第19話 小さな工場
「二人のどちらを採用するべきですかね」
履歴書を見ていた高間俊成は、その視線を社長の前園の方に向けて言った。
「それはタカちゃんが決めてよ。俺には分かんねえからさ、エンジニアリングは」
前園は、高間の顔を少しだけ見て言う。どちらでも良いといった表情だ。
「うーん」
高間の漏れるような声とため息が、前園メンテナンスの一角にある狭い事務所に響いた。
C2ジャパン最終戦を、高間はチームジャニスのガレージで過ごしていた。
副チーフエンジニアである高間のユニフォームは、他のエンジニアよりも真新しく汚れ一つなかった。先月チームに加入したばかりだからと言えば聞こえがよいが、理由はそれだけではなかった。
公式練習3の開始が近づき、他のスタッフは忙しそうにしているが、高間はガレージの端で立ち尽くしたままである。
つい一か月程前まで、高間は前園メンテナンスという会社の、チーフエンジニアと工場長を務めていた。
随分と偉そうな役職に聞こえるが、モータースポーツを生業とする小さな工場で、たまたま最年長のエンジニアだったのでそう呼ばれていた、というのが正しかった。
社長は二代目の前園で、総勢十名の小さな会社であった。
前園メンテナンスでは、主にC4クラスでレースをしたい若者や、車好きではあるが富裕層ではない中高年を相手に商売をしていた。
2年前、そんな小さな工場に、C3車両のメンテナンスをしてもらえないか、という依頼があった。
相手は、永島というカートコースのオーナーで、社長の前園とは旧知の仲らしかった。
C3に乗るドライバーは、杉山悟という十代の青年だった。レーシングカートでは全日本戦で勝ったことがあるが、資金難ということだった。
ただでさえ会社は苦しい経営なのに、社長は余計な話を持ってきたな、というのが高間の正直な感想だった。
杉山は既に車両をローンで購入していたが、資金とフォーミュラ経験の両方が不足しており、一年目はレースには出ずに練習走行に費やすと決めていた。
何はともあれ一度走らせてくれ、そうすれば分かると永島は前園に言っていたようで、とりあえず試しに乗せてみようとなった。
杉山のC3初走行は、鈴与シティレーシングコースで行うことになったが、当日の朝はあいにくの雨だった。初めてのフォーミュラカーの運転というだけで難しいのに、運がない青年だと高間は思っていた。
前園メンテナンスがC3車両を手掛けるのは約十年ぶりで、高間はC4車両での経験と、長年の勘だけを頼りにセッティングを決めざるを得なかった。
C3車両についての情報を集めるため、高間は知人や古くから付き合いのあるメカニック仲間に連絡を取ったが、有益な情報は何も得られなかった。C3クラスにもなると、レース費用は、場合によっては億単位になることもある。そのレベルになると、車のセッティングなどの情報は企業秘密扱いであり、皆一様に口が重かった。
テスト当日は十数台の最新C3車両が参加し、型落ちは杉山だけであった。
降りしきる雨の中、杉山以外の車両が慎重に走行を重ねていた。
そんな中、杉山が走行を開始した。
杉山は、速度制限のあるピットレーンを出てからすぐにいきなりアクセルを全開にし、高間から見ても、明らかなオーバースピードで一コーナーに進入した。
コーナー入口で車体はふらつき、誰もがスピンすると思った瞬間、車は急に安定した旋回を開始し、何事もなかったかのようにコーナーを抜けていった。
想像を超える杉山のマシンコントロール能力に、高間はしばし呆然としていた。
杉山は五周の走行を終えてピットに戻ったが、その時点でのトップタイムを記録していた。
杉山の車をチェックしながら、これはとんでもない玉を預かってしまったぞと、高間は興奮を抑えられずにいた。
その日は次第に雨が止み、路面も乾いてドライタイヤでの走行となったため、中古のタイヤしか持たない杉山のタイムは中団に沈んだ。それでも、初走行で、かつ型落ちというハンデを考慮すると、十分に評価に値するタイムであった。
テスト後の撤収作業を終え、鈴与シティレーシングコースから前園メンテナンスに戻る車中、高間は一言も発しなかった。
最初の一コーナーでの車の挙動と、雨中でのトップタイム。
高間は、高校卒業後に前園メンテナンスに入社して三十年以上が経っていたが、初めて、戦えるドライバーを手にしたという気持ちが、心の奥底から沸き上がっていた。
戦えるドライバーには戦えるマシンを用意しなくてはならない。
そんな思いが高間の心を占め始めていた。




