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諦めの悪い俺が、億を稼ぐまで  作者: 大吉


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第5話「氏名欄に、姉ちゃんの名前を打ち込んだ」

人間は、自分に言い訳をする時、驚くほど頭がよくなる。

その一週間、俺はそれを身をもって証明した。テストの時には一ミリも働かない俺の脳みそが、こと「姉ちゃんの名前を借りてもいい理由」を考える時だけは、フル回転した。

参考までに、俺の頭の中で一週間かけて完成した「言い訳ランキング」を発表しよう。

第五位。「別に、姉ちゃんのお金を使うわけじゃない」

第四位。「ちょっと名前を借りるだけ。図書室で本を借りるのと同じ」

第三位。「十八歳まで待つ二年間、勉強だけしてても意味がない。実際にやってみないと身につかない」

第二位。「勝ったら、増えたお金を姉ちゃんの留学費用にこっそり足してやる。むしろ親孝行ならぬ、姉孝行」

そして、栄えある第一位。

「白石さんに、株は博打じゃないって証明するため」

……今、読み返すと、全部だめだ。一つ残らず、だめだ。特に第四位。図書室の本は、借りる時にちゃんと本人に許可をもらう。白石さんに五冊までと言われたのを、もう忘れたのか、俺は。

でも、その時の俺には、この五つの言い訳が、まるで完璧な理論みたいに見えていた。

人は、自分が信じたいことを、信じる。

借りてきた本の一冊に、そう書いてあった。読んだのに、わかっていなかった。

◇ ◇ ◇

その一週間、俺はとにかく本を読んだ。

授業中も、休み時間も、寝る前も。『サルでもわかる株入門』は三回読んだ。『株式投資の基本』は二回。『相場の格言百選』は、格言を全部ノートに書き写した。

おかげで、少しずつ言葉がわかるようになってきた。

PER、PBR、配当利回り。ローソク足、移動平均線、出来高。最初は呪文にしか見えなかった言葉が、なんとなく意味のある言葉に見えてくる。それが、めちゃくちゃ楽しかった。

数学の公式は一つも覚えられないのに、株の用語はするする頭に入ってくる。人間の脳みそって、不思議だ。

「蓮、目の下、すごいことになってるよ」

木曜日の朝、千夏に言われた。

「え?」

「クマ。パンダみたい」

「最近、ちょっと夜更かししてて」

「株の本?」

「……うん」

千夏は、少しだけ眉をひそめた。

「勉強するのは、いいことだと思うけど。変なことしようとしてないよね?」

ドキッとした。

千夏は昔から、俺が何か隠している時、なぜか必ず気づく。小学生の時、テストの点数を隠すために答案用紙を植木鉢の下に埋めた時も、なぜか千夏だけが気づいて、掘り返してきた。

「してないって」

「ほんとに?」

「ほんと」

千夏は、しばらく俺の目をじっと見ていた。それから、「ならいいけど」と小さく言って、自分の席に戻っていった。

嘘をつくのが、少しずつ上手になっていく。

それが、あの一週間で一番、嫌なことだった。

◇ ◇ ◇

昼休み。いつもの中庭のベンチで、健太は今日も茶色い弁当をかきこんでいた。

「なあ蓮、株って、いつから始めんの?」

「……まだ、わかんない」

「始めたらさ、儲かったら焼肉な! 食べ放題じゃないやつ! ちゃんとした、店員さんが一枚ずつ肉を持ってくるやつ!」

「まだ一円も儲かってないんだけど」

「先に予約しとくんだよ。こういうのは早い者勝ちだからな!」

健太は、自分で言って自分でうなずいていた。何が早い者勝ちなのか、まったくわからない。

千夏が、水筒のお茶を飲みながら、横目で健太を見た。

「健太。株は、損することもあるんだよ」

「え、そうなの?」

「当たり前でしょ。上がることもあれば、下がることもあるって、この前説明したじゃない」

「じゃあ、損したら?」

健太が、きょとんとした顔で俺を見た。

「……損したら、焼肉はなし」

「ええーっ! じゃあ絶対に損すんなよ、蓮! 俺の焼肉がかかってるんだからな!」

健太は、俺の肩をばしばし叩いた。痛い。キャッチャーの手は、とにかく分厚い。

「絶対に損すんな、か」

俺は、空を見上げた。言われなくても、損するつもりなんてない。ちゃんと勉強したんだから。たぶん、大丈夫だ。

「ちなみに蓮」

千夏が、スマホのメモ帳をすっと見せてきた。

――蓮 ポップコーン 700円(分割)

「焼肉の前に、こっちね」

「……わかってるよ」

「今週の分割、まだもらってない」

俺は財布から十円玉を一枚出して、千夏の手のひらに乗せた。千夏は無言で、メモを「690円」に書き換えた。几帳面すぎる。

この時、健太が冗談で言った「絶対に損すんな」という言葉を、俺は後で、何度も何度も思い出すことになる。

◇ ◇ ◇

窓際の席では、白石さんが今日も静かに本を読んでいた。

あの日以来、一度も話していない。目が合ったことも、たぶんない。

でも、一度だけ。

金曜日の休み時間、俺が『相場の格言百選』を机の上に出したまま読んでいた時、教室の後ろのロッカーに行く白石さんが、俺の机の横を通った。

その足が、ほんの一瞬だけ、止まった。

顔を上げると、白石さんは、もう前を向いて歩いていた。

ただ、すれ違いざまに、本当に小さな声で、こう言った気がした。

「……返却期限、来週の月曜日だから」

それだけだった。

本の心配だった。俺の心配では、たぶんない。

でも、その日一日、なぜか、その声が耳から離れなかった。

◇ ◇ ◇

お金の準備は、意外と大変だった。

俺のお年玉の貯金は、全部、銀行の通帳に入っている。そしてその通帳は、母さんが管理している。台所の引き出しの、一番奥。輪ゴムでまとめた、家族全員の通帳の束の中だ。

土曜日の昼、母さんが買い物に出かけた隙に、俺はその引き出しを開けた。

いや、待ってほしい。盗むわけじゃない。自分の通帳だ。自分の名前が書いてある、自分のお金だ。

……でも、そう自分に言い聞かせなきゃいけない時点で、もう何かがおかしいことには、薄々気づいていた。

通帳の束から、「タカハシ レン」と書かれた一冊を抜き出す。

開いてみた。

一番最初のページの、一番最初の行。俺が生まれた年の、お正月。

――オトシダマ 10,000

その下に、毎年、同じ時期に、少しずつお金が増えている。五千円、一万円、三千円、一万円。

その中に、毎年一回だけ、五百円という小さな数字があった。大叔父さんからのお年玉だ。毎年、律儀に、五百円。全部なくした人が、それでも毎年くれた、五百円。

そして、通帳にはさまっていた、古いポチ袋が一枚、ひらりと床に落ちた。

拾い上げると、それは死んだばあちゃんのポチ袋だった。小学一年生の時にもらったものだ。中身はとっくに通帳に入っているけど、袋だけは、母さんが取っておいてくれたらしい。

表には、ばあちゃんの、震えるような細い字で、こう書いてあった。

――れんくんへ だいじに つかってね

俺は、しばらくその字を見つめていた。

ばあちゃんは、俺が小学二年生の春に死んだ。いつも縁側でみかんをむいてくれて、俺が何を話しても「蓮はえらいねえ」と笑ってくれる人だった。テストで三十点を取った時でさえ、「名前がちゃんと書けてて、えらいねえ」と言ってくれた。

その字を見ていると、みかんの甘い匂いまで思い出しそうだった。

大事に、使う。

株は、大事に使うことに、なるだろうか。

なる、と思った。いや、なるに決まってる。ちゃんと勉強したんだから。増やして、もっと大事なことに使えるようにするんだから。

俺は、ポチ袋をそっと通帳にはさみ直した。

残高は、三十万二千五百円だった。

◇ ◇ ◇

そして、土曜日の夜。

両親がテレビでドラマを見ている。姉ちゃんはカフェのバイト。家の中で、俺の部屋だけが、しんと静かだった。

ベッドの上に座って、スマホを開く。

あの申し込みページ。一週間以上、開きっぱなしになっていたページ。

一番上の入力欄が、白く光っている。

――お名前(姓)

――お名前(名)

俺は、深呼吸をした。

一回。二回。三回。

指を、画面に近づける。

「た」

「か」

「は」

「し」

変換キーを押すと、「高橋」と表示された。ここまでは、いい。ここまでは、俺の名前でもある。

次の欄に、指を移す。

「れ」

……違う。

「れ」を消して、打ち直す。

「み」

「さ」

「き」

変換。

――美咲

画面に、二文字が浮かび上がった。

その瞬間、指先が、すっと冷たくなった。

たった二文字なのに、なぜか、すごく重かった。俺の「蓮」という一文字より、ずっと、ずっと重かった。

俺は、その二文字を消した。

もう一度、打ち込んだ。

また、消した。

三回目に打ち込んだ時、俺は自分の指が、小さく震えていることに気づいた。

◇ ◇ ◇

ガチャ。

ドアが開いた。

俺は、反射的にスマホを裏返して、ベッドに叩きつけた。心臓が、口から飛び出すかと思った。

「蓮、スマホの充電器貸して。私の、バイト先に忘れてきた」

姉ちゃんだった。

バイトから帰ってきたばかりらしく、まだカフェの制服のシャツを着ている。胸のポケットには、「MISAKI」と書かれたネームプレートがついていた。

よりによって、今。

よりによって、その名前をつけて。

「……な、なんで帰ってきてんの」

「なんでって、ここ私の家だけど」

「いや、そうだけど」

姉ちゃんは、俺の机の上の充電器を勝手に引っこ抜きながら、ちらっと俺を見た。

「何、その顔。また変なサイト見てたの?」

「見てない!」

「スマホ、裏返して、ベッドに叩きつけてたけど」

「……虫がいた」

「スマホに?」

「スマホに」

我ながら、ひどい嘘だった。姉ちゃんは、心の底から呆れた顔をした。

「あんた、最近ほんと変だよ。千夏ちゃんも心配してた」

「千夏が?」

「この前、駅で会った時。『蓮、最近ちゃんと寝てますか』って。あんた、幼なじみに睡眠の心配されてんだよ。恥ずかしくないの?」

恥ずかしかった。でも、それ以上に、胸が痛かった。

姉ちゃんは充電器のコードをくるくる巻きながら、ドアのところで振り返った。

「ま、何してるか知らないけど。ちゃんと寝なよ。あんた、寝ないとほんとにバカになるから。もともとバカなのに」

「一言多いんだよ」

「一言足りないよりマシでしょ」

バタン、とドアが閉まった。

廊下を歩いていく足音。隣の部屋のドアが開いて、閉まる音。

俺は、裏返したスマホを、しばらく見つめていた。

今なら、まだ戻れる。

画面を開いて、全部消して、ページを閉じて、本を読んで、寝る。それで、いい。姉ちゃんの言う通り、十八歳になってから、自分の名前でやればいい。

頭では、ちゃんとわかっていた。

わかっていたのに。

◇ ◇ ◇

スマホを、ひっくり返した。

画面には、「高橋」の二文字だけが残っていた。名前の欄は、空っぽだった。

その空っぽの欄が、なぜか、俺を待っているように見えた。

――株なんて、博打でしょ。

白石さんの声が聞こえた。

――みんなが怖がっている時こそ、チャンスなんだ。

映画のマイクの声が聞こえた。

――れんくんへ だいじに つかってね。

ばあちゃんの字が浮かんだ。

――自分のお金のことはね、自分の名前で、自分で責任を持つの。

姉ちゃんの声が、一番大きく聞こえた。

全部、聞こえていた。

それなのに、俺の指は、動いた。

み。さ。き。

――高橋 美咲

今度は、消さなかった。

そこから先は、驚くほど簡単だった。

生年月日。姉ちゃんの誕生日は、来月の十四日。毎年、プリン一個で怒られる日だ。間違えるはずがない。

住所。俺の家と同じ。当たり前だ。

職業の欄。「学生」を選ぶ。

投資経験の欄。「なし」を選ぶ。

この申し込み用紙の中で、本当のことが書いてあるのは、たぶん、この一行だけだった。

◇ ◇ ◇

最後のページの一番下に、小さなチェックボックスがあった。

――□ 上記の内容は、すべてお客様ご本人が入力し、内容に相違ないことを確認しました。

ご本人。

その四文字を、俺は、三回読んだ。

本人じゃない。俺は、高橋美咲じゃない。高橋蓮だ。十六歳で、平均点で、ど真ん中で、プリンより序列が下の、高橋蓮だ。

指が、チェックボックスの上で止まった。

一秒。

五秒。

十秒。

隣の部屋から、姉ちゃんの笑い声が聞こえた。友達と電話でもしているのかもしれない。楽しそうな、いつもの姉ちゃんの声だった。

俺は、目を閉じた。

そして、チェックを入れた。

「送信」のボタンを押す。

画面がくるくると回って、それから、真っ白な画面に、短い文章が表示された。

――お申し込みを受け付けました。

――続いて、本人確認書類のご提出と、お届け印のご登録をお願いいたします。

俺は、スマホを胸の上に置いて、天井を見上げた。

心臓が、ものすごい音で鳴っていた。映画館で、あの映画を観た時と同じくらい。いや、それよりも、ずっと大きく。

でも、それは、あの時のワクワクとは、少しだけ違う音だった。

本人確認書類。お届け印。

つまり、姉ちゃんの免許証と、姉ちゃんの印鑑。

天使の俺は、もう何も言わなかった。たぶん、今度こそ本当に、寝てしまったんだと思う。

画面の一番上には、まだ、あの名前が表示されていた。

――高橋美咲 様

その名前は、俺がこれまでの人生で書いたどんな文字よりも、重かった。

(第5話 終わり)


第5話を読んでいただき、ありがとうございます!

ついに蓮が、一線を越えてしまいました。言い訳ランキング、通帳にはさまっていたばあちゃんのポチ袋、そして一番悪いタイミングで入ってくる姉ちゃん。全部聞こえていたのに、指は動いてしまう。人間って、そういうところがありますよね。……いや、ダメなんですけど。

蓮はこの先、この日の選択の代償を、しっかり払うことになります。

次回、第6話「姉ちゃんのハンコ、借りました(無断で)」。シリアスはいったんお休み。蓮、人生最大の裏声に挑戦します。

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