15 名無し2
狼は変わらず俺の後をついてきていた。団子を作れば必ず食べてくれるほどに、少しは慣れたのだろう。しかし狼はやけにケチだった。あいつは俺が用意する団子以外に独自に狩りをやっているらしく、ときどき兎やら鳥やらの獲物を口からぶら下げていることがある。昆虫しか食べていない身にとっては、その肉という甘美なものが堪らなく欲しかった。
それにもかかわらず、やつは一度も俺におこぼれをくれないのだ。その肉の一かけらでも、プライドを捨てて土下座しても惜しくないくらい欲しいのに、実際に子狼のまねをして這いつくばって近づいてみたら、むっちゃ威嚇された。食べ残しは念入りに俺の知らないところに埋めてくるらしく、一度も発見できない。
ちくしょう……、ちょくしょぉー!
はぶてて団子を作らなかったら、3日くらい経ってまた威嚇された。団子を作り始まるまで、行こうとする先に回り込まれて唸り声をあげて威嚇されて、とても怖かったです。なんなんだよ、それは。すごく嫌そうな表情を浮かべるのに、食べるのを欠かさない。正直よくわからん。
森の終わりは見えなかった。エルフの集落でも見つかると考えていたのに、そんな痕跡はなにも無く、ただひたすら森が続いていた。
しかし別にまずい食料以外は現状困っているわけでもないので、特に何も考えなかった。狼のおかげで外敵もなく、ただひたすら歩き続けるだけと、そう考えていた。
襲撃は、唐突だった。
ドォォンッ!!!!!
木々が崩壊する音が周囲に響き渡り、心の準備のできていなかった俺は、呼吸を忘れるほど驚いた。ごほ、ごほ、とむせかえりながら音の出所を探る。後ろの方から聞こえてきた気がする。
ドォォンッ!!!!!
どうしたものか、急いでこの場を離れるべきかと考えていたところに、もう一度爆発音のようなものが鳴り響いてその音の方から赤い雑巾のようなものが飛んできた。
ベシャッ。
たっぷりと水の含んだその雑巾は、地面にその湿った布を投げだして濡らした。布のようなものは赤と青のまだら模様で、荒く呼吸をしていた。熟れたトマトのように赤い身のつまった液体を投げだしたそれは、俺からつかず離れずいた青い狼に間違いなかった。
何が起こったのか。一目見て致命傷と分かってしまう痛々しい姿を晒していて、それでも狼は力の入らない四肢を無理やり起こして立ち上がった。何かを感じるよりも早く、その狼が見据える先に、狼が飛んできた方向に俺も視線を合わせた。
のそり、と黒い地面が盛り上がったように思えた。それは、黒い毛皮を纏った大きな、熊だった。半死半生の狼を相手取って、余裕を持っているのかゆっくりと近づいてくる。畏れを携えた熊の姿に目は引きつけられて、視線を逸らせる空気ではなかった。
熊はこちらを見ていなかった。俺の横にいる存在にまっすぐと視点を向けている。この場において、自分という存在が蚊帳の外にいるのだと気がついて、鉄のように固かった体が動かせることにやっと気がつくことができた。
すぐに離れるべきだ。
本能の警鐘がこの場から去るべきだと鳴り響いている。理性もこの場にいても何の意味もないと告げている。下半身は気が早くずりずりと後退している。
何故、ちらりと目が狼の方へと向いたのだろうか。
狼は毅然と相対していた。血を流しながらもまっすぐと立ち、熊から視線をそらさない。
かっこいいじゃないか。
狼とは斯くあるべき、という姿がそこにあった。
俺ならば、俺はどうあるべきだったのだろうか? いまこの狼は、前の俺のように死の淵に立ってる。その時俺は死にたくなくて足掻いた。そのことを否定する気はない。ただ、今なら分かる。あれはひどくかっこわるかった。そしてこちらは、何が違うのか、やけにかっこいい。
経験の違いとでも言うのだろうか? それも何か違う。
俺はずり下がるのをやめた。
ふん、こいつらばっかりにかっこつけさせてたまるか。
人間と獣ではかっこのつけかたも違うだろうが、少なくともこれ以上自分自身がかっこ悪くなるのも許せなかった。
ざくざくと熊を回り込みように横へ歩いていく。俺の無防備な姿に気がそれたのか、熊は少し動きが乱れた。だが、隙にはならなかったようで狼は動かなかった。そのまま横の木の裏側に回り込む。
するするとナイフに巻いてあった布を取り除いていく。鈍く光る刃に陰りはまだない。
はあー。
なんとなく落ち込んだ気を出すように息を吐き出した。
邪魔してやる。
生き延びれるならば、生き延びてほしい。ほんの少しだけど、あの狼には情がある。あの傷では長くはないかもしれないが、この場から逃げる隙くらいは作りたい。
俺にはこの先に生きる展望がないからな。
親に殺されかけ、おそらくは国に追われている子どもが生き延びれるほど、世界は優しくはないだろう。
王国と国交のある国が、手配をかけられている者を受け入れるとは思えない。その者に価値が無い限りは。
そしてその価値なんてものは、俺にはない。俺はただの一般人だったからな。有益な知識も持っていない。
そして、王国と国交のない国なんてない。……いや、魔族領域があるか。でもあそこへ到達するには王国を横断しないといけない。あまり現実的じゃない。
結局、俺はもう詰んでいるのだ。どうせ死ぬならエルフでも見てみようかと考えていたが、このさい狼を助けて死ぬのも悪くないか。
じわり、と手のひらから魔力を放出してナイフへ纏わらせていく。魔力制御の練習をときどきやっていた成果だ。こうすれば少し切れ味が良くなる。地脈から離れても体内に入るだけの魔力をストックしておくことも出来るようになった。もっとも、この程度の魔力では魔術はほとんど役に立たないぐらいにしか使えないけど。
後ろから仕掛ければ少しは、
木の陰から熊を窺おうとして、
メギッ。
景色がゆがんだ。
いや、木がゆがんだのか。
強烈な一撃が貫き、大木が崩壊していく。破壊、ではなく崩壊。生物が持つ体幹のしなりなど存在しないと勘違いしてしまいそうな、もろいガラス細工のように砕け散った。
ただ、それが発する断末魔、破壊音の高周波と、破壊の余波である衝撃波が一体となって聴覚を鋭く攻撃してくる。鼓膜はその攻撃になんとか耐えきったようだが、聴覚から送られる痛覚とまで昇華された情報に、脳が耐えきれず聴覚からの信号をシャットアウトしてしまう。
無音の世界で、舞い散る木くずが、大木が傾いたことにより差し込んで来た久しぶりの日光に照らされて煌めく。
大木はスローモーションで倒れていくが、それは全く気にならない。むしろ、大人が大の字になっても隠れてしまうだろう大木に、隠しきれず露わになっている巨体に目を奪われてしまう。黒曜の体毛に覆われた全身の筋肉、分厚い両の手からあらわになっている鋭く鈍く光る爪。体毛と同じ黒の瞳はまっすぐ俺を捉えていて、ドスン、と一歩近づいてくる。
それは、大人の背丈の1.5倍はありそうな巨大な熊だった。圧倒的な威容に狙われているのは自分自身であるのは間違いない。生命の危機、恐怖に体が震える。だが、なぜか不思議と嫌な気分ではなかった。
熊はいまだ落着しない大木をうっとうしそうに右手でのけ払い、さらに近づいてくる。左手を少し振りかぶり、俺へと振り下ろした。命中すれば命を削り取る死神の手招きだったが、ほんの少し外れることになった。
その一撃が直撃する直前、視界の隅から緑色に光る物体が熊へ目掛けて突撃をした。放たれた矢のような速度で体当たりをされた熊が、踏ん張りきれずに傾いて倒れていく。緑色の物体は跳ね返るのかと思いきや、熊の右手に食いついて離れていない。赤い血を滴らせ、深手を負っているにもかかわらず、果敢にも熊に立ち向かっていたのはあの青い狼だった。ただ、その青いはずの体毛は今は緑色に発光し、体をぼんやりとした気体が覆っている。
そこまで見えて、俺は吹き飛ばされた。狼の体当たりは熊のバランスを崩せたが、攻撃を失敗させるには至らなかった。だが、僅かにずれた攻撃は、熊の爪による切裂きではなく、手の平による殴りとなった。
眼に見える景色が急速に横に流れていき、枝葉に体がなでられて細かく傷ついていく。そして背中の方から全身に衝撃が来た。ずるり、と地面に落ちてそれが別の大木に衝突したのだと気がついた。遠くで黒曜の熊と赤色の狼が激しくもみ合っているのが見える。遠い、どれだけ飛ばされたのか。振り向くと、大木に自分がぶつかった形でくぼみが出来ている。
なんで生きているんだ?
強化しているとはいえ、とても生き延びられるようには思えなかった。全身が痛むが、痛みがないところがないことが、逆にどこも致命傷を負っていないと判断材料になる。
まあ、非常識なのは相手も同じか。
いくら巨大な熊とはいえ、大木を砕くような膂力を持っているとはいささか考えにくい。何か別の物理法則が、この世界にあるのかもしれない。
右足に力を込めて、ぐっと体を起こす。
体は動く。
「行かなきゃ。」
まだ、戦えるのならば。
遠くでいまだ決着のついていない、野生の殺し合いが見える。それがなんだかやけに崇高なものに思えた。男を殺そうと思ったときは、こんな気分ではなかった。恨みつらみが無いだけで、ただお互いが喰い合うというだけで、こんなにも、楽しい。
「ははは、」
笑いがこみ上げてくる。
右手に持つナイフをさらにしっかりと握り締める。そういえば、落としてなかったらしい。吹き飛ばされたときに、勢いあまって自分を傷つけることも無かった。
運がいい。
今、自分は笑顔を浮かべているのか。
そして俺は、駆け出した。




