第29話 事前の戦い
「十時から予定していました、C2ジャパン予選レースについては、スケジュールの都合上、中止とさせていただきます」
ゆっくりとした口調の場内アナウンスが流れ、観客からは静かなどよめきが起こった。
C2ジャパン最終戦鈴与大会二日目。
午前に予定されていた、午後の決勝グリッドを決めるための予選レースは、前座として開催されたC3クラスで発生した多重クラッシュの事故処理が長引いたため、キャンセルとなった。
このキャンセルは、五万人を超す観客にとってはもちろん、前園メンテナンスにとっても残念なものとなった。
昨日の規則違反の裁定により、自前のフロントウイングが使えなくなった杉山の車両には、他の参加チームから借りたものが取り付けられていた。予備の、さらに予備を借りたため塗装もされておらず、黒のカーボン地にステッカーのみが貼られていた。
エンジニアの世良は、初めて使うウイングのデータを予選レースで取り、AIに読み込ませて決勝レースのセッティングを詰めるつもりだったが、その目論見が外れてしまった。
午後になり、十四時開始の決勝レースまで残りわずかとなる中、世良はパソコンと向き合い続けていた。
前日までの各種データに加えて、気温、湿度、風向き、路面温度、天気予報などが自動で読み込まれ、さらに、午前中に行われたC3クラスの情報を世良が追加で入力する。AIは、それらをもとに最適な戦略とセッティングを出力し、世良はその内容を杉山やメカニック達に順次共有していく。
このようなレースへの準備については、解析するデータが多いほど、その精度が高まる。予選レースがキャンセルとなりデータが取れなかったのは、AIに頼る前園メンテナンスにとって大きな痛手となった。
一方、チームジャニスのピット内は、落ち着いた様子だった。途中終了とはなったものの、C3クラスにはチームジャニスから二台が出走していたので、必要な走行データは十分に取得できていた。
加えて、チームジャニスのファクトリーには、最新鋭のシミュレーターがあった。
昨日の予選終了後から決勝レースの直前まで、最新の情報を反映させての仮想レースが繰り返し行われ、決勝レースに向けて、豊富なセッティングデータが蓄積されていた。
現代のモータースポーツは情報戦の様相が強く、実際にサーキットで行われるレースは、積み重ねてきた戦いの最後の数時間に過ぎない。
いくら世良がAIに精通しているとはいえ、前園メンテナンスが有する環境は、チームジャニスのそれとは雲泥の差があった。
さらに前園メンテナンスは、前夜遅くまで抗議への対応に追われており、レースに向けての準備に費やすはずであった時間の多くを失っていた。
十四時の決勝レースのスタートを前に、各車がスターティンググリッドに並んだ。
他のドライバーたちが、車から降りてスタッフと談笑などをして過ごす中、杉山だけがヘルメットをかぶったままコックピットから降りずにいた。
弱小チームでの予選三番手という快挙と、直後に発覚したレギュレーション違反。
記者たちは杉山からコメントを取ろうと狙っていたが、コックピットで一点を見つめ続ける杉山の気迫に押されて、インタビューを試みる者は誰もいなかった。
スタート時間が迫り、各車のエンジンに火が入った。グランドスタンド前のストレートに重低音が鳴り響く。
フォーメーションラップに向かうそのとき、杉山の眼差しが世良に向けられた。
世良が小さく頷き、杉山はゆっくりとスタートしていった。




