第6話「姉ちゃんのハンコ、借りました(無断で)」
申し込みボタンを押した次の日、俺は人生で初めて、自分の家で泥棒みたいなことをした。
先に言っておく。この話は、俺の人生で一番かっこ悪い一日の記録だ。笑ってくれていい。というか、笑ってくれないと、やっていられない。
◇ ◇ ◇
日曜日の朝。
証券会社から届いたメールには、こう書いてあった。
――お届け印の登録用紙を郵送いたします。ご本人様の印鑑を押印のうえ、ご返送ください。
郵送。
つまり、家のポストに、姉ちゃん宛ての封筒が届く。それを俺が先に回収して、姉ちゃんの印鑑を押して、送り返す。
印鑑は、姉ちゃんの部屋の机の引き出しにある。成人式の時に、母さんが「大人になったんだから」と作ってくれた、姉ちゃんの人生初の印鑑だ。ピンク色のプラスチックのケースに入っていて、なぜかケースに猫のシールが貼ってある。俺は、それを知っている。去年の年末、姉ちゃんが「私の印鑑、超かわいいでしょ」と、家族全員に見せびらかしていたからだ。
問題は、どうやってそれを手に入れるか。
姉ちゃんが家にいない時間を、調べる必要があった。
カレンダーを確認する。姉ちゃんのバイトは、火曜と木曜と土曜。それと、たまに日曜の夕方。リビングの冷蔵庫に貼ってある家族カレンダーに、姉ちゃんの字で「バイト」と書いてある。今週の日曜日の欄には、「バイト 夕方〜」とあった。
決行は、今日の夕方だ。
◇ ◇ ◇
夕方四時。
「行ってきまーす」
玄関から、姉ちゃんの声がした。ドアが閉まる音。自転車のスタンドを外す音。遠ざかっていく、自転車のベルの音。
父さんは、リビングでゴルフ中継を見ながら寝ている。母さんは、ご近所さんとお茶をしに出かけている。
今しかない。
俺は、自分の部屋をそっと出た。
廊下は、たったの三メートル。俺の部屋と、姉ちゃんの部屋の距離は、たったの三メートルだ。なのに、その三メートルが、今日はものすごく長く感じた。
一歩、ぎしっ。
この家の廊下は、なぜか真ん中だけ鳴る。俺は壁にへばりついて、カニみたいに横歩きで進んだ。
姉ちゃんの部屋のドアの前に立つ。
そして俺は、なぜか、ドアをノックした。
コン、コン。
……誰もいないのに。
自分でも、なんでノックしたのかわからない。たぶん、体が覚えていたんだと思う。姉ちゃんはノックをしない人だけど、俺は昔、ノックせずに姉ちゃんの部屋に入って、本気で枕を投げられたことがある。その時の恐怖が、体に染みついているのだ。
高橋家で、ノックをする人間は、俺だけだ。
そして今日、俺はノックしてから、泥棒をする。
意味がわからない。
◇ ◇ ◇
姉ちゃんの部屋は、いい匂いがした。
なんというか、俺の部屋とは空気が違う。俺の部屋は、脱いだ靴下と、ポテトチップスの匂いがする。姉ちゃんの部屋は、シャンプーと、なんだかよくわからない花みたいな匂いがする。同じ家なのに、なぜだ。
壁には、大きなポスターが貼ってあった。
ロンドンの街並み。赤い二階建てのバスと、大きな時計塔。
その横に、手書きのカレンダーがあった。マス目の一つ一つに、小さなバツ印がつけられている。そして、一番上に、姉ちゃんの丸っこい字で、こう書いてあった。
――ロンドンまで、あと三百二十日!
机の上には、ガラスのびんが一つ置いてあった。中には、小銭がたくさん入っている。びんには、マスキングテープで「留学ちょきん」と書いてある。
俺は、そのびんから、そっと目をそらした。
見てはいけないものを見た気がした。
いや、違う。見てはいけないのは、たぶん、今ここにいる俺のほうだ。
◇ ◇ ◇
机の引き出しを、そっと開けた。
一段目。ペンとノートと、カフェのシフト表。
二段目。手紙の束と、プリクラ帳。見なかったことにする。
三段目。
あった。
ピンク色のプラスチックのケース。猫のシール。間違いない。
ケースを開けると、中には、ちょこんと小さな印鑑が入っていた。印面には、「高橋」の二文字。
――お前も、高橋なのにな。
俺は、印鑑に向かって、心の中でつぶやいた。俺の名前も高橋だ。同じ「高橋」なのに、この印鑑は、姉ちゃんのものだ。俺のものじゃない。
ポケットから、証券会社の登録用紙を取り出した。
昨日、ポストに届いたのを、誰よりも先に回収しておいたやつだ。封筒には、「高橋美咲様」と印刷されていた。それを見た時、胃がきゅっと縮んだ。
用紙の右下に、「お届け印」と書かれた四角い枠がある。
ここに、押すだけだ。
ぽん、と押すだけ。
俺は、姉ちゃんの机の上にあった朱肉に、印鑑をそっと押しつけた。
それから、深呼吸をして、四角い枠の上に、ゆっくり印鑑を下ろした。
ぽん。
印鑑を持ち上げる。
――逆さまだった。
「……っ!」
声が出そうになって、慌てて自分の口をふさいだ。
「高橋」の二文字が、きれいに逆さまになっていた。まるで、逆立ちしている高橋だ。
ど、どうしよう。
俺は、パニックになりながら、姉ちゃんの机の上にあったいらない紙を引き寄せた。カフェのシフト表の裏だ。とりあえず、練習しなきゃ。ちゃんとまっすぐ押せるように。
ぽん。斜め。
ぽん。かすれた。
ぽん。また逆さま。なんでだ。
ぽん。ぽん。ぽん。
気がつくと、シフト表の裏は、二十個くらいの「高橋」で埋めつくされていた。まっすぐなやつ、斜めのやつ、逆さまのやつ、かすれたやつ。まるで、高橋家の集合写真だ。
ようやく、まっすぐ押すコツがわかった。印鑑の、ちょっとへこんでいるところを、自分のほうに向ければいいのだ。そんなこと、誰も教えてくれなかった。
用紙は、幸い予備がもう一枚入っていた。
俺は、二枚目の用紙の枠の中に、慎重に、慎重に、印鑑を押した。
ぽん。
――まっすぐだった。
「よ、よし……」
額から、汗が一滴、用紙の上に落ちた。慌ててティッシュで拭いた。
◇ ◇ ◇
その時だった。
ガチャ。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
姉ちゃんの声だった。
――なんで!?
バイトは夕方からのはずだ。まだ出かけて、三十分も経っていない。
「忘れ物しちゃったー! お父さん、私のエプロン見なかった?」
階段を上ってくる足音。一段、二段、三段。
まずい。まずい。まずい。
俺は、印鑑をケースに放り込み、ケースを引き出しにねじ込み、引き出しを閉めた。登録用紙をポケットに突っ込んだ。
でも、部屋の外に出る時間はない。足音は、もう廊下まで来ている。
俺は、目の前のクローゼットを開けて、中に飛び込んだ。
扉を閉めた瞬間、部屋のドアが開いた。
◇ ◇ ◇
クローゼットの中は、真っ暗だった。
洋服が顔に当たる。いい匂いがする。でも、それどころじゃない。扉のすき間から、細い光が一本だけ差し込んでいる。
そのすき間から、姉ちゃんの姿が見えた。
姉ちゃんは、スマホで誰かと電話をしながら、部屋の中をきょろきょろ見回していた。
「――そうそう、エプロン忘れちゃって。たぶん部屋のどこかに……あ、あった」
ベッドの上にあったエプロンを拾い上げる。よかった。これで出ていってくれる。
と思ったのに、姉ちゃんは、ベッドに腰を下ろした。
「え? ああ、まだ時間あるから大丈夫。で、何の話だっけ。……ああ、留学の話ね」
座らないでくれ。頼むから、座らないでくれ。
俺の願いもむなしく、姉ちゃんは、そのまま友達との電話を続けた。
「うん、お金はね、あと少し。バイト代、毎月ちゃんと貯めてるし。……え? 株? やらないよ、怖いもん。うちの親戚に、それで家なくした人いるし」
心臓が、止まりかけた。
「……あ、そうそう、弟がさ」
――俺の話。
息を止めた。
「最近、なんか株の本読んで勉強してんの。サルでもわかるなんとかってやつ。笑っちゃうでしょ」
姉ちゃんは、くすっと笑った。
「でもさ、あの子、今まで何やっても三日坊主だったのに、毎晩遅くまで本読んでるんだよね。……うん。ちょっと見直したかも。本人には絶対言わないけど」
クローゼットの暗闇の中で、俺は、ポケットの中の登録用紙を、ぎゅっと握りしめた。
姉ちゃんの印鑑が押された、用紙を。
見直した、と言った。
今、この瞬間、クローゼットの中に隠れて、姉ちゃんの名前で口座を作ろうとしている弟を。
息が、苦しかった。クローゼットの中が狭いせいだと、思いたかった。
「――あ、やば。もう行かなきゃ。また連絡するね」
姉ちゃんは電話を切ると、エプロンをカバンに突っ込んで、部屋を出ていった。階段を下りる足音。玄関のドアが閉まる音。
俺は、クローゼットの中で、しばらく動けなかった。
◇ ◇ ◇
やっとクローゼットから出た時、俺の髪には、姉ちゃんのワンピースのタグが一枚引っかかっていた。
それから、机の上を見て、凍りついた。
シフト表。
俺が二十個の「高橋」を押しまくった、姉ちゃんのシフト表が、机の上に、そのまま置いてあった。
姉ちゃんは、気づかなかったらしい。
俺は、そのシフト表をそっとポケットにしまった。代わりに、自分の部屋のコピー用紙を一枚持ってきて、同じ場所に……いや、待て。シフト表がなくなっていたら、そっちのほうが怪しい。
結局、俺はシフト表を元の場所に戻した。裏返しにして。「高橋」の集合写真が見えないように。
今、思い出しても、意味がわからない。たぶん、パニックになると、人間は一番意味のないことをする。
◇ ◇ ◇
月曜日の昼休み。
いつもの中庭のベンチで、健太と千夏と三人で弁当を食べていた時だった。
ポケットの中で、スマホが震えた。
画面には、知らない電話番号。
――もしかして。
申し込みの時、連絡先の電話番号の欄に、俺は自分のスマホの番号を入れていた。証券会社から、電話がかかってくることがあるらしい。本に書いてあった。
「ちょ、ちょっとトイレ!」
俺は弁当を放り出して、全速力で走った。
「おい蓮、弁当! 食わないなら俺がもらうぞ!」
健太の声が、背中から追いかけてきた。
校舎の一番端の、ほとんど誰も使わない男子トイレに駆けこむ。個室に入って、鍵をかける。スマホは、まだ震えている。
深呼吸。
覚悟を決めて、通話ボタンを押した。
そして、俺は――人生で一番の、裏声を出した。
「は、はぁ〜い。た、高橋、美咲ですぅ〜」
自分でも、びっくりするくらい、ひどい声だった。
姉ちゃんの声は、こんなんじゃない。どちらかというと低くて、ちょっとかすれている。でも、俺の頭の中にある「女の人の声」のイメージは、なぜかアニメの魔法少女しかなかった。
「お世話になっております。こちら、証券会社の口座開設担当の者です。高橋美咲様、ご本人様でいらっしゃいますか?」
電話の向こうは、とても丁寧な女の人の声だった。
「は、はいぃ〜。ご本人様ですぅ〜」
自分で自分に「様」をつけてしまった。
「ありがとうございます。お申し込み内容の確認のため、いくつかご質問させていただきます。まず、お名前のフリガナをお願いいたします」
「タ、タカハシ、ミサキ、ですぅ〜」
「ありがとうございます。それでは、生年月日をお願いいたします」
「はいっ、六月三日ですぅ〜!」
言った瞬間、全身の血が、さーっと引いていった。
六月三日。
それは、俺の誕生日だった。
姉ちゃんの誕生日は、来月の十四日だ。毎年プリン一個で怒られる日だ。昨日まで、あれほど頭の中でくり返していたのに。緊張しすぎて、口から勝手に、自分の誕生日が飛び出していた。
「……あの、お申し込みの内容と、異なっているようなのですが……」
電話の向こうの声が、少しだけ困ったように変わった。
終わった。
人生、終わった。
頭の中が真っ白になって、俺の口は、勝手に動いた。
「あっ! ち、違うんですぅ〜! 六月三日は、お、弟の誕生日でぇ〜!」
「弟様の……?」
「は、はいっ! あたし、弟のことが、だ、大好きでぇ〜! つい、いつも弟の誕生日のことばっかり考えちゃっててぇ〜!」
何を言っているんだ、俺は。
トイレの個室の中で、自分で言った言葉に、自分で鳥肌が立った。
電話の向こうで、一瞬の沈黙があった。
それから、くすっと、小さな笑い声が聞こえた。
「そうでしたか。とても仲のよいご姉弟なんですね」
「は、はいぃ〜……。そ、それで、あたしの誕生日は、来月の十四日ですぅ〜……」
正しい生年月日を、震える裏声で答えた。
そこから先の質問は、なんとか乗り切った。住所。投資の経験。投資の目的。全部、申し込みの時に入力した通りに答えた。
「確認は以上です。審査の結果は、数日以内にメールでお知らせいたします。お忙しいところ、ありがとうございました」
「あ、ありがとうございましたぁ〜……」
電話が切れた。
俺は、トイレの個室の中で、壁にもたれかかって、ずるずると座りこんだ。
汗で、シャツが背中にべったりくっついていた。
◇ ◇ ◇
個室のドアを開けて、外に出た。
洗面台の前に、健太が立っていた。
俺の弁当箱を持って。口をもぐもぐさせながら。
「……健太」
「…………」
「いつから、いた?」
健太は、俺の卵焼きをごくんと飲み込んでから、ものすごく真剣な顔で言った。
「『弟のことが大好きでぇ〜』のあたりから」
一番聞かれたくないところだった。
「蓮……」
健太は、俺の肩にそっと手を置いた。その目は、見たことがないくらい優しかった。
「俺は、お前が何を好きでも、どんな声を出してても、ずっと友達だからな」
「違う! そういうんじゃない!」
「大丈夫だ。俺は誰にも言わない。千夏にも言わない」
「だから違うって!」
「で、何だったんだ、今の」
俺は、三秒考えた。
「……演劇の、練習」
「お前、演劇部じゃないだろ」
「……文化祭の、出し物の」
「まだ五月だぞ」
健太は、首をかしげながらも、それ以上は聞いてこなかった。健太は、そういうやつだ。単純で、まっすぐで、俺の嘘を半分くらいしか疑わない。
その代わり、俺の弁当は、卵焼きもウインナーも、全部なくなっていた。
◇ ◇ ◇
中庭のベンチに戻ると、千夏が腕を組んで待っていた。
「長いトイレだったね」
「お、おう」
「健太、なんで蓮のお弁当を持っていったの?」
「蓮が、弟のことが大好きなんだって」
「言わないって言っただろ!」
約束は、三十秒ももたなかった。
千夏は、俺と健太の顔を交互に見て、心の底からわからない、という顔をした。
「……蓮、弟いないよね?」
「いない」
「じゃあ、何の話?」
「演劇の練習だって!」と健太。
「文化祭の!」と俺。
「まだ五月だよ」と千夏。
二人とも、同じところにつっこむな。
千夏は、しばらく俺の顔をじっと見ていた。あの、何かに気づきかけている時の目だった。でも、結局ため息をついて、スマホのメモ帳を開いただけだった。
「よくわからないけど。とりあえず、690円ね」
「……今、言うことか、それ」
「いつでも言うよ。完済するまで」
◇ ◇ ◇
三日後の夜。
一通のメールが届いた。
――【口座開設完了のお知らせ】高橋美咲様
――審査の結果、口座開設の手続きが完了いたしました。
俺は、ベッドの上で、そのメールを何度も何度も読み返した。
通った。
逆さまのハンコと、魔法少女みたいな裏声と、弟が大好きな姉という、とんでもない設定を乗り越えて。
通ってしまった。
「……やった」
小さくガッツポーズをした。うれしかった。正直に言うと、ものすごくうれしかった。あの映画の世界に、ついに一歩、足を踏み入れたんだから。
でも、ガッツポーズをした手を下ろした時、ふと、クローゼットの中で聞いた、姉ちゃんの声を思い出した。
――ちょっと見直したかも。本人には絶対言わないけど。
ガッツポーズの形のまま、手が止まった。
隣の部屋からは、姉ちゃんの鼻歌が聞こえていた。ロンドンのガイドブックでも読んでいるのかもしれない。何も知らずに。
俺は、メールの画面を閉じた。
それから、もう一度開いた。
画面の一番上には、やっぱり、あの名前があった。
――高橋美咲様
俺は、その名前に向かって、心の中で小さく言った。
ごめん、姉ちゃん。
でも、絶対に、勝つから。
……この「絶対」という言葉が、どれだけ軽いものだったか。
それを思い知るのは、もう少しだけ、先の話だ。
(第6話 終わり)
第6話を読んでいただき、ありがとうございます!
蓮の人生で一番かっこ悪い一日、いかがでしたか。ノックしてから入る泥棒、二十個の「高橋」の集合写真、クローゼットの中で聞いてしまった姉ちゃんの本音、そして魔法少女の裏声。作者は書きながら、何度も「蓮、もうやめとけ」と言いました。
ちなみに、健太の「誰にも言わない」は三十秒でした。新記録ではありません。
※念のため。他人の名前や印鑑を使って口座を作るのは、現実では絶対にやってはいけないことです。蓮はこの先、ちゃんと痛い目にあいます。
次回、第7話「口座開設、おめでとうございます(姉様)」。ついに、人生初めての株を買います。ボタンを押す瞬間の心臓の音は、映画のBGMよりも大きかった――。
笑っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると、蓮の裏声も少しは報われます。




