19 ニモ2
獲物を眼前に捉えていながら、それが逃げ去っていくのを見送る。
こりないやつだ。獲物の追い込みを放棄して何をやっていると思えば、拾った命を捨てに行ったのか。
遠くから流れてくる魔力の混じった血風の匂いに顔を竦ませる。
明らかな、戦いの香り。一つは娘、もう一つは腹が満たされない黒曜熊。奴の負った傷はそれなりに深かったはずだ。それを再生したとなるとどれだけの魔力を消費したのか想像に難くない。ならばそれに伴う空腹を満たすためなら、なんでも貪っているだろう。
目を閉じて前回の戦いを反芻する。
無様な戦いだった。慢心し、油断し、足元を掬われた。だがそれを抜きにしても、勝てただろうか? 傷を負っていたとはいえ、魔力を全力解放してなお互角、いやそれ以下か。あれから娘の作る団子を食してある程度回復したとはいえ、
目を見開き前後の足を見つめる。四肢に満ちていた、漲る魔力の流れはまだ戻ってきていない。
やっと半分、回復したといったところか。
無理だ。勝てぬ戦いを避け、次に託すのも時に必要だ。
戦いの匂いから遠ざかろうと、踵を返そうとする。
あの娘は、なぜ戦っているのだろうか? 何も知らぬ小娘だった時とは違い、半人前ながら今は狩人としてこの森に生きている。ならば、戦い避けることも、逃げることも出来たのではないか。
ならば、この戦いはあの娘が望んだことなのか。
どう戦うつもりだ? 戦いにもならなかったあの時から、何を手に入れた。
いつの間にか体は戦いの場へと向かっていた。
いや、これは必要なことなのだ。他者の戦いを見て、経験を積むことも重要なことだ。
いや、それも違うか。あの娘は我の仲間だから、見捨てるわけもいくまい。
……どうも違うな。どちらも正しいようで、本能の奥が全く違うと叫んでいる。
大地を駆けて、そこへ向かう。
体は正直だな。熱を持ち、昂っている。我は興奮している。そうだ、わかった。やりたいことがあったんだ。
それは全てに優先される。
昂れ、
響かせろ、
眠りを覚ませ、
知らしめるのだ、
勝利の雄たけびを挙げるために、そこへ行け。
予想以上に娘は善戦をしている。
逃げながらの飛礫とは、なかなか考えたものだ。自身の機動力を生かし、相手の届かぬ位置から延々と攻撃を繰り返す。実に合理的な戦い方だ。
だが、それでは相手に逃げ道がない。逃げ道がなければ、相手の魔力全開放を招いてしまう。
自身の溜めた魔力を代償に、通常の数倍の力を発揮するそれを、如何にさせずに仕留めるかが狩りの重要なポイントなのだ。相手が魔力全開放をしてしまうと、手強くなるばかりか仕留めた後の肉に残る魔力が少なくなってしまう。苦労して得られるものが少ないとなれば、やらないほうがいい。
我の予想通り熊は立ち止まって震えだした。魔力全開放の前兆だ。
そして、大気が貫かれた。
奴がやったことは、ただ走り抜けただけだ。あらゆる障害物を無視してというおまけがつくが。
間一髪娘は避けたが、大勢は悪い。
そろそろ出るべきか。……いや、娘に諦めた様子はまだない。ならばもう少し待とう。
娘の勝算とは木人の散歩道に行くことだったのか?
それが何の意味を持つのかはわからない。だが見届けよう。我も一つの身で戦うことに躊躇する熊と、ただ一人立ち向かった娘の戦いを最期まで見届けなければならない。むろん、必要に迫られれば出るのに躊躇いはないが。
娘は熊と対峙する。もう、すぐそこだ。ほんの少し丘を越えれば、娘の待望しているそこへたどり着く。
――たどり着いてみせろ。
娘と熊が交差する。――娘は、越えられなかった。
まだまだだな。
だが、少し安堵した。早々に我を超えることがなかったことに、安堵してしまった。
そのことが逆に、我が負けてしまっていることの証明になってしまったのだが。
満を持して戦いの場へと降りる。娘が我に気づき、嬉しそうに笑った。
「ウオォーーーーーーーー………………」
後は任せろ。お前は成すことを成せ。
奴が我に気が付きこちらへと向き直る。間髪入れず、我は奴へと躍りかかった。
我と奴が絡み合ってほんの数分、娘が目的の場所へと無事たどり着いた。
さあ、何をする?
そして、世界が溢れて来た。
物質が支配する領域に、意味しか持たぬはずの理が侵出して来た。そう言うほか無い。
魔力とは何なのか。世界に自然と存在しながら、そのものの本質を理解しているものは誰もいない。我もそうであった。体内に蓄積され力となる。食物連鎖の中で濃縮され、より喰らうものが強くなり、また強きものは強きものと喰らい合い高みを目指す。その程度の認識しかなかった。
だが今このときを迎えて初めてそれが、物質であり、理であると直感で理解した。
大地の奥底で眠っていたそれを、娘は小石を拾い上げるが如く、なんでもないように世界に放出した。空気中に存在する微量の魔力を塗りつぶし、体に粘りつくそれはあまりに濃い。我ら魔力を持つ獣が体内に蓄積している、昇華した魔力がこれに比べればなんと淡いものか。
溶けてしまう。
まとわりつく魔力に体表の毛が消化されてしまうような、見渡せば草木がその姿を維持できずに爛れるように魔力へと溶けていっている。
ぼんやりとしていると我も喰われてしまいそうだ。
熊が逃走を開始した。その気持ちは痛いほど理解できる。こんなところには近づいてはならない。
だが、これが娘の狩りゆえに逃すわけには行かない。
全力で逃走している奴の首元は隙だらけだが、動きが早すぎてつかむのに失敗すると逃がしてしまいそうだ。ここは安全策としておくか。
正面に回りこむ。奴は我が逃走の邪魔をすると分かるとひどく顔を歪めた。なぜ邪魔をするのかと、なぜお前は逃げないのかと。言葉せずともそう言いたいのが伝わってきた。悪いが、我は娘の同胞なのでな。
熊を正面から受け止める。額同士がぶつかり合い、ゴリゴリと不快な音を立てている。これ以上奴を先には進めさせない。四肢に力を込めると地面を捲りながらもぐりこんでいく。あるいは左右から抜こうした時に備えて意識を集中させる。奴も我をどうにかしないと逃げられないと感じたのか、腕を振り上げた。
熊の後ろに見える娘の眼が、もう十分だと告げている。
ここまでだ。
熊の一撃を後ろに飛びのいて避ける。娘の魔力は周囲を完全に満たし、熊の周囲100mほどを覆っている。
もはや何もかもが手遅れだ。熊は狩られた。そして、喰われる。
『石よ、囲め』
神の言葉を持って世界に命令が下される。
満たされた魔力が結晶化し、石柱が熊を取り囲むように現出する。石柱は森の天井を抜けるほど高く太くそびえ立っている。
「ガアアアアアァァァァア!!!」
熊が中から石柱を狂ったように殴っているが、そんなものでは傷ひとつつけられないであろう。必要以上の魔力を使用してつくられたそれの密度はどれほどのものか。
「…………?」
娘がなにか訝しがっている。
いいからさっさと止めを刺せ。
「……ガウッ!」
「……! ああ、はい。『炎よ、巻き昇れ。』」
娘は炎を使うことを選択したようだ。やりすぎて肉が炭化しなければいいが。
石柱に取り囲まれた内部で魔力が結晶化したのを感じる。
「ガアアアアアァァァァアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァ………………」
奴の断末魔がひときわ大きく聞こえ、内部で荒れ狂う炎が出口を求めて石柱の最上部から爆発して飛び出してきた。
ハ゛コ゛ン゛!!!
破裂音は森中に響き渡り、驚いた鳥が一斉に飛び立った。
それっきり、奴も動くことは無くなった。




