第8話「ビギナーズラックって知ってる?」
ビギナーズラック。
辞書で調べると、こう書いてある。
――物事を始めたばかりの初心者が、なぜか思いがけない幸運に恵まれること。
この言葉の本当の怖さは、たった一つだ。
ビギナーズラックの真っ最中にいる人間は、それがラックだということに、絶対に気づかない。
◇ ◇ ◇
ミライ製菓の株を買った次の日。
朝、目が覚めた瞬間、俺はスマホをつかんだ。まだ市場は開いていない。株価は、昨日の終わりの値段のまま止まっている。わかっている。わかっているのに、見てしまう。
――ミライ製菓 2,830円 評価損益:+2,500円
昨日より、少し増えていた。昨日の夕方、最後に上がった分だ。
「よし……」
ベッドの上で、小さくガッツポーズをした。
朝ご飯の時も、歯をみがく時も、学校に向かう電車の中でも、俺はずっとスマホを握りしめていた。市場が開くのは、九時。その瞬間が、待ちきれなかった。
「蓮、スマホばっかり見てると、電柱にぶつかるよ」
駅から学校までの道で、千夏に言われた。
「大丈夫だって。ちゃんと前も見て――」
ゴン。
電柱だった。
「……だから言ったでしょ」
千夏は、心の底から呆れた顔をした。健太は、腹を抱えて笑いながら、電柱に「大丈夫か」と話しかけていた。電柱の心配をするな。
◇ ◇ ◇
九時。
一時間目は、英語だった。
俺は、筆箱の中にスマホを隠していた。筆箱のふたを少しだけ開けると、ちょうど画面が見える。我ながら、天才的なアイデアだと思った。
先生が黒板のほうを向いた瞬間、そっとふたを開ける。
――ミライ製菓 2,890円 +8,500円
「――っ!」
声が出そうになって、慌てて口を押さえた。
八千五百円。昨日、一日中ドキドキして増えたのが千五百円だったのに。たった数分で、その何倍も増えている。
なんで?
調べてみると、理由はすぐにわかった。
ミライ製菓が先週発売した、新しいポップコーン。星のスナック菓子の味がする、ちょっと変わったポップコーンだ。それが、SNSで「おいしすぎる」「どこにも売ってない」と大きな話題になっていたのだ。コンビニの棚から、次々に消えているらしい。
俺は、そのポップコーンを、まだ食べたことすらなかった。
なのに、株は上がっている。
不思議な気分だった。俺は何もしていない。ただ、ベッドの上でボタンを押しただけだ。それなのに、どこかで誰かがポップコーンを買うたびに、俺のお金が増えていく。
これが、株か。
これが、会社のオーナーになるってことか。
「――高橋。筆箱の中に、何か面白いものでも入っているのか」
顔を上げると、英語の先生が、俺の筆箱をじっと見ていた。
「……え、えんぴつが、すごくいい感じに削れてて」
教室に、小さな笑いが起きた。先生は、深いため息をついて、黒板に戻っていった。
助かった。たぶん、俺の評判がもともと低すぎて、先生もあきれる以外になかったんだと思う。
◇ ◇ ◇
その日から、俺の生活は、株価を中心に回り始めた。
一時間目と二時間目の間の休み時間。トイレの個室で、株価チェック。
二時間目と三時間目の間。トイレで、株価チェック。
昼休み。トイレで、株価チェック。
三日目の昼休み、トイレから戻ってくると、健太が心配そうな顔で待っていた。
「蓮、お前、大丈夫か?」
「何が?」
「最近、休み時間のたびにトイレ行ってるだろ。腹の調子、悪いのか?」
「いや、別に……」
「無理すんなよ。うちの母ちゃんがな、腹が弱い時は、ヨーグルトがいいって言ってた」
次の日、健太は本当にヨーグルトを持ってきてくれた。四個パックの、全部。
「全部食え。治るまで食え」
「……ありがとう」
俺は、そのヨーグルトを四個、全部食べた。別に、腹は痛くなかった。健太の優しさが、ヨーグルトより酸っぱかった。
その日の夕方、ミライ製菓の株価は、三千円を超えた。
◇ ◇ ◇
一週間が経った。
ポップコーンの人気は、まだまだ続いていた。テレビのニュースでまで取り上げられた。「品切れ続出! 謎のポップコーン」。画面の中で、ミライ製菓の社長が、うれしそうにインタビューに答えていた。
その社長の顔を見ながら、俺は、なんだか誇らしい気持ちになっていた。
――この人の会社の、俺はオーナーの一人なんだ。
いや、百株だけど。何百万分の一だけど。それでも、オーナーだ。
そして、二週目の水曜日。
決定的なニュースが来た。
――ミライ製菓、今期の利益予想を大幅に上方修正。
上方修正。会社が、「今年は思っていたよりずっと儲かりそうです」と発表することだ。本に書いてあった。そして本には、こうも書いてあった。上方修正が出ると、株価は大きく上がることが多い。
次の日の朝、ミライ製菓の株価は、市場が開いた瞬間に、ものすごい勢いで跳ね上がった。
――ミライ製菓 3,900円 +109,500円
十万円。
画面の数字を、俺は三回読み直した。ゼロの数を、指で数えた。一、二、三、四、五。間違いない。十万九千五百円。
十六年分のお年玉が、二週間で、三分の一以上も増えた。
その日の昼休み、俺はトイレの個室で、初めて「売る」のボタンを押した。
売らないと、それはまだ本当のお金じゃない。千夏に言われた言葉が、頭のどこかに残っていたのかもしれない。
――売却が約定しました。実現損益:+108,000円
実現損益。本当に手に入った、もうけ。
俺は、トイレの個室の中で、声を出さずに叫んだ。両手を突き上げて、天井を見上げて、口だけを大きく開けて。誰かに見られたら、たぶん、救急車を呼ばれていた。
◇ ◇ ◇
ところが、その二日後。
ミライ製菓の株価は、さらに上がっていた。
――ミライ製菓 4,250円
俺が売ったのは、三千九百円ちょっと。もし、売らずに持っていたら、あと三万五千円、増えていた。
「……あああああっ」
家のベッドの上で、枕に顔をうずめて叫んだ。
もうけたはずなのに。十万円以上も、もうけたはずなのに。なぜか、損をしたような気分だった。
もっと持っていればよかった。もっと、もっと。
今、思えば。
あの瞬間、俺の中で、何かが、小さく目を覚ましていた。
それは、「欲」という名前の、小さな生き物だった。
◇ ◇ ◇
それから俺は、ミライ製菓以外の株にも、手を出し始めた。
証券会社のアプリには、「値上がり率ランキング」というページがある。その日、一番値段が上がっている株が、順番に並んでいる。
俺は、そのランキングの上のほうから、知っている名前を探した。
ゲーム会社。新しいスマホゲームがヒットしているらしい。買った。次の日、二十パーセント上がった。売った。
よくわからない、カタカナの名前の会社。「AI」という言葉がニュースに出ていた。買った。三日で、三十パーセント上がった。売った。
電池を作っている会社。なんか、すごそうだった。買った。上がった。売った。
何を買っても、上がった。
本当に、何を買っても、上がったのだ。
あとで知ったことだけど、この時の株式市場は、ちょうど全体が上がっていく時期だった。「上げ相場」というらしい。上げ相場の時は、どんな株を買っても、だいたい上がる。
つまり、俺が勝っていたのは、俺がすごかったからじゃない。
ただ、波に乗っていただけだった。
でも、その時の俺は、そんなことは知らなかった。知ろうともしなかった。
◇ ◇ ◇
その週の土曜日、俺は駅前のケーキ屋で、プリンを一つ買った。
一個、五百八十円。コンビニのプリンの、四倍以上の値段だ。瓶に入っていて、上に生クリームがのっている、ちゃんとしたやつ。
家に帰って、冷蔵庫の一番目立つところに入れた。そして、ふたに大きく書いた付せんを貼った。
――姉ちゃんへ
夜、バイトから帰ってきた姉ちゃんは、冷蔵庫を開けたまま、三十秒くらい固まっていた。
それから、プリンを持って、俺の部屋にノックもせずに入ってきた。
「……何これ」
「プリン」
「見ればわかる。なんで、あんたが、私に、こんな高いプリンを買ってくるわけ?」
「いや、別に。いつも漫画持っていかれてるし、たまには」
「意味わかんない」
姉ちゃんは、プリンと俺の顔を、交互に疑わしそうに見た。
「あんた、何かやらかしたでしょ」
心臓が、止まりかけた。
「や、やらかしてない! ただ、ちょっと、お小遣いが余ってただけ!」
「あんたのお小遣いが余ったことなんて、人生で一回もないでしょ」
姉ちゃんは、しばらく俺を疑いの目で見ていた。でも、結局、プリンのふたを開けて、スプーンで一口食べた。
「……おいしい」
「だろ」
「何をやらかしたか知らないけど、このプリンに免じて、今回だけは聞かないであげる」
姉ちゃんは、プリンを持ったまま、自分の部屋に戻っていった。
俺は、ほっと息をついた。
そして、少しだけ、胸が痛かった。
姉ちゃんの名前で増やしたお金で、姉ちゃんにプリンを買う。それは、親孝行ならぬ姉孝行なんかじゃなくて、ただの、罪悪感のおすそわけだったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
月曜日の放課後、俺は図書室に行った。
本の返却期限の日だった。
カウンターには、白石さんが座っていた。
「返却、お願いします」
五冊の本をカウンターに置く。白石さんは、一冊ずつ、本の状態を確かめていった。表紙、背表紙、中のページ。最後に、『相場の格言百選』を手に取った。
その本には、俺の付せんが、びっしり貼られていた。
「……付せん、取ってください」
「あ、ごめん」
慌てて付せんをはがしていると、白石さんが、ぽつりと言った。
「高橋くん、最近、楽しそうだね」
「え?」
「授業中も、ずっとにこにこしてる。筆箱を見ながら」
バレていた。というか、たぶん、クラス中にバレていた。
「……実は、株が、上がってるんだ」
なぜか、正直に言ってしまった。白石さんに、知ってほしかったのかもしれない。博打じゃなかった、って。俺はちゃんと勝ってる、って。
「ミライ製菓って会社の株、買ったら上がって。ほかのも、何買っても上がって。もう、十何万も増えて――」
白石さんは、付せんだらけの本を見つめたまま、静かに言った。
「上がってる時は、みんな、そう言うの」
「……え?」
「『何を買っても上がる』って。みんな、最初は、そう言うんだよ」
白石さんの声は、怒っていなかった。冷たくもなかった。ただ、どこか、遠くを見ているような声だった。
「……誰が?」
聞き返したけど、白石さんは答えなかった。代わりに、『相場の格言百選』の貸し出しカードに、ポン、とスタンプを押した。
「延長、一回までなら、できるよ」
「え」
「この本。まだ読み終わってないんでしょ。付せん、最後のほう、全然貼ってなかったから」
その通りだった。俺が付せんを貼っていたのは、前半の、景気のいい格言ばかりだった。後半の、「負け」とか「損」とかいう言葉が出てくるページは、ほとんど読み飛ばしていた。
「……ありがとう」
白石さんは、本を俺のほうに押し出した。
「後ろのほうが、大事だと思うよ」
それだけ言って、彼女はまた、次の本の整理を始めた。
◇ ◇ ◇
その日の帰り道、千夏に会った。
「蓮! 聞いたよ、健太から。株、すごく上がってるんだって?」
「まあね」
自分でも、声がうわずっているのがわかった。
「じゃあ、そろそろ返せるよね?」
千夏が、スマホのメモ帳を見せてくる。もはや、見なくても内容はわかる。
――蓮 ポップコーン 690円
「いや、今、利益は全部、次の株に回してるから。再投資ってやつ。お金が、お金を生むんだよ」
「ふうん」
千夏は、メモ帳をしまって、俺の顔をじっと見た。
「蓮、なんか、顔つき変わったね」
「かっこよくなった?」
「ううん」
即答だった。
「なんか、ちょっと、知らない人みたい」
千夏は、それだけ言うと、「じゃあね」と手を振って、自分の家のほうへ歩いていった。
知らない人みたい。
どういう意味だろう。俺は、少しだけ首をかしげて、それから、すぐにスマホを開いた。株価のほうが、ずっと気になったから。
◇ ◇ ◇
その夜。
株を始めてから、ちょうど一か月が経っていた。
俺は、ベッドの上で、証券口座の画面を開いた。
――資産合計:802,340円
八十万円。
三十万円で始めて、一か月で、八十万円。
俺は、その数字を、何度も何度も見た。スクリーンショットを撮った。三枚撮った。それから、ノートを開いて、ペンで大きく書いた。
――株を始めて1か月。30万→80万。勝率100%。
その下に、もう一行、つけ足した。
――才能、あり。
才能。
辞書で調べると、こう書いてある。
――物事をうまくやりとげる、生まれつきの能力。
テストは平均点。50メートル走は、クラスで十六位。自己紹介で言えることは「寝ることです」だけ。そんな俺に、初めて、生まれつきの何かがあった。
――そう、思った。
ノートを閉じて、天井を見上げる。
あの映画のマイクも、最初はこうだったのかな。いや、マイクは最初、負けていた。負けて、負けて、それでも続けて、勝った。
じゃあ、最初から勝っている俺は。
マイクより、すごいんじゃないか?
隣の部屋から、姉ちゃんが誰かと電話で笑っている声が聞こえた。俺は、その声を、なんだか遠くの音のように聞いていた。
ふと、机の上の『相場の格言百選』が目に入った。白石さんが、延長してくれた本。後ろのほうが、大事だと思うよ。
俺は、その本に手を伸ばしかけて――
やめた。
今は、いい。後ろのほうの暗い話なんて、負けている人が読むものだ。勝っている俺には、まだ、必要ない。
俺はスマホを胸の上に乗せて、目を閉じた。
八十万円の夢を見ながら、気持ちよく眠った。
……あの本の、最後のほうのページに、何が書いてあったか。
俺がそれを読むのは、全部をなくした、その夜のことになる。
(第8話 終わり)
第8話を読んでいただき、ありがとうございます!
30万円が、1か月で80万円。蓮は今、人生の絶好調です。電柱にぶつかり、筆箱の中のスマホを見て先生に怒られ、健太にお腹の心配をされてヨーグルトを4個食べさせられても、顔はずっとにこにこしています。
でも、白石さんの「上がってる時は、みんな、そう言うの」という一言と、千夏の「ちょっと、知らない人みたい」という言葉。気づいてほしい人には、ちゃんと届いていないようです。
ちなみに、ポップコーン代は690円のまま。80万円あっても、返していません。
次回、第9話「俺、天才かもしれない」。調子に乗った蓮が、健太に何かをおごります。そして白石さんに、とんでもないことを言われます。
「蓮、あの本の後ろのほうを読め!」と思った方は、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




