第13話「株のことは忘れる(三日間だけ)」
月曜日の朝。
俺は、布団の上で正座をしていた。
べつに千夏に命令されたわけじゃない。土曜日に公園で三時間正座させられたせいで、足が「正座」という形を覚えてしまったらしい。起きたら、こうなっていた。体って、こわい。
その正座のまま、俺はスマホを両手で持って、重大な決意をした。
「株は、やめる」
声に出して言った。誰も聞いていないけど、こういうのは声に出すのが大事だって、何かのマンガに書いてあった。
まず、証券会社のアプリ。もう口座は解約の手続き中だから、開いても意味はない。でも、アイコンが画面にあるだけで、指が勝手に吸い寄せられる。だから消す。
アイコンを長押しすると、ぷるぷる震えだした。
「アプリを削除しますか?」
……はい。
ぽちっ。
次はSNS。投資の情報ばかり流れてくるアカウントだ。札束も、高級腕時計も、「10倍は通過点」も、もう見たくない。
ぽちっ。
ついでに、株価のチャートを見るために入れた無料アプリも、ぽちっ。経済ニュースのアプリも、ぽちっ。
気がついたら、俺のスマホのホーム画面は、電卓と時計と天気と、なぜか一度も開いたことのない「家計簿アプリ」だけになっていた。
家計簿アプリ。
つける家計が、もうない。
ぽちっ。
「よし」
まっさらになった画面を見て、俺はうなずいた。今日から俺は、株のことは忘れる。完全に。きれいさっぱり。
……とりあえず、三日間。
いや、「とりあえず」って何だよ。自分でツッコんだ。でも正直に言うと、いきなり「一生」は自信がなかった。三日坊主の俺が、三日もつかどうかも怪しいんだから。
――今なら、わかる。
あれは「決意」なんかじゃなかった。ただ、見たくないものから目をそらしただけだったんだ。
◇ ◇ ◇
【一日目】
株のことを忘れるには、何か別のことに集中すればいい。
というわけで、俺は授業に全力で集中することにした。高校生の本業は勉強だ。ど真ん中の成績を、ちょっとだけ上に寄せてやろうじゃないか。
一時間目、数学。
「はい、じゃあこのグラフを見てください。xが大きくなると、yはどうなりますか。そう、上がりますね」
ぴくっ。
「で、ここを過ぎると、今度は下がります」
ぴくぴくっ。
「下がって、下がって……ここで底を打って、また上がる」
「底を打った……?」
思わず声が出た。クラスの何人かが振り返った。俺はあわてて咳をしてごまかした。
ただの二次関数だ。放物線だ。株とは一ミリも関係ない。なのに、黒板の曲線がチャートに見えて仕方がない。しかも「底を打って、また上がる」なんて、今の俺がいちばん聞きたくて、いちばん信じちゃいけない言葉だ。
二時間目、化学。
「この反応では、温度が上がると、反応の速度も急上昇します」
急上昇。
三時間目、体育。
「はい、そこ! ペース落ちてるぞ! 下がるな、上がれ!」
体育の先生、お願いだからそういうこと言わないでください。
四時間目、古典。
さすがに古典は大丈夫だろうと思った。平安時代に株はない。
「『いと、をかし』。この『をかし』は、現代語の『おかしい』とは意味がちがいます。趣がある、という意味ですね」
よし、セーフ。
「ちなみに、この時代のお米の値段は……」
先生、なんで今日にかぎってお米の値段の話をするんですか。
昼休み、健太が茶色い巨大弁当をかきこみながら言った。
「蓮、お前、今日ずっとビクビクしてたな。授業中に『上がる』って聞こえるたびに、背中がビクッてなってた」
「見てたのかよ」
「後ろの席だからな。全部見えてた。シャチホコみたいだった」
シャチホコ。屋根の上で、反り返ってるあれか。
斜め前の席から、千夏が箸を止めずに言った。
「株を忘れる、って言ってたよね」
「言った」
「忘れられてないよね」
「……今、がんばってるところ」
「そう。がんばって」
それ以上は何も言わなかった。土曜日の千夏は本気で怒っていたけど、月曜日の千夏は、いつもの千夏だった。それが、ちょっとだけありがたかった。
その夜、夢を見た。
赤と青の、四角い棒みたいなものが、ずらっと並んで踊っている夢だ。
これは「ローソク足」っていう。株価の一日の動きを、ろうそくみたいな形の棒一本で表したものだ。値上がりした日は赤(なんか元気な色)、値下がりした日は青(なんか寒い色)。俺が毎晩、布団の中で見ていたやつだ。
夢の中で、ローソク足たちはラインダンスをしていた。赤が足を上げる。青が足を下げる。最後に全員が、長い長い青い棒になって、すうーっと床の下に沈んでいった。
そして、どこからか声がした。
「ストップ安、ストップ安」
目が覚めたら、朝の四時だった。
汗びっしょりだった。
◇ ◇ ◇
【二日目】
朝ごはんのとき、テレビでニュースが流れていた。
「続いて、今日の株式市場です。日経平均株価は――」
ぴくっ。
日経平均っていうのは、日本の有名な大企業の株価をまとめて「平均」みたいにした数字だ。「今日の日本の株全体は、元気だったか、元気じゃなかったか」がだいたいわかる、体温計みたいなもの。
俺の体が反応する前に、リモコンを持った母が、無言でチャンネルを変えた。
画面が、子犬の特集に変わった。
「……かわいいね、この子」
母が、子犬を見ながら言った。俺に言ったのか、テレビに言ったのか、わからなかった。
母は、あの夜からあまり口をきかない。怒鳴ったりもしない。ただ、ニュースが株の話になると、黙ってチャンネルを変える。それだけだ。それだけなのが、いちばん重かった。
食卓の向こうでは、姉がトーストをかじっていた。
「……おはよう」
俺は言った。
姉は、俺のほうを見なかった。俺の頭の上あたりを見て、それから牛乳を飲んで、皿を流しに置いて、出ていった。
空気だった。
俺は、高橋家の空気になっていた。
ちなみに、高橋家の序列は「母>姉>冷蔵庫のプリン>父>俺」だ。俺は最下位だったけど、少なくとも「存在」はしていた。それが今では、ランキングの外。圏外だ。スマホでいうと電波が届いていない。
父は、いつものように新聞を広げていた。株価のページを一秒でめくるのも、いつもどおりだった。
ただ、その朝は、めくる手がほんの少しだけ止まった気がした。気のせいかもしれない。
放課後、俺は一人でコンビニに寄った。
べつに何か買いたかったわけじゃない。財布の中には百二十円しかない。ただ、まっすぐ家に帰りたくなかった。家に帰れば、また空気になるからだ。
お菓子の棚の前を通ったとき、足が止まった。
星の形の、あのスナック菓子があった。
ミライ製菓の。
俺が生まれて初めて買った株の会社の、お菓子だ。
パッケージの星たちが、こっちを見て笑っていた。新商品の「濃いめのしょうゆ味」まで出ていた。知らなかった。株を持っていた頃なら、絶対にチェックしていたのに。
「ごめんな」って言って、売ったんだった。
俺は、そのお菓子を手に取った。百十円。財布の百二十円で、ぎりぎり買える。
でも、買わなかった。
なんとなく、俺にはまだ、これを食べる資格がない気がした。
棚に戻すとき、星の一つと目が合った。気がした。お菓子と目が合う高校生。かなりやばい。
◇ ◇ ◇
図書室の前の廊下で、田村先生に会った。
いや、「会った」というのは正確じゃない。気がついたら、隣にいた。
「うわっ」
「おう、高橋」
足音がしないんだ、この先生。忍者なのか。定年まであと二年の忍者なのか。
田村先生は、俺の顔をじいっと見た。メガネの奥の目が、細くなった。
「顔が、負けた人の顔だな」
心臓が止まるかと思った。
「な、なんのことですか」
「なんのことかは知らん。ただ、そういう顔は、昔よく見た」
昔。株は「昔、少しな」と言っていた先生の、その「昔」だ。
田村先生は、廊下の窓の外を見ながら、のんびりと言った。
「負けたのは、いいんだ。誰でも負ける。わしも負けた。ただな、高橋」
先生が、こっちを向いた。
「負けた理由を、自分で言えるか?」
言えなかった。
口を開いたけど、何も出てこなかった。アキラを信じたから? 運が悪かったから? 会社がうそをついたから? どれも、ちがう気がした。どれも、半分くらいは「誰かのせい」だった。
俺が黙っていると、先生はうなずいた。
「言えるようになったら、また話そう」
そう言って、先生は行ってしまった。やっぱり、足音はしなかった。
廊下に一人残された俺は、しばらく動けなかった。
負けた理由。
八十万円が、四万円になった理由。
俺は、それを一言も言えなかった。
◇ ◇ ◇
図書室のカウンターには、白石さんが座っていた。
背筋がまっすぐで、まるで定規を背中に入れているみたいだった。いつもどおりだ。
俺は、かばんから『相場の格言百選』を取り出した。表紙の角が少しだけ折れていた。何度も読んだからだ。……と言いたいところだけど、ちゃんと読んだのは、つい最近だ。
あの夜。家族会議のあと、一人で。
「これ、返却で」
カウンターに本を置いた。白石さんが、バーコードを「ぴっ」と読み取った。
それから、少しだけ迷って、俺は言った。
「……後ろのほう、読んだよ」
白石さんの手が、止まった。
何があったの、とは聞かれなかった。株はどうなったの、とも聞かれなかった。「ほら、言ったでしょ」とも言われなかった。
白石さんは、本の表紙を、指でそっとなでた。折れた角を、まっすぐに伸ばすみたいに。
少しだけ、間があった。
「……そう」
それだけだった。
図書室の時計の音が、やけに大きく聞こえた。窓の外では、運動部のかけ声が遠くに聞こえていた。健太の声も、たぶんまざっていた。あいつの声は、どこにいてもまざる。
俺は「じゃあ」と言って、帰ろうとした。
そのとき、白石さんが言った。
「返却期限、十日も過ぎてる。……もう一回、借りなくていいの?」
俺は振り返った。
白石さんは、俺のほうを見ていなかった。返却された本の山を、きれいに揃えていた。
もう一回。
この本の貸し出しを、俺は一回延長してもらった。そのとき白石さんは「後ろのほうが、大事だと思うよ」と言った。あの時の俺は、その意味を、ちっともわかっていなかった。
「……うん。もう、大丈夫」
「そう」
白石さんは、それ以上何も言わなかった。俺も、何も言えなかった。
――この時の俺は、まだ知らなかった。
白石さんが、なぜ「株で幸せになった人を見たことがない」のか。なぜ、あの本の「後ろのほう」を知っていたのか。
ただ、ひとつだけ思った。
この人は、たぶん、全部わかっている。わかっていて、何も聞かないでいてくれる。
それが、千夏の正座三時間と同じくらい、胸にこたえた。
◇ ◇ ◇
【三日目】
三日目は、わりと平和だった。
授業中に「上がる」と聞いても、シャチホコにならなかった。数学の放物線も、ちゃんと放物線に見えた。昼休みに健太が「なあ、俺のミット、見る? 新しいやつ!」と自慢してきたのにも、ちゃんと「おお」と言えた。
ちなみにそのミットは、あの五千円で買ったやつだ。俺が「やめとけ」と止めた、あの五千円。
健太は、ミットに頬ずりしていた。
「これがあるのは、蓮のおかげだからな!」
「……おう」
健太、頼むから、その話を一日一回するのはやめてくれ。お前が無邪気に感謝するたびに、俺の心のHPが削れていく。
それでも、三日目は平和だった。俺は株のことを、ほとんど考えなかった。
――夜までは。
その夜、俺は布団に入った。
部屋の電気を消して、スマホを枕元に置いた。ホーム画面は、電卓と時計と天気だけ。完璧だ。
目を閉じた。
……眠れない。
趣味が「寝ること」の俺が、眠れない。
なんとなくスマホを手に取った。天気でも見るか。明日は晴れ。降水確率十パーセント。よし。
時計でも見るか。午後十一時二十分。よし。
電卓でも見るか。いや、電卓は見るものじゃない。でも、なんとなく開いた。「598」と打った。ネクストフロンティアを買ったときの値段だ。「×1300」。七十七万七千四百。
何やってんだ、俺。
電卓を閉じた。
それから、何分たったかわからない。
気がついたら、俺はアプリストアを開いていた。
そして、気がついたら、検索窓に「株価」と打ちこんでいた。
そして、気がついたら、無料の株価アプリの「入手」ボタンを押していた。
くるくるくる……と、ダウンロードの円が回った。
いや、待て。待て待て待て。
俺は今、何をしている?
「株のことは忘れる」と宣言してから、まだ七十二時間たっていない。三日坊主どころか、二日と二十三時間坊主だ。最短記録だ。ギネスに申請できるかもしれない。
ダウンロードが終わった。
アプリが、ぱっと開いた。
ネクストフロンティア。31円。
ミライ製菓。前の日より、少しだけ上がっていた。
日経平均。ちょっとだけ下がっていた。
俺は、布団の中で、スマホの明かりに照らされながら、じっと画面を見ていた。
ネクストフロンティアの31円を見ても、もう心臓はばくばくしなかった。悲しいのも、もう通りこしていた。
むしろ、ミライ製菓の小さなプラスのほうに、目がいった。
「……上がってんじゃん」
小さく、つぶやいていた。
そして、自分でびっくりした。
ちょっと、うれしかったからだ。
もう一株も持っていないのに。「ごめんな」って言って手放した会社なのに。それでも、あの星形のお菓子の会社がちょっと元気だと、ちょっとうれしい。
最低だ、と思った。
あれだけのことをして。姉の名前を勝手に使って。母を泣かせて。父を黙らせて。お年玉も、ばあちゃんのポチ袋のお金も、ほとんど全部なくして。姉の誕生日のケーキを、ろうそくが消えたまま冷めさせて。
それなのに、俺は、まだ株価を見ている。
布団を頭までかぶった。
「バカじゃねえの、俺」
声に出して言った。こういうのは、声に出すのが大事だ。今朝のマンガの理論だ。……いや、三日前の朝か。
布団の中は、暑くて、暗くて、スマホの画面だけが光っていた。
そのとき、気づいた。
俺は、株が嫌いになれなかった。
あんなにひどい目にあったのに。八十万円が四万円になったのに。それでも、会社の名前と数字を見ると、ちょっとわくわくしてしまう。この会社は何を作っているんだろう、明日は上がるかな、下がるかな、って考えてしまう。
嫌いになったのは、株じゃない。
嫌いになったのは、ずるをした自分だった。
姉の名前で。姉の印鑑で。裏声で。人のお金……じゃないけど、人の信用で。人のSNSの言葉で。何も考えずに、全部を一つのカゴに盛って。
田村先生の声が、頭の中でした。
「負けた理由を、自分で言えるか?」
まだ、言えない。
でも、ひとつだけ、わかったことがある。
俺は、ずるをしたから負けたんだ。少なくとも、それが理由の一つだ。
だったら。
布団から、がばっと顔を出した。
「今度は、自分のお金で、正しくやる」
天井に向かって言った。
人の名前じゃなくて、自分の名前で。人のお金じゃなくて、自分のお金で。ちゃんと、正しく。
……かっこいい。
今の俺、ちょっとかっこいい。
俺はスマホの株価アプリを、そっと閉じた。消しはしなかった。消しても、どうせまた入れるからだ。それはもう、さっき証明された。
それから、冷静になって考えた。
「自分のお金」。
俺の財布の中身:百二十円。
俺の貯金箱の中身:ゼロ。お年玉は全部、あの口座に入れてしまった。
俺の銀行口座:そもそも持っていない。
姉の机の上の、あの封筒の四万円:あれは、もう俺のものだと言える気がしない。
俺の資産、合計百二十円。
コンビニのミライ製菓のお菓子が百十円だから、あれを一袋買ったら、残り十円。
……正しくやる以前に、やるお金がない。
かっこよさが、三秒で蒸発した。
俺は、もう一度布団にもぐった。そして、暗やみの中で、天井をにらみながら考えた。
お金がない。
お年玉は、もうない。
親には、頼めない。頼めるわけがない。
姉には、もっと頼めない。というか、口をきいてもらえない。
じゃあ、どうする。
答えは、ひとつしかなかった。
高校生が、自分の力で、自分のお金を手に入れる方法。
「……バイトだ」
暗い部屋の中で、俺の声だけが、やけにはっきりと響いた。
(第13話 終わり)
第13話を読んでいただき、ありがとうございます!
「株のことは忘れる」と宣言して、二日と二十三時間でアプリを入れ直した蓮。三日坊主の新記録です。おめでとう(?)。
授業中のシャチホコ、夢の中のローソク足ラインダンス、お菓子と目が合う高校生……書いていて、作者もだいぶ心配になりました。
でも、図書室での白石さんの「……そう」と、「延長、もうしなくていいの?」。何も聞かないやさしさって、ありますよね。
そして蓮は気づきます。嫌いになったのは株じゃなくて、ずるをした自分だった、と。ただし資産は百二十円。
次回、第14話「求人:時給1050円、まかない付き」。バイト探し、はじまります。面接、大丈夫かな……。
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