第18話「取引ノート、1ページ目」
「蓮。お前、ネギ切りながら何ぶつぶつ言ってんだ」
月曜日の夕方。客のいない、四時半のくまや。
俺は、まな板の前で、ネギと格闘していた。
「……自己資本比率は、会社のお金のうち、借金じゃない分の割合……高いほど、つぶれにくい……」
「ネギに言っても、ネギはつぶれねえぞ」
「覚えてるんです。昨日、図書館の本で読んだやつ」
店長は、寸胴鍋のスープをおたまでかき回しながら、ふん、と鼻を鳴らした。
それから、しばらく黙って、スープの湯気を見ていた。
「……蓮」
「はい」
「そのネギ、切り終わったら、ちょっとこっち来い」
怒られる、と思った。昨日、どんぶりを一個割ったからだ。これで通算四個目。くまやのどんぶりは、俺が来てから、確実に絶滅に向かっている。
でも、店長が言ったのは、全然違うことだった。
「毎日五分だけ、教えてやる。仕事の合間にな」
「……何をですか」
「決まってんだろ」
店長は、おたまを置いた。
「負けねえための、基本だ」
◇ ◇ ◇
その日から、くまやの「五分授業」が始まった。
場所は、厨房の奥。段ボールのビールケースを逆さにした椅子が二つ。黒板のかわりは、伝票の裏。チョークのかわりは、注文を書くボールペン。
世界一、ラーメンくさい教室だった。
「いいか。ルールは四つだけだ。四つだけだが、これを守れねえやつは、何回やっても負ける」
店長は、伝票の裏に、太い字で書いた。
――① 買う理由を、一行で書けないなら、買うな。
「一行、ですか」
「一行だ。『この会社は、こういう理由で、これから伸びると思う』。それが一行で書けねえなら、お前はその会社のことを、何もわかってねえ」
「……ネクストフロンティアは、『アキラさんが十倍って言ってたから』って、一行で書けますけど」
「それは、お前の理由じゃねえ。アキラの理由だ」
ぐうの音も出なかった。
――② 「ここまで下がったら売る」を、買う前に決めろ。
「これが、損切りだ。この前、話したな」
「はい」
「人間ってのはな、下がり始めると、『もうちょっと待てば戻る』って思う。戻らなかったら、『あとちょっと待てば』って思う。で、気がついたら、八十万が四万だ」
「……具体的すぎませんか」
「具体的なほうが、覚えるだろ」
覚えた。たぶん、一生忘れない。
「だから、買う前に決めるんだ。頭が冷えてるうちにな。下がってからじゃ遅え。下がってからの人間は、だいたいバカになってる」
――③ 一つのカゴに、全部盛るな。
「これは知ってます。本に書いてありました。卵を一つのカゴに盛ると、落とした時に全部割れる」
「知ってて、やったのか」
「……知ってて、やりました」
「知ってるのと、できるのは、違う。ラーメンの作り方を知ってても、うまいラーメンが作れるとは限らねえのと一緒だ」
店長は、珍しくいいことを言った。と思ったら、続きがあった。
「ちなみに、うちのどんぶりも、一か所に重ねて置くな。お前が来てから、もう四個割れてる」
それは、ルールというより、苦情だった。
――④ 人の言葉で、買うな。
「アキラのことですか」
「アキラも、テレビの偉い人も、新聞も、俺もだ」
「店長も?」
「俺が『これは上がる』って言っても、買うな。自分で調べて、自分で納得したもんだけ買え。人の言葉で買ったやつはな、負けた時に、人のせいにする。人のせいにしてるうちは、何回でも同じ負け方をする」
俺は、アキラのアカウントを、まだ時々見に行っている自分を思い出した。投稿は、あの日から全部消えている。アカウントだけが、空っぽのまま残っていた。
人のせいにするのは、簡単だった。
でも、ボタンを押したのは、俺の指だった。
◇ ◇ ◇
「店長、質問です」
「なんだ」
「損切りって、やっぱりつらいですか。プロでも」
店長は、腕を組んで、少しだけ天井を見上げた。
湯気の向こうで、白いタオルの頭が、ゆっくりうなずいた。
「つらいさ。損切りってのはな、失恋と同じだ」
「失恋」
「好きだったもんを、自分から手放す。認めたくねえ。まだ可能性があるんじゃねえかって、何回もスマホ見る。でもな、早いほうが、傷は浅いんだ」
なんだか、かっこよかった。
ラーメン屋の店長が、湯気の中で、人生を語っている。映画のワンシーンみたいだった。
だから、俺は、正直に答えた。
「すみません。俺、失恋したことないんで、わかんないです」
「…………」
店長は、俺の顔をじっと見た。
三秒くらい、見た。
それから、心の底から気の毒そうな顔をした。
「……そっちのほうが、重症だな」
「なんでですか!」
「十六で失恋の一つもしてねえのは、損切り以前の問題だ。そもそも、何も買ってねえ」
「株の話ですよね!?」
「株の話だ」
絶対に、株の話じゃなかった。
その時、ちょうど店の引き戸が開いて、毎日同じ席で同じ注文をする常連のおじいさんが入ってきた。
「らっしゃい!」
店長は、何事もなかったように立ち上がった。そして、厨房に戻りながら、ぼそっと言った。
「……失恋の授業は、また今度な。そっちは俺も、損切りが遅えほうだ」
最後の一言は、聞こえなかったことにした。
◇ ◇ ◇
その帰り道、俺は駅前の文房具屋に寄った。
大学ノートを、一冊買った。
百五十円。罫線の入った、どこにでもある、ふつうのノートだ。表紙は、なんの模様もない、うす青い色。
家に帰って、机の上に置いた。
油性ペンのキャップを外した。
――天才トレーダー REN
前のノートの表紙には、そう書いた。千夏に「十年後に見たら、たぶん死にたくなるよ」と言われた、あのノートだ。あれは、まだ引き出しの奥にある。捨てられなかった。捨てたら、なかったことになる気がしたからだ。
ペンを持ったまま、しばらく考えた。
かっこいい名前をつけたい気持ちが、まだ、ちょっとだけあった。「RENの逆襲」とか。「不死鳥ノート」とか。
……不死鳥は、さすがにない。千夏に正座させられる。
結局、俺は、こう書いた。
――取引ノート 高橋蓮
それだけ。
かっこよくも、なんともない。
でも、ちゃんと、俺の名前だった。
◇ ◇ ◇
一ページ目を開いた。
最初に何を書くかは、もう決めていた。
――ネクストフロンティアで、なぜ負けたか。
ペンが、なかなか進まなかった。
書けば書くほど、自分のかっこ悪さが、紙の上に並んでいくからだ。
でも、書いた。
――買った理由:アキラが十倍になると言ったから。(←俺の理由じゃない。ルール④違反)
――会社のこと:社員三十人。五年連続赤字。売上ほとんどなし。「次世代電池」が何なのか、俺は一回も調べなかった。(←ルール①違反。一行で書けない)
――お金の入れ方:八十万円、全部。ミライ製菓まで売った。(←ルール③違反。カゴを丸ごと落とした)
――損切り:決めてなかった。下がってから「いつか戻る」と思った。戻らなかった。(←ルール②違反。全部違反)
――見なかったもの:「自己責任」の小さい字。朝のニュース。「仕手株」のコメント。俺はブロックした。見たくないものを見えなくしただけで、なくなったわけじゃなかった。
四つのルール、全部違反。
満点の逆。零点だ。テストで零点を取ったことは一回もないのに、人生で一番大事なテストで、零点を取った。
ページの一番下に、最後の一行を書いた。
――一番の原因:自分の名前じゃなかったから、自分のこととして考えてなかった。
書き終わって、ペンを置いた。
手のひらが、汗で湿っていた。ネギの匂いがした。
ノートを閉じて、表紙の「高橋蓮」の字を、指でなぞった。
――次は、自分の名前でやりな。
姉ちゃんの声を、もう一回、思い出した。
◇ ◇ ◇
それから、一週間くらいたった、雨の夜だった。
朝から降り続いていた雨は、夜になって、ますます強くなっていた。商店街のアーケードの外れにあるくまやには、屋根がない。のれんが、雨を吸って重たそうに垂れている。
こんな日は、客が来ない。
八時を過ぎると、店の中は、俺と店長と、寸胴鍋のスープだけになった。
「暇だな」
「暇ですね」
「こういう日はな、蓮。相場も同じだ。何もしねえのも、仕事のうちだ」
「それ、今、暇なのをごまかしてません?」
「ごまかしてる」
正直だった。
俺は、カウンターを拭きながら、ポケットの中の絆創膏の箱を指で確かめた。今日は、どんぶりは割っていない。指を一か所、包丁でちょっと切っただけだ。成長だ。
その時。
ガラガラ、と引き戸が開いた。
「らっしゃい!」
店長の声と同時に、雨の匂いが、店の中に流れ込んできた。
入ってきたのは、紺色の傘をたたむ、女の子だった。
長い黒髪の先から、しずくがぽたぽた落ちていた。白いブラウスの肩が、少しだけ濡れている。
背筋が、まっすぐだった。
俺は、ふきんを持ったまま、固まった。
――白石さん?
白石結衣だった。
学年トップの。図書委員の。「株なんて、博打でしょ」の。
なんで、ここに。
白石さんは、俺には気づいていないようだった。傘を傘立てにさして、ハンカチで髪を軽く押さえて、それから、カウンターの一番端の席に、すっと座った。
座り方まで、きれいだった。ラーメン屋のカウンターなのに、まるで図書室のカウンターみたいだった。
◇ ◇ ◇
俺は、とっさに、厨房の柱の陰に隠れた。
なんで隠れたのか、自分でもわからない。たぶん、クローゼットの時と同じだ。パニックになると、人間は一番意味のないことをする。
「……蓮。お前、何してんだ」
店長が、小声で言った。
「い、いや、ちょっと……」
「注文、取ってこい」
「店長が取ってください」
「俺は今、スープと大事な話をしてる」
スープは、何もしゃべっていなかった。
俺は、エプロンのひもを結び直して、頭のタオルを巻き直して、深呼吸を三回して、それから、伝票を持ってカウンターに出た。
「い、いらっしゃいませ……」
白石さんが、メニューから顔を上げた。
目が合った。
一秒。
二秒。
白石さんの目が、ほんの少しだけ、大きくなった。
「……高橋くん?」
「……はい。高橋です」
なぜか、フルネームで名乗りそうになった。
白石さんは、俺のエプロンと、頭のタオルと、手の絆創膏を、順番に見た。それから、ほんのわずかに、肩が固くなった。
何か言われる、と思った。「何してるの」とか。「顔、ゆるみすぎ」とか。
でも、白石さんは、何も言わなかった。
かわりに、メニューの、一番下を指さした。
「……これ、ください」
指の先にあったのは、くまやで一番安いメニューだった。
ふつうの、ラーメン。チャーシュー二枚と、メンマと、ネギ。トッピングなし。大盛りなし。
学年トップで、いつも姿勢がよくて、持っているペンケースが、どう見ても高そうな革のやつで、話し方まで上品な白石さんが。
一番安い、ラーメン。
「……か、かしこまりました」
俺は、厨房に戻った。
「店長、ラーメン一つです。ふつうの」
「あいよ」
店長は、麺をゆで始めた。それから、湯切りのざるを持ったまま、ちらっとカウンターの白石さんのほうを見た。
その時の店長の顔を、俺は、うまく説明できない。
驚いたような。何かを思い出したような。それとも、何かを確かめるような。
ほんの一瞬だけ、店長の手が止まった。
それから、何事もなかったように、ざるを振った。チャッ、チャッ、と、いつもより少しだけ丁寧な音がした。
「……店長?」
「なんでもねえ。ネギ、多めにしとけ」
「え、ふつうのって言われましたけど」
「雨の日は、ネギのサービスデーだ」
そんなサービスデーは、聞いたことがなかった。
◇ ◇ ◇
ラーメンを、白石さんの前に置いた。
「お、お待たせしました……」
白石さんは、小さく「ありがとう」と言った。
それから、割り箸を、ぱちん、ときれいに割った。
両手を合わせた。
「――いただきます」
小さな声だった。でも、すごく、ちゃんとした「いただきます」だった。
白石さんは、まず、れんげでスープを一口飲んだ。
目を閉じた。
ふう、と、小さく息を吐いた。
それから、麺を、少しずつ、少しずつ、すすった。熱いのか、何回もふうふうと冷ましながら。メンマを一本、大事そうに食べた。チャーシューは、最後まで取っておくタイプらしい。
その顔が。
――すごく、幸せそうだった。
教室では、一回も見たことのない顔だった。図書室のカウンターでも、掃除当番の時でも、見たことがない。いつもの、見えない壁の向こうにいる白石さんじゃなかった。
雨の夜の、古いラーメン屋で、一番安いラーメンを、世界で一番おいしいものみたいに食べている、ただの女の子だった。
俺は、厨房の柱の陰から、それを見ていた。
見てはいけないものを見ている気がした。
でも、目が離せなかった。
なんで、白石さんが、こんなところで。
なんで、一番安いラーメンを、あんなに幸せそうに。
いつも高そうなペンケースを持っている人が。株の話をすると、悲しそうな顔をする人が。
わからないことが、また一つ増えた。
俺の取引ノートには、まだ「わからないこと」のページがない。作ろうかと、本気で思った。
「……蓮」
「は、はい」
「見すぎだ」
店長に、頭を軽くはたかれた。
「客の顔を見すぎるな。食いにくくなる」
「……すみません」
「あと、口、開いてるぞ」
開いていた。慌てて閉じた。
◇ ◇ ◇
白石さんは、スープを、最後の一滴まで飲んだ。
どんぶりの底に描かれた、くまのイラストが見えた。くまやのどんぶりの底には、全部、くまの絵がある。スープを全部飲んだ人だけが会える、くまだ。
白石さんは、そのくまを、少しだけ見つめていた。
それから、顔を上げた。
その時、初めて、白石さんは、俺がずっと見ていたことに気づいたらしい。
ぴたり、と固まった。
れんげを持ったまま。
一秒。二秒。三秒。
学年トップの白石さんが、完全にフリーズしていた。
それから、すごく小さな声で、言った。
「……ここ」
「は、はい」
「内緒に、してね」
それだけだった。
何を内緒にするのか。ここに来たことか。一番安いラーメンを頼んだことか。あの、幸せそうな顔のことか。
聞けなかった。
「……う、うん。言わない。健太にも、千夏にも」
白石さんは、小さくうなずいた。
「絶対に、言わない」
健太に言ったら、三十秒もたない。それは、俺が一番よく知っている。
◇ ◇ ◇
会計の時。
白石さんは、財布から、小銭をきっちり、ぴったりの金額で出した。お釣りは、いらなかった。千夏と同じ種類の人だと、また思った。
小銭を受け取る時、白石さんの視線が、俺の手に落ちた。
あかぎれと、絆創膏と、今日、包丁で切ったところ。
白石さんは、しばらく、それを見ていた。
「……株は」
「え?」
「株は、やめたの?」
静かな声だった。
図書室で、「株で幸せになった人、私、見たことないから」と言った時と、同じ声だった。
俺は、少しだけ考えた。
嘘は、もうつかないと決めていた。
「やめてない」
白石さんの目が、ほんの少しだけ、揺れた。
「今度は、ちゃんとやる。自分で稼いだお金で。自分の名前で」
白石さんは、何も言わなかった。
返事のかわりに、紺色の傘を、傘立てから抜いた。引き戸に手をかけた。
雨の音が、大きくなった。
――何も、言ってもらえなかった。
そう思って、俺が視線を落とした時だった。
「……ごちそうさまでした」
引き戸の向こうから、小さな声がした。
「おいしかった」
振り返った時には、もう、紺色の傘は、雨の中に消えていた。
◇ ◇ ◇
閉店後。
俺は、カウンターのどんぶりを洗いながら、ずっと、あの顔のことを考えていた。
店長は、一人で、白石さんが座っていた席を、ふきんで拭いていた。いつもより、ずっと長い時間、拭いていた。
「……店長」
「ん」
「さっきの子、知ってるんですか」
「知らねえよ」
店長は、即答した。
即答すぎた。
「ただな」
店長は、ふきんを持つ手を止めて、雨の音のするほうを見た。
「……昔、ああいう食い方をするやつを、一人だけ、知ってた」
「誰ですか」
「忘れた」
それきり、店長は何も言わなかった。
どんぶりの底のくまが、泡の中から、俺を見上げていた。
その夜、俺は取引ノートの一番最後のページを開いて、小さな字で、こう書いた。
――わからないこと:白石さんは、なんであんなに幸せそうだったのか。
株とは、なんの関係もない一行だった。
でも、その一行が、この先、俺の人生の一番大きな相場につながっているなんて。
この時の俺は、まだ、知らなかった。
(第18話 終わり)
第18話を読んでいただき、ありがとうございます!
ビールケースの椅子と伝票の裏で始まった、くまやの「五分授業」。四つのルールは、蓮のネクストフロンティアでの失敗に、見事に全部当てはまっていました。満点の逆です。
そして、新しいノートの表紙は「取引ノート 高橋蓮」。不死鳥ノートにならなくて、作者はほっとしています。
ちなみに、店長の「そっちのほうが重症だな」は、作者にも刺さりました。
雨の夜、一番安いラーメンをあんなに幸せそうに食べた白石さん。そして、店長の止まった手。「内緒にしてね」の意味は、まだ蓮にもわかりません。
次回、第19話「十二月の決意」。季節が一気に進みます。
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