第18話 切なる願い
公式練習2も三十分を過ぎ、ようやく杉山のマシンもエンジン始動の準備に入った。
他のチームはセッション開始早々から周回を重ねているが、唯一、杉山のマシンだけがピットにいた。
スポンサーも少ない弱小のこのチームは、公式練習ですら杉山を充分に走らせてやるだけの資金的な余裕がないのだ。
杉山はヘルメットの中で目を瞑って手を動かし続けている。イメージトレーニングを繰り返すことで、走れない分の差を何とか埋めようとしているのであろう。
真中のヘッドセットに、エンジンスタートの無線が流れた。
杉山がコックピットの中で右手を小さく上げ、エンジンスターターのセル音がキュルキュルと鳴り、轟音が響き渡る。
直後に、杉山はピットを後にした。
このレースの結果が、杉山とチームの将来に大きく影響することは間違いない。
真中だけではなく、チームの全員がそれを理解していたがゆえに、ピット内には重い空気が張り詰めていた。
そんな中、ピットの奥から明るい声が響き渡った。
「お父さん、さっきから何をボーっとしてるのよ。もっとシャキッとしてよ」
真中が振り返ると、白いチームシャツに黒のパンツを履き、桜色に塗装されたロフストランド杖を持った美琴が立っていた。
二度目の手術で右足に麻痺が残った美琴だったが、必死に続けたリハビリの効果で、杖があれば不自由なく生活できるまでになっていた。
そしてC2ジャパンに杉山がステップアップした今年、美琴は念願のマネージャーになったのだ。
ピットの天井から吊り下げられたモニターを見つめる美琴の横顔を見て、我が子が経験したここ何年かの苦労を思い出してしまい、真中の目は少し潤んだ。
シリーズの最終戦が持つ独特の雰囲気が、真中をセンチメンタルな気持ちにさせていた。
美琴は本当の意味で強くなったと真中は感じていた。
真に強い人間は、何かしらの開き直りを持っていると、真中は最近思い始めている。
闘病後の美琴からは、人生で起こりうる出来事を全て受け止めるかのような開き直りがあると、真中は思うようになっていた。
そして、その開き直りは、レーサーとしての杉山の生き方にも共通して感じられるものだった。
杉山の言動には、起こりうる出来事を他人のせいにはせず、全て自分で引き受けるという開き直りがある。
国内トップフォーミュラという世界に身を置く二人は、一見、若くして運良く華やかな世界にいるように思われやすい。
確かに、杉山には持って生まれた速さ、美琴にはその杉山の近くでレース活動をしていたという運の要素はある。
ただ、その運を妨げる不運もまた、二人にまとわりついてきたのも事実である。
中学生にして両親を失った杉山。
十代後半の生活を闘病に費やした美琴。
運と不運が降りかかるなかを生きていく過程で、二人に共通していたことは、目標を見失わなかったことだ。
杉山はC1チャンピオンになるという目標を見失わず、美琴はマネージャーになることを諦めなかった。
そんな二人が生きていくなかで共に得たものが、真中が感じる開き直りなのであろう。
今、二人は幸せの絶頂にいるという訳ではない。
杉山は相変わらずの資金不足で、弱小チームなりの足枷をはめられながらレースをしている。
美琴は一生、右足の不自由と脊髄腫瘍の再発リスクを抱えて生きていく。
それでも二人は、前を向き続けているのだ。
果たして、自分はどうであろうかと真中は自問していた。
マネージャー業は、苦しいことも多いが本当に充実している。
自分の苦労や努力が杉山のためになっていることが、手に取るように実感できている。
最近の忙しさを考えれば、仕事かマネージャー業のいずれかに専念すべき時期が来ているのは明白だ。
だが真中は、そのどちらの方向にも踏み切れないでいる。
今の収入の大部分は、本業である輸入自動車販売会社の課長としての給料だ。
マネージャー業に専念してその収入を失えば、杉山がレーサーとして一流にならない限り、生活は成り立たない。
しかも杉山が金を稼げるトップレーサーになる保証など、どこにもないのだ。
これだけマネージャー業に魅力を感じていながら、自分は何を恐れているのかと、真中は再び自分に問うた。
今の会社で得た役職や収入を失うことか。
マネージャー業に専念して家族三人分の食い扶持を稼げなくなるかもしれないという将来への不安か。
それとも、杉山に一蓮托生する身となって失敗した時の敗北感への恐れか。
そのどれでもないと、真中は分かっていた。
真中の心にある真の恐怖は、挑んで失敗したときに浴びせられるであろう敗者への蔑みだ。
挑戦をしない者たちほど、負けた者への見方は厳しい。
真中が若く、失うものが無いときには、そのような恐怖は感じなかったであろう。
年を重ねて、積み重ねたものがある人間だけが感じられる恐怖が、真中の決断を迷わせていた。
もし杉山と出会わなかったら、自分はこんなにもレースの世界にのめり込むことになっていたのであろうかと、真中はそう思うことが最近増えていた。
きっと今なら、まだ引き返せる。
今の生活を捨て、レースという魅惑的な世界にマネージャーとしてどっぷりと浸かってしまったら、二度とそこから抜け出すのは不可能であろうということは、真中も本能的に分かっていた。
真中は再度、美琴の方を見た。モニターを見つめる表情は、かつてないほどに輝いている。
その顔を見て、真中は決心した。
杉山がこのレースをどう戦い、そしてどのような結末を迎えるのか。
それを見て、杉山に人生を賭けても良いと思えれば、仕事を辞めてマネージャー業に専念し、そう思えなければ辞めよう。
杉山には美琴のことで恩義があるが、自分には妻と美琴の生活を守る義務があるのだ。
もし、マネージャーを辞めることになれば、杉山が成功してもしなくても、一生後悔していくことになるであろう。
それ程までに、レースの魅力は自分の中に喰い込んできている。
ただ、その後悔を背負って生きていくこともまた、大人としての生き様なのだと、真中は自分に言い聞かせた。
杉山は周回を重ね、タイムは上位に位置していた。ホームストレートに杉山が戻ってくる度に、真中は息が詰まる感覚に襲われる。
それは、この広いサーキットをもっと速く駆け抜けてくれという、杉山に人生の選択を託した男の切なる願いがそうさせているのだと、真中自身も気づいていなかった。




