12 獣4
ハッ、ハッ、ハッ、ハッ………
ぼうっと、視界に靄がかかったように揺れてぼやけている。
息が、荒すぎるのか。
右手で口と鼻を覆い、息をふさぐことにする。口内にある空気と肺の空気が循環され、血中の酸素濃度が低下して徐々に眩暈も収まってくる。
たいした、ざまだな。
ふと、唇にぬるりとした感触があるのに気がつく。やけに滑るその液体は、唇を通り抜けて口の中に侵入してきた。刺すような、鉄の味。どこか甘く、精神を安定させてくれるような優しさがあった。その液体を味わうように舌の上で転がし続ける。
そうか、これは血の味だ。
右手を口から離して、大きく深呼吸をする。
完全とまではいかないが、人を殺したという混乱は大分収まっていた。
倒れている男をもう一度眺める。男を中心に赤い水溜りが道に広がっている。もう、それは人ではなく、ただの物でしかなかった。
右手の手のひらをみる。そこも、赤い液体の染みが広がっていた。左手で右手の手のひらを探り、そして手の甲も探っていく。傷一つなかった。
なら、これはあの男の血か。
口の中で唾液と混じっていたそれが、急に不快な物と気が付いてしまう。俺はそれに眉をひそめ、吐き出すべきか、飲み下すべきか少し悩む。
ごくり。
喉を鳴らしてそれを飲み込む。
何の意味もなかった、むしろ穢れを飲み込んだような嫌な感触もある。だけど、ただ“殺した”よりかは、“喰った”ほうが救われる気がした。
やっぱり吐き出すべきだったか。
もう後悔している。しかし、吐き出しても飲み込むべきだったかと後悔しているだろう。ならば、結果は一緒だ。
あたりを見渡す。誰の姿もなく、ただ森と道があるだけだ。何も変わっていない。男には馬がいたはずだか、異様な雰囲気におびえて逃げたのか、姿は見えなかった。
どう、逃げるべきか。
遠い道の先を見る。
前か、後ろか。
前に進めば、去って行った馬車と会うかもしれない。後ろに進めば、王都に戻れるだろうか。いや、
頭をふってその考えを否定する。
どちらに進んでも、いずれ馬車が戻ってくる可能性は高い。徒歩と、馬、考えるまでもなく追いつかれる。森から抜けだすことすらできないだろう。
ならば、迎え撃つべきか?
血の水溜りに沈みつつある地脈がある辺りの地面を見る。
勝つ可能性があるとすれば、魔法しかない。敵の周囲を水で固めて溺れさす、火炎に巻き込んで焼く、あるいは空中に岩を作って圧殺するのはどうだろう? いや、それも難しいか。
簡単にできそうだが、相手も魔法を使えると想定するべきだろう。この世界で魔法が戦闘でどのように使われるのかは見たことがない。でも、今考えた方法で事が済むなら、武器防具、剣術といったものは発達しないはずだ。魔法の無効化や回避方法は必ずあると思っていい。
ならば、向かい撃てば、必ず死ぬ。
なら、もう進む先は一つしかないな。
俺は地脈の延びる先、鬱蒼とした暗い森を見つめた。
一陣の風が吹き、人間が立ち入るのを拒絶するように木々がざわめく。
それを見て、自然と口の端が釣り上るのを自覚した。
ザパンッ
血だまりの中に足を踏み入れていく。血が跳ね返り、スカートに掛かったのを無視する。そして、血だまりの中に沈んでいたそれを拾い上げた。
柄まで血に染まり、ぬぐうことの出来ない染みなっていると考えていたが、水をはじくのかほんの少しの血の水滴が付いているだけですんでいる。男を刺し殺したナイフだった。
男の懐を探れば、新しいナイフが手に入るとも思ったが、そうすることには抵抗があった。死んではいるはずだけど、濁った瞳で見えないところを見つめている瞳が、こちらへ振り向くのではないかという言い知れぬ不安から近寄りがたかった。
服でナイフの血を丁寧にぬぐっていく。鏡のように反射する刃は、前より妖艶な光を湛えていた。結果としてこれを手に入れることになったが、初めてこれを見た時のような興奮は今はもうなかった。
そして俺は一人、1本のナイフを携えて大森林の中へと、足を踏みこんだ。
ガサガサと草をかき分ける音が少しの間響いていたが、それも遠ざかり周囲に静寂が戻ってくる。その場に残された死体が一つ。虫達がそれに気がついて徐々に近づいて行った。
しばらくして、道の先から騎馬が3騎やってくる。騎馬は死体の前で止まり、周囲を探っている。
「…………失敗したか。」
「ウィルを残したのは失策でした。申し訳ありません。」
「いや、決めたのは私だ。責を負うのもな。……それよりも、どこへ向かったと思う?」
「来た道を戻るのが筋かと思いますが、……足跡が、」
血だまりの中から、森の中へと向かう足跡がくっきりと残っていた。
「我々を混乱させる罠では?」
「考えうる、が、それを確かめるすべは我々にない。……お前たちはこの場に待機して警戒しろ。息をひそめて我々が去るのを待っているのやもしれん。」
「隊長は?」
「俺は戻って援軍を要請する。やつが道を戻っていれば、私がやる。」
「……隊長、傷をふさいだだけです。御無理はなさらないでください。」
「会う可能性は低いさ。」
騎士は、諦めたかのように力なく森を見つめる。
「内々に済ます予定が、そうもいかなくなったな。」
「本当に森を進んだ場合、生き延びる可能性はあるとお思いですか?」
「さあな。あとは、この森の住人に委ねるしかない、か。」
騎馬はその場から去り、仲間を引き連れて戻り、死体を片づけ、土を削り、馬車を引き連れて、帰って行った。
そうして森は平穏を取り戻した。森の中に獣が1匹増えたが、気にするモノはいなかった。




