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第3話 慣習の打破、青き車の幻影

 昨日の朝のことだった。


 一ノ瀬は毎日、事務所の他の職員よりも30分早く出社しているが、出社直後、課長の前川に会議室へ来るようにと声を掛けられた。


 前川は一ノ瀬の二つ年下だったが、要領が良く仕事も正確で、上司からの信頼が厚い男であった。

 ただ、人の好き嫌いが激しく、自分の昇進の妨げになることを毛嫌いするタイプだったので、年の近い一ノ瀬は、何かとターゲットにされることが多かった。


 20人ほどが入れる会議室で前川と二人きりになった。

 張り詰めた空気の中、前川が切り出した。


「一ノ瀬さん、今週末は予定がありますか」


「土曜、日曜と出掛ける予定がありますが」


 一ノ瀬は嫌な予感がしていた。

 他の者にはやらせられないことや、自分ではやりたくないことをこの男に押し付けられたことは、過去に何度もあった。それは必ず、誰の目もないところで行われる。


「土日ですが、現場で人が足りないそうなんですよ。三日前に急な受注があったようで」


 そこから先を、前川はなかなか言わない。一ノ瀬から何かを言わせようとする空気を感じる。


「週末に、現場の手伝いに出ろということですか」


 一ノ瀬があえて口に出した確認に、前川が答える。


「働き方にうるさい時代ですからね。そして我が社も金銭的にも人員的にも苦しいのは、いまやベテランの一ノ瀬さんなら良くご存じでしょう。

 現場から正式に依頼があったわけではないのですが、僕がそんな空気を感じましてね」


 前川が自身のことを僕と言う度に、一ノ瀬はいつも虫酸が走る。前川が続ける。


「一ノ瀬さんも入社して十五年を超えたでしょう。そろそろ昇任のために点数稼ぎをしてもいいかと思いまして」


 要は、万年平社員の一ノ瀬に、土日に無給で働け、サービス出勤をしろ、ということだ。

 自分の指示だと違法になるため、前川は、あくまで一ノ瀬が自主的に動いたことにしたがっている。


 前川が作り出した威圧的な空気の中で、少しの沈黙があった時だった。


 うつむいて床を見つめる一ノ瀬の眼前に、一台の青い車が浮かんだ。杉山の車だ。

 無表情の前川を前にして、一ノ瀬の目には、青い車が駆け抜ける姿がはっきりと見えた。


 一年以上、杉山を追い続けた。目で追い、レンズで追い、ボツになった写真を見ながら想像の世界でも杉山を追った。

 車の音、焼けたタイヤの匂い、サーキットに漂う独特の雰囲気が恋しい。彼を撮りたい。


 視線を床から前川の瞳に移し、一ノ瀬は過去にないほどの強い口調で言った。


「繰り返しになりますが、週末には予定があります」


 前川が驚きの表情を見せた。

 今まで、この手の暗黙の指示を一ノ瀬が断ったことなどなかった。

 睨むような目で前川が言う。


「一ノ瀬さん、これはチャンスなんですよ。きっと高野部長も同じことを仰るでしょう」


 部長の高野は、前川と一ノ瀬の直属の上司である。

 虎の威を借る狐。高野の名前を出すのは前川の常套手段だ。

 だが、これまで幾度となく前川に踏みつけられてきた一ノ瀬の頭の中には、青い車が再度大きく映し出された。


「部長の言うことは絶対、ですよね。我々の会社では」


 前川の抑えつけるかのような口調に一ノ瀬は返す。


「今まで言いそびれていましたが、無給の休日出勤は古い慣習ですし違法です。日々繰り返されるサービス残業も同様です。

 私が何も言わないのを良いことに、嫌がらせのような指示を出してきましたよね。そういったことも高野部長は全てご存じなのですか」


 前川の顔は見る見るうちに紅潮した。


「私は違法なことを指示したことはないですし、ましてや嫌がらせなどした記憶はないですね。

 まあ、この機会をそのような態度で断るとは、余程の用事なのでしょう。好きにしてください」


 前川は出口のドアに向かう途中で振り返り、口角を少し上げながら言った。


「月曜日からが楽しみですね」


 勢いよく扉を閉め、前川は部屋を出て行った。

 一ノ瀬は全身の力が抜けていくのを感じた。


 この閉鎖的な会社で、上司に面と向かって文句を言ったことの代償は大きいであろう。

 今後、日向、日陰に関係なく、前川からの不当な扱いが続くことも容易に想像できる。だが、それも仕方あるまい。


 突然現れた杉山の幻影を恨めしく思いつつ、一ノ瀬は少し微笑んだ。自分は杉山の走りに魅せられている。

 そして多分、会社の上司よりも、あの眼差しの鋭い細身の青年に認めてもらいたいのだ。


 前川に対してとった行動は、サラリーマンとしては不正解かもしれないが、人としては間違っていない。

 そう思わせてくれたのは、杉山が自分に勇気をくれたからだな、などと子供じみたことを考えるほど、一ノ瀬は若くなかった。

 それでも、あの青い車が無関係だったということはない。





 人の考えや行動の多くは、きっと、無意識に影響を受けたもので造られているのではないか。

 観客席の固いシートに浅く腰を掛けながら、一ノ瀬は朝から何度か考えていたことをまた想った。


 今を楽しもう。

 明後日出社してからのことなどを気にせずに。これから二日間は、杉山を撮り続けることができる。

 大会のスケジュールを確認するため、一ノ瀬は手元のパンフレットに目を落とした。


土曜日

 9時 ~11時50分 公式練習1・2・3

 14時~15時    予選

日曜日

 10時~11時    予選レース

 14時~15時30分 決勝レース


 高く昇り始めた太陽のおかげで、朝の寒さは和らいできた。ピットからエンジン音が聞こえ始める。


 今度こそ、認められる一枚を撮ろう。

 杉山という礼儀正しい若者を、世間の淀みや汚れとは関係のない、純粋な気持ちで撮影しよう。

 

 かじかむ指に息を当てながら、一ノ瀬はカメラを手に取り、そのカバーを外した。

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