第7話「口座開設、おめでとうございます(姉様)」
口座ができた。
でも、口座ができただけでは、株は買えない。お金を入れなきゃいけない。そして、その前に、もう一つ大きな問題があった。
郵便だ。
メールには、こう書いてあった。
――口座開設のご案内を、ご登録のご住所へ郵送いたします。
ご登録のご住所。つまり、うちだ。そして宛名は、もちろん「高橋美咲様」。
もしその封筒を、姉ちゃん本人が受け取ったら。あるいは、母さんが受け取って、姉ちゃんの部屋の机の上に置いたら。
すべてが、終わる。
だから俺は、その日から、郵便ポストの番人になった。
◇ ◇ ◇
うちの郵便は、だいたい午後二時から三時の間に届く。
平日のその時間、俺は学校にいる。つまり、平日に封筒が届いたら、アウトだ。母さんがパートから帰ってくるのが四時。それまでに、なんとかしなければいけない。
というわけで、その週の俺は、六時間目が終わった瞬間に教室を飛び出し、全速力で家まで走って帰った。
月曜日。三時五十二分、到着。ポストの中身、チラシ二枚。セーフ。
火曜日。三時五十分、到着。ポストの中身、電気代のお知らせ。セーフ。
水曜日。三時四十八分、到着。だんだん速くなっている。ポストの中身、ピザ屋のチラシ。セーフ。
「蓮、最近どうしたの? 帰宅部の新記録でも狙ってんの?」
木曜日、校門を飛び出していく俺の背中に、千夏の声が飛んできた。
「ちょっと用事!」
「毎日?」
「毎日!」
振り返る余裕もなかった。
その日、家の前の角を曲がったところで、俺は赤いバイクを見つけた。郵便屋さんだ。ちょうど、うちのポストに何かを入れようとしている。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
俺は、息を切らしながら郵便屋さんの前に飛び出した。
郵便屋さんは、五十歳くらいの、日焼けしたおじさんだった。いきなり飛び出してきた高校生に、目を丸くしている。
「お、おお。どうした、兄ちゃん」
「そ、それ、うちのですよね。俺が、受け取ります」
「ああ、高橋さんちの子か。はい、どうぞ」
渡されたのは、水道局からのお知らせだった。違った。
「……ありがとう、ございます」
肩で息をしている俺を見て、郵便屋さんはにやっと笑った。
「兄ちゃん、毎日ポストの前で待ってるだろ。この前も、走って帰ってくるの見たぞ」
「え」
「わかるよ。俺も若いころ、そうだった。彼女からの手紙、待ってるんだろ?」
「ち、違います」
「照れるな照れるな。届いたら、ちゃんと兄ちゃんに直接渡してやるからな」
郵便屋さんは、親指を立ててウインクすると、赤いバイクで颯爽と去っていった。
違う。全然違う。俺が待っているのは、姉ちゃんの名前が書かれた、証券会社からの封筒だ。
でも、その日から、郵便屋さんの佐藤さんは、俺のことを「手紙の兄ちゃん」と呼ぶようになった。
◇ ◇ ◇
封筒が届いたのは、土曜日だった。
土曜日なら家にいる。完璧だ。と思っていたら、その日に限って、母さんが家にいた。しかも、ちょうど郵便が来る時間に、玄関の前で植木に水をやっていた。
二階の窓から、赤いバイクが近づいてくるのが見えた。
まずい。
俺は、階段を三段飛ばしで駆け下りた。最後の三段は、飛ばしすぎて、ほぼ落ちた。
玄関のドアを開けた時、ちょうど佐藤さんが、母さんに封筒の束を渡そうとしているところだった。
その一番上に、白い封筒が見えた。証券会社の名前が、青い字で印刷されている。
「高橋さん、今日の分です」
「あら、どうも」
母さんが、手を伸ばした。
――終わった。
その瞬間、佐藤さんが、玄関に立っている俺に気づいた。
そして、ものすごくいい笑顔で、封筒の束をさっと引っこめた。
「あ、奥さん、ちょっと待って。……兄ちゃん、ほら!」
佐藤さんは、束の中から白い封筒だけを器用に抜き取って、俺に向かって差し出した。
「待ってたやつ、来たぞ!」
母さんが、きょとんとした顔で、俺と佐藤さんを交互に見た。
俺は、ほとんど飛びつくようにして封筒を受け取った。
「あ、ありがとうございます!」
「よかったな! がんばれよ、兄ちゃん!」
佐藤さんは、また親指を立てて、赤いバイクで去っていった。
母さんは、俺の手の中の封筒を、じっと見ていた。
「……蓮、それ、何?」
「が、学校の! 進路の資料! 取り寄せたやつ!」
「あんたが? 進路の資料を? 自分で?」
母さんの目が、まんまるになった。
「……ちょっと、お父さん! 蓮が自分で進路の資料取り寄せたって!」
母さんは、植木の水やりも忘れて、家の中に駆けこんでいった。なぜか、ものすごくうれしそうだった。
俺は、封筒を胸に抱えたまま、玄関の前に立ち尽くしていた。
佐藤さんは、たぶん、日本一いい郵便屋さんだ。
そして俺は、たぶん、日本一ひどい息子だった。
◇ ◇ ◇
次は、お金だ。
俺の三十万二千五百円は、俺の名前の銀行口座に入っている。俺のお金だ。それを、姉ちゃんの名前の証券口座に移さなきゃいけない。
ここでも、いくつもの嘘と、いくつもの小さな冒険があったけれど、細かいことは省略する。省略しないと、この話はたぶん、俺の嘘の記録だけで一冊の本になってしまう。
とにかく、日曜日の朝、俺は銀行のATMの前に立っていた。
画面に、残高が表示される。
――302,500円
ばあちゃんのポチ袋が、頭の中に浮かんだ。だいじに、つかってね。
「……大事に、使うから」
小さな声で言って、ボタンを押した。
ATMの中で、機械がうなるような音を立てた。お札を数える音。それが、やけに長く聞こえた。
出てきた一万円札の束は、思っていたよりずっと薄かった。三十枚。十六年分のお正月が、この薄さだった。
そして、思っていたより、ずっと重かった。
帰り道、俺はその封筒を、上着の内ポケットに入れて、ずっと胸の上から手で押さえていた。すれ違う人が全員、泥棒に見えた。自転車のベルが鳴るたびに、ビクッとした。一度、本気で靴下の中に入れようかと思って、やめた。
家に着いた時、手のひらは汗でびっしょりだった。
◇ ◇ ◇
お金の準備ができた。
いよいよ、何の株を買うか、決める時が来た。
借りてきた本には、どれも同じようなことが書いてあった。
――初心者は、自分がよく知っている会社から始めよう。
自分がよく知っている会社。
俺がよく知っている会社って、なんだろう。
その夜、俺はノートを広げて、思いつく会社の名前を書き出してみた。
コンビニ。ゲーム会社。スマホのメーカー。それから、牛丼屋。ハンバーガー屋。
……食べ物ばっかりだ。
月曜日の昼休み、中庭で、健太と千夏にも聞いてみた。
二人には、こう説明した。「親に頼みこんで、なんとか同意してもらえた」と。
「えっ、おばさんが? あの株が大嫌いなおばさんが?」
千夏が、目を丸くした。
「……うん。必死に頼んだら、なんとか」
「すごい。どうやって説得したの?」
「……進路の資料、自分で取り寄せたりして、本気だってわかってもらった」
半分だけ本当で、半分は大嘘だった。進路の資料なんて、一枚も取り寄せていない。
千夏は、しばらく俺の顔を見ていた。それから、ふっと笑った。
「そっか。よかったね、蓮」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が、ずきっと痛んだ。千夏が、本当に俺のために喜んでくれているのがわかったから。
「で、何の株を買うんだ!?」
健太が、身を乗り出してきた。
「まだ決めてない。知ってる会社がいいって、本に書いてあったんだけど」
「じゃあ焼肉屋だろ! 焼肉屋の株を買えば、焼肉が安くなるんじゃないのか!?」
「そういう仕組みじゃないと思う」と千夏。
「でも、株主優待っていうのがあって、焼肉の割引券がもらえる会社もあるらしいよ」
「マジか! 蓮、焼肉屋にしろ!」
健太の目が、星みたいに輝いた。
でも、その時、俺の頭の中には、別のものが浮かんでいた。
あの日。映画館。宙を舞った、キャラメル味と塩味のポップコーン。
◇ ◇ ◇
その夜、調べてみると、あった。
映画館のポップコーンの豆や、コンビニのお菓子を作っている、お菓子のメーカー。「ミライ製菓」という会社だった。俺が子どもの頃から食べている、星の形をしたスナック菓子も、この会社のものだった。
本に書いてあった通りに、いろいろな数字を調べてみた。売上。利益。株価。PERとかいう、よくわからない数字。
正直に言うと、半分くらいしかわからなかった。
でも、数字の意味よりも、もっと大事なことがあった。
この会社のポップコーンが、俺の人生を変えた。
それだけで、十分な理由に思えた。
――今なら、わかる。それは、全然十分な理由なんかじゃない。
でも、十六歳の俺には、それが、世界で一番かっこいい理由に見えたんだ。
ミライ製菓の株価は、一株、二千八百円だった。百株で、二十八万円。俺の三十万円で、ぎりぎり買える。
ぎりぎり。
つまり、ほぼ全額だ。
本には、「最初は少しずつ、分けて買おう」とも書いてあった。俺は、その一行を読まなかったことにした。最近、読まなかったことにする一行が、どんどん増えている。
◇ ◇ ◇
日曜日の夜、十一時。
ベッドの上で正座をして、スマホを両手で持っていた。
画面には、注文の確認ページ。
――銘柄:ミライ製菓
――数量:100株
――注文方法:成行
――上記の内容で注文を確定しますか?
成行、というのは、値段を指定せずに、その時の値段で買うという意味だ。今夜注文しておけば、明日の朝九時に、市場が開いた瞬間に買われる。
あとは、「注文を確定する」のボタンを押すだけ。
指を、ボタンの上に持っていく。
ドクン。
心臓が、一回、大きく鳴った。
ドクン、ドクン。
あの映画館で聞いた音と、同じだった。でも、それよりも、ずっと大きい。部屋中に響いている気がする。隣の部屋の姉ちゃんにまで聞こえているんじゃないかと思って、本気で壁のほうを見た。
指先が、震えている。
二十八万円。十六年分のお正月。ばあちゃんのポチ袋。大叔父さんの五百円玉。
それが、このボタン一つで、全部、株に変わる。
「……よし」
俺は目をつぶった。
そして、押した。
――ご注文を受け付けました。
画面が切り替わった瞬間、俺は、ベッドの上にばたんと倒れた。
全身の力が、抜けていた。天井が、ぐるぐる回って見えた。
やった。
ついに、やった。
あの映画の、マイクと同じ世界に、俺は今、足を踏み入れたんだ。
その夜は、一睡もできなかった。
◇ ◇ ◇
月曜日、一時間目は数学だった。
教室の時計の針は、八時五十分を指していた。
あと十分。あと十分で、市場が開く。俺の注文が、本当の取引になる。
黒板の前では、数学の先生が二次関数の説明をしている。全然、頭に入ってこない。俺の目は、黒板ではなく、時計の秒針だけを追っていた。
八時五十五分。
八時五十八分。
八時五十九分。
九時。
秒針が、十二のところを通り過ぎた瞬間、俺は、思わず息を止めた。
今、この瞬間、どこかの画面の中で、俺の二十八万円が、ミライ製菓の株に変わった。
――はずだ。
確認したい。今すぐスマホを見たい。でも、授業中にスマホを出したら、この前の現代社会の二の舞だ。
「――では、この問題を、高橋」
え。
顔を上げると、先生と、クラス全員が俺を見ていた。黒板には、二次関数のグラフ。放物線が、下に向かってへこんでいる。
「このグラフの頂点を求める方法は?」
頭の中が、株のことでいっぱいだった俺の口から、とっさに出た言葉は、これだった。
「……成行です」
教室が、一瞬静まり返った。
それから、どっと爆笑が起きた。
「な、なりゆき?」
先生が、本気で困った顔をしている。健太は、机に突っ伏して肩を震わせている。千夏は、頭を抱えている。
そして、窓際の席。
白石さんが、教科書で口元を隠していた。
その肩が、ほんの少しだけ、震えているように見えた。
……笑ってる?
まさか。あの白石さんが?
「高橋、頂点の求め方は、平方完成だ。成行ではない」
先生のツッコミに、また教室が笑いに包まれた。俺は真っ赤な顔で座った。
窓際をもう一度見た時、白石さんは、もういつもの真面目な顔に戻っていた。
でも、さっきのは、たぶん、気のせいじゃなかった。
◇ ◇ ◇
一時間目が終わった瞬間、俺はスマホをつかんで、廊下に飛び出した。
震える指で、アプリを開く。
――約定しました。ミライ製菓 100株 2,805円
約定。売買が成立した、という意味だ。
俺は、本当に、株を持っている。
そして、その下に、もう一つ数字があった。
――評価損益:+1,500円
プラス。
プラス、千五百円。
一時間目の、数学の授業を受けている間に。俺が「成行です」と言って、クラス中に笑われている間に。
千五百円、増えていた。
「――っしゃあああああっ!」
廊下の真ん中で、俺は叫んでいた。
廊下にいた全員が、俺を見た。隣のクラスの先生まで、教室から顔を出した。
「お、おい蓮、どうした!?」
健太が、教室から飛び出してきた。
「増えた! 千五百円、増えた!」
「千五百円!? すげえ! 焼肉一人前くらいいけるじゃん!」
「いや、ちゃんとした焼肉屋の一人前は、たぶんもっと高い」
後ろから来た千夏が、冷静に言った。それから、少しだけ笑った。
「でも、おめでとう。蓮の初めての株だね」
「おう!」
「ちなみに」
千夏が、スマホのメモ帳をすっと見せてきた。
――蓮 ポップコーン 690円
「千五百円増えたなら、今日、全額返せるね?」
「……いや、これはまだ、売ってないから。現金になってないから」
「ふうん」
千夏は、メモ帳をしまいながら、意地悪そうに笑った。
「じゃあ、増えたお金も、まだ持ってないのと同じだね」
その一言は、なぜか妙に、耳に残った。
◇ ◇ ◇
その日の帰り道、俺はコンビニに寄った。
お菓子の棚の前で、しゃがみこむ。あった。ミライ製菓の、星の形をしたスナック菓子。百三十円。
財布の中から、なけなしの小銭を出して、それを一袋買った。
店を出て、袋を開けて、一つ口に放り込む。
いつもと同じ味だった。子どもの頃から食べている、あの味。
でも、今日は、少しだけ違う気がした。
――これは、俺の会社のお菓子だ。
百株。ミライ製菓という会社の、何百万分の一か、もっと小さな一部。それでも、今日から俺は、この会社のオーナーの一人だ。
現代社会の田村先生の言葉を、ふと思い出した。
会社のことを好きにならなきゃ、続かんぞ。
「……好きだよ」
俺は、星の形のスナックを、もう一つ口に入れた。
「たぶん、世界で一番、好きだ」
夕焼けの中を、スナック菓子をかじりながら歩いた。足取りが、ふわふわしていた。まるで、雲の上を歩いているみたいだった。
この時の俺は、本気で思っていた。
株って、なんて簡単なんだろう、と。
――ビギナーズラック、という言葉を、俺はまだ知らなかった。
(第7話 終わり)
第7話を読んでいただき、ありがとうございます!
ついに、蓮が人生初めての株を買いました。選んだのは、あの日のポップコーンを作っている会社。理由は「ポップコーンが人生を変えたから」。……本人いわく、世界で一番かっこいい理由だそうです。
そして今回のMVPは、日本一いい郵便屋さん・佐藤さんでした。彼は今も、蓮が彼女からの手紙を待っていると信じています。
ちなみに、授業中に「成行です」と答えて笑われた蓮ですが、どうやら笑っていたのはクラスメイトだけではなかったようです。
次回、第8話「ビギナーズラックって知ってる?」。株が、上がる。また上がる。蓮、だんだん顔がゆるんでいきます。
「蓮、浮かれすぎ!」「でも気持ちはわかる!」と思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




