたかどうかを見ることなく、自分の撮った写真を確認するために、カメラの液晶画面を見た。杉山の車が放っていた、あの蒼さを確かめたかったのだ。
一ノ瀬は、高鳴る鼓動を感じながら、震える手で全ての画像を確認した。
しかし、そこには、西陽が反射して紺色に見える車しか写っておらず、蒼い車は存在しなかった。




