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「おはよう、ございます……」
「おはよう、リン。よく眠れましたか」
ヴィクターは何事もなかったような様子で、朝の挨拶をした。リンは、そんなヴィクターを以前と同じようには見られない。
「やはりまだ、納得できませんか」
ヴィクターは一つため息をつくと、リンに問いかけた。
いつも通りに診察室の机を拭いているが、その横顔には疲れた表情が浮かんでいた。
「はい……」
リンは、自分が子供なのだろうということはわかっていた。納得できないでいるのも、リンだけなのだ。だけど、それでも納得することが大人になるということならば、リンは大人になんてなりたくなかった。
ぽよん、ぽよんと、スライムも心配そうにリンの周囲を転がっている。
新しく来た患者に点滴をしながら、リンはため息をつく。
「リン!? リン、その方には生理食塩水じゃない、抗菌魔法薬の方を点滴するように言ったはずですよ!」
「え? ……あ、間違えてました!」
「害のない間違いだからまだいいですが、気をつけなさい。医療事故は患者さんの安全にも関わるのだから」
厳しい声音でヴィクターが追求する。
「はい……」
それでもモヤモヤは晴れなくて、リンはそれが表情に出てしまう。
「リン、いい加減にしなさい。もう決まったことですよ」
そう言うヴィクターの声音は苦渋に満ちていた。
「そんな、そんなの、納得できるわけない! クレアちゃんだって、そうでしょう?」
「リンさん、私はいいんですよ」
諦め切った表情で、クレアが答える。
そのことがリンにとっては尚更許せなかった。
「もう、いい」
リンは、全てが嫌になってしまった。
「私、このグレイモア医術院を辞めます!」
「リン、何を言っているのです!」
「点滴用のスライムは、三匹置いていきます。よく躾けているので私がいなくても言うこと聞くと思います」
「やめてどうするつもりですか」
「獣人族の自治区に行ってきます」
「リン……! 聞き分けのないことを……」
ヴィクターは引き留めるが、リンの意思は固く、翻意することはなかった。
「リン……」
荷物をまとめて、グレイモア医術院を出る。ヴィクターとリンの様子を見ていたクレアは、リンのことを追いかけていた。
「獣人の自治区に行くんだったら、私もついていきます!」
「クレアちゃん……」
「元々私、獣人の自治区出身なんです」
「そうだったの?」
曰く、狐獣人のクレアは、獣人の自治区に住んでいたが、ある日奴隷商に攫われて王国内で売り飛ばされるようになったのだという。
家族も獣人の自治区にいるため、リンがそこへ行くならついて行くと言う。
「いいの? 自治区は貧しい地域なんでしょ。今みたいな暮らしはできないよ」
「いいんです! 家族もいるし。リンさんは私の……ともだちだから」
「クレアちゃん……」
ヴィクターと決別し、傷ついていた心にクレアの言葉が染み渡る。
そのまま二人は、数少ない手荷物を抱えて、乗合馬車へと向かった。
馬車に乗れば、カタコトと揺れながら王都を後にする。
「これから先、どうしたらいいのでしょうか」
「大丈夫、なんとかなるよ。それに、クレアちゃんのご家族にも会いに行こう」
「そう、ですね」
リンはスライムを膝の上に抱っこしながら馬車の座席に座っていた。
窓からの景色は二人の不安な心持ちとは裏腹に、穏やかだ。小麦の穂が黄金色の絨毯と化して、風にそよいでいる。
獣人族の自治区まで、いくつかの都市と宿場町を経由して向かう。獣人国との国境にあるその地域は、戦争の余波で石造りの街は破壊され、今は木造の建物がちらほらとある程度になっている。
海辺にあるその街は、豊富な魚の取れる湾を有し、かつては漁港として栄えていた。
それが国同士の関係悪化により、戦争の影響を受け、今ではグラナイト王国の自治区として、治安も悪く、火種の絶えない地域となっている。
「ここが、獣人族の自治区……」
木造の家々は、きちんとした木材が使われておらず、突貫工事で作られたせいか、潮風のせいか、一部が朽ちている。それに、一部の井戸は枯れ、遠くの水源まで水汲みに行く必要があるようだった。
道にはかつて美しかったであろう石畳がところどころ残っていて、それが余計にもの悲しさを誘う。
自治区の中を歩いている子供達の顔に生気はなく、痩せ細っている。
「なんだか、貧しい以上に、生きる力がない感じのところだね」
「そうですね。独立運動を起こしている人たちは元気ですけど、それ以外の人たちは火種は御免だと思っていて、揉めているのも影響がありそうです」
「そんな感じになっているんだ……」
自治区に唯一存在する宿へとリン達は向かった。
宿は建物こそ大きなものの、やはり見窄らしく、隙間風も多そうだ。
「とりあえず、今日はここで休もうか」
「そうですね」
「明日はクレアちゃんのご家族に会いに行こうね」
「ありがとうございます」
お礼を言いつつも、クレアは少しもの思わしげに目線を下げる。
『どうしたの?』とリンが首を傾げると、クレアは不安そうにもごもごと呟いた。
「家族は、喜んでくれるでしょうか……」
「どうして? だって、クレアちゃんは誘拐されて奴隷商に捕まっちゃったんでしょう? 戻ってきたらきっと喜ぶと思うけど……」
「でも……本当に誘拐されたのか、わからないんです。もしかしたら、家族が仕込んでいたのかもって」
聞くところによると、普段は行かない一人での水汲みに行くようにと言いつけられ、出かけた先で奴隷商に捕まったのだという。
「それは……」
リンが言葉を失っていると、クレアは明るい表情を作って首を横に振った。
「気にしないでください、リンさん。私は、たとえ真実がどうであったとしても、家族のことを大切に思っています。私を売ったお金で元気に弟妹たちが育ってくれたなら、それでいいんです」
「そんな、クレアちゃん」
そんな状態で、クレアの家族に会いに行くのが正解なのかどうなのか、リンにはわからなくなってしまった。
だが、そんなリンをよそに、クレアは却って決心をつけてしまったようで、すっきりとした面持ちで床に着く。




