第4話「『株なんて博打でしょ』と言った彼女は、なぜか悲しそうだった」
月曜日の朝、教室に入ると、黒板の端に小さな落書きがあった。
――株を売ってる会社(笑)
犯人はすぐにわかった。健太だ。字が汚くて、「株」の木へんが「才」になっている。
「お前な……」
「いや、俺じゃない! 俺じゃないけど、おもしろかったから、ちょっとだけ書き足した!」
「(笑)のとこだけか」
「そう!」
それはもう、ほぼ犯人だ。
おかげで俺は、その日一日、クラスのみんなから「株の人」と呼ばれた。廊下ですれ違った隣のクラスのやつにまで、「よっ、株を売ってる会社」と言われた。俺は会社じゃない。
千夏は、黒板消しで落書きを消しながら、深いため息をついた。
「蓮、しばらく株の話は、学校でしないほうがいいよ」
「……わかってる」
わかってはいた。
わかってはいたけど、俺の頭の中は、相変わらず株のことでいっぱいだった。
正確に言うと、株のことと、土曜日の夜に見た、あの免許証のことで。
◇ ◇ ◇
あの夜から、俺はずっと迷っていた。
申し込みのページは、まだスマホの中で開きっぱなしになっている。あとは、名前と住所と生年月日を入力するだけ。それだけなのに、指が動かない。
だから俺は、一つ決めた。
まずは、勉強する。
ちゃんと株のことを勉強して、本当にやっていけると思えたら、その時に決める。そうすれば、たとえ悪いことをするにしても――いや、するかどうかは、まだ決めてないけど――少なくとも、何も知らずに飛び込むよりはマシなはずだ。
というのは、たぶん、言い訳だった。
本屋で立ち読みすると、店員さんに咳払いされる。本を買うお金はない。財布の中身は、二十円。
だったら、行く場所は一つしかない。
学校の図書室だ。
◇ ◇ ◇
放課後の図書室は、静かだった。
俺がここに来るのは、たぶん一年ぶりくらいだ。前に来たのは、夏休みの読書感想文で、一番薄い本を探しに来た時だ。結局、絵本みたいな本を選んで、先生に書き直しさせられた。
奥の「社会・経済」の棚に向かう。
あった。
思っていたより、ずっとたくさんあった。『株式投資の基本』『会社四季報の読み方』『チャート分析入門』『相場の格言百選』『一億円を稼ぐ株式投資』。それに、本屋で読んだ猫の表紙の本まで。古くて、背表紙が少し日焼けしている。きっと、何年も誰にも借りられていないんだろう。
俺は、片っ端から本を抜き出した。
一番上の段に、『会社四季報の読み方』という分厚い本があった。背伸びをして、指先で引っぱる。ぎっしり詰まっていて、なかなか抜けない。
「ふんっ……!」
力いっぱい引っぱった瞬間、本は勢いよく抜けた。そして、その両隣にあった二冊も、一緒についてきた。
ゴン。ゴン。ゴンッ。
三冊の本が、順番に俺の頭に落ちてきた。最後の一冊が一番重かった。静かな図書室に、ものすごい音が響きわたった。
俺は頭を押さえて、その場にしゃがみこんだ。痛い。本気で痛い。目の前に、小さな星がちかちか飛んでいる。
「――図書室では、静かにしてください」
カウンターのほうから、冷静な声が飛んできた。
「……すみません」
俺は小声で謝りながら、床に散らばった本を拾い集めた。頭のてっぺんが、じんじんしている。
心配する声は、一言もなかった。本の心配をする声だけが、遠くから聞こえた。
「本、傷んでませんか」
「……たぶん、俺の頭のほうが傷んでます」
返事はなかった。
一冊、二冊、三冊。
五冊、七冊、十冊。
気がつくと、腕の中に十一冊の本が積み重なっていた。前が見えない。首を横に曲げて、本の塔の脇からなんとか前を見ながら、カウンターに向かう。
「すみません、これ、借りたいんですけど」
本の塔を、カウンターにどさっと置いた。
その向こうに座っていたのは、同じクラスの白石結衣だった。
◇ ◇ ◇
白石結衣。
同じクラスだけど、ほとんど話したことはない。たぶん、一回もない。
成績は学年トップ。テストのたびに、廊下に張り出される順位表の一番上に、いつも名前がある。背筋がまっすぐで、髪がきれいで、いつも窓際の席で静かに本を読んでいる。クラスの男子の半分くらいは、たぶん一度は彼女のことを好きになったことがある。
でも、彼女の周りには、いつも少しだけ見えない壁みたいなものがあった。誰とも仲が悪いわけじゃない。話しかけられれば、ちゃんと笑って答える。でも、誰かと一緒にお弁当を食べているところも、放課後に遊びに行っているところも、見たことがない。
図書委員だったなんて、知らなかった。そして、さっき「静かにしてください」と言ったのが彼女だったということに、俺はこの時やっと気づいた。
白石さんは、目の前にそびえる十一冊の本の塔を、静かに見上げた。
それから、俺の顔を見た。
「……高橋くん」
名前を覚えられていた。それだけで、ちょっとびっくりした。
「あ、うん。どうも」
「貸し出しは、一人五冊までです」
「え」
「五冊まで」
白石さんは、カウンターの横に貼ってある小さな紙を、細い指で指さした。
――貸出は一人五冊まで・期間は二週間
本当に書いてあった。
「あの、そこをなんとか……」
「なりません」
「十一冊とも、たぶん誰も借りないと思うんですけど」
「それでも、なりません」
表情ひとつ変えずに言う。ものすごく、きっぱりしている。この感じは、どこかで知っている。そうだ、千夏だ。千夏が二回言う時と、同じ種類の迫力がある。
俺は、泣く泣く十一冊の中から五冊を選ぶことになった。
「えっと、じゃあ……これと、これと……」
迷いながら本を選んでいる間、白石さんは、残りの本の背表紙を、一冊ずつ順番に見ていた。
『株式投資の基本』。
『一億円を稼ぐ株式投資』。
『サルでもわかる株入門』。
その本を見たところで、白石さんの口が、ほんの少しだけ動いた。
「……サルでもわかるなら、大丈夫ね」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
三秒後にわかった。
「今の、バカにした?」
「事実を言っただけ」
白石さんは、真顔のままだった。でも、口元がほんの一ミリだけ、笑ったように見えた。気のせいかもしれない。
俺は、その本を、五冊の中にしっかり入れた。悔しかったからだ。
◇ ◇ ◇
白石さんが、本の裏の貸し出しカードに、日付のスタンプを押していく。ポン、ポン、と小さな音が、静かな図書室に響いた。
四冊目まで押したところで、彼女の手が止まった。
五冊目は、『相場の格言百選』という、古くて分厚い本だった。表紙には、墨で書いたような字で、タイトルが大きく書かれている。
白石さんは、その表紙を、じっと見ていた。
さっきまでのきっぱりした顔とは、何かが違った。
「……高橋くん、株をやるの?」
「え?」
「月曜日の朝から、黒板に書いてあったけど」
あの落書きを、彼女も見ていたらしい。健太、あとで覚えてろ。
「いや、まだ、やるっていうか……やりたいっていうか……」
「ふうん」
白石さんは、スタンプを持ったまま、静かに言った。
「株なんて、博打でしょ」
その声は、冷たかった。
教室で誰かに話しかけられた時の、あの丁寧でやわらかい声とは、全然違った。
「いや、博打っていうか……」
俺は、昨日千夏から聞いたばかりの説明を、必死に思い出した。
「株っていうのは、会社の一部を持つってことで、その会社がいい会社になったら、株の値段も上がって……」
「知ってる」
白石さんは、俺の言葉を静かにさえぎった。
「で、その一部を、毎日毎日、上がるか下がるかだけ見て、売ったり買ったりするんでしょ」
「……」
「それを博打って呼ばないで、なんて呼ぶの?」
何も言い返せなかった。
正直に言うと、俺が好きになったのは、まさにそれだったからだ。あの映画の、赤と緑に動く数字。上がるか、下がるか。その瞬間のドキドキ。
会社のことなんて、まだ一社も知らない。
白石さんは、五冊目の本に、ポン、とスタンプを押した。
「返却は、二週間後です」
そして、本を俺のほうへ押し出しながら、ほとんど聞こえないくらいの声で、つけ加えた。
「……株で幸せになった人、私、見たことないから」
顔を上げた。
白石さんは、俺のほうを見ていなかった。図書室の窓の外、オレンジ色に染まっていく空のほうを見ていた。
その横顔が、なぜか、すごく悲しそうに見えた。
怒っているんじゃない。バカにしているんでもない。
まるで、ずっと昔になくした大事なものを、思い出しているみたいな顔だった。
「……白石さん?」
「なんでもない」
白石さんは、すぐにいつもの顔に戻った。背筋をまっすぐにして、次の本のカードを整理し始めた。
「図書室、あと十分で閉めます」
それ以上は、何も聞けなかった。
◇ ◇ ◇
校門を出たところで、健太と千夏に会った。健太は部活帰りで、千夏は生徒会の仕事帰りだった。
「お、蓮! なんだその本の量!」
「五冊しか借りられなかった」
「五冊でもすげえよ。俺、去年一年間で借りた本、ゼロだぞ」
「自慢することじゃないでしょ」と千夏。
三人で駅までの道を歩きながら、俺は、なんとなく聞いてみた。
「なあ、白石さんって、どんな人?」
その瞬間、健太の目がきらっと光った。
「お? お? お前、まさか」
「違う。図書室で、本の貸し出しをしてもらっただけ」
「白石さんな! めっちゃ美人だよな! 俺、一年の時、消しゴム拾ってもらったことある! あれは俺の人生のハイライトだ!」
「人生のハイライトが消しゴムなの、悲しすぎない?」
千夏は呆れた顔をしてから、少し考えるように首をかしげた。
「白石さんは……よくわからない人、かな。成績はずっと学年一位だし、先生たちからの評判もすごくいい。でも、家のこととか、休みの日に何してるかとか、誰も知らないの。生徒会でも、たまに名前が出るけど、誰も白石さんと遊んだことがないって」
「ふうん……」
「どうして?」
千夏が、じっと俺の顔を見た。
「いや、なんとなく」
俺は、白石さんのあの横顔を思い出していた。
株で幸せになった人、私、見たことないから。
それは、まるで、株で不幸になった誰かを、すぐ近くで見てきた人の言葉みたいだった。
◇ ◇ ◇
その夜、借りてきた五冊の本を、ベッドの上に並べた。
ガチャ、とドアが開いた。もちろんノックはない。
「蓮、あんたの部屋にあるシャンプーの詰め替え……」
姉ちゃんは、ベッドの上に並んだ本の表紙を見て、言葉を止めた。
「……『サルでもわかる株入門』」
「勝手に読むなよ」
「あんたにぴったりじゃん」
姉ちゃんは鼻で笑った。それから、少しだけ意外そうな顔をした。
「でも、ちゃんと本で勉強してるんだ。図書室で借りたの?」
「……まあ」
「ふーん。まあ、勉強するだけなら、誰にも迷惑かからないしね。えらいえらい」
姉ちゃんは、俺の頭をぽんぽんと二回たたいて、シャンプーの詰め替えを持って出ていった。たたかれたのは、ちょうど本が落ちてきたところだった。痛かった。
でも、それよりも、「えらいえらい」という言葉のほうが、ずっと胸に刺さった。
俺は『サルでもわかる株入門』から読み始めた。悔しかったからだ。サルでもわかる、と書いてあるだけあって、本当にわかりやすかった。ちょっと腹が立つくらいに。
一冊を読み終えて、次に手に取ったのは、『相場の格言百選』だった。
白石さんが、あの悲しそうな顔をする直前に見ていた本。
ページを開くと、昔の相場師たちが残した言葉が、一ページに一つずつ並んでいた。
「人の行く裏に道あり花の山」
「頭と尻尾はくれてやれ」
「もうはまだなり、まだはもうなり」
半分くらいは、意味がわからなかった。でも、なぜか一つずつ、ノートに書き写していた。
その中の一つで、手が止まった。
――相場で負ける者は、相場に負けるのではない。己の欲に負けるのだ。
その下には、小さな字で解説が書いてあった。多くの人は、上がっている時は「もっと上がる」と欲を出し、下がっている時は「いつか戻る」と希望にすがる。そして、全部を失う。
白石さんの声が、耳の奥でよみがえった。
株で幸せになった人、私、見たことないから。
俺は、本を閉じた。
それから、スマホを手に取った。画面には、まだあの申し込みページが開いている。本人確認書類の欄。運転免許証。
俺は、しばらく画面を見つめてから、ぎゅっと拳を握った。
――違う。
株は、博打なんかじゃない。ちゃんと勉強して、ちゃんと考えてやれば、きっと違う。あの映画のマイクだって、そうだった。
だったら、俺が証明してやる。
株で幸せになるやつが、ここにいるって。白石さんに、いつか、「博打じゃなかったね」って言わせてやる。
そう思った瞬間、迷っていた心が、すっと決まった気がした。
でも、今ならわかる。
その「証明」のために、俺が最初にやろうとしていたことこそが、人生で一番の博打だったということに。
この時の俺は、まだ、これっぽっちも気づいていなかった。
(第4話 終わり)
第4話を読んでいただき、ありがとうございます!
ついにヒロイン・白石結衣が登場しました。学年トップで、きっぱりしていて、たまに冗談が鋭い。そして「株で幸せになった人、見たことない」と言った時の、あの悲しそうな横顔。彼女がどうしてそんな顔をしたのか。その理由は、物語のずっと先で明らかになります。ぜひ覚えておいてください。
ちなみに、健太の人生のハイライトは「消しゴムを拾ってもらったこと」です。がんばれ、健太。
次回、第5話「氏名欄に、姉ちゃんの名前を打ち込んだ」。白石さんに証明してみせると決めた蓮。でも、その方法は……。
「白石さん、気になる!」「蓮、その証明の仕方は違うぞ!」と思った方は、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




