16 ニモ1
それの匂いを見つけたときは小さな木人が歩いているのかと感じた。それは迷い込むことすら難しい”木人の散歩道”を迷うことなく進み続けているし、なにより身に帯びている魔力はまさしく木人と同じものだった。
だが、森に生きるもの全てにとって神聖不可侵な存在である木人が、この数千年数を増やしたなどとついぞ聞いたことはない。
ありえぬ。
いや、ありえるのか?
世界創生の時より存在しているといわれる木人を、どうして二・三百年ほどの生をもたぬ我らが分かり得よう。昨日まであり得なかったことが起こり得る、それが木人という存在なのだ。
群れの判断はその存在の邪魔をしない、となった。極めて妥当な判断と言える。木人に仇成そうとする獣はこの森にはいないし、なにより木人に何かできる獣もまたいないのだから。
群れはその小さき木人と思わしきものから離れていった。だが、我は残った。木人に興味があったからだ。成年の儀式にのみお目通りが叶うという木人が、こんなに近くにいる。
見たい。一目でも、見たい。
群れが子々孫々と守り続けている木人の散歩道の真なる主。あと数年もすれば我も成年を迎え、その守り手の一員となるのだ。そのことに異議はない、誇りも名誉もそこにある。
だがそれでも、はたしてそれだけでよいのかと思うことがある。広大な森の片隅で、木人の散歩道からつかず離れず、せまく生き続ける。
なんと、
これでは満たされない。
我の牙は何のためにあるのだ? 鼠や兎だけを噛み殺すためだけにあるのか?
強者と戦い、肉を食み、雄叫びを響かせ、月の光の下で栄光を抱いて眠りにつくのだ。
だから、
だから、小さき木人よ。
我はお前が見たい。
木人の散歩道を守り続ける価値があるのか、指し示して欲しい。それが在るならば、
――あるいは無いならば、
それは木人ではなかった。ただの汚い人族の幼子だった。
群れは騙されたのか。よくも神聖な木人の散歩道に汚い足を踏み入れたものだ。
だが、怒りは湧かなかった。ただ、虚しくなった。それは変化をもたらすものではなく、我の求めているのもではなかった。
結局ここに囚われるままなのか。
どうやら期待しすぎていたらしい。前よりも満たされぬ思いが強くなり、強くなりすぎて虚無の空洞が体の中に生まれたようだ。
しかし、仕事はせねばならん。この侵入者の処分は我にしか出来ない。もう群れは離れてしまっているのだから。我は成年していないため、裁定の権限は持っていないがそうも言っていられないだろう。
しかしこの裁定は難しい。近づいてくるなら問答無用で噛み殺すべきだが、こいつは既に辿りついてしまっている。しかもその上で木人の散歩道から弾き出されていない。つまり受け入れられているのだ。
ならば、掟に従って見守ろう。ただし、道から外れたらすぐに噛み殺してやる。
それは人族なのにやけに目が良かった。我が視認できるぎりぎりの距離に位置しているというのに、それも我をまっすぐと見つめてきたのだ。
人族の限界を超えているはずだ。人族の亜種族なのだろうか? 纏っている魔力も人族とはどこか違っているし、それに魔法を使っている。我はそれに対して少し警戒することにした。
警戒は無駄だったようだ。それは幻覚キノコを食って愉快に踊っていた。地面のくぼみに魔法で水たまりを作り、その中に浸かって歌を歌っていたのは何の意味が在るのだろうか?
ある日、それはそれが食い物としているミミズでなにやら行っていた。石ですりつぶして丸めている。その丸くなった物体を焼いて完成したらしい。随分と満足そうな表情をしている。
それは我の方をチラっと見た後、その丸い物体を地面に置いて去って行った。
…………去って行って遠くから見ていた。
つくづく愚かな生物である。我にはそれが何を意図しているかすぐに分かった。ようは、それは我にそれを食わせたいのだろう。我に対する貢物のつもりだろうか。しかし我にミミズを食べさせようとは無礼が過ぎる。モグラのように土に潜るのがお似合いとでも言うのか? 全く許せん。
この無礼をどう償ってもらおうか。
四肢に力が満ちていくのを感じる。狩りの始まりに感情よりも先に体が昂っているのか。
ミミズの物体を通り過ぎようとして、ふと強い魔力の流れを感じる。空中に漂っている微弱な魔力とは違う、水の中に足を踏み入れたような、体が包み込まれるような魔力だ。
どこだ?
それはそこにあった。
見るのも汚らわしいはずのミミズの物体から、魔力が溢れだしていた。
その魔力は圧倒的だった。群れが総出で狩り出した、森の奥深くに住む赤銅蛇の肉に匹敵する、いや、それすらも超えているかもしれない。
何かの間違いか?
ぐるりと肉を回り込んで観察しても、やはり魔力はその肉から発せられている。
下位生物の昆虫種の肉がこれほどの魔力を帯びているのを見たことはない。この森の昆虫種の中で最上に位置する巨大蜂でも、この数分の、いや数十分の一に満たない。
食いたくない、食うべきではない。
こんな物を食ったと仲間に知られれば、消えることのない嘲りの名前を得ることすら考えられる。
だがそれでも、上位生物の肉を食えば、食った分だけ強くなれる。だからこそ群れは危険を冒してまで森の奥へと向かうのだ。その結果得られるもの以上の物が、ここにある。しかも今なら独り占めだ。強くなれる。強くなれば、群れの首領の座へも近付ける。
抗いがたい欲求に押されて、気がつけば我はそれを食んでいた。恥ずかしい気持ちをこらえて、それを飲み下した。
ゲホッ!
なんだこれは? 血のにおいとは違う、すえる様な突き刺す匂いが口内に広がる。あまりの不味さに喉が痙攣しそれを吐き出そうとしている。鼻は馬鹿になり、悪寒が全身を震えさせた。
毒か…………。
死をも感じさせる不味さに、しばらく体を震えさせてじっと耐える。
ある程度たって、なんとか落ち着くことができた。
残っている全力を振り絞って、それのいる方向をぎろりと睨みつける。それは恐る恐る我を窺っていたようだが、我に睨みつけられて脱兎のごとく逃げ出した。
やれやれ。
地面に横たわって体を休める。しばらくは動けないかもしれない。
……
……
…………? ……おおっ……!
全身に魔力が染み渡り、今までになかった活力が沸き上がるのを感じる。ひどいものを食わされたが、その価値に見合うものはあったらしい。
ぐっと足に力を込めて立ち上がる。以前よりはるかに体は軽く、また俊敏であった。
こうしてはいられない。あれを、人族の娘を追わなければ。
娘はかなりの速度で遠ざかっているが、それでも今の我ならばすぐに追いつけるだろう。
我は駈け出した。
そういえば、ずっと鬱積していた退屈な気分が今は少し軽い。
数日の短い間で、こんなにも興奮して、落胆して、怒って、悶絶したのは久しぶりだ。もう少しあの娘についていけば、何か面白いことが在るかもしれない。
まあまずは、憤怒の形相で娘を追いたてて、あの娘がどんな反応するかを見てやるとしよう。
娘の作る団子を食し続けて、我は強くなっていた。たまに娘が団子を作らなくなるので、その時は威嚇して作らせる。そうして強くなり続けて、限界まで強くなれると油断していた。冷酷な森の掟のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。その身に魔力を宿す獣同士の、果て無い喰い合いを。いつの間にか我は強くなりすぎて、より強きものに食されるに足る存在となっていた。ゆえに黒曜熊は我の前に現れ、油断していた我の横腹を痛撃したのだ。
一瞬、意識が飛んだ。
何が起きたかを理解する前に、二度目の衝撃が襲ってくる。
無様にも土の上を転がり、痛みに震える首を起こした先には、黒く艶めいた熊が立っていた。
そう、か、
まったく、我も腑抜けすぎていた。
四肢に力を籠め、無理やり立ち上がる。このまま倒れたまま終わるなど、あってはならない。
奴の左手による一撃目によって左前足が砕かれ、切り替えしてきた右手による二撃目によって腹部を大きく裂かれていた。命こそ未だ残っていたものの、命脈は既に断たれている。損傷個所へ魔力を循環させて治療しているものの、その治療に大部分の魔力を割かれているために戦闘用まで回すことができない。あるいは治療を停止させ、命が尽きるよりも先に、奴を倒す、あるいは後退させるまで戦ってみるか。
そうするしかなさそうだな。
奴は魔力を全身に漲らせて悠々と距離を詰めてくる。逃がしてくれる気はないようだ。
どの距離で仕掛けてくるか、治療用から戦闘用へと切り替えるタイミングを計って相手を凝視する。毛の一本の変化も逃さない。
だが、そうなるよりも周りから変化があった。
完全に頭の中から抜け落ちていた、人族の娘が奴の横を通り過ぎていく。
なにを、している?
この場において獲物となっていない娘だが、気の張っている狩場において不用意に動くのは得策ではない。現に奴は娘を邪魔者だと認識し、先に狩るべきか検討している。
奴の気がそれている、隙か? いや、慎重な奴だ。こちらが動くのを待っている。ならば、今は治療に専念しよう。ある程度戦えるまでに回復すればいい。
結局奴は娘に手を出すことなく、娘は木の陰に隠れた。
そうだ、それでいい。
あとは、我の運命次第だ。
奴はまた距離を詰めてくる。もう、あと一歩で戦闘が再開す、る?
娘が隠れた木の陰から、高濃度の魔力が流れ出している。それは意思を持つように形作り、刃となった。警鐘が本能の奥でけたたましく鳴り響いている。奴は一目散にその魔力のもとへ、最優先で警戒すべき敵のもとへと向かった。
我が警鐘を無視できたのは、少なからずその魔力を発したであろう娘と関わりがあったからだ。だが警鐘よりも、何故、という疑問に頭は占められていた。
何故、我を助けようとする?
何故そんな魔力を持っているのか、何のために魔力を出したのか、そんな疑問は考える必要がない。そもそも奴の傍を過ぎたその時から、娘が我を助けようとしている意思を持っていたことは明白だった。だが、我を助けようとする理由とはなんだ?
これまでの娘と我の関係性を思い出す。あまり娘に益のない関係だったと思う。娘を追い掛け回したり、団子をせびったり、娘の前で娘がほしがっている肉を食ってみたり、ろくなことはしていない。
――フッ、娘は面白おかしいヤツだった。我も随分とそれを楽しんでいた。
そんな娘が我を助けようというならば、娘は我の、仲間だ。
奴は右手に魔力を集中させて木を殴り壊した。その向こうに見える娘の表情は、どこか達観してた。
全身に魔力を漲らせる。魔力を使い果たしてしまうかもしれない、そうなれば、これまで得てきた力を総て失うことは目に見えている。
かまうものか。
四肢に満ちた魔力は我の筋力を増大させる。毛皮の一本一本が魔力を帯びて、彩狼の名に相応しく虹色に発光していく。虹色から風の色へ、緑の発光色となった時に、我は駆け出した。後ろ足から放たれる張力は地面を抉り取り、音の速度を超えて奴へと肉薄する。奴の娘へと振り上げた一撃を邪魔する、体当たりを仕掛けながら奴の右手へと食いついた。
体当たりの衝撃は食いついたことによってその全エネルギーを奴と我で等分して、反発を食らって我にもダメージがくる。少し塞がっていた傷口までその衝撃が到達して、一瞬意識が飛びそうになる。
娘への攻撃を完全に邪魔することはできなかった。娘は奴の一撃を食らって吹き飛んでいく。しかし、我の攻撃で少なからずズレが生じたはずだ。運が良ければ生きているに違いない。
まだだ。攻撃の手は緩めない。
体毛を赤の発光色へと変化させる。牙が燃えるように発熱して、食いついた奴の腕を焼き焦がしていく。
「グオォオォォッッッ!!」
たまらず奴は咆哮した。だが放すわけにはいかない。奴も腕に魔力を集中させ、防御の構えを見せる。
逃がすものか。
顎に込める力をさらに強くし、奴の右手の筋繊維を断ち切って行く。噛み切るつもりであったが、それは奴の左手がこちらへ向いているのを見て叶わないと知る。
避ける、いや。
体に力を込めて衝撃に備える。奴は我との距離が近すぎるのか、爪で切り裂くことができずに押し出すように殴ってきた。鼻の先に焼けつくような痛みが走るが、食い閉める牙は緩めない。
ぶち、ぶちっ
肉が破断する音が響いて、食い付いた箇所の肉をそぎ落として跳ね飛ばされる。こちらもダメージを負ったが、それ以上のものは与えたぞ。奴の右手からは白い骨が見えている。
「ガアアァァッッッ!!!!」
奴は怒りを露わにして威嚇してくる。
「ウオオオォォン!」
負けじと我も遠吠えにて返す。
「あっはっはっ」
奴の後ろから、無事だったのか娘が走ってくる。細かな傷でボロボロになっているが命はあるようだ。
ぺたぺた、と無防備に、一直線に、ナイフを振りかぶって走ってきていた。
奴もその姿を認めたのか、困惑した表情を隠せていない。無理もない、娘は完全に無防備だった。ただ、その手に握りしめた武器の強さだけがアンバランスで、無視するに出来ない。
「ウゥゥ……」
奴が迷っている隙に魔力を大気に放出して、地面に落ちている石を拾い上げる。それをたまらず娘に対処しようとした奴の顔面へぶつける。
奴は僅かに顔をそむけ、娘へ放った一撃がまた逸れる。またも娘は遠くへ飛んでいくが、それでも娘は最低限の仕事をした。次は我の番だ。
我の目標は、命の狩れる首、と読んだ奴は迎撃しようと残った左手をその軌道上へと待機している。それは間違いだ。
我は首へと攻撃する、ふりをして体を止める。
奴の迎撃は目の前を通り過ぎていき、その無防備な左手へと噛みついた。
さあ、残った牙で来い!
左手はさらに囮、本命は我を攻撃してくるであろう奴の牙がある、その頭だ。
しかし奴は流石にそれを読んだのか、あるいは左手への食い込みが浅いと感じたのか、腕を上下させて我を地面に叩きつけようとする。
まずい、
慌てて放してもう一度距離を取る。
決め手に欠ける。いや、傷口が開いた分我が不利か。
奴もそう感じたのか、対峙したまま動こうとしない。
「あっはっはっ」
その緊張感をぶち壊すように、また奴の後ろから娘の声が聞こえてきた。
全身擦り傷だらけ、青あざも多い、左手は折れているのか変な方向を向けている。なのに、笑顔で走ってきていた。
その異様にちょっと我も引く。
奴も得体のしれないものを感じたのか、くるっと向きを変えて走り去って行った。
追う気にはなれない。むしろ、見逃されたという気持ちの方が強い。
「あれ、行っちまった。」
娘は意外そうな顔をして、その振りおろす先を失った刃をしばらくもてあそんでいた。




