第2話「未成年は口座が作れません」
明日の俺は、なんとかしてくれなかった。
朝七時、目覚まし時計が鳴った瞬間、俺はベッドから飛び起きた。普段なら三回スヌーズして、母さんに布団をはがされるまで起きない男がだ。
理由は一つ。昨日の夜、見なかったことにした、あの一文。
――※未成年の方が口座を開設するには、親権者の同意が必要です。
寝ている間に、あの一文が消えていたらいいな、と思った。そんなわけはなかった。
スマホを開いて、昨日のページをもう一度見る。やっぱり書いてある。別の証券会社のページも見る。書いてある。三つ目、四つ目、五つ目。全部、同じことが書いてある。
ちなみに、十八歳になれば親の同意はいらなくなるらしい。
俺は今、十六歳。指を折って数える。あと二年。日にちにすると、だいたい七百三十日。
「……長っ」
七百三十日って、どれくらいだ。夏休みに換算すると、えーと……とにかく、めちゃくちゃたくさんだ。
それだけ待っていたら、俺のやる気は確実にどこかへ行ってしまう。俺は自分のことをよく知っている。夏休みの宿題を「最初の三日で終わらせる」と決めて、最後の三日で泣きながらやる男だ。
◇ ◇ ◇
リビングに降りると、父さんは新聞を読みながらトーストをかじり、母さんは台所で弁当を詰めていた。姉ちゃんはまだ寝ている。大学生というのは、どうやら昼まで寝ていい生き物らしい。
俺はさりげなく席について、さりげなく牛乳を注いで、さりげなく聞いた。
「なあ、父さん。株って、どう思う?」
さりげなさは、ゼロだった。
父さんの手が止まった。新聞の向こうから、メガネだけがゆっくりこっちを見た。
母さんの手も止まった。箸ではさんだ卵焼きが、空中でぷるぷる震えている。
「……株?」
「いや、ほら、学校でさ。現代社会の授業で、ちょっと出てきて」
嘘だ。現代社会の授業は、ほぼ寝ている。
「株はダメよ」
答えたのは母さんだった。速かった。父さんが口を開く前に、〇・五秒で答えた。
「蓮、いい? おじいちゃんの弟、つまり大叔父さんね。あの人、昔、株で家を一軒なくしてるの」
「家を?」
「そう。バブルの時にね。あの人、お正月に会うといつもニコニコしてるでしょ。あれはね、全部なくした人の笑顔なのよ」
知らなかった。毎年お年玉をくれる、あのニコニコのおじさんが。お年玉が毎年なぜか五百円玉一枚なのは、そういう理由だったのか。
「株なんていうのはね、お金持ちが、もっとお金持ちになるための遊びなの。普通の家の子がやるものじゃありません」
母さんは卵焼きを弁当箱にぎゅっと押し込んだ。押し込みすぎて、卵焼きがちょっと潰れた。たぶん、俺の分の弁当だ。
父さんは何も言わなかった。ただ、静かに新聞を一枚めくった。めくったページは、ちょうど株価の一覧が細かい字でびっしり載っているページだった。
父さんはそのページを、一秒で次のページにめくった。
俺は牛乳を一気に飲み干した。
――この家で「同意」をもらうのは、無理だ。
◇ ◇ ◇
二時間目は、現代社会だった。
朝の嘘が、なぜか本当になった気がした。今日の授業のテーマは「経済のしくみ」。黒板には、先生の丸っこい字で「株式会社」と書いてある。
担当の田村先生は、定年まであと二年のおじいちゃん先生だ。声が低くて、ゆっくりで、とても眠くなる。クラスの三分の一は、開始五分で夢の中に旅立つ。いつもなら、俺もその三分の一の一人だ。
でも、今日の俺は違った。
机の下でスマホを開いて、「株 用語 初心者」と検索する。銘柄、上場、時価総額、配当。わからない言葉が出てくるたびに、また調べる。調べた先に、またわからない言葉が出てくる。終わりがない。でも、なぜか楽しい。
「――高橋」
顔を上げると、田村先生が俺の机の真横に立っていた。いつの間に。この先生、足音がしない。
「スマホで、何を見ている」
教室中の視線が、一斉に俺に集まった。寝ていた三分の一まで起きた。こういう時だけ、みんな起きる。
「か、株です」
一瞬の沈黙のあと、教室がどっと笑った。健太の笑い声が一番でかい。斜め前の席の千夏は、額に手を当てて首を振っている。
ところが、田村先生だけは笑わなかった。
「ほう。株か」
先生は、黒板の「株式会社」の文字を、チョークでとんとんと叩いた。
「では、高橋。株式会社とは何か、説明してみなさい」
「……え」
「株を調べていたんだろう。説明できるはずだ」
俺は立ち上がった。頭の中で、さっき調べた言葉がぐるぐる回る。上場、配当、時価総額。どれも、今この瞬間には何の役にも立たない。
「えっと……株式会社とは……」
みんなが見ている。千夏が、祈るような目で見ている。
「……株を、売ってる会社です」
教室が、さっきの倍くらいの音量で爆笑した。健太なんか、机を叩いて笑っている。
「惜しい。半分正解で、半分は大はずれだ」
田村先生は、俺のスマホをそっと取り上げた。
「放課後、職員室に取りに来なさい」
俺は真っ赤な顔で座った。千夏が振り返って、口の形だけで「バ・カ」と言った。
◇ ◇ ◇
昼休み。中庭のベンチ。
俺たち三人は、いつもここで昼ご飯を食べる。健太の弁当箱は、俺の弁当箱の三倍の大きさがある。中身はほぼ茶色い。唐揚げ、生姜焼き、ハンバーグ、そして白いご飯。野菜は、隅っこのパセリ一本だけだ。
「――というわけで、口座が作れないんだ」
俺が朝からの話を全部すると、健太はご飯をかきこみながら、あっさり言った。
「じゃあ、諦めろ」
「早いな!」
「だって、無理なんだろ? 無理なもんは無理だ。俺もキャッチャーなのに盗塁刺せないけど、もう諦めた」
「それは諦めずに練習しろよ」
千夏は、小さなお弁当箱のフタを閉じてから、静かに言った。
「というか、諦めて」
「千夏まで!」
「大人になってからでいいじゃない。十八歳になったら、自分でできるんでしょ?」
「七百三十日もあるんだぞ」
「株は逃げないよ」
「でも、俺のやる気が逃げる」
「それは知ってる」
即答だった。幼なじみというのは、こういう時に容赦がない。
「なあ、ほかに方法ないかな」
俺は指を折りながら、朝から考えていた作戦を発表した。
「作戦その一。年齢を、ちょっとだけごまかす」
「犯罪」
千夏が一刀両断した。
「作戦その二。健太の親に、同意してもらう」
「うちの父ちゃん、株って言ったら、畑のカブのことだと思うぞ」
「さすがにそれは……」
「去年、親戚に株主優待の話されて、『カブにも優待とかあるのか、すげえな』って感心してた」
健太の家は、なんというか、平和だ。
「作戦その三。十八歳まで、待つ」
「それが一番まとも」
「七百三十日だぞ!」
「さっきも聞いた」
千夏はため息をついてから、少しだけ声をやわらかくした。
「ねえ、蓮。そもそも株って、どういうものか、ちゃんとわかってる?」
「……株を、売ってる会社」
「それはさっき、半分大はずれって言われてたでしょ」
千夏は、健太の巨大な弁当箱を指さした。
「たとえば、健太がお弁当屋さんを始めたいとするじゃない」
「お、俺?」
「でも、お店を開くお金がない。だから、『このお弁当屋さんの一部を、あなたのものにしていいので、お金を出してください』って、みんなからお金を集めるの。その『一部』の証明書が、株」
「へえ……」
「お弁当屋さんがすごく人気になって、たくさん儲かったら、その一部を持ってる人も嬉しいでしょ? だから、その株を欲しい人が増えて、値段が上がる。逆に、お弁当がまずくて潰れそうになったら、誰も欲しがらないから、値段が下がる。それが、株価が上がったり下がったりするってこと」
俺は、健太の弁当箱をじっと見た。茶色い。ひたすら茶色い。
「……健太の弁当屋の株は、買わないな」
「なんでだよ! うまいぞ!」
「野菜がパセリ一本しかないじゃん」
「パセリは飾りだ!」
「飾りを入れるくらいなら、ブロッコリーを入れてよ」と千夏。
笑いながらも、俺の頭の中では、何かがカチッとはまった気がした。
株を買うってことは、会社の一部を持つってこと。その会社がいい会社になれば、株も上がる。
なんだ。思ってたより、ずっとシンプルじゃないか。
「千夏、なんでそんなに詳しいんだよ」
「ニュースくらい見てるし。というか、普通の高校生なら、これくらい知ってる」
「俺、普通の高校生なんだけど」
「普通より、ちょっと下」
ぐうの音も出なかった。
「あ、それと」
千夏が、スマホのメモ帳を開いて、俺の目の前に差し出した。
――蓮 ポップコーン 800円
「……覚えてたんだ」
「忘れるわけないでしょ」
俺は財布を開いた。中には、百二十円。俺はその中から、百円玉を一枚取り出して、千夏の手のひらに乗せた。
「分割で、お願いします」
「残り、七百円ね」
千夏は、メモを「蓮 ポップコーン 700円(分割)」に書き換えた。几帳面すぎる。
「利息は?」
健太が身を乗り出した。
「つけない。蓮から利息なんて取ったら、一生終わらないから」
その言葉が、今日一番、心にぐさっと刺さった。
◇ ◇ ◇
放課後、職員室にスマホを取りに行くと、田村先生は湯のみでお茶を飲みながら、ゆっくりスマホを返してくれた。
「高橋。株に興味があるのか」
「……はい。ちょっとだけ」
「そうか」
怒られると思っていた。授業中にスマホを見ていたんだから、当然だ。でも先生は、お茶をもう一口飲んでから、窓の外を見て言った。
「株を買うというのはな、その会社の一部を持つということだ。値段の上がり下がりばかり見ていると、いつか必ず痛い目にあう。会社のことを好きにならなきゃ、続かんぞ」
千夏が言っていたことと、同じだった。
「先生、株やってるんですか?」
「昔、少しな」
先生はそれだけ言って、ふっと笑った。それ以上は、何も教えてくれなかった。
職員室を出て、廊下を歩きながら、俺は先生の言葉を頭の中でくり返した。
会社のことを、好きにならなきゃ、続かない。
正直、その時の俺には、まだよくわからなかった。俺が好きなのは、会社じゃなくて、あの映画の、赤と緑に動く数字だったから。
この言葉の本当の意味がわかるのは、ずっと先、ずっとずっと痛い目にあった後のことになる。
◇ ◇ ◇
帰り道、駅前の本屋に寄った。
投資のコーナーは、思っていたよりずっと広かった。『はじめての株式投資』『サルでもわかる株入門』『月5万円の配当生活』『会社員のまま一億円』。カラフルな表紙が、ずらりと並んでいる。
その中から、一番やさしそうな一冊を手に取った。表紙では、マンガの猫がメガネをかけて、グラフを指さしている。値段を見る。千九百八十円。
財布の中身は、二十円。
ポップコーンの分割払いを恨んだのは、これが初めてだった。
俺は、その本を、立ったまま読み始めた。
株を買うには、証券口座というものが必要なこと。株は、だいたい百株単位で売り買いすること。でも最近は、一株から買える仕組みもあること。会社によっては、数万円で買える株もあること。
――ということは。
お年玉の三十万円があれば、普通に株が買える。
ページをめくる指が、どんどん速くなる。配当金、株主優待、チャートの読み方。猫のキャラクターが、わかりやすく説明してくれる。千九百八十円は、たぶん安い。
二十分経った。三十分経った。
「……ごほん」
レジのほうから、店員さんの咳払いが聞こえた。
四十分経った。
「……ごほん、ごほん」
二回になった。
五十分経った。
「ごほん、ごほん、ごほんっ」
三回目の咳払いは、もう咳払いじゃなくて、ほぼ「帰れ」だった。
俺は本をそっと棚に戻して、店員さんにぺこりと頭を下げて、店を出た。また来ます。たぶん、明日も。
◇ ◇ ◇
その夜。
ベッドの上で、俺はもう一度、証券会社のページを開いていた。
未成年口座の申し込みページ。その一番下に、「親権者同意書」というPDFのリンクがある。開いてみると、そこには二つの欄があった。
――親権者氏名。
――親権者署名。
署名。
父さんのサインなら、何度も見たことがある。学校の書類に、いつも父さんが書いている。「高橋」の「高」の上のところが、ちょっと右に傾いている、あのクセのある字。
俺は机の上の、いらないプリントの裏を見た。それから、ボールペンを手に取った。
ペン先を紙につけて、「高」の一画目を書こうとして――
止まった。
いや、さすがにそれはダメだろ。
人のサインを勝手に書くのは、ダメだ。いくら俺でも、それくらいはわかる。父さんの顔が浮かんだ。株価のページを一秒でめくった、あの父さんの手が浮かんだ。
俺はボールペンを置いて、プリントを丸めてゴミ箱に投げた。外れた。拾って、もう一回投げた。入った。
この時の俺の良心は、たしかに父さんのサインを守った。
ただし、守ったのは、サインだけだった。
◇ ◇ ◇
ガチャ、とドアが開いた。
ノックはない。うちの姉ちゃんは、ノックという文化を知らない。
「蓮、あの漫画の続き、借りるね」
姉ちゃん――高橋美咲は、俺の返事を待たずに本棚の前に立ち、漫画を三冊抜き取った。大学三年生。口が悪くて、人の部屋の物を勝手に持っていく、高橋家最強の生き物だ。
「勝手に持ってくなよ」
「勝手じゃない。今、言ったでしょ」
それは「言った」じゃなくて「宣言した」だ。
姉ちゃんは漫画を小脇に抱えたまま、じろっと俺を見た。
「あんたさ、昨日からなんか変じゃない?」
「……別に」
「夜中、ずっと起きてるでしょ。壁薄いんだから、聞こえるんだよ。なんか変なサイトでも見てんの?」
「見てない!」
「ふーん」
姉ちゃんは、まったく信じていない顔で、部屋を出ていこうとした。ドアノブに手をかけたところで、ふと振り返った。
「あ、そうだ。私、来月で二十一だから。誕生日プレゼント、よろしくね。去年みたいに、コンビニのプリン一個とかだったら、殺すから」
バタン、とドアが閉まった。
部屋に、静けさが戻った。
俺は、閉まったドアを見つめていた。
二十一歳。
親の同意なんて、とっくにいらない年齢。
自分の名前で、自分だけで、口座が作れる年齢。
つまり――大人。
頭の中で、何かがゆっくりと動き出した。それは、たぶん、動き出しちゃいけない種類の何かだった。
うちには、ちょうどいい「大人」が、一人いる。
俺は、諦めなかった。
ただし、一番やっちゃいけない方向に。
(第2話 終わり)
第2話を読んでいただき、ありがとうございます!
今回は「株ってそもそも何?」を、健太の茶色いお弁当で説明してみました。株を買うのは、会社の一部を持つということ。千夏、さすがです。そしてパセリは飾りです(健太談)。
ポップコーン代、残りは700円。完済まで、まだまだ先は長そうです。
次回、第3話「姉という名の最終兵器」。高橋家最強の生き物・美咲が本格的に登場します。そして蓮の良心が守ったのは、本当にサインだけだったのか……。
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