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第1話 ファインダー越しのサーキット

 杉山悟を満足させる一枚とは——



 十月最終週の土曜日、朝七時。

 三重県鈴与市の南部にある鈴与シティレーシングコースのメインゲート前に、一ノ瀬誠はいた。


 右肩にかけた黒のレザーバッグにあるカメラは、昨夜、入念な手入れをしてきた。準備は万端だ。


 開催を待ちわびたカテゴリー・ツー・ジャパン、略称C2ジャパンの観戦を前に、先月三十八歳になった一ノ瀬の心は少なからず踊っていた。

 

 一ノ瀬は、建設資材を扱う中小企業で、総務を長く担当している。普段は心が動くことなどないが、レースを見に来る日、特に杉山が出場するレースは、得も言われぬ高揚を感じる。


 メインゲートが開き、コース終盤の高速コーナーである140Rの観客席へ向かう通路を歩きながら、一ノ瀬は杉山のことを思い浮かべていた。





 一ノ瀬が杉山を初めて知ったのは、彼が初めてカテゴリー・スリー(C3)・ジャパンのテストをした時の雑誌の記事であった。


 4本のタイヤがむき出しで、前後にはウイングと呼ばれる羽根がついたフォーミュラーカー。車体の各箇所に企業の名称などが描かれたマシンが、多数掲載されていた。


 そんな中、紺色に近い青一色に塗られた杉山の車にはロゴ1つ付いておらず、そして唯一、他の車よりも型落ちのマシンだった。


 彼は経歴も他とは違っていた。


 一般的に、プロを目指すレーサーは、レーシングカートと呼ばれる、遊園地のゴーカートに似ているが、スピードや運動性能を極限まで高めたものでキャリアをスタートさせた後に、カテゴリー・フォー(C4)、C3、C2と順にカテゴリをステップアップしていく。


 Cの後に続く数字が小さくなるごとに、車体が大きくなりエンジンの性能も上がる。最高峰のクラスはカテゴリー・ワン、略してC1と呼ばれ、世界各地を一年間転戦してチャンピオンを決める。


 杉山は他のドライバーと違い、C4を飛ばして、レーシングカートからいきなりC3へとあがってきたのだった。


 青一色でスポンサーもない型落ちのマシンと、飛び級でのステップアップ。

 モータースポーツ雑誌の小さな記事ではあったが、一ノ瀬や一部のモータースポーツファンにとって、杉山は十分に異色な存在であった。


 一ノ瀬がレースを見るようになったのは、高校に入学してすぐの頃であった。

 レース好きであった年の離れた兄が見ていたテレビに映っていた、豪華で贅沢な世界にすぐに引き込まれた。


 裕福ではない家庭に育った一ノ瀬は、高校から大学にかけて学業とアルバイトに追われ、レースを見に行くことはなかったが、雑誌やネットの記事などを見ては心を踊らせた。


 大学を卒業後、今の会社に入社して数年間は必死で働いた。

 そして生活に少しの余裕ができたときに、初めてサーキットでレースを観戦したが、その時の衝撃は今でも忘れられない。


 コース外にも響くエンジン音。スタンドと呼ばれる観客席に入った瞬間、轟音と共に目の前を、まさに飛ぶように通り過ぎる複数の車。

 写真や映像であれだけ見てきたレースの世界であったが、生で感じるスピードと音は想像を遥かに越えていた。


 それから年に数回、一ノ瀬はサーキットに通ったが、特に鈴与シティレーシングコースがお気に入りのサーキットであった。


 同じ県内に住んでいて通いやすいこともあったが、歴史ある場所でありながら最新の設備が整うコースが持つ独特の雰囲気、そして何より、低速・中速・高速コーナーが揃うコースレイアウトが生み出す数々のバトルが素晴らしいものばかりであったことがその理由だった。


 今日と明日に渡り観戦するのはC2ジャパンの第十戦で、一年を通して日本国内のサーキットを転戦するシリーズの最終戦である。


 参戦するドライバーは二十名で、プロとして国内専門で走るベテラン、海外から参戦する外国人、そして更に上のカテゴリであるC1を目指す若手などが参加しており、一ノ瀬が肩入れする杉山は、二十歳の若者である。


 杉山の走りを何度もサーキットのスタンドから見てはいたが、個人的な付き合いが始まったのは、昨年の夏にあった鈴与シティレーシングコースでのC3のテストの時だった。


 その日は平日であったが一ノ瀬は休みで、五年程前から趣味にしていたカメラを手に、一日中、十数台の車両を撮影していた。


 会社に入って十六年が経っていた。建築系の中小企業では現場の人間の立場が強く、総務一筋の一ノ瀬は日々雑用に追われていた。

 無給の休日出勤も多かったが、現場優先の社内では長く続く当たり前の慣習で、一ノ瀬も不満を感じてはいたが、それを声に上げることはなかった。


 雲一つない空の下で、目の前を走る車を無心で撮り続ける。一ノ瀬にとっては、日々の仕事のストレスを忘れることができる至福の時間であった。


 それは、一日の撮影を終えてカメラをバッグに収め、出口ゲートに向かうときに起きた。


 不意に、後ろから男に声を掛けられた。

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