第2話 突然の出会いと依頼
「すみません」
振り返ると、白いレーシングスーツを着た青年がいた。
目の鋭さとシャープな顎のライン。彼がレーサーであることが一目で分かる。
「写真、撮っていましたよね」
「撮っていましたが」
「急に声をかけてすみません。僕は杉山悟といいます」
一ノ瀬の脳裏にはすぐ、青い車体が浮かんだ。今日一日、レンズ越しに追いかけた車のうちの一台だ。
杉山の車はコーナーの飛び込みが他車より明らかに速く、自然とシャッターを切る回数が多かった。
長身の割には華奢な体つきだが、杉山の首は異様に太い。杉山は続けた。
「企業にスポンサーをお願いするときには、企画書を持っていきます。その企画書に使う写真が欲しいんです」
「私はプロじゃないよ。だから、まともな写真なんてない。そもそも、何で私に頼もうと思ったんだい。ほかにも写真を撮っていた人はいただろう」
一ノ瀬の問いに、杉山は強い眼差しのまま答える。
「あなたは色々なコーナーにいましたし、他の方よりも多く僕を撮ってくれていましたから」
それを聞いて、一ノ瀬の心臓は高鳴り、顔が紅潮するのを感じた。
あの速度で走りながらも、観客席にいる人間の動きまで把握している能力への敬服と、憧れの世界の住人である杉山に一個人として認識された喜びがそうさせていた。
「写真を使ってもらうのは構わないけれど、君のお眼鏡に叶うものがあるかな」
多少の謙遜と照れ隠しを含めた口調で答えた一ノ瀬に、杉山は小さなカードを差し出しながら、きっぱりと答えた。
「スポンサーを集める活動は、プロのレーサーにとっては生きる糧を確保するのと同じようなものです。
こちらから声をかけておいて失礼かもしれませんが、半端なものを使うことはできません。プロカメラマンにも頼んでいますが、なかなか良い一枚に巡り合わないんです。
お手数ですが、今日撮ったものの中で良いと思うものを、こちらに送ってもらえませんか。もちろん、採用した際には謝礼もお支払いします」
差し出されたカードは杉山の名刺であった。白地に黒文字のデザインで、杉山の名前の上にはレーサーとだけ肩書きが、下段には電話番号とメールアドレスが書かれていた。
一ノ瀬は声が上ずりそうになるのを隠しつつ答えた。
「分かったよ。私は一ノ瀬といいます。帰ったら写真の整理をする予定なので、今日中にはメールで送れると思うよ」
「そうですか。良かった。知らない方に話しかけるのは苦手なので、断られたらどうしようかと思っていたんですよ」
真面目な表情から一転、杉山は屈託のない笑顔を見せた。つられて一ノ瀬の表情も和らぐ。
一ノ瀬は、自分が仕事で使う名刺の空欄にプライベートのメールアドレスを書き込み、杉山に渡した。
杉山は一礼をしてその場を去っていった。
その日から、一ノ瀬がサーキットに向かうときには、今までには無かった目的が生まれた。
それまではレースを楽しみ、日々のストレスを解消させることが主な目的だったが、『杉山を撮る』ことがそれに加わった。
杉山が出場するレースやテストには可能な限り出向き、撮った写真のなかから出来の良いものをメールで送り続けたが、返信はいつも丁寧な文面での不採用の連絡だった。
丸一日、時には二日以上を杉山の撮影に費やすこともあったし、機材も予算の許す範囲で増やした。
もちろん撮影技術も独学ながら学び、それ相応のものを習得しているつもりでいたが、杉山から良い返事が来ることはなかった。
仕事でもなく、多くの報酬を得られるわけでもないことにプライベートの時間を費やすことになっていたが、一ノ瀬の心にネガティブな感情はなかった。
ファインダー越しに見続ける杉山の走りに、気づかないうちに魅了されていたのだ。
杉山に認められる一枚を追求していくうちに、彼の走りから感じ取れるものが増えていった。
毎周同じようにコースを走っているように見えるが、一周一周、全て違うように感じられる。
撮影を重ねるたびに、そう思うようになった。
そして杉山の走りは、他の誰のものより美しく、時に獰猛かと思えば異様なほど冷静で、その一つ一つの動きから目を離せなくなっていった。
杉山がC3からC2にステップアップした後も、一ノ瀬は杉山を撮り続けていた。
車を走らせることだけで、これほど人を虜にする杉山という若者に、一ノ瀬は尊敬の念を抱いていた。
いつしか、サーキットに来ることや杉山の走りを見て撮ることは、未婚で子供もいない一ノ瀬にとってのライフワークになり、彼自身の生き様にも影響を与えていた。
朝の日差しが徐々に強くなる。
140Rの観客席に辿り着いた一ノ瀬は、昨日会社で起きた出来事を振り返っていた。
サーキットでは日常のこと、特に仕事のことは思い出さないようにしている一ノ瀬には珍しいことであった。




