第9話「俺、天才かもしれない」
人は、自分のことを天才だと思った瞬間から、少しずつバカになっていく。
これは、後になって俺がたどり着いた、人生の真理の一つだ。
そして、この真理にたどり着くまでに、俺はものすごく遠回りをした。その遠回りの最初の一歩が、この一週間だった。
◇ ◇ ◇
八十万円を達成した次の朝。
洗面所の鏡の前で、俺は自分の顔をじっと見つめていた。
いつもと同じ顔だ。眉毛は普通。目も普通。鼻も普通。どこからどう見ても、平均的な高校生の顔。
でも、なぜか今日は、少しだけ違って見えた。
――これが、天才の顔か。
「……ふっ」
鏡に向かって、意味もなく、ニヒルに笑ってみた。あの映画のマイクが、大きな取引に勝った後にしていた顔のマネだ。
鏡の中に、歯みがきをしながら通りかかった姉ちゃんが映った。
姉ちゃんは、歯ブラシをくわえたまま、俺の顔をじっと見た。
それから、何も言わずに、母さんを呼びに行った。
「お母さーん、蓮が鏡に向かって笑ってるー。なんか、こわいー」
「えっ、どうしたの、熱でもあるの!?」
母さんが、本気で体温計を持ってきた。
三十六度四分。平熱だった。熱があったほうが、まだマシだったかもしれない。
◇ ◇ ◇
天才になった俺は、まず、しゃべり方が変わった。
「健太、今日の昼メシ、何?」
「唐揚げ弁当!」
「ふーん。唐揚げ、か。鶏肉の相場、最近どうなってんだろうな」
「……は?」
「いや、飼料の値段が上がってるからさ。鶏肉関連の銘柄は、ファンダメンタルズ的に、ちょっと厳しいかもな」
「ファンタ?」
「ファンダメンタルズ」
「ファンタのメンタル?」
「違う」
健太は、唐揚げを口に入れたまま、首を四十五度にかしげていた。俺も、本当はファンダメンタルズの意味を、半分くらいしかわかっていなかった。会社の業績とか、そういう基本的なことらしい。たぶん。
それから、スマホの待ち受け画面を、株価のチャートに変えた。ミライ製菓が上方修正で跳ね上がった日の、ぐいっと右肩上がりのチャートだ。
ノートの表紙には、マジックで大きく書いた。
――天才トレーダー REN
英語で書いたのは、そのほうがかっこいいと思ったからだ。
千夏は、そのノートの表紙を見て、三秒間、無言だった。
それから、静かに言った。
「……蓮。それ、十年後に見たら、たぶん死にたくなるよ」
「なんでだよ」
「中学二年生の時に、自分のこと『闇の継承者』って呼んでた男子、知ってるでしょ」
「……三組の山田?」
「今、あの人、そのノートが見つかるたびに、悲鳴あげてるらしいよ」
俺は、ノートの表紙を、そっと手で隠した。
◇ ◇ ◇
その日の放課後、俺は、引き出しの奥の封筒を取り出した。
銀行で下ろした三十万円のうち、株を買った残りの、二万円ちょっと。何かあった時のために、とっておいたお金だ。
――そう、何かあった時のために。
でも、天才の俺には、「何か」なんて、起きるわけがない。
ちなみに、証券口座の中で増えた五十万円は、すぐには使えない。お金を引き出すと、それは「高橋美咲」の名前の銀行口座に振り込まれてしまうからだ。つまり、どれだけ増えても、俺はそのお金に、指一本触れられない。
その事実に気づいたのは、つい昨日のことだった。
千夏の声が、頭の中によみがえった。
――じゃあ、増えたお金も、まだ持ってないのと同じだね。
でも、いい。お金は、口座の中で増え続ければいい。いつか、ちゃんと自分のものにすればいい。それより、今は。
天才は、気前がいいものだ。
俺は封筒をポケットに入れて、健太の部活が終わるのを、校門の前で待った。
◇ ◇ ◇
「――は? ラーメン、おごり?」
泥だらけのユニフォームのまま、健太は、俺の言葉を三回聞き返した。
「おう。好きなだけ食え」
「好きなだけって、どれくらい?」
「好きなだけは、好きなだけだ」
健太の目が、ゆっくりと、大きく見開かれた。それから、うるうると潤んできた。
「蓮……お前……いいやつだなあ……!」
「ヨーグルトのお礼だよ」
「ヨーグルト?」
「なんでもない」
そこに、生徒会の仕事を終えた千夏も通りかかった。事情を聞いた千夏は、少しだけ眉をひそめたけど、健太に腕を引っぱられて、結局一緒についてきた。
駅の反対側の、商店街の外れ。そこに、一軒の古いラーメン屋がある。
赤いのれんに、黒い字で「くまや」。
健太の野球部の先輩たちが、「量が多くて、安くて、うまい」と言っている店だ。俺は、入るのは初めてだった。
ガラガラ、と引き戸を開けると、カウンターの向こうから、低い声がした。
「らっしゃい」
厨房に立っていたのは、熊みたいに大きな体の、四十代くらいのおじさんだった。頭に白いタオルを巻いて、太い腕で、湯切りのざるを振っている。
俺たち三人は、カウンターに並んで座った。
「おじさん、ラーメン!」
健太が、元気よく手を挙げた。
「あいよ。何杯?」
健太は、ちらっと俺を見た。俺は、天才の余裕で、ゆっくりうなずいた。
「――とりあえず、五杯で!」
店の中が、一瞬、静まり返った。
おじさんは、湯切りのざるを止めて、健太をじっと見た。それから、口の端を少しだけ上げた。
「五杯か。……ごはいさんにならねえように、気をつけな」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ご敗さん。五杯と、ご敗。……わかんねえか」
おじさんは、少しだけさみしそうな顔をして、麺をゆで始めた。
千夏が、小声で俺に耳打ちした。
「今のって、ダジャレ?」
「たぶん」
「寒い」
「うん」
俺たちは、この時まだ知らなかった。この寒いダジャレの店長と、この先、長い長い付き合いになることを。
◇ ◇ ◇
健太は、食べた。
一杯目、三分。二杯目、四分。三杯目で、少しペースが落ちた。四杯目で、額に汗が浮かんだ。五杯目を食べ終えた時、健太は、どんぶりを掲げて叫んだ。
「おかわり!」
「まだ食うのか!?」
「好きなだけって言っただろ!」
結局、健太が七杯、俺が二杯、千夏が一杯。合計で、十杯。
カウンターの上に、空のどんぶりが十個、ずらりと並んだ。壮観だった。店にいたほかのお客さんが、スマホで写真を撮っていた。
会計の時、俺は封筒から、お札を何枚も取り出した。
その時だった。
ポケットの中で、スマホが震えた。株価のアラームだ。持っている株が、設定した値段を超えると知らせてくれる。
俺は、思わずその場でスマホを開いた。
――通知:保有銘柄が+5%上昇しました
「……よし」
小さくつぶやいて、にやりと笑った。
顔を上げると、カウンターの向こうで、店長がこっちを見ていた。
お釣りを渡しながら、店長は、俺のスマホの画面に、ちらっと目をやった。ほんの一瞬だった。それから、俺の顔を見た。
「兄ちゃん」
「はい?」
「勝ってる時の顔、してるな」
「え?」
店長は、それ以上は何も言わなかった。ただ、少しだけ目を細めて、こうつけ加えた。
「……そういう顔の時が、一番あぶねえんだ。気をつけな」
そして、また厨房に戻って、黙々とどんぶりを洗い始めた。
意味が、わからなかった。
ラーメン屋のおじさんが、なんで株のことを? 俺は首をかしげながら、店を出た。
◇ ◇ ◇
「ごちそうさまでした! 蓮、一生ついていくぜ!」
店の前で、健太は、パンパンにふくらんだお腹をさすりながら、俺の肩を抱いた。ラーメンの匂いがした。
「おう。また連れてきてやるよ」
「マジか! 次は焼肉な!」
「焼肉は、もっと勝ってからな」
天才の余裕で、俺は笑った。
駅までの帰り道。健太は、ラーメンを食べすぎて、途中で一回しゃがみこんだ。俺と千夏は、健太の背中を、交代でさすった。
健太が、ようやく立ち上がって前を歩き始めた時、千夏が、俺の横に並んだ。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「さっきのラーメン代、一万円近かったよね」
「まあな」
「そのお金、どこから出てるの?」
足が、一瞬止まった。
「……株の、もうけだよ」
「株のもうけって、証券口座の中にあるんでしょ。この前、蓮がそう言ってたよね。再投資してるって」
「……」
「それに、おばさんの同意で作った口座なら、お金の出し入れも、おばさんが見てるんじゃないの?」
千夏の声は、責めているわけじゃなかった。ただ、不思議そうに、まっすぐ聞いているだけだった。
だから、余計に、答えられなかった。
俺は、千夏から目をそらして、前を歩く健太の背中を見た。
「……貯金だよ。お年玉の、残り」
それは、本当のことだった。半分だけ。
千夏は、しばらく黙って俺の横顔を見ていた。それから、小さく「そっか」と言った。
それ以上、何も聞いてこなかった。
その「そっか」が、どんな質問よりも、ずっと重かった。
◇ ◇ ◇
次の日。
その週、俺は教室の掃除当番だった。そして、同じ班に、白石さんがいた。
放課後の教室。机を後ろに下げて、ほうきで床をはく。健太は野球部に行ってしまった。ほかの班のメンバーは、ゴミ捨てに行っている。
教室には、俺と白石さんの、二人だけだった。
白石さんは、黙々と、黒板をきれいにしていた。黒板消しを、上から下へ、きっちりまっすぐに動かしている。几帳面な人だ。たぶん、千夏と同じ種類の人だ。
俺は、ほうきを動かしながら、何度も白石さんの背中を見た。
言いたいことがあった。
ずっと、言いたかったことが。
「……白石さん」
「何?」
白石さんは、振り返らずに答えた。
「株、やっぱり、博打じゃなかったよ」
黒板消しの動きが、止まった。
「一か月で、三十万が、八十万になった。勝率、百パーセント。ちゃんと勉強して、ちゃんと考えて買ったら、ちゃんと上がった」
本当は、ちゃんと考えて買ったのは、最初の一回だけだった。いや、最初の一回も、「ポップコーンが人生を変えたから」という理由だった。でも、そんなことは、言わなかった。
「だから、白石さんが言ってたこと、違ったと思う。株で幸せになるやつ、ここにいるよ」
言えた。
ずっと、言いたかった言葉が。
白石さんは、ゆっくり振り返った。
そして、俺の顔を、上から下まで、じっくりと見た。
まるで、図書室で、借りた本の状態を確かめる時みたいに。
それから、真顔で、はっきりと言った。
「――高橋くん。顔、ゆるみすぎてて、気持ち悪い」
「…………え」
「最近ずっと、その顔。授業中も、休み時間も、廊下を歩いてる時も。にやにやしてて、ちょっと、気持ち悪い」
気持ち悪い。
二回、言われた。
千夏に二回言われると勝ち目がないのと同じように、白石さんに二回言われると、心が砕ける。俺は、今、それを初めて知った。
「そ、そんなに?」
「そんなに」
白石さんは、黒板のほうに向き直って、また黒板消しを動かし始めた。
「それに、一か月でしょ」
「……え?」
「まだ、一か月。勝率百パーセントって、一か月の話でしょ」
白石さんの声は、静かだった。
「一か月で幸せになった人なんて、たぶん、どこにもいないよ」
それきり、白石さんは何も言わなかった。黒板消しの音だけが、二人きりの教室に、しゅっ、しゅっ、と響いていた。
ほかの班のメンバーが、ゴミ捨てから戻ってきた。白石さんは、黒板消しを置いて、静かに自分のカバンを持った。
教室を出ていく時、白石さんは、一度だけ振り返った。
その顔は、怒っても、あきれても、いなかった。
ただ、少しだけ、心配そうに見えた。
――気のせいだ。
俺は、そう思うことにした。
◇ ◇ ◇
その夜。
ベッドの上で、ほっぺたを両手でつまんで、ぐいぐい引っぱっていた。
顔が、ゆるんでる。気持ち悪い。
そんなに、ゆるんでるか? 鏡を見る。……ゆるんでいた。自分でもびっくりするくらい、口の端が上がっていた。何もしていないのに、勝手に笑っている。
「……くそっ」
ほっぺたを、ぱちんと叩いた。
一か月で幸せになった人なんて、どこにもいない。
白石さんの言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
――違う。
俺は、八十万円を持っている。勝率は、百パーセントだ。それは、数字で証明されている。白石さんは、ただ、株のことをよく知らないだけだ。
だったら、もっと勝てばいい。
一か月じゃなくて、もっと大きく。誰が見ても文句のつけようがないくらい、大きく勝てばいい。そうすれば、白石さんも、千夏も、ラーメン屋のおじさんも、きっとわかってくれる。
俺はスマホを開いて、SNSのアプリを立ち上げた。
最近、フォローし始めた人がいる。
アキラ。投資の世界では有名な人らしい。フォロワーは、五十万人。プロフィールの写真では、高級な腕時計をつけた手が、札束を扇のように広げている。投稿には、毎日のように、何百万円ももうけた画面のスクリーンショットが載っていた。
かっこいい、と思った。
あの映画のマイクと同じくらい。いや、それ以上に。
その夜、アキラの新しい投稿が、画面の一番上に表示された。
――明日の朝、とっておきの銘柄を一つだけ公開します。
――俺の読みでは、こいつは「10倍」になる。
――乗り遅れた人は、一生後悔するよ。
十倍。
八十万円が、十倍になったら。
八百万円。
俺は、その数字を、しばらくじっと見つめていた。
天才の俺の顔は、たぶん、今までで一番、ゆるんでいた。
(第9話 終わり)
人は、自分のことを天才だと思った瞬間から、少しずつバカになっていく。
これは、後になって俺がたどり着いた、人生の真理の一つだ。
そして、この真理にたどり着くまでに、俺はものすごく遠回りをした。その遠回りの最初の一歩が、この一週間だった。
◇ ◇ ◇
八十万円を達成した次の朝。
洗面所の鏡の前で、俺は自分の顔をじっと見つめていた。
いつもと同じ顔だ。眉毛は普通。目も普通。鼻も普通。どこからどう見ても、平均的な高校生の顔。
でも、なぜか今日は、少しだけ違って見えた。
――これが、天才の顔か。
「……ふっ」
鏡に向かって、意味もなく、ニヒルに笑ってみた。あの映画のマイクが、大きな取引に勝った後にしていた顔のマネだ。
鏡の中に、歯みがきをしながら通りかかった姉ちゃんが映った。
姉ちゃんは、歯ブラシをくわえたまま、俺の顔をじっと見た。
それから、何も言わずに、母さんを呼びに行った。
「お母さーん、蓮が鏡に向かって笑ってるー。なんか、こわいー」
「えっ、どうしたの、熱でもあるの!?」
母さんが、本気で体温計を持ってきた。
三十六度四分。平熱だった。熱があったほうが、まだマシだったかもしれない。
◇ ◇ ◇
天才になった俺は、まず、しゃべり方が変わった。
「健太、今日の昼メシ、何?」
「唐揚げ弁当!」
「ふーん。唐揚げ、か。鶏肉の相場、最近どうなってんだろうな」
「……は?」
「いや、飼料の値段が上がってるからさ。鶏肉関連の銘柄は、ファンダメンタルズ的に、ちょっと厳しいかもな」
「ファンタ?」
「ファンダメンタルズ」
「ファンタのメンタル?」
「違う」
健太は、唐揚げを口に入れたまま、首を四十五度にかしげていた。俺も、本当はファンダメンタルズの意味を、半分くらいしかわかっていなかった。会社の業績とか、そういう基本的なことらしい。たぶん。
それから、スマホの待ち受け画面を、株価のチャートに変えた。ミライ製菓が上方修正で跳ね上がった日の、ぐいっと右肩上がりのチャートだ。
ノートの表紙には、マジックで大きく書いた。
――天才トレーダー REN
英語で書いたのは、そのほうがかっこいいと思ったからだ。
千夏は、そのノートの表紙を見て、三秒間、無言だった。
それから、静かに言った。
「……蓮。それ、十年後に見たら、たぶん死にたくなるよ」
「なんでだよ」
「中学二年生の時に、自分のこと『闇の継承者』って呼んでた男子、知ってるでしょ」
「……三組の山田?」
「今、あの人、そのノートが見つかるたびに、悲鳴あげてるらしいよ」
俺は、ノートの表紙を、そっと手で隠した。
◇ ◇ ◇
その日の放課後、俺は、引き出しの奥の封筒を取り出した。
銀行で下ろした三十万円のうち、株を買った残りの、二万円ちょっと。何かあった時のために、とっておいたお金だ。
――そう、何かあった時のために。
でも、天才の俺には、「何か」なんて、起きるわけがない。
ちなみに、証券口座の中で増えた五十万円は、すぐには使えない。お金を引き出すと、それは「高橋美咲」の名前の銀行口座に振り込まれてしまうからだ。つまり、どれだけ増えても、俺はそのお金に、指一本触れられない。
その事実に気づいたのは、つい昨日のことだった。
千夏の声が、頭の中によみがえった。
――じゃあ、増えたお金も、まだ持ってないのと同じだね。
でも、いい。お金は、口座の中で増え続ければいい。いつか、ちゃんと自分のものにすればいい。それより、今は。
天才は、気前がいいものだ。
俺は封筒をポケットに入れて、健太の部活が終わるのを、校門の前で待った。
◇ ◇ ◇
「――は? ラーメン、おごり?」
泥だらけのユニフォームのまま、健太は、俺の言葉を三回聞き返した。
「おう。好きなだけ食え」
「好きなだけって、どれくらい?」
「好きなだけは、好きなだけだ」
健太の目が、ゆっくりと、大きく見開かれた。それから、うるうると潤んできた。
「蓮……お前……いいやつだなあ……!」
「ヨーグルトのお礼だよ」
「ヨーグルト?」
「なんでもない」
そこに、生徒会の仕事を終えた千夏も通りかかった。事情を聞いた千夏は、少しだけ眉をひそめたけど、健太に腕を引っぱられて、結局一緒についてきた。
駅の反対側の、商店街の外れ。そこに、一軒の古いラーメン屋がある。
赤いのれんに、黒い字で「くまや」。
健太の野球部の先輩たちが、「量が多くて、安くて、うまい」と言っている店だ。俺は、入るのは初めてだった。
ガラガラ、と引き戸を開けると、カウンターの向こうから、低い声がした。
「らっしゃい」
厨房に立っていたのは、熊みたいに大きな体の、四十代くらいのおじさんだった。頭に白いタオルを巻いて、太い腕で、湯切りのざるを振っている。
俺たち三人は、カウンターに並んで座った。
「おじさん、ラーメン!」
健太が、元気よく手を挙げた。
「あいよ。何杯?」
健太は、ちらっと俺を見た。俺は、天才の余裕で、ゆっくりうなずいた。
「――とりあえず、五杯で!」
店の中が、一瞬、静まり返った。
おじさんは、湯切りのざるを止めて、健太をじっと見た。それから、口の端を少しだけ上げた。
「五杯か。……ごはいさんにならねえように、気をつけな」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ご敗さん。五杯と、ご敗。……わかんねえか」
おじさんは、少しだけさみしそうな顔をして、麺をゆで始めた。
千夏が、小声で俺に耳打ちした。
「今のって、ダジャレ?」
「たぶん」
「寒い」
「うん」
俺たちは、この時まだ知らなかった。この寒いダジャレの店長と、この先、長い長い付き合いになることを。
◇ ◇ ◇
健太は、食べた。
一杯目、三分。二杯目、四分。三杯目で、少しペースが落ちた。四杯目で、額に汗が浮かんだ。五杯目を食べ終えた時、健太は、どんぶりを掲げて叫んだ。
「おかわり!」
「まだ食うのか!?」
「好きなだけって言っただろ!」
結局、健太が七杯、俺が二杯、千夏が一杯。合計で、十杯。
カウンターの上に、空のどんぶりが十個、ずらりと並んだ。壮観だった。店にいたほかのお客さんが、スマホで写真を撮っていた。
会計の時、俺は封筒から、お札を何枚も取り出した。
その時だった。
ポケットの中で、スマホが震えた。株価のアラームだ。持っている株が、設定した値段を超えると知らせてくれる。
俺は、思わずその場でスマホを開いた。
――通知:保有銘柄が+5%上昇しました
「……よし」
小さくつぶやいて、にやりと笑った。
顔を上げると、カウンターの向こうで、店長がこっちを見ていた。
お釣りを渡しながら、店長は、俺のスマホの画面に、ちらっと目をやった。ほんの一瞬だった。それから、俺の顔を見た。
「兄ちゃん」
「はい?」
「勝ってる時の顔、してるな」
「え?」
店長は、それ以上は何も言わなかった。ただ、少しだけ目を細めて、こうつけ加えた。
「……そういう顔の時が、一番あぶねえんだ。気をつけな」
そして、また厨房に戻って、黙々とどんぶりを洗い始めた。
意味が、わからなかった。
ラーメン屋のおじさんが、なんで株のことを? 俺は首をかしげながら、店を出た。
◇ ◇ ◇
「ごちそうさまでした! 蓮、一生ついていくぜ!」
店の前で、健太は、パンパンにふくらんだお腹をさすりながら、俺の肩を抱いた。ラーメンの匂いがした。
「おう。また連れてきてやるよ」
「マジか! 次は焼肉な!」
「焼肉は、もっと勝ってからな」
天才の余裕で、俺は笑った。
駅までの帰り道。健太は、ラーメンを食べすぎて、途中で一回しゃがみこんだ。俺と千夏は、健太の背中を、交代でさすった。
健太が、ようやく立ち上がって前を歩き始めた時、千夏が、俺の横に並んだ。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「さっきのラーメン代、一万円近かったよね」
「まあな」
「そのお金、どこから出てるの?」
足が、一瞬止まった。
「……株の、もうけだよ」
「株のもうけって、証券口座の中にあるんでしょ。この前、蓮がそう言ってたよね。再投資してるって」
「……」
「それに、おばさんの同意で作った口座なら、お金の出し入れも、おばさんが見てるんじゃないの?」
千夏の声は、責めているわけじゃなかった。ただ、不思議そうに、まっすぐ聞いているだけだった。
だから、余計に、答えられなかった。
俺は、千夏から目をそらして、前を歩く健太の背中を見た。
「……貯金だよ。お年玉の、残り」
それは、本当のことだった。半分だけ。
千夏は、しばらく黙って俺の横顔を見ていた。それから、小さく「そっか」と言った。
それ以上、何も聞いてこなかった。
その「そっか」が、どんな質問よりも、ずっと重かった。
◇ ◇ ◇
次の日。
その週、俺は教室の掃除当番だった。そして、同じ班に、白石さんがいた。
放課後の教室。机を後ろに下げて、ほうきで床をはく。健太は野球部に行ってしまった。ほかの班のメンバーは、ゴミ捨てに行っている。
教室には、俺と白石さんの、二人だけだった。
白石さんは、黙々と、黒板をきれいにしていた。黒板消しを、上から下へ、きっちりまっすぐに動かしている。几帳面な人だ。たぶん、千夏と同じ種類の人だ。
俺は、ほうきを動かしながら、何度も白石さんの背中を見た。
言いたいことがあった。
ずっと、言いたかったことが。
「……白石さん」
「何?」
白石さんは、振り返らずに答えた。
「株、やっぱり、博打じゃなかったよ」
黒板消しの動きが、止まった。
「一か月で、三十万が、八十万になった。勝率、百パーセント。ちゃんと勉強して、ちゃんと考えて買ったら、ちゃんと上がった」
本当は、ちゃんと考えて買ったのは、最初の一回だけだった。いや、最初の一回も、「ポップコーンが人生を変えたから」という理由だった。でも、そんなことは、言わなかった。
「だから、白石さんが言ってたこと、違ったと思う。株で幸せになるやつ、ここにいるよ」
言えた。
ずっと、言いたかった言葉が。
白石さんは、ゆっくり振り返った。
そして、俺の顔を、上から下まで、じっくりと見た。
まるで、図書室で、借りた本の状態を確かめる時みたいに。
それから、真顔で、はっきりと言った。
「――高橋くん。顔、ゆるみすぎてて、気持ち悪い」
「…………え」
「最近ずっと、その顔。授業中も、休み時間も、廊下を歩いてる時も。にやにやしてて、ちょっと、気持ち悪い」
気持ち悪い。
二回、言われた。
千夏に二回言われると勝ち目がないのと同じように、白石さんに二回言われると、心が砕ける。俺は、今、それを初めて知った。
「そ、そんなに?」
「そんなに」
白石さんは、黒板のほうに向き直って、また黒板消しを動かし始めた。
「それに、一か月でしょ」
「……え?」
「まだ、一か月。勝率百パーセントって、一か月の話でしょ」
白石さんの声は、静かだった。
「一か月で幸せになった人なんて、たぶん、どこにもいないよ」
それきり、白石さんは何も言わなかった。黒板消しの音だけが、二人きりの教室に、しゅっ、しゅっ、と響いていた。
ほかの班のメンバーが、ゴミ捨てから戻ってきた。白石さんは、黒板消しを置いて、静かに自分のカバンを持った。
教室を出ていく時、白石さんは、一度だけ振り返った。
その顔は、怒っても、あきれても、いなかった。
ただ、少しだけ、心配そうに見えた。
――気のせいだ。
俺は、そう思うことにした。
◇ ◇ ◇
その夜。
ベッドの上で、ほっぺたを両手でつまんで、ぐいぐい引っぱっていた。
顔が、ゆるんでる。気持ち悪い。
そんなに、ゆるんでるか? 鏡を見る。……ゆるんでいた。自分でもびっくりするくらい、口の端が上がっていた。何もしていないのに、勝手に笑っている。
「……くそっ」
ほっぺたを、ぱちんと叩いた。
一か月で幸せになった人なんて、どこにもいない。
白石さんの言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
――違う。
俺は、八十万円を持っている。勝率は、百パーセントだ。それは、数字で証明されている。白石さんは、ただ、株のことをよく知らないだけだ。
だったら、もっと勝てばいい。
一か月じゃなくて、もっと大きく。誰が見ても文句のつけようがないくらい、大きく勝てばいい。そうすれば、白石さんも、千夏も、ラーメン屋のおじさんも、きっとわかってくれる。
俺はスマホを開いて、SNSのアプリを立ち上げた。
最近、フォローし始めた人がいる。
アキラ。投資の世界では有名な人らしい。フォロワーは、五十万人。プロフィールの写真では、高級な腕時計をつけた手が、札束を扇のように広げている。投稿には、毎日のように、何百万円ももうけた画面のスクリーンショットが載っていた。
かっこいい、と思った。
あの映画のマイクと同じくらい。いや、それ以上に。
その夜、アキラの新しい投稿が、画面の一番上に表示された。
――明日の朝、とっておきの銘柄を一つだけ公開します。
――俺の読みでは、こいつは「10倍」になる。
――乗り遅れた人は、一生後悔するよ。
十倍。
八十万円が、十倍になったら。
八百万円。
俺は、その数字を、しばらくじっと見つめていた。
天才の俺の顔は、たぶん、今までで一番、ゆるんでいた。
(第9話 終わり)




