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「それは……」
ヴィクターが絶句している。元々のグレイモア医術院の理念は、貧しい地域でも、恵まれない人でも助けに行くというものだ。
それが、獣人族の自治区のみ見捨てなければならないとなると、根本的な理念に反する。
リンは、こんな申し出は受け入れられないと思った。
こんな申し出、ヴィクターなら、断るだろう。
だが——。
「承知しました」
その言葉が、苦渋の表情を浮かべたヴィクターから漏れ出る。
「嘘……ヴィクター先生……?」
「リン、控えなさい。陛下の前ですよ」
思わず反論しかけたリンを、ヴィクターが諌める。
リンには、ヴィクターの反応が信じられなかった。リンにとってヴィクターは、常に善良で完璧な大人だった。王立医術院として認可されるからといって、予算がつくからといって、こんな条件、呑むはずがなかった。
けれど、現実は残酷で……。
ヴィクターと国王の間で、話はどんどんと進んでいく。
「それでは、正式な手続きは保健衛生部の文官を派遣する。そちらの指示に従うように」
「は、かしこまりました」
呆然としているリンを他所に、話し合いはあっという間に終わり、グレイモア医術院は王立医術院として認可される方向で話はまとまった。
「ヴィクター先生、なんで……!」
帰り道の馬車の中、リンはヴィクターに抗議の声を上げる。
「より多くの命を救うためです。トリアージと同じです。手を差し伸べようもない者は諦め、最大数の人々を救うために活動する。予算がつけば、その分多くの人を雇い、多くの人を救うこともできます」
「そんな、でも、クレアちゃんみたいな獣人族を見捨てるの!?」
「リン、これは政治の問題です。我々が大きな組織を目指すなら、避けては通れない。あなたにはまだ、難しいかもしれませんが」
「先生……!」
ヴィクターは馬車の座席、前を見つめたまま、横に座るリンの方を振り返ることはなかった。
モヤモヤとした思いを抱えたまま、馬車はグレイモア医術院にたどり着く。
「そうか、そのような条件が……」
「仕方ありませんね。でも、予算がつけば魔法薬の研究をより一層進めることができますわ」
話を聞いたソラリスとファーマは、その条件を受け入れているようだった。
いや、受け入れているのは、クレアでさえも、だ。
「仕方ないですよ、リンさん。このグラナイト王国に獣人国の一部地域が割譲されてから、その自治区は火種の坩堝になっています」
「どうして……、どうしてそんなことになっちゃうの。自治区として認められているってことは、王国だって獣人族のことを認めてるってことですよね!? なのになんで、医療活動を行っちゃダメだなんて……」
「リン、それは複雑な政治的問題があるのです……」
獣人自治区は、急な割譲による反発を避けるため、自治権が認められた状態でグラナイト王国の領となっている。——というのは対外的な名目で、実際には王国の法が行き届かない状態を放置することで、違法な奴隷を乱獲できる狩場として既得権益が存在しているのだった。
獣人族は身体能力が高く、奴隷として有用性が高い。王国の法では借金奴隷や犯罪奴隷はともかく、人身売買などによって人を奴隷化することは違法行為である。
だが、獣人の自治区には王国の法は届かない。違法な奴隷商人が貧しい獣人を端金で買い叩き、王国内で販売しているという事態が常態化していた。
「口さがないものの中には、獣人自治区を奴隷牧場と呼ぶものも居るような有様です。そんな場所は、人道主義の局地たる医術院を侵入させたくないのでしょう。奴隷商人とぶつかり合うことは必至ですし、そもそもが王国に対する恭順派と独立派とで分かれて争っている危険な地域でもあります」
恭順派の獣人は、奴隷商人と手を組んで同族を売り飛ばし、利益を上げている者たちでもある。そして、自治区で権力を握っており、王国からもそれを認められているのは恭順派の獣人だ。そのような環境で、グレイモア医術院が上手く泳ぎ切ることはできそうになかった。
そもそもが、獣人自治区での医療活動など土台無理な話なのだ。
そのことを、懇切丁寧にヴィクターはリンへと言い聞かせる。
「やだ……。そんなの……こんな世の中、やだ…!」
リンは、ポロポロと涙をこぼしながら叫んだ。
ヴィクターに拾われて、居場所ができた。赤痢で亡くなった少年と向き合い、理想に燃えるようになった。
自分にできること、自分にしかできないことを考えながら、毎日一生懸命働いていた。
それが、足元からガラガラと崩れていくようだった。
ただただ、無力感に苛まれる。
奴隷牧場と蔑まれる地域があって、そこには貧しい地域を救うために予算をつけられたグレイモア医術院の手さえも届かない。そんな地域が存在することが、口惜しくて悲しい。
「リン、予算がつくことがどれほど大きいことか、わかるでしょう?」
「予算予算って、先生の頭の中にはお金のことしかないの!」
「お金がなければ、救えない命があるんです。リン」
「でもっ!」
獣人族を、友達のクレアを見捨てるような真似はしたくない。
リンは、ぐるぐると空転する思考に苛まれながら、ふらつく足取りで自室へと閉じこもった。




