第10話「SNSの神銘柄」
午前六時五十九分。
俺は、ベッドの上で正座をして、スマホの画面をにらんでいた。
目覚まし時計は、六時半にセットしていた。でも、実際に目が覚めたのは、五時だった。それから二時間近く、俺はずっと、この画面を見つめている。
アキラの、とっておきの銘柄。
午前七時に、公開される。
画面の右上の時計が、ゆっくりと数字を変えた。
――7:00
更新ボタンを押す。
出ない。
もう一回押す。
出ない。
もう一回。もう一回。もう一回。
「……まだかよ……っ」
七時一分。指が痛くなるほど、更新ボタンを連打していた、その時だった。
画面の一番上に、新しい投稿が、ぽんと現れた。
――お待たせ。今日の銘柄はこれ。
――【ネクストフロンティア】
――次世代電池の新技術。まだ誰も気づいてない。大手との提携も近い(と俺は読んでる)。
――今の株価は、ただの入り口。10倍は、通過点。
――乗るか乗らないかは、自己責任でどうぞ。
最後の一行は、小さな字だった。
俺は、その小さな一行を、読まなかったことにした。
◇ ◇ ◇
ネクストフロンティア。
聞いたことのない会社だった。
すぐに調べた。社員は、三十人くらい。本社は、どこかの地方都市の、小さなビルの三階。ホームページには、青い背景に、よくわからない電池の写真が一枚だけ載っていた。
業績を見てみる。
売上は、ほとんどない。そして、利益の欄は、真っ赤だった。五年連続の赤字。本に書いてあった言葉で言うと、「業績不振」というやつだ。
普通なら、ここで手を止めるべきだった。
本にも、そう書いてあった。「赤字が続いている会社は、慎重に」と。
でも、俺の頭の中で、天才の俺が、すばやく答えを出した。
――だからこそ、伸びしろがあるんだ。
今が一番ダメだから、これから一番上がる。今、誰も気づいていないから、気づいた俺だけが勝てる。そうだ、あの映画のマイクも、みんなが見向きもしない会社の株を買って、大逆転したじゃないか。
完璧な理論だった。
少なくとも、朝の七時十五分の、寝不足の俺にとっては。
◇ ◇ ◇
問題は、お金だった。
八十万円は、全部、別の株に変わっている。ネクストフロンティアを買うには、今持っている株を、全部売らなきゃいけない。
アプリを開いて、自分が持っている株の一覧を見た。
ゲーム会社。AIの会社。電池の会社。
そして、一番上に、ミライ製菓。
ミライ製菓だけは、一度売ったあと、どうしても気になって、少しだけ買い直していた。俺の最初の株だ。あのポップコーンの会社だ。
親指が、「売却」のボタンの上で、止まった。
机の上には、昨日の帰りにコンビニで買った、星の形のスナック菓子の袋があった。まだ半分くらい残っている。
俺は、その袋を開けて、一つだけ、口に入れた。
いつもの味だった。子どもの頃から食べてきた、あの味。
――会社のことを好きにならなきゃ、続かんぞ。
田村先生の声が、どこか遠くで聞こえた気がした。
「……ごめんな」
誰に謝っているのか、自分でもよくわからなかった。
俺は、全部の株に、「成行で売却」の注文を入れた。それから、ネクストフロンティアに、残りのお金で買えるだけの「成行で買い」の注文を入れた。
全額。
八十万円、全部。
本には、「一つの株に全部のお金を入れてはいけない」とも書いてあった。卵を一つのカゴに盛るな、という格言まで載っていた。カゴを落としたら、卵が全部割れてしまうから。
でも、天才は、カゴを落とさない。
注文確定のボタンを押した時、俺の指は、もう震えていなかった。
それが、一番、怖いことだったと、今ならわかる。
◇ ◇ ◇
リビングに降りると、テレビで朝のニュースが流れていた。
「――SNSで『必ず上がる』と特定の株をすすめ、多くの人に買わせた後で、自分だけ高値で売り抜ける。こうした手口による被害の相談が、増えています」
アナウンサーの声に、トーストを持つ手が止まった。
画面には、うつむいた男の人の後ろ姿が映っていた。顔にはモザイクがかかっている。「老後のためのお金を、全部……」という、震える声。
「怖いわねえ」
母さんが、お弁当を詰めながら言った。
「お父さん、こういうのに引っかかっちゃダメよ。うちには、大叔父さんっていう前例があるんだから」
「わかってるよ」
父さんは、新聞から顔を上げずに答えた。
俺は、テーブルの上のリモコンに、そっと手を伸ばした。
そして、チャンネルを変えた。
画面が、天気予報に切り替わった。今日は一日、晴れ。降水確率、ゼロパーセント。
「あら、蓮、天気予報なんて見るの?」
「……たまには」
ゼロパーセント。いい天気だ。
俺は、自分にそう言い聞かせながら、冷めたトーストをかじった。
◇ ◇ ◇
九時。
二時間目の、国語の授業中だった。
今度は、筆箱の中のスマホも見なかった。見なくても、わかっていた。今、この瞬間、俺の八十万円が、ネクストフロンティアの株に変わった。
心臓は、ばくばくしていた。でも、それは、初めてミライ製菓を買った時の、あのワクワクする音とは違った。もっと速くて、もっと浅くて、なんだか息が苦しくなるような音だった。
休み時間のチャイムが鳴った瞬間、俺はトイレに走った。
個室に飛び込んで、アプリを開く。
――ネクストフロンティア 約定しました。1,300株 598円
――評価損益:+93,600円
もう、九万円以上増えていた。
株価の画面を開くと、ネクストフロンティアのチャートは、まるでロケットみたいに、ほぼまっすぐ上に伸びていた。買いたい人が、全国から殺到しているのだ。アキラのフォロワー、五十万人。その中の何人が、今、この株を買っているんだろう。
――すごい。
本当に、すごい。
アキラは、本物だ。
トイレの個室の中で、俺は、こみ上げてくる笑いを、こらえきれなかった。
隣の個室から、「……誰か、笑ってる?」という、おびえた声が聞こえた。
俺は慌てて口を押さえて、水を流した。
◇ ◇ ◇
昼休み。いつもの中庭のベンチ。
「なあなあ蓮、また株、上がってんの?」
健太が、唐揚げをほおばりながら聞いてきた。
「……まあな」
「どれくらい?」
「今日だけで、十万くらい」
「十万!?」
健太が、唐揚げを吹き出しそうになった。
「一日で!? なんて会社!?」
「ネクストフロンティアって、電池の会社。アキラって有名な人が、十倍になるって言ってて――」
「十倍!?」
健太の目が、ぎらぎらと輝いた。それから、急にポケットをごそごそと探り始めた。
「俺も買う! 俺、お年玉の残り、五千円ある! 五千円が十倍になったら、五万だろ!? グローブ買える! 新しいキャッチャーミット!」
「――やめとけ」
自分でも、驚くほど速く、強い声が出た。
健太が、きょとんとした顔で、手を止めた。
「え、なんで?」
「……いや、なんでもない。お前は、やめとけ」
「なんでだよ! 蓮は買ってるのに!」
千夏が、お茶を飲む手を止めて、俺を見た。
「蓮。どうして、健太には、やめとけって言うの?」
「……」
「十倍になるんでしょ? 蓮は全部買ってるんでしょ? だったら、健太が買っても、いいんじゃないの?」
千夏の声は、静かだった。でも、その目は、まっすぐ俺を見ていた。
答えられなかった。
どうして、健太にはやめとけと言ったのか。自分でも、わからなかった。
いや、本当は、わかっていたのかもしれない。
心のどこかで、この株が、「健太には買わせたくない株」だと、気づいていたのかもしれない。
「……健太の五千円は、ミットのために、ちゃんと取っとけってことだよ」
なんとか、それだけ言った。
健太は、少し不満そうに口をとがらせた。でも、すぐに「まあ、蓮がそう言うなら」と、五千円を財布に戻した。
千夏は、もう何も言わなかった。
ただ、ずっと、俺の顔を見ていた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、ネクストフロンティアは、ストップ高になった。
ストップ高。一日に上がっていい値段の上限まで、株価が上がりきることだ。それ以上は、その日はもう上がれない。それくらい、買いたい人が殺到しているということだ。
アキラのSNSには、お祝いのコメントがあふれていた。
――アキラさん神!
――一生ついていきます!
――今日だけで給料一か月分もうかりました!
その一番上で、アキラが新しい投稿をしていた。
――まだまだ序章。ここからが本番。降りるやつは、ただのビビり。
俺は、そのコメント欄に、生まれて初めて書き込みをした。
――ついていきます!
送信した後、少しだけ恥ずかしくなった。でも、すぐに、どうでもよくなった。
画面の数字は、九十万円を超えていた。
◇ ◇ ◇
次の日も、ネクストフロンティアは上がった。
朝から買い注文が殺到して、またストップ高。
――資産合計:1,170,000円
百十七万円。
三十万円で始めて、一か月と少し。
俺は、学校の帰り道、ずっと空を見上げて歩いていた。電柱には、ぶつからなかった。千夏が、黙って俺の腕を引っぱって、よけさせてくれていたからだ。
その夜、SNSを見ていた時、一つのコメントが目に入った。
アキラの投稿の、ずっと下のほう。誰も「いいね」を押していない、小さなコメント。
――これ、どう見ても仕手株でしょ。業績ゼロの会社がこんなに上がるわけない。最後に買った人が全部持っていかれるやつ。みんな、早く逃げたほうがいい。
仕手株。
その言葉は、『相場の格言百選』の、後ろのほうのページで、ちらっと見た気がした。白石さんが延長してくれた、あの本の、俺が読み飛ばしたページで。
心臓が、一回だけ、嫌な音を立てた。
俺は、そのコメントをしばらく見つめていた。
それから、そのコメントを書いた人を、ブロックした。
――ただのビビりだ。アキラも、そう言ってた。
画面から、そのコメントが消えた。消えた瞬間、少しだけ、ほっとした。
見たくないものは、見えないようにすればいい。
十六歳の俺は、本気で、そう思っていた。
◇ ◇ ◇
ガチャ、とドアが開いた。
もちろん、ノックはない。
「蓮、来週の十四日、何の日か覚えてる?」
姉ちゃんだった。風呂上がりらしく、頭にタオルを巻いている。
「……姉ちゃんの誕生日」
「正解。で? プレゼントは?」
「まだ考え中」
「早く考えな。この前の高いプリンで、ハードル上がってるからね。あれ以下だったら、許さないから」
姉ちゃんは、俺のベッドの端に、どかっと座った。それから、天井を見上げて、ため息をついた。
「はあ。二十一歳かあ。免許も取ったのにさ、車ないから、全然運転してないんだよね。このままじゃ、ペーパードライバー確定」
「車、欲しいの?」
「そりゃ欲しいよ。でも、無理無理。留学のお金貯めてるのに、車なんて買えるわけないじゃん。中古の軽でも、百万とかするんだよ?」
百万。
今の俺には、百十七万円がある。
――八十万円が、十倍になったら、八百万円。
頭の中で、計算機が、勝手に動き出した。
八百万円あったら、姉ちゃんに車を買ってやれる。中古の軽じゃなくて、新車だ。それでも、まだお金は余る。姉ちゃんの留学費用も、全部出してやれる。ロンドンまで、あと何日、なんてカウントダウンしなくても、来月にでも行ける。
そして、全部が終わったら、姉ちゃんに、本当のことを話すんだ。
「実は、姉ちゃんの名前で、株をやってた。ごめん。でも、ほら、八百万円になった。これ、全部、姉ちゃんのために増やしたんだ」
姉ちゃんは、最初はきっと怒る。めちゃくちゃ怒る。でも、最後には、きっと笑って、許してくれる。
――そうに、決まってる。
「……何、にやにやしてんの。気持ち悪い」
姉ちゃんが、眉をひそめた。白石さんと、同じことを言われた。
「なんでもない」
「あんた、最近ずっとそれ。ほんと、変」
姉ちゃんは、タオルで頭をごしごし拭きながら、立ち上がった。ドアのところで、振り返る。
「プレゼント、楽しみにしてるからね」
「……おう。すげえやつ、用意しとく」
「期待しないで待っとく」
バタン、とドアが閉まった。
◇ ◇ ◇
電気を消して、布団に入った。
暗闇の中で、目を閉じる。
まぶたの裏に、赤い車が浮かんだ。ぴかぴかの新車だ。運転席には、姉ちゃんが座っている。助手席には、俺。後ろの席には、母さんと父さん。母さんは、「蓮が買ったの!?」と泣いている。父さんは、新聞の株価のページを、一秒でめくらずに、じっと見つめている。
窓の外には、ロンドンの赤い二階建てバス。いつの間にか、車ごとロンドンに来ている。夢だから、なんでもありだ。
姉ちゃんが、ハンドルを握りながら、笑って言う。
「蓮、ありがとう。あんた、天才だね」
――うん。知ってる。
俺は、夢の中で、そう答えた。
八十万円が、八百万円に。
その数字を、子守唄みたいに頭の中でくり返しながら、俺は、人生で一番幸せな眠りについた。
◇ ◇ ◇
その夜、日付が変わる、少し前。
アキラのSNSから、一つの投稿が、静かに消えていた。
「10倍は、通過点」と書かれた、あの朝の投稿だった。
俺は、そのことに、気づかなかった。
(第10話 終わり)
第10話を読んでいただき、ありがとうございます!
80万円が、117万円に。蓮は、人生で一番幸せな眠りにつきました。夢の中では、車ごとロンドンにまで行っています。
でも今回、蓮は大事なものをいくつも見ないふりをしました。小さな字の「自己責任」、五年連続の赤字、本に書いてあった「卵を一つのカゴに盛るな」、そして「仕手株」と書かれたコメント。見たくないものは、ブロックすれば消える。……本当に、そうでしょうか。
一つだけ、蓮をほめたいところがあります。健太の5,000円を、止めたこと。心のどこかで、ちゃんとわかっていたのかもしれません。
※作中の人物・会社・銘柄はすべて架空のものです。SNSで「必ず上がる」とすすめられる銘柄には、くれぐれもご注意ください。
次回、第11話「4万円の夜」。
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