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ヴァスキュール侯爵が領地に帰った後も、彼の協力によって獣人族の自治区は緩やかに発展してきていた。
最初のきっかけは、侯爵家の所有する貿易船の寄港である。
ヴァスキュール侯爵家の所有する『セレナ号』の船長は、侯爵から話を聞き及んでいたらしく、リンの元へスライム培地の供給とその栽培ノウハウを聞きにきた。
「ほう! このスライムの粘液で豆を発芽させ、もやしにするのですな。これが『船幽霊の呪い』に有効だとは、驚くべきことだ!」
発酵キャベツの塩漬けも、その保存性の良さと栄養価の高さから、船乗り達には評判となっていた。
キャベツの栽培も軌道に乗り、量産体制が出来つつある。
そんな中で、薬草茶もまた特産品として貿易船に購入されていった。干して乾燥させた茶葉は保存性も良好な上に、薬草特有の清涼な香りを持つ。ミントと甘草、それにカモミールのブレンド茶は、食堂のおかみ自慢のレシピであった。
ヴァスキュール侯爵の尽力により、行商人との取引も正常化され、徐々に豊かになりつつある獣人の自治区。
しかし、平穏はいつまでもは続かない。
近接する領地で、疫病が発生したという報せが飛び込んできたのは、ある日の午後のことだった。
「リンちゃん、大変なことになった」
ルドが血相を変えてリンの泊まっている宿に駆け込んできたのは、昼下がりの穏やかな時間だった。
リンは薬草茶を飲みながら、スライム培地作成用のスライムを貿易船に乗った後にきちんと働けるよう、躾をしているところだった。
「どうしたんですか、ルドおじさん?」
「隣の街で、疫病が発生したって話だ。商人から聞いたんだが、もう何十人も死者が出ているらしい」
リンのてから、陶器のカップが滑り落ちそうになる。慌ててカップを押さえながら、リンは立ち上がった。
「何十人も!? それって、どんな病気なの?」
「詳しいことは知らないが、高熱が出て、体に黒い斑点ができるらしい。それで、苦しんで死んでいくんだと」
黒い斑点——、その言葉に、リンは異界の医術書で勉強した内容を思い出す。
紫のような黒のような色に変色した皮膚の精緻な絵。
その絵の描かれていた頁の題名は——『黒死病』。
「ううん。まだ詳しいことははっきりわからないもの。まずは情報を集めなくっちゃ」
その日の夕方、リンとクレアは港に集まった商人達から話を聞いて回った。
「ああ、恐ろしい病気だよ。『紫黒の魔女』って呼ばれている」
魚を仕入れに来た商人の一人が、震え声で語る。
「最初は普通の熱病だと思われていたんだが、だんだん様子がおかしくなってきてな。患者の脇の下や首、太ももの付け根に、拳ほどの大きさの黒いできものができるんだ」
「黒いできもの……」
リンの表情が青ざめる。それは間違いなく、異界の医術書で読んだ、恐ろしい病。黒死病——ペストの特徴だった。
「それだけじゃない、身体中に黒い斑点が現れて、血を吐いて死んでいく。もう街は埋葬する暇もなくて死体だらけの有様さ」
「そんな……」
あまりの惨状に、リンは言葉を失う。
「医術師も何人か派遣されたらしいが、みんな逃げ出してしまったそうだ。聖教会の魔術医は一人も残っていないとか」
「やっぱり……」
元々聖教会に期待などしていないが、疫病の拡大を食い止める手立てがゼロなことに絶望が忍び寄る。
そこへ、商人以外の人が獣人の自治区へと駆け込んできた。
「た、助けてくれ! あっちの街がめちゃくちゃなんだ、しばらくここにいさせてくれ!」
以前から自治区を差別していた街の者達が、疫病から逃れようと、まだ黒死病の発生していない自治区へと逃げ込んできた。
「やめろ! 来るな! 疫病が持ち込まれたらどうする!」
「お願いします! ここで休ませてください!」
「家族が病気になって……、助けてください!」
避難民達の中には、明らかに体調が悪そうな者もいた。顔色が悪く、熱で朦朧としている者がいる。
「皆さん落ち着いてください! 体調が悪い人は、隔離した場所で休んでもらいましょう。とにかく感染が拡大するのを防がないと!」
リンは大声で呼びかけた。しかし、我を失った人々には中々届かない。
獣人達と避難民は、互いに争い合い、揉み合っている。
「やめろ!」
そこへ、ルドが駆け寄り、争いを止めようと体を割って入らせた。
「ルドおじさん! みんなを止めて、感染拡大を防がなきゃいけないの。体調悪い人を隔離するように伝えて!」
「おう!」
ルドはその立派な体格で相争う人々を抑えると、体調が悪い人々を先導して、空き家へと移動させる。
「リンちゃん、発症者は任せた。俺は他の避難民を案内する」
「ありがとう! ルドおじさん!」
発症者が集められた空き家の中で、リンは診察を開始した。
その中には、明らかに重篤な症状を呈しているものもいる。
その中年男性は、荷車の中で横たわり、荒い呼吸を繰り返していた。
「この方を先に見させてください」
手早くトリアージを済ませたリンは、他の避難民達に声をかけ、中年男性の傍に赴く。
脈拍は非常に早く、そして弱々しい。
熱も高く、額に手を当てれば火がついたように熱かった。意識状態も悪く、呼びかけにも碌に反応しない。
「服を少し捲らせてもらいますね」
反応のない男性に、それでも声をかけて服をまくると、そこには悪夢のような光景が広がっていた。
腋窩に拳代の大きく腫れ上がった黒いできものがあり、それは硬く、触ると男性は苦痛で呻き声を上げた。
「これは……」
間違いない。これはリンが異界の医術書で学んだ、『ペスト』の典型的な症状。『腺ペスト』の腫れ上がったリンパ節だった。




