第12話「正座、三時間」
人間は、正座を三時間すると、足の感覚がなくなる。
そして、足の感覚がなくなったあたりから、なぜか、心の感覚だけが、やけにはっきりしてくる。
これは、十六歳の俺が、近所の公園の藤棚の下で学んだことだ。教科書には、たぶん一生載らない。
でも、その話をする前に、あの夜の、次の日の話をしなきゃいけない。
◇ ◇ ◇
朝。
冷蔵庫を開けると、ろうそくの消えたケーキが、そのまま入っていた。
「みさき 21さい おめでとう」のチョコのプレートが、ラップの下で、少しだけ汗をかいていた。
俺は、冷蔵庫をそっと閉めた。
食卓では、誰もしゃべらなかった。父さんは新聞を広げていたけど、一ページもめくらなかった。母さんは、いつもより一つ少ないおかずの弁当を、黙って俺の前に置いた。
姉ちゃんが、階段を下りてきた。
「……おはよう」
俺は、小さな声で言った。
姉ちゃんは、俺の横を通りすぎて、冷蔵庫から牛乳を出して、コップに注いで、飲んで、コップを洗って、カバンを持って、出ていった。
俺の「おはよう」は、どこにも届かずに、トーストの横に落ちた。
怒鳴られるほうが、ずっとよかった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
リビングのテーブルの上に、例の封筒と、姉ちゃんのスマホが置かれていた。
「座って」
姉ちゃんが、俺に言った。今朝から初めて、俺に向けられた言葉だった。
「口座、解約する。私が電話するから、あんたは横で聞いてな」
「お、俺が電話する。俺がやったんだから――」
「あんたが電話して、何て言うの?」
姉ちゃんは、俺を見ないで言った。
「名義は、私なんだよ。あの口座の中で、『高橋美咲』は、私なの。あんたじゃない」
返す言葉が、なかった。
姉ちゃんは、封筒に書いてある電話番号を押して、スマホを耳に当てた。
呼び出し音が、俺のところまで、小さく聞こえた。
「――お世話になっております。口座を持っております、高橋美咲と申します」
姉ちゃんの声は、低くて、少しかすれていた。
本物の、高橋美咲の声だった。魔法少女とは、似ても似つかなかった。
「実は、この口座は、私が作ったものではありません。……弟が、私の名前と、身分証と、印鑑を使って、私に黙って開設したものです。私の管理が甘かったせいでもあります。本当に、申し訳ありません」
姉ちゃんは、電話の向こうの見えない相手に向かって、頭を下げた。
一回。
それから、相手が何か言うたびに、また、もう一回。
俺は、その横で、膝の上に手を置いて座っていることしかできなかった。
頭を下げなきゃいけないのは、俺だ。でも、あの口座の中で、俺は、どこにも存在しなかった。俺がどれだけ頭を下げても、電話の向こうには、一ミリも届かない。
それが、「人の名前でやる」ということだった。
◇ ◇ ◇
電話は、四十分くらい続いた。
途中で、姉ちゃんが、一瞬だけ黙った。
「……はい。……開設の時の、確認のお電話、ですか」
姉ちゃんの目が、ゆっくりと、俺のほうを向いた。
「……はい。それも、弟です」
電話の向こうで、何か言われたらしい。
姉ちゃんは、目を閉じて、深く息を吸った。
「……はい。『弟のことが大好き』と言ったのも、弟です。……申し訳ありません」
俺は、ソファのクッションに顔をうずめたくなった。でも、うずめなかった。うずめる資格なんて、なかった。
姉ちゃんの耳が、少しだけ赤くなっていた。怒りなのか、恥ずかしさなのか、わからなかった。たぶん、両方だった。
手続きは、こう決まった。
口座に残っているネクストフロンティアの株は、全部売る。売ったお金は、口座の名義人である姉ちゃんの銀行口座に振り込まれる。そのあと、口座は閉じられる。
本当は、こういうことをした場合、もっと大ごとになることもあるらしい。今回は、姉ちゃんが自分で正直に申し出たこと、俺が未成年であること、お金のやりとりが家族の中だけで済んでいること。いろいろなことが重なって、「解約」で済ませてもらえた。
済ませてもらえた、のだ。姉ちゃんの、四十分と、何十回もの「申し訳ありません」で。
電話を切ったあと、姉ちゃんは、しばらくスマホの黒い画面を見つめていた。
「……ありがとう、姉ちゃん」
やっと、それだけ言えた。
姉ちゃんは、立ち上がりながら、一言だけ返した。
「お礼言われるようなこと、してない」
そのまま、二階に上がっていった。
◇ ◇ ◇
これは、少し先の話になる。
数日後、姉ちゃんの銀行口座に、四万円ちょっとが振り込まれた。百十七万円の、なれの果てだ。
姉ちゃんは、そのお金を、一円も使わなかったらしい。
銀行で全部下ろして、茶色い封筒に入れて、自分の机の上に置いた。「留学ちょきん」のガラスびんの、すぐ隣に。
俺がそれを知ったのは、母さんが、ため息まじりに教えてくれたからだ。
「美咲ね、あの封筒、どうするのって聞いても、何も言わないのよ」
封筒には、何も書かれていなかったそうだ。
◇ ◇ ◇
土曜日。
俺は、健太と千夏に、メッセージを送った。
――話がある。二時に、ひばり公園。
ひばり公園は、俺たち三人の家のちょうど真ん中にある、小さな公園だ。すべり台と、ブランコと、ペンキのはげた藤棚。保育園の頃から、俺たちは、ここで泥だんごを作ったり、セミを取ったり、健太が木から落ちたりしてきた。
二時ちょうど。千夏は、もう藤棚の下のベンチに座っていた。遅刻ゼロの女は、休日も遅刻ゼロだ。
二時十二分。健太が、自転車で突っこんできた。
「わりい! 昼メシ、おかわりしてた!」
三人そろった。
俺は、二人の前に立った。
それから、全部話した。
姉ちゃんの免許証。猫のシールの印鑑。裏声の電話。お年玉。八十万円。ネクストフロンティア。百十七万円。四万円。誕生日の夜の、消えたままのケーキ。
そして、最後に。
「……親が同意してくれたって言ったの、嘘だった。最初から、ずっと」
藤棚の上で、スズメが一羽、ちゅん、と鳴いた。
健太は、口をぽかんと開けていた。
それから、ゆっくりと、何かに気づいた顔になった。
「……じゃあ、あの時のトイレの『弟のことが大好きでぇ〜』って、姉ちゃんのマネだったのか!」
「今、そこ!?」
「だって俺、ずっと、お前がそういう趣味なんだと思って、受け入れる準備してたんだぞ!」
「しなくていい!」
健太は、なぜか、ちょっとほっとした顔をしていた。
千夏は、何も言わなかった。
ベンチから、静かに立ち上がった。そして、藤棚の下の、コンクリートの地面を指さした。
「二人とも、そこに座って」
「……え、二人?」
健太が、自分の顔を指さした。
「俺、何もしてないけど」
「座って」
「いや、だから、俺は――」
「座って」
二回、言われた。
健太は、俺よりも先に、コンクリートの上に正座した。千夏に二回言われたら、勝ち目はない。保育園の頃からの、この世界の決まりだ。
◇ ◇ ◇
「健太の罪は、二つ」
千夏は、腕を組んで、俺たちの前に仁王立ちになった。
「一つ。蓮がおかしくなっていくのを、一番近くで見ていたのに、止めなかった罪」
「お、おう……」
「二つ。『もうかったら焼肉な』って、毎日毎日、蓮をそそのかした罪」
「そそのかしてない! 楽しみにしてただけだ!」
「店員さんが一枚ずつお肉を持ってくるやつ、って、何回言った?」
「…………」
健太は、指を折って数え始めた。両手の指が全部折れたところで、静かに手を下ろした。
「……蓮。ごめん」
「いや、お前は悪くない」
「しゃべらない」
千夏の声に、俺たち二人は、同時に背筋を伸ばした。
そこから、説教が始まった。
千夏は、スマホのメモを開いた。そこには、この一か月ちょっとで、俺が千夏に言った言葉が、びっしり並んでいた。
「一つ目。『親に頼みこんで、なんとか同意してもらえた』」
「……はい」
「二つ目。『進路の資料、自分で取り寄せた』」
「……はい」
「三つ目。『再投資ってやつ。お金が、お金を生むんだよ』」
「それは……嘘じゃない……」
「顔が嘘だった」
ぐうの音も出なかった。
千夏は、生徒会の議事録を読み上げる時と、まったく同じ声で、一つずつ、俺の言葉を読み上げていった。
いつの間にこんなものを、と思った。
でも、すぐにわかった。千夏は、俺の言うことが、どこかおかしいと気づくたびに、一つずつ、ここに書き残していたのだ。いつか、ちゃんと聞くために。
◇ ◇ ◇
三十分後。
足の感覚が、なくなってきた。
一時間後。
近所の小学生が、四人、ブランコのほうから集まってきた。
「ねえ、なにしてんのー?」
「反省」と千夏が答えた。
「何したのー?」
「株」と健太が答えた。
小学生たちは、顔を見合わせた。株が何かは、たぶんわかっていない。でも、何か悪いことをしたのは伝わったらしい。一番小さい男の子が、なぜか俺の隣にちょこんと正座した。それを見て、残りの三人も、横に並んで正座した。
藤棚の下に、正座する人間が、六人になった。
「なんで君たちまで座るの」
「なんとなくー」
千夏は、ほんの一瞬だけ、困った顔をした。でも、説教はやめなかった。小学生たちは、三分で飽きて、ブランコに戻っていった。
一時間半後。
鳩が、集まってきた。
小学生たちが、ブランコの横でスナック菓子を食べこぼしていったのだ。星の形の、あのスナック菓子だった。こんなところでまで、俺を責めないでほしい。
鳩は、どんどん増えた。五羽、十羽。そのうちの一羽が、なぜか健太の頭の上に止まった。
「……蓮。頭に、なんか乗ってる」
「鳩だ」
「どかしてくれ」
「動いたら、千夏に怒られる」
「…………」
健太は、鳩を頭にのせたまま、まっすぐ前を向いて正座を続けた。百八十二センチの、鳩の台座だった。その姿が、あまりにも真剣で、俺は、こんな時なのに、笑いをこらえるので肩が震えた。
「蓮。何笑ってるの」
「わ、笑ってない」
「肩が笑ってる」
二時間後。
日傘をさしたおばあちゃんが、通りかかった。
おばあちゃんは、藤棚の下の光景を、しばらく黙って見ていた。正座する男子高校生二人と、頭の上の鳩と、腕を組んで立つ女子高校生と、足もとに群がる十羽の鳩。
それから、手提げ袋から、ペットボトルの麦茶を二本出して、俺たちの前に、そっと置いた。
「若いのに、えらいねえ」
「いえ、えらくないです……」
「何をしたの?」
「株です」と、健太が鳩をのせたまま答えた。
おばあちゃんは、「あらまあ」と目を丸くした。それから、遠くを見るような顔になった。
「うちのおじいさんもねえ、昔、それで、ずいぶん正座させられたもんだよ。……私にね」
おばあちゃんは、ほっほっほ、と笑って、日傘をくるくる回しながら去っていった。
千夏が、麦茶を見て、少しだけ迷った顔をした。それから、「……飲んでいいよ」と小さく言った。
麦茶は、生ぬるかった。人生で、一番おいしい麦茶だった。
◇ ◇ ◇
そして、二時間半がすぎた頃。
千夏の説教が、止まった。
ずっと立っていた千夏が、ゆっくりと、俺たちの前に、自分も正座をした。
コンクリートの上に。俺と、同じ高さに。
「……お金のことはね、どうでもいいの」
さっきまでの、議事録を読む声じゃなかった。
「蓮のお年玉だし。蓮のばあちゃんのお金だし。なくしたのは悲しいけど、それは、蓮と、蓮の家族の話だから」
千夏は、膝の上で、スマホをぎゅっと握った。
「私が怒ってるのは、嘘つかれたこと」
鳩が、一羽、ばさっと飛び立った。
「親が同意してくれたって聞いた時、私、『よかったね』って言ったんだよ。本気で、よかったって思ったんだよ。蓮が、何かに一生懸命になるの、初めて見たから。うれしかったの」
「……うん」
「ラーメンの時も、聞いたよね。そのお金、どこから出てるのって。蓮が『貯金だよ』って言った時、私、『そっか』って言った。……信じたかったから。信じてるふりをしてれば、蓮が、自分で話してくれると思ったから」
千夏の声が、少しだけ、震えた。
「でも、蓮は、どんどん話さなくなって。どんどん笑い方が変わって。私の知らない言葉ばっかり使うようになって」
千夏は、顔を上げて、まっすぐ俺を見た。
その目は、赤くなっていた。でも、泣いてはいなかった。泣かないように、すごく、がんばっていた。
「……蓮が、知らない人になっていくのが、怖かった」
俺は、何も言えなかった。
この前、千夏に「なんか、ちょっと知らない人みたい」と言われた時、俺は、首をかしげただけだった。それから、すぐにスマホを開いた。株価のほうが、気になったから。
あの時、千夏は、もう怖かったんだ。
「……ごめん」
声が、かすれた。
「ごめん、千夏。嘘ついて、ごめん」
千夏は、しばらく俺を見ていた。それから、ぐいっと、手の甲で目元をこすった。
「……二回言ったから、許す」
「え、そういうルール?」
「今、決めた」
隣で、健太が、鳩をのせたまま、ずびっと鼻をすすった。
「俺……明日、ミット買いに行くんだ。蓮が止めてくれた五千円で」
「……ああ」
「だから、あのミット、半分は蓮のミットだからな。俺、一生大事にする」
健太は、そう言って、にかっと笑った。その拍子に、頭の鳩が、やっと飛んでいった。
◇ ◇ ◇
夕方五時。
町内の防災スピーカーから、「夕焼け小焼け」のメロディが流れてきた。
ちょうど、三時間だった。
「……はい。終わり」
千夏が、そう言って立ち上がろうとした。
そして、そのまま、横に倒れた。
「千夏!?」
「……足が……しびれて……」
千夏も、三十分は正座していたのだ。
俺も立とうとした。足が、自分のものじゃなかった。膝から下が、まるで砂袋みたいだった。一歩踏み出した瞬間、ぐにゃりと崩れて、俺は千夏の上に倒れかけ、とっさに健太の腕をつかんだ。健太は、三時間分のしびれで、まったく踏ん張れなかった。
三人まとめて、コンクリートの上に、どさっと転がった。
鳩が、十羽、いっせいに飛び立った。
ばさばさばさっ、という羽の音の中で、俺たちは、足を押さえて、のたうち回った。
「いたたたたっ! さわるな! 健太、足さわるな!」
「さわってない! 俺の足が勝手に蓮の足に当たってるんだ!」
「二人とも、うるさい……あっ、だめ、今、指一本動かしたら死ぬ……っ」
最初に笑い出したのは、千夏だった。
それにつられて、健太が笑った。俺も、笑った。
足は死ぬほどしびれていて、涙が出るくらい痛くて、それなのに、俺たちは、夕焼けの藤棚の下で、腹を抱えて笑っていた。
あの夜から、初めて笑った気がした。
――後で知ったことだが、この日の光景は、近所でちょっとしたうわさになったらしい。「ひばり公園で、高校生が三時間正座をして、最後は三人そろって転がっていた」と。
そして、この日から、千夏の正座は、俺たちの間の名物になった。
俺か健太がバカをやると、千夏は、黙ってひばり公園の藤棚を指さす。それだけで、俺たちは、自分から正座をするようになった。
その記念すべき第一回が、この日だ。
ちなみに、記録は、今もこの三時間が最長だ。
◇ ◇ ◇
帰り道。
健太は、「ミットの下見してくる!」と言って、自転車でスポーツ用品店のほうへ消えていった。足がしびれていたせいで、最初の十メートルは、ものすごい蛇行運転だった。
俺と千夏は、並んで歩いた。
夕焼けが、二人の影を、長く伸ばしていた。
「……千夏」
「何」
「ポップコーンの、690円」
千夏は、ポケットからスマホを取り出して、メモ帳を開いた。
――蓮 ポップコーン 690円
その画面を、俺のほうに向けた。
「ちゃんと返すから。今は、本当に一円もないけど。いつか、絶対」
「うん」
千夏は、うなずいた。それから、画面を自分のほうに戻して、少しだけ、それを見つめた。
「これは、まだ消さないから」
「……利息、つく?」
「つかない」
千夏は、スマホをポケットにしまって、前を向いた。
「そのかわり、蓮が、自分で返して。誰かの名前のお金じゃなくて。蓮の、お金で」
「……わかった」
六百九十円。
映画館で、ポップコーンをぶちまけたあの日から、ずっと続いている、俺の、たった一つの借金。
百十七万円をなくした今、それは、俺が世界で一番返したい六百九十円になった。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、姉ちゃんの部屋のドアは、閉まっていた。
俺は、自分の部屋に入って、ベッドに倒れこんだ。足は、まだ少しじんじんしていた。
スマホを手に取る。
画面の真ん中に、証券アプリのアイコンがあった。
もう、株はやめよう。
俺は、そう決めた。今度こそ、本当に。
アイコンを長押しして、「削除」の文字の上に、指を持っていく。
この決意が、たった三日しかもたないことを、この時の俺は、まだ知らない。
(第12話 終わり)
第12話を読んでいただき、ありがとうございます!
ついに、千夏の正座が始まりました。何もしていないはずの健太まで「止めなかった罪」と「焼肉でそそのかした罪」で一緒に三時間。途中で小学生が四人並び、鳩の台座になり、通りすがりのおばあちゃんから麦茶とおじいさんの過去までいただきました。
でも、千夏が本当に怒っていたのは、お金のことではありませんでした。「蓮が、知らない人になっていくのが、怖かった」。690円のメモは、まだ消えません。
そして、電話口で「弟のことが大好き」の件まで説明させられた姉ちゃん。今回一番の被害者は、たぶん彼女です。
次回、第13話「株のことは忘れる(三日間だけ)」。タイトルで、もうオチが見えている気がします。
正座で足がしびれた経験のある方も、ない方も、ブックマークや評価で応援していただけると、作者の足のしびれもとれます。




