17 名無し3
熊が去っていって、目の前の狼は限界が来たのかへたり込んでしまう。自分も荒い息が徐々に落ち着いてきて、ずきりと左腕から来る鈍痛に気がついた。
「あ~……、どうしよう。」
気がつけば、左腕がありえない方向を向いている。普段とは逆の方向に曲がっている腕を見ると、どこか他人事でシュールだ。
そんな余裕も興奮から覚めて次第に大きくなってくる痛みによって一気に現実に引き戻される。
「いだだだ、」
腕の奥、あきらかに骨から来る痛みに悶えて苦しむ。
痛い、痛すぎる。骨って痛覚あったんだな……。
このままにしておくことは出来ない、だろう。少なくとも真っすぐにして固定しないと。
骨折個所が次第に青黒くなっていき、それに伴って痛みも増えていく。ゆっくりと右手で左手を動かそうとして、痺れるように感触が無いのになぜか痛みだけが増幅されて、慌てて左手に触れるのをやめる。
痛みのせいで全身から脂汗が噴き出て、体中がねっとりとして気持ち悪い。
もうだめだな。
腕はみるみるうちに腫れて、血のめぐりが悪くなったのか頭がぼんやりとしてくる。
眠い……。
ごろり、と寝転がると体中にある傷口と土が触れ合って、チクチクとした刺すような痛みも襲ってくる。しかしそれも左腕から来る痛みに比べれば、大したことはない。
このまま寝てしまうか。
ぼんやりと空を、森の天井に空いた穴から覗いている青空を見上げる。こうしていると、深い井戸の底にいるようだ。
ヌッ、と視界を埋めるように狼が出して来る。
「うっ!」
急に顔を出して来るからびっくりした。
狼は視線を俺の顔と、ぱんぱんに腫れてしまっている左腕を交互に見つめる。フンフン、と左腕の匂いを嗅いで、ゴツゴツ、と左頬に顔をぶつけてくる。
「いて、いて。……なんだよ。」
視線を狼に向けると、狼は左腕をしきりと顎で指し示した。
「もう無理なんだよ。このままほっといてくれ、お前も似たようなものだろ。」
狼も随分と深手を負っていたはずだ。このまま2匹の屍が出来上がるのを待つばかりか。
狼は何度が俺の頬をついて、それを俺はことごとく無視した。やがて狼も諦めたのか、ちょっかいを出さなくなり、また眠気が襲ってくる。
「………………」
「………………」
ズブ。
「……!?」
左腕から骨折による鈍痛とは別の、突き刺すような痛みが襲ってくる。慌てて体勢を変えようとして、左腕が縫い付けらたように動かないのに気がついた。
「うう何が……、」
左腕を見ると、狼が噛みついていた。歯が差し込まれたところから血が滴り落ちて、狼の口の中へと流れ込んでいった。驚きの光景だが、俺は驚かなかった。むしろ、ついに来たか、とさえ思っていた。
「……喰うなら喰えよ、出来れば痛くないように先に止めをさしてからにしてくれ。」
未だ狼は生きる意思があるらしい。手頃なところから栄養補給しようとするのは、なんら驚くことはない。
狼に喰われて人生終了か。まあ、普通ではなかなか見かけない終わり方だな。これで異世界ともお別れか。
目を閉じて、喉笛が噛み切られるその時をじっと待つ。
…………なかなか来ないな。
…………?
痛みが消えてる?
がばっと身を起こして、目を見開いて左腕を見る。左腕は動いた、そこに狼はいなかった。
骨折は、なかったように、なかった。
「治ってる。」
それどころか、狼が噛みついた痕すら無い。いや、狼に噛みつかれた一帯だけ、切り傷の一つも見当たらなかった。
こちらをまっすぐ見つめている狼を、俺も見つめ返した。
「治してくれたのか。」
狼は手招きするように前足を前後させていた。
「…………ありがとうーー!!」
人に、いや狼に優しくされて、なんだか感極まって狼に抱きつく。この世界で、少なくともこの狼一匹だけが、俺に生きていいと言ってくれていた。嬉しさで涙があふれてくる。
ベシッ、バシッ、ゴツッ!
「ウウウ……、」
前足で往復ビンタされて、頭突きをされて、唸り声をあげられた。
えー……、なんでやねん?
なにやら様子が違う、感動的な人と狼の和解ではなかったのか。
「うん?」
狼が手招きするように、土を掘り返していた。そこからはミミズが顔を覗かせていて、狼はそれをビシ、ビシと指し示していた。
「あ、はい。団子ですね、わかりました……。」
こうして狼に団子を上納する下僕娘が誕生した。
霧のように細かい雨粒が緑の鮮やかな葉を濡らしていった。水滴は葉に張り付いて重力に逆らい続けるが、次々に増え続ける自らの重りに耐えきれず、ついに滑り出した。葉の上を、踊るようにまた別の水滴と混ざり集い、葉の先端へと向かっていく。
そして葉からもこぼれ落ちて、水滴の重みから解き放たれた葉が天に頂こうと、ピンッと跳ね上がる。それは水滴を四方に飛び散らせ、また葉の下にあった別の葉へと降り注いでいく。
降り注がれた別の葉は、突如増えた水滴にその身を投げうち、その振動でまた水滴が集っていく。ドミノ倒しのように次々と葉から水滴が、水滴から葉へ、一粒の水滴だったそれはいつしか流れとなり、滝のように落ちていった。
ザ……ザァ……。
そうした水の流れが俺の足元へ落ちてきて、地面に跳ね返った飛沫が体に少し掛かった。右手でぞんざいにそれをぬぐい取って、振りやまぬ天を仰ぎ見る。
温かい、雨だ。
体が凍えてしまうような冷たい雨と違って、どこか眠りを誘うぬるま湯のような温かさがある。雨音は時間が止まったような森の静けさの中で、子守唄を歌うように眠りを誘うリズムをとっている。
ボフッ。
眠ったまま動こうとしない青い毛皮の中に自らの頭を突っ込ませる。僅かに青い毛皮は身じろぎをして、それでも場所を変えることなく静かになった。やがて眠気が頭の中に満ちて、久しぶりに夢を見ることなく眠りについた。
狼は団子を食べて、眠りについて、また団子を食べて、少し場所を変えて、この木の根元にある洞へと身を潜めて、またずっと眠っていた。
狼は戦いで失った体力を戻そうとしているのか、動こうとはしなかった。狼が動かないので、なんとなく俺も動いていなかった。ずっと団子を作って、作って、作り続けて、それを狼は一生懸命食べた。
そうしているうちに雨が降り始めて、もう2,3日も降り続けていた。
雨の中へと身を差し出して、体を洗っていく。体中に細かくついていた傷はもうすっかり治っている。魔力を帯びたままなら、回復力も強化されるのではないか、と考えたのは正解だった。1日経てば傷はかさぶたになり、2日目には薄い傷跡を残してもう治っていた。
傷跡が残らなければいいけど。
忘れかけていたが、この体は女の子だったのだ。別に傷跡のある女の子を差別するつもりはないが、余計な注目は浴びたくないので目立つ傷は無い方がいい。
傷跡はもうほとんど見えない。これなら大丈夫そうだ。
草をかき分け、低く身を隠しながら前に進む。風はこちらへ吹いてきている。これならば匂いが漏れることもない。ナイフを口に銜え直し、足場のしっかりした、音の出ない箇所を選びながらじりじりと近寄る。
獲物は小川で水を必死に舐めていた、茶色い兎だ。必死に水を飲んでいるが、警戒しているのかピンッと立った両耳は忙しなく向きを変えている。だがそれも風のある今は精度が落ちているに違いない。風によって草がなぎ倒される音が周囲に反響し、今この時にゆっくりと近づいている俺に気がつくことができていない。
もうあと何mか近づければ、一挙に飛びかかって、両手でしっかりと掴み、逃げられなくしてからナイフで止めを刺す。イメージを十分にして、あとは獲物の反応次第で動きを細かく変える。
あと3m、
もう息をするのも止める。次に息を吸うのは獲物を仕留めたときだ。
あと2m、
踏み締めた足元の石が転がり落ちそうになって、慌ててそれを受け止める。あぶなかった。なんとか音を立てずに済んだ。
あと1m、
ここまでくれば後は、楽、だったはずなのに急に風向きが変わってしまう。せめて横に流れてくれればいいのに、無情にも風はこちらから兎の方へ流れている。
風の流れの変化を感じた時にはもう駆け出していた。匂いより先に音が獲物に届いてしまうが、それでも少しでも獲物との距離を詰めてやる。
兎は遅まきながら音に気がついて、ばっと顔を水からあげると俺から逃げ出した。まさに脱兎という言葉がふさわしい、見事な逃げっぷりだ。
俺の手は兎へ10cm届かずに空振った。
逃がして、なるものか。
口を離してナイフを下に落とし、それを右手で受け取って兎へ向けて投擲する。それはまっすぐに兎へと向かい、後ろ脚のすこし上、臀部に命中する。
浅いか。
だかこれで追跡は出来る。兎は見るからにスピードが落ちている。ナイフを投げたことによって少し距離を取られたが、これなら捕まえることができるだろう。
血を流しながら兎は走り、小山を超えようとしたところで横から青い塊に襲いかかられた。不意を打たれて兎は対処できず、首をしっかりと噛まれて絶命した。
いいところを取られた。
青い狼は獲物をくわえて俺を待っていた。
「え~……。」
思わず不満の声が出てしまう。
狼は獲物を引き裂いてそれを6対4に分けた。
おかしい、こんなことが許されていいのだろうか。
今日の狩りは明らかに俺がほとんど仕留めていた。狼は横から手柄を掻っ攫っていっただけだ。
狼は体力を回復させると、俺に狩りの方法を教え出した。やはり下に見られているらしい、どうしてこうなった。この数週間、狼の狩りを体に叩き込まれた。足の運び方、風の読み方、そして一瞬の隙を見逃さない洞察。しかも言葉で教えてくれるわけではないので、文字通り体に叩き込まれてだ。
最初は何も分からずに足蹴にされ、地面に突っ伏すことになった。匍匐しろ、と今なら意味が理解できるが、その時は分からずに起き上がろうとして、何度も地面に叩きつけられることになる。恨みがましそうに突っ伏したままで狼を見上げると、狼も伏せてそろそろと音を立てずに前に進みだす。「なんだよ?」と声をかけると頭突きをされ、「?」と立ち止まっていると後ろに回って尻を咬まれた。痛みに逃げるように前に進むと、音を立てるなとまた頭突きをされた。
こんな風に一つ一つを試行錯誤で覚えていき、やっと俺に狩りを教えようとしているのだと気が付いた後は驚いたものだ。
まあ、その後は狼の意図も分かったので覚えも早くなった。やっぱり自分が何をしているのか分かれば勉強は捗る。
ある程度覚えればその後はずっと狩りの本番をやらされた。といってもさっぱり成功せず、取り逃がしたところを狼が仕留める、の繰り返しだった。……狩りの貢献度によって肉の分配を決められているようで、最初は1割の肉もくれなかった……。
ボッ。
手のひらから炎を出して肉を炙る。火の香りを嗅いで狼はピクリと視線をあげたが、こちらを見るとつまらなさそうに手元の肉を銜えてどこかへと去って行った。皮を剥いだだけの血の滴る肉を焼くと、ゴムの焼けるような何とも言えない臭いが辺りに充満する。血の焼けこげる臭い、狼は鼻がばかになるのを嫌がって去って行ったようだ。
自分もこの匂いには慣れないが、それよりも肉の焼ける一番いいところを見極めるのに忙しい。真っ赤に染まっていた肉が徐々に白く焼けていき、きつね色へと変化するのをじっと見つめる。ほどよく狐色になったところで炎から肉を放し、しばし冷めるのを待つ。待っている間にも肉の奥からとろとろと肉汁が煙とともに押し出され、足元に水たまりを作っていく。
たまらずに肉のしずくを舐めて、アチッと舌を少し火傷してしまった。何度やっても懲りないものだ。
狼と押し問答して手に入れた肉の塊6割を丸焼きにして、最近ましになってきた食事の時間だ。
ガブリと肉にむさぼりつくと、甘辛い肉のうまみがジワリと口の中に広がっていく。なぜか目頭が熱くなり、自然と涙がこぼれていく。
「生きててよかった……。」
もしゃもしゃと肉の中央部の生焼けのところを避けて周りを齧り取って食べていく。
うまい。
血がパリパリに乾いて肉に張り付いているのが、しょっぱくコクの深い調味料となってうまみを増している。これに慣れてしまうと血抜きをする気にはなれない。もっとも保存を考えた場合は別だろうが。
中央部をまた焼き上げて、それを食べ終えて、一息つく。
「ふう……。」
日に狼が指定する獲物のサイズは大きくなっている。この調子で、いつアイツを狩れるようになるだろうか。
脳裏に黒い瞳の自分より背丈の高い獲物が浮かび上がる。
その一撃は大木を砕く。
目の前に迫ってくる一撃を躱す、躱せる。
そして返しの二撃目を、躱せない。
俺は吹き飛ばされた、死亡。
なら、受けるか。ナイフを両手で構えて、二撃目と相激させる。
ぶつかる瞬間ふっと二撃目が引いて、それを待っていた自分が対衝撃の体制を取っていたせいで、逆向き、相手側にバランスを崩してしまう。そこを咬みつかれて、死亡。
受ける構えを見せるが、体は緩やかにすぐ動けるように。
相手は筋肉が緊張していないことを見て、受ける体制にないことを看破して、二撃目を振りぬく。死亡。
だめか、接近戦では敵うイメージが湧かない。
だが、いずれ必ず食ってやる。
口の端が吊り上がって、ニヤリと笑みがこぼれる。
脳裏に浮かぶあの黒い熊を相手に、時間を忘れてひたすら戦闘シミュレーションを行っていた。




