第11話「4万円の夜」
人生で一番幸せな眠りから覚めた朝が、人生で一番長い一週間の、一日目だった。
先に言っておく。この話には、笑えるところがほとんどない。
でも、これは俺の話だから。ちゃんと、最後まで書く。
◇ ◇ ◇
午前六時。
目覚まし時計より先に、目が覚めた。いつもの習慣で、枕もとのスマホをつかむ。
アキラのSNSを開いた。
「10倍は、通過点」の投稿が、なかった。
何度スクロールしても、見つからない。昨日の夜まで、確かにあったのに。お祝いのコメントが、何百件もついていたのに。投稿ごと、きれいに消えていた。
「……あれ?」
寝ぼけた頭で、ネクストフロンティアの名前を検索した。
一番上に、会社のホームページのお知らせが出てきた。夜中の、十一時五十分に出されたものだった。
――一部SNS等において、当社と大手企業との業務提携に関する情報が流れておりますが、そのような事実はございません。
事実無根。
むずかしい言葉だけど、意味は簡単だ。「そんな話は、最初から、どこにもありません」ということだ。
心臓が、一回、どくん、と大きく鳴った。
それから、全然、止まらなくなった。
◇ ◇ ◇
市場が開くのは、九時。
まだ二時間以上ある。それなのに、アプリの中では、もう嵐が始まっていた。
株の画面には、「板」というものがある。「この値段で売りたい人が、これだけいる」「この値段で買いたい人が、これだけいる」という、注文の一覧表だ。
ネクストフロンティアの板は、売りたい人の数字だけが、見たこともない桁になっていた。
買いたい人の欄は、ほとんど空っぽだった。
「大丈夫。大丈夫」
俺は、声に出して言った。
「ちょっと下がるだけだ。アキラも言ってた。降りるやつは、ただのビビりだって」
そのアキラの投稿が、消えているのに。
◇ ◇ ◇
二時間目の途中で、九時になった。
筆箱のふたを、そっと開ける。
――ネクストフロンティア ストップ安 売り気配
ストップ安。
この前の「ストップ高」の、反対だ。一日に下がっていい値段の限界まで、一気に下がりきること。株には、「一日でこれ以上は上がりすぎ・下がりすぎ」という、決まった幅がある。その下の限界に、市場が開いた瞬間、張りついた。
本当の地獄は、ここからだった。
休み時間、俺はトイレの個室に飛び込んで、「売り」の注文を入れた。
注文は、通った。
でも、売れなかった。
株は、買ってくれる人がいて、初めて売れる。売りたい人が百万人いても、買いたい人がほとんどいなければ、取引そのものが成り立たない。俺の「売りたい」は、何万、何十万という「売りたい」の列の、ずっと後ろに並んだまま、一日中、動かなかった。
午後三時。市場が閉まった。
――本日、ご注文は成立しませんでした。
売りたくても、売れない。
そんなことが、この世にあるなんて、どの本にも――いや、たぶん書いてあった。俺が、読み飛ばしただけで。
◇ ◇ ◇
次の日も、ストップ安だった。
その次の日も。
アキラのアカウントには、「金返せ」というコメントが、何千件も並んでいた。アキラが最後に書いた投稿は、こうだった。
――投資は自己責任。俺も損してるんで(笑)
その(笑)を見た時、指先が冷たくなった。
次の日、アキラのアカウントは、鍵がかかって見られなくなった。プロフィール写真は、札束から、なぜか子猫に変わっていた。
俺は、前にブロックした人のことを思い出した。「どう見ても仕手株でしょ」と書いていた、あの人だ。
ブロックを解除して、その人のページを見に行った。
最新の書き込みは、一行だけだった。
――だから言ったのに。逃げられた人が、一人でも多いといいけど。
俺は、逃げられなかった一人だった。
◇ ◇ ◇
四日目の朝、やっと、ストップ安が外れた。
取引が成立したのだ。ただし、値段は、俺が買った五百九十八円を、とっくに下回っていた。
売れる。
今なら、売れる。
指を、「売却」のボタンの上に持っていった。
でも、俺の頭の中で、まだ天才のふりをしている誰かが、ささやいた。
――ここまで下がったんだから、もう、上がるだけだ。
――今売ったら、損が決まってしまう。持っていれば、まだ「損かもしれない」で済む。
――いつか、戻る。
いつか。
その「いつか」に、俺は、全部を預けた。
指は、ボタンの上から、静かに離れた。
――今なら、わかる。あの朝、俺がしがみついていたのは、株じゃなかった。「まだ負けていない」という、希望だった。
株価は、その日も下がった。次の日も下がった。昨日売っていればよかった、と毎日思った。毎日思って、毎日、売らなかった。
◇ ◇ ◇
「蓮! 蓮、聞いてくれよ!」
昼休みの中庭で、健太が、弁当のふたを開けるより先に、俺の肩をつかんだ。
「ニュースでやってた! ネクストなんとかって、あの電池の会社、めちゃくちゃ下がってるんだってな!」
「……ああ」
「俺の五千円! お前が止めてくれたおかげで、無事だった!」
健太は、満面の笑みだった。一点の曇りもない、晴れた日のグラウンドみたいな笑顔だった。
「お前、わかってたんだな! だから止めてくれたんだろ!? やっぱ天才だわ! 命の恩人!」
そう言って、健太は、自分の弁当から一番大きい唐揚げをつまんで、俺の弁当の上に、ぽんとのせた。
「お礼! ミット、今度の休みに買いに行くんだ。お前も来いよ!」
「……おう」
それしか、言えなかった。
健太の唐揚げは、いつもと同じで、茶色くて、大きくて、たぶんおいしかった。でも、その日は、何の味もしなかった。
隣で、千夏が箸を止めていた。
千夏は、健太の話を聞きながら、ずっと俺の顔を見ていた。
「蓮は、大丈夫なの?」とは、聞かなかった。
聞かないでいてくれたのか。聞くのが、怖かったのか。
どっちにしても、ありがたかった。そして、そのことが、少しだけ、さみしかった。
◇ ◇ ◇
一日ずつ、数字が減っていった。
――資産合計:582,000円
――資産合計:296,000円
三十万円を切った日、俺は、トイレの個室で、しばらく出られなかった。三十万円は、俺がこの勝負を始めた時の金額だ。その線を、数字は、何のあいさつもなく、すっと通りすぎていった。
――資産合計:98,000円
そして、七日目。
株価は、三十円前後になっていた。
――資産合計:40,820円
百十七万円が、四万円。
アキラの言った通りだった。「今の株価は、ただの入り口」。本当に、入り口だった。地下へ続く、階段の。
◇ ◇ ◇
その七日目が、十四日だった。
姉ちゃんの、二十一歳の誕生日だ。
プレゼントは、何も用意できていなかった。
いや、正確に言うと、何を買えばいいのか、わからなかった。「すげえやつ、用意しとく」と、俺は言ったのだ。新車と留学費用を夢見ながら。
それなのに、今の俺に買えるのは、駅前のケーキ屋の、五百八十円のプリンくらいだった。それを渡すことが、全部を白状するのと同じくらい、つらかった。
しかも、その日は、それどころではなかった。
六時間目が終わった瞬間、数学の先生に呼び止められたのだ。
「高橋。先週の小テストの追試だ。残れ」
「え、今日ですか!?」
「今日だ。お前、答案の全部の欄に『598』って書いてあったぞ。なんの暗号だ」
ネクストフロンティアを買った時の値段だった。
俺は、自分でも覚えていなかった。
教室の後ろのほうで、健太が「598……?」とつぶやいて、指を折って何かを数えていた。数えても、何も出てこないぞ、健太。
追試が終わったのは、夕方の六時すぎだった。
走った。駅まで走って、電車の中でも足踏みをして、家まで走った。郵便は、毎日、俺が先に回収している。佐藤さんがいつも、俺の帰りに合わせて配ってくれるからだ。
ポストを開けた。
空っぽだった。
ほっとした。今日は、何も来ていない。
――その時、俺は知らなかった。
その日、佐藤さんは休みだった。代わりに来た若い配達員さんは、いつもより三時間も早く、ていねいに、玄関のチャイムを鳴らして、母さんに直接、郵便の束を手渡していた。
◇ ◇ ◇
夜七時半。
食卓のまんなかに、白いケーキがあった。駅前のケーキ屋の、いちごがたくさんのったやつ。チョコのプレートに、「みさき 21さい おめでとう」。
ろうそくは、「2」と「1」の形をした、数字のろうそくだった。
「はい、電気消すわよー」
母さんが、上機嫌で部屋の電気を消した。父さんが、マッチで二本のろうそくに火をつけた。
オレンジ色の小さな火が、ゆらゆら揺れて、姉ちゃんの顔を下から照らした。
「ちょっと、歌うの? いいよ、恥ずかしいって」
「いいから、いいから。あ、そうそう、その前に」
母さんが、ふと思い出したように、エプロンのポケットから、白い封筒を取り出した。
「美咲に、郵便来てたわよ。証券会社から。何、あんた、株なんか始めたの?」
冗談めかした声だった。母さんは、笑っていた。美咲に限って、そんなこと、あるわけない。そういう笑い方だった。
封筒には、こう書いてあった。
――重要なお知らせ 高橋美咲様
俺の体から、音が消えた。
「は? 証券会社? 何それ。私、そんなの知らないけど」
姉ちゃんは、ろうそくの明かりの中で、封筒を開けた。
中から出てきたのは、何枚かの紙だった。取引の記録。口座の残高。そして、ネクストフロンティア、1,300株、という文字。
姉ちゃんの目が、紙の上を、ゆっくりと動いた。
それから、止まった。
そして、テーブルの向かいに座っている、俺を見た。
俺は、何も言えなかった。何も言わなかったことが、全部を言っていた。
◇ ◇ ◇
それから、俺は、全部話した。
免許証の中身を、こっそり全部覚えたこと。ピンクのケースの、猫のシールの印鑑。裏声の電話。母さんの引き出しの、俺の通帳。三十万二千五百円。八十万円。百十七万円。そして、今の、四万円。
話している間、ケーキの上で、ろうそくが燃え続けていた。
誰も、吹き消さなかった。
「2」と「1」は、少しずつ短くなっていって、白いクリームの上に、ぽた、ぽた、とロウを落とした。
父さんは、一言もしゃべらなかった。腕を組んで、ずっとテーブルの一点を見ていた。いつも一秒でめくる新聞は、今日は、手の届くところにすらなかった。
母さんは、泣いていた。
声を出さずに、ハンカチで目を押さえて、泣いていた。
「……大叔父さんね」
しばらくして、母さんが、かすれた声で言った。
「家をなくした日、うちの実家に来たの。私、まだ小学生だった。大叔父さん、ずっとニコニコしてたのよ。『いやあ、参った参った』って、笑って。私にも、アメをくれて」
母さんは、ハンカチを握りしめた。
「その夜中にね、トイレに起きたら、裏の畑で、一人で、声を殺して泣いてたの。大人の男の人が、あんなふうに泣くの、私、初めて見た」
俺は、膝の上で、手を握りしめた。
「あの人がね、蓮。毎年、あんたに五百円くれるでしょう。ニコニコしながら。……あれ、どういう気持ちで渡してるか、考えたこと、ある?」
なかった。
一度も、なかった。
◇ ◇ ◇
姉ちゃんは、最後まで、大きな声を出さなかった。
怒鳴られると思っていた。枕を投げられると思っていた。「殺す」と言われると思っていた。プリン一個で毎年怒る人なんだから。
でも、姉ちゃんは、ただ、紙を封筒に戻して、静かに立ち上がった。
それから、俺を見下ろして、一言だけ言った。
「あんたは、私の信用まで賭けたんだよ」
それだけだった。
姉ちゃんは、封筒を持って、階段を上がっていった。部屋のドアが閉まる音は、いつもの「バタン」じゃなかった。かちゃ、と、小さな音がしただけだった。
その小さな音のほうが、ずっと、こわかった。
しばらくして、父さんが、親指と人差し指をなめて、短くなったろうそくの火を、ひとつずつ、つまんで消した。
じゅっ、と、小さな音がした。
食卓には、ろうそくの消えたケーキだけが残った。
誰も、切らなかった。
◇ ◇ ◇
夜中の二時。
眠れなかった。
机の上には、『相場の格言百選』があった。白石さんが延長してくれた、あの本。返却期限は、とっくに過ぎていた。
俺は、初めて、後ろのほうのページを開いた。
――見切り千両。
損をしているとわかった時、早めにあきらめて売ることには、千両の値打ちがある、という意味。
四日目の朝の、あのボタンが浮かんだ。あの時に売っていれば、まだ半分は残っていた。千両どころか、何十万円の値打ちがあった。
――相場で負ける者は、己の欲に負ける。
株に負けるんじゃない。自分の欲に、負けるんだ、という意味。
八百万円。新車。ロンドン。全部、俺の欲だった。
――命金には、手をつけるな。
なくなったら困るお金、大事なお金で、勝負をしてはいけない、という意味。
ページの下に、小さな字で、説明が書いてあった。
――人は、恐怖と欲と、そして希望で売り買いをする。中でも、一番たちが悪いのは、希望である。希望は、損を認める勇気を、ゆっくりと奪っていく。
「いつか、戻る」。
あれは、希望だった。
全部、書いてあった。俺がやったことの、全部が。俺が付せんを貼らずに飛ばした、後ろのほうのページに。
――後ろのほうが、大事だと思うよ。
白石さんの声が、聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
音を立てないように、階段を下りた。
台所の、引き出しの一番奥。輪ゴムでまとめた、家族全員の通帳の束。
「タカハシ レン」と書かれた一冊を、抜き出した。
最後のページの、一番下の行。
――残高 2,500
二千五百円。
大叔父さんの、五百円玉、五枚分だった。
通帳のあいだから、古いポチ袋が、ひらりと落ちた。
拾い上げる。
――れんくんへ だいじに つかってね
ばあちゃんの、震えるような、やさしい字だった。
縁側の、日なたの匂いを思い出した。ばあちゃんが、しわしわの指でみかんをむいて、白いすじまで一本ずつ取って、俺の手のひらにのせてくれた。小さかった俺が「すじも食べれるよ」と言っても、ばあちゃんは「れんくんには、きれいなところだけね」と笑って、取るのをやめなかった。
その手で、このポチ袋を、俺の手に握らせてくれた。
だいじに、つかってね。
俺は、台所の床に座りこんで、ポチ袋を両手で握った。
声は、出なかった。出したら、二階の誰かを起こしてしまうから。だから、口を押さえて、ただ、肩だけを震わせた。
冷蔵庫の中では、ろうそくの消えたケーキが、誰にも切られないまま、冷えていた。
十六年分のお正月と、ばあちゃんの「だいじに」を、俺は、たった一週間で、全部なくした。
(第11話 終わり)
第11話を読んでいただき、ありがとうございます!
117万円が、4万円になりました。そして、一番知られたくない人に、一番最悪な日に、全部知られてしまいました。
健太の「命の恩人!」と大きな唐揚げ。母さんが初めて話した、大叔父さんの涙。怒鳴らなかった姉ちゃんの「私の信用まで賭けたんだよ」。そして、誰も切らなかったケーキ。作者は、今回ばかりは蓮にツッコむことができませんでした。
唯一の救いは、追試の答案に全部「598」と書いた蓮に、健太が指を折って何かを数えていたことくらいです。何も出てきません。
※作中の人物・会社・銘柄はすべて架空のものです。
次回、第12話「正座、三時間」。千夏が、本気で怒ります。
蓮と一緒に胸が痛くなった方は、ブックマークや評価で、そっと背中をさすってあげてください。




