第3話「悪魔のささやきは、姉ちゃんの免許証の形をしていた」
高橋家には、はっきりとした序列がある。
一位、母さん。家のお金と晩ご飯のメニューを握っている、絶対王者。
二位、姉ちゃん。口が悪くて、声が大きくて、人の部屋の物を勝手に持っていく。
三位、冷蔵庫の中のプリン。誰が買ったかに関係なく、なぜか一番大事にされている。
四位、父さん。
五位、俺。
プリンより下だと気づいたのは、小学四年生の時だった。俺が大事に取っておいたプリンを姉ちゃんが食べて、俺が泣いて抗議したら、母さんに「プリンくらいで泣かないの」と怒られた。そのくせ、姉ちゃんのプリンを俺が食べた時は、家族会議になった。
そういうことだ。
◇ ◇ ◇
土曜日の朝。
リビングに降りると、姉ちゃん――高橋美咲が、ソファで俺のプリンを食べていた。
「……それ、俺の」
「名前書いてなかったよ」
「書いてあるよ! フタに『れん』って、マジックで!」
姉ちゃんはフタをひっくり返して、じっと見た。それから、なんの迷いもなく言った。
「読めない」
「ひらがなだぞ!」
「字が汚くて読めない。読めないものは、書いてないのと同じ」
そう言って、最後の一口をおいしそうに食べた。
高橋美咲、大学三年生。文学部。駅前のカフェでアルバイトをしていて、来年はイギリスに一年間留学する予定だ。そのために、二年前からずっとバイト代を貯めているらしい。
性格は、一言で言うと、強い。
口が悪い。遠慮がない。弟の人権を認めていない。でも、外では「しっかりしたお姉さん」で通っている。カフェの店長からの信頼も厚いらしい。家での姿を見せてやりたい。
「何じろじろ見てんの」
「別に」
「あ、そうだ。誕生日プレゼント、考えた?」
「……まだ一か月あるじゃん」
「一か月しかない、の間違いでしょ。去年みたいにコンビニのプリン一個だったら、本気で怒るから」
「去年のプリン、姉ちゃん普通に喜んで食べてたじゃん」
「プリンに罪はないからね」
意味がわからない。
俺は自分の分のトーストを焼きながら、ちらっと姉ちゃんを見た。
二十一歳になる、大人。
昨日の夜から、頭の中で同じ考えがぐるぐる回っている。どうやって話を切り出すか、一晩中考えていた。そして、結論を出した。
正面から、頼む。
ずるいことをする前に、まずは正直に頼んでみる。それが、俺にできる精一杯の誠意だった。
◇ ◇ ◇
「姉ちゃん、お願いがある」
トーストを持ったまま、ソファの前に正座した。
姉ちゃんは、スマホから目を上げずに言った。
「やだ」
「まだ何も言ってない!」
「あんたが正座して頼みごとする時は、九割九分ろくでもない」
否定できない。前回正座したのは、姉ちゃんのゲームのセーブデータを消した時だ。その前は、姉ちゃんのお気に入りのマグカップを割った時。
「今回は違うんだ。真面目な話」
姉ちゃんはため息をついて、やっとスマホを置いた。
「……三十秒だけ聞いてあげる」
「株の口座を、姉ちゃんの名前で作ってほしい」
一秒。
二秒。
三秒。
「は?」
姉ちゃんの眉が、ものすごい角度に吊り上がった。
「いや、ちゃんと説明させて。お金は全部俺が出す。お年玉の貯金があるから。姉ちゃんには一円も迷惑かけない。名前を貸してくれるだけでいいんだ。俺、未成年だから、自分じゃ口座作れなくて――」
「絶対いや」
一刀両断だった。
「なんでだよ!」
「なんでもくそもないでしょ。まず、お母さんにバレたら私まで殺される。大叔父さんの話、あんたも聞いたでしょ」
「バレないようにするから」
「それが一番ダメなの」
姉ちゃんの声が、少しだけ低くなった。いつもの、ふざけた感じの声じゃなかった。
「いい、蓮。自分のお金のことはね、自分の名前で、自分で責任を持つの。人の名前を借りてやることなんて、ろくなことにならない」
「……」
「私はね、カフェで二年間バイトして、自分の名前の口座に、自分で稼いだお金を、ちょっとずつ貯めてるの。留学のために。だから、その重さはわかってるつもり」
姉ちゃんは、俺の頭を軽くはたいた。
「やりたいなら、十八になってから、自分の名前でやりな。以上。三十秒終わり」
それだけ言うと、姉ちゃんはスマホを拾って、自分の部屋に戻っていった。
俺は、正座したまま動けなかった。
トーストが、すっかり冷めていた。
◇ ◇ ◇
部屋に戻って、ベッドに倒れこんだ。
スマホが震えた。健太からのメッセージだった。
――姉ちゃんに頼んだ?
昨日の夜、健太にだけは作戦を話していた。千夏に話したら、たぶん正座じゃすまない。
――断られた。秒で。
――だろうな。お前の姉ちゃん、こえーもん
――うん
――じゃあ諦めろ
――お前、それしか言えないのか
――諦めて、明日の野球の練習試合見に来い。ポテトおごってやる
健太は、こういうところがいいやつだ。ちょっとだけ、気持ちが軽くなった。
続けて、もう一通メッセージが届いた。今度は千夏からだった。
――残り700円
それだけだった。何の脈絡もなかった。千夏は、たまにこうやって、ただ残高だけを送ってくる。銀行より正確で、銀行より怖い。
俺はスマホを胸の上に置いて、天井を見上げた。
自分の名前で、自分で責任を持つ。
姉ちゃんの言うことは、たぶん正しい。いや、絶対に正しい。頭では、ちゃんとわかっている。
でも、七百三十日。
その数字を思い浮かべるたびに、胸の奥が、じりじりと焼けるような感じがした。
◇ ◇ ◇
日曜日の午前中、約束どおり、健太の野球部の練習試合を見に行った。
河川敷のグラウンドには、千夏も来ていた。日傘を差して、ノートを広げている。何を書いているのかと思ったら、健太のバッティングの記録だった。「三打席目、初球を空振り。毎回同じ」。マネージャーでもないのに、なぜか一番細かい。
試合は、健太のチームのボロ負けだった。健太は四打数ノーヒット、盗塁を二回刺せず、最後は自分の打球を自分のおでこに当てた。
それでも、試合が終わると、健太は泥だらけの顔で走ってきて、約束どおりポテトをおごってくれた。
「蓮、元気出せよ! 俺なんか今日、ノーヒットだぞ!」
「お前が元気出せよ」
「俺は元気だ! 負けたけど、楽しかったからな!」
健太は本当に、心の底から楽しそうに笑っていた。四打数ノーヒットで、おでこに大きなたんこぶを作って。
千夏は、そんな健太を見て小さくため息をついてから、俺のほうを見た。
「蓮、なんか元気ないね」
「別に」
「美咲さんと、ケンカでもした?」
ぎくっとした。千夏は、こういう時、本当に鋭い。
「……してない」
「ふーん」
千夏は、それ以上何も聞かなかった。ただ、ポテトを一本つまんで、俺の口に押し込んだ。
「変なこと、考えないでよね」
その一言が、ポテトの塩よりもずっと、しょっぱく感じた。
◇ ◇ ◇
日曜日の夕方。
晩ご飯の時間、母さんが唐揚げを並べながら、ふと俺の顔を見た。
「蓮。あんた、まさか株のこと、まだ考えてないでしょうね」
箸が止まった。
母さんの勘は、たまに怖いくらい鋭い。テストの点数が悪い日は、俺が玄関のドアを開けた音だけで当てる。
「え、いや、その……」
言葉に詰まった、その時だった。
「お母さん、蓮がそんな難しいこと、考えられるわけないじゃん」
姉ちゃんが、唐揚げを口に放り込みながら言った。
「この子、昨日、株式会社のこと『株を売ってる会社』って説明したらしいよ。健太くんのお母さんから聞いた」
「あら、まあ」
母さんは、心の底から安心した顔をした。
「それなら大丈夫ね」
大丈夫の基準がおかしい。でも、母さんはそれ以上何も聞かず、父さんの皿に唐揚げを追加しに行った。
俺は、ちらっと姉ちゃんを見た。
姉ちゃんは、何事もなかったように、テレビを見ながら唐揚げを食べていた。こっちを見もしない。
助けてくれた、んだと思う。俺の悪口を言うという、ものすごく姉ちゃんらしい方法で。
なんだかんだ言って、姉ちゃんは、こういう人だ。
だからこそ。
この後、俺がやったことは、本当に最低だったと思う。
◇ ◇ ◇
その夜、十二時過ぎ。
喉が渇いて、一階に降りた。家の中は真っ暗で、両親はとっくに寝ている。冷蔵庫を開けて、麦茶を一杯飲んだ。
リビングのほうから、小さな寝息が聞こえた。
見ると、姉ちゃんがソファで眠っていた。カフェのバイト先の飲み会から、さっき帰ってきたらしい。服も着替えないまま、クッションを抱えて、ぐっすり眠っている。
ソファの前のテーブルには、姉ちゃんのカバンが倒れていた。中身が少しこぼれている。ハンカチ、リップクリーム、カフェの制服のネームプレート。
そして、財布。
財布は半分開いていて、その一番手前のポケットから、一枚のカードがのぞいていた。
運転免許証。
俺は、その場に立ち尽くした。
――悪魔のささやき、というものが本当にあるのだとしたら。
それは、たぶん、こんな形をしているんだと思う。
◇ ◇ ◇
頭の中で、二人の俺がしゃべり始めた。
『見ろよ、蓮。チャンスだぞ』
一人目は、悪魔の俺。黒いマントを着ていて、なぜかちょっとかっこいい。
『チャンスじゃない。さっき本人に、はっきり断られたばっかりだろ』
二人目は、天使の俺。白い服を着ている。声が小さい。そして、なぜか少し眠そうだ。
『断られたのは、姉ちゃんが株のことをわかってないからだ。あの映画を観てないからだ』
『そういう問題じゃない』
『別に、姉ちゃんのお金を使うわけじゃない。全部、自分のお年玉だ。名前をちょっと借りるだけ。誰も損しない』
『姉ちゃんは「人の名前を借りてやることは、ろくなことにならない」って言ってた』
『それに、勝ったらどうする? 増えたお金を、姉ちゃんの留学費用にこっそり足してやればいい。姉ちゃんだって喜ぶ。むしろ、いいことじゃないか』
天使の俺が、一瞬、黙った。
『……いや、それは……』
『な? いいことだろ?』
『……ちょっと、いいことかもしれない』
おい、天使。
もっと頑張れよ、天使。
俺の中の天使は、昔から弱かった。夏休みの宿題の時も、テスト前の夜にゲームをやる時も、いつも三秒で負けていた。
◇ ◇ ◇
気がつくと、俺はテーブルの前にしゃがんでいた。
手を伸ばす。財布のポケットから、免許証の端が、ほんの少しだけのぞいている。指先が、そのプラスチックの冷たさに触れた。
そっと引き抜く。
免許証の写真の姉ちゃんは、目が半分閉じていて、なぜかちょっと怒った顔をしていた。たぶん、撮られる瞬間にまばたきしたんだと思う。本人がこの写真を「人生最大の汚点」と呼んでいるのを、俺は知っている。
ちょっとだけ笑いそうになって、こらえた。
生年月日。名前。住所。全部、知っていることばかりなのに、こうしてカードに印刷されていると、まるで知らない誰かの情報みたいに見えた。
――大人の証明。
俺がどんなに欲しくても、あと七百三十日は手に入らないもの。
その時。
「……れん……」
心臓が、止まるかと思った。
姉ちゃんの口が、もごもごと動いている。目は閉じたままだ。
「……プリン……一個だったら……ころす……」
寝言だった。
全身から、冷たい汗がどっと噴き出した。俺は、免許証を元のポケットに、震える手で戻した。ちゃんと、元の通りに。端っこが少しだけ見えるように。
それから、しばらくその場から動けなかった。
姉ちゃんは、すうすうと寝息を立てている。クッションを抱えた腕から、カフェの仕事でできた小さなやけどの痕が見えた。二年間、自分の名前で、自分で稼いできた人の手だった。
俺は、ソファの背もたれにかかっていたブランケットを取って、姉ちゃんの肩にそっとかけた。
「……風邪ひくぞ」
小さくつぶやいて、リビングの電気を消した。
◇ ◇ ◇
自分の部屋に戻って、ベッドに座った。
心臓は、まだばくばく鳴っている。
俺は何もしなかった。免許証は、元に戻した。ブランケットまでかけてやった。俺は、そこまで悪いやつじゃない。
――そうだろ?
スマホを手に取った。画面には、昨日の夜から開きっぱなしの、証券会社の申し込みページ。
その中ほどに、こんな項目があった。
――本人確認書類を選択してください。
□ マイナンバーカード
□ 運転免許証
俺は、その「運転免許証」という文字を、しばらくじっと見つめていた。
さっき指先で触れた、あのプラスチックの冷たさが、まだ残っていた。
そして、困ったことに。
あの免許証に書いてあったことを、俺は、ほとんど全部覚えてしまっていた。
『な? 簡単だろ?』
頭の奥で、悪魔の俺が笑った。
天使の俺は、もう何も言わなかった。たぶん、寝ていた。
いや、違う。
笑っていたのは、悪魔なんかじゃない。
画面に映った、俺自身の顔だった。
(第3話 終わり)
第3話を読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、高橋家最強の生き物・美咲姉ちゃんの本格登場回でした。口は悪いけど、母さんの前でさりげなく蓮をかばってくれる、そんな姉ちゃんです。「自分のお金のことは、自分の名前で責任を持つ」。この言葉、ぜひ覚えておいてください。
そして、蓮の中の天使は、相変わらず三秒で負けていました。もう少し頑張ってほしいものです。
次回、第4話「『株なんて博打でしょ』と言った彼女は、なぜか悲しそうだった」。ついにヒロイン登場です。蓮、図書館でとんでもない出会いをします。
「蓮、まだ引き返せるぞ!」と思った方も、「姉ちゃん、いい人…」と思った方も、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




