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「クレアちゃん、健康な人はこの空き家に絶対に近寄らせないで」
空き家を出たリンは、近くで待機していたクレアにそう伝える。
その声はかすかに震えていた。
ペスト——異界の医術書の記載によると、異世界でかつて人口の三分の一を死に至らしめたという。その恐ろしい病が、この獣人自治区にも迫ってきていた。
「どうしよう……抗菌魔法薬は、ここにはない」
ペストの原因は、『ペスト菌』という細菌だ。異界の医学では抗生物質で治療可能だが、この世界では抗菌魔法薬がその役割を果たす。しかし、リンの手元にはない。
抗菌魔法薬を作れるファーマは、グレイモア医術院に残っていた。
「光魔法の治癒術は……」
リンは男性に光魔法をかけてみたが、効果は限定的だった。免疫を活性化させる程度では、体内で起きているペスト菌の爆発的な増殖に対抗できない。
リンはひとまず、対処法が少ないことを周知し、感染の拡大を防ぐために隔離を行うことを自治区の人々へ伝えた。
「発熱した人、体調が悪い人はすぐに伝えてください。簡易救護所へ隔離します」
空き家を簡易的な救護所として設営し、そこに病人達を集める。
頼まれなくても、健康な人々は救護所へは近寄ってはこなかった。
リンは孤独に、病人達の看病を続ける。
最も症状が重篤だった中年男性は、時間が経つにつれてどんどん状態が悪化していった。
「うう……苦しい」
男性が呻き声を上げる。リンが再度診察すると、さらに恐ろしい症状が現れていた。
腫れ上がったリンパ節は、今やぼこぼこと皮膚を異形の形に至らしめ、皮膚は紫黒色に変色していた。さらに、体の各所に小さな黒い斑点——点状出血が現れ始めていた。
「これが、『紫黒の魔女』あるいは『黒死病』と呼ばれる所以……」
リンは戦慄する。皮膚の出血斑が、まるで死の刻印のように身体中に刻まれていた。
せめてできることを、と体を拭いたり、水を飲ませたりして看病していると、男性は不意に激しく咳き込み始めた。
その席に混じって、血が飛び散る。
「血痰……。まずい、肺ペストの症状まで出てきてる……」
肺ペストは、肺にペスト菌が感染する病気で、腺ペストよりもさらに致命的で感染力も強い。飛沫感染により、周囲に病気を撒き散らしてしまう。
リンは布で覆った口元を押さえながら、迫り来る絶望に天を仰いだ。
獣人達が救護所を避ける中、ルドとクレアだけはリンの元へ水や食料などを運んできていた。
スライム達も、周囲をぷるぷると震えながら寄り添ってくれる。
そのことに僅かな救いを感じながら、リンは救護所のかまどに火をつけて、麦粥を作っていた。
たとえ絶望的な病状であっても、せめて食事くらいは摂らせてあげたい。
「く、う……けふっ、ゲホ!」
しかし、病人達は粥すら受け付けない状態になっていた。最初から重篤だった中年男性以外にも、どんどん他の人たちの病状も悪化してきている。
スライムで点滴を行うが、それもまた焼石に水の状態だった。
「こんなに苦しそうなのに、何もしてあげられない……」
リンは自分の無力さに涙が出そうになった。医術師として、目の前で苦しんでいる患者を救えないことほど辛いことはない。
リンが救護所で看病を始めてから二日後、事態はさらに悪化していた。
自治区の健康的な人々の間でも、感染が広まりつつあったのだ。
「リンちゃん! こっちから熱を出している人が出た! しかも複数人だ」
ルドが血相を変えて駆け込んでくる。そこには、ルドに肩を借りてなんとか歩いている女性と、朦朧としながら立っている子供と複数の大人達だった。
患者たちが、次々と救護所へ運び込まれる。すでに空き家はいっぱいで、新たに空けた家をもう一つの救護所として活用していた。
「ママ……、ママ……」
十歳ほどの男の子が、意識が朦朧とした状態でうわごとのように母親を呼んでいた。
太ももの付け根のリンパ節は大きく腫れ上がり、その痛みに泣き叫ぶ。その小さな体に現れた症状は、すでに取り返しがつかないほど進行していた。
「どうして……。どうして、こんな小さな子供にまで残酷な運命を強いるの……神さま……」
リンは、祈ったことはほとんどない。スライムしかテイムできないとわかった日から、神様なんて信じていなかった。
けれど、今回ばかりは神に縋りながらも悲嘆を伝えたいような気分になってしまう。
新たに運び込まれた子どもは、救護所に横たえられてから数刻後に息を引き取った。
最初に重篤な症状を呈していた中年男性もまた、息を引き取る。
日毎に新たな患者が運び込まれ、そして日ごとに亡くなっていく。
リンがそれに対してできるのは、点滴で脱水を防ぎ、光魔法の治癒術で少しでも免疫を強化することのみ。
けれどそれも焼石に水で、リンはもはや埋葬係のようになってしまっている。
大人の獣人たちが穴をほり、その穴の中にリンが遺体を運んで燃やす。感染を防ぐため、健康な者の中で、患者たちと接するのはリンだけに限定していた。
しかし——。
「なんか、寒い、な」
燃やされていく遺体たちの前で、火に当たりながら、リンはぶるりと身を震わせた。
妙な悪寒が、リンの背筋を走っていった。




