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諦めの悪い俺が、億を稼ぐまで  作者: 大吉


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18/20

第18話「取引ノート、1ページ目」

「蓮。お前、ネギ切りながら何ぶつぶつ言ってんだ」

月曜日の夕方。客のいない、四時半のくまや。

俺は、まな板の前で、ネギと格闘していた。

「……自己資本比率は、会社のお金のうち、借金じゃない分の割合……高いほど、つぶれにくい……」

「ネギに言っても、ネギはつぶれねえぞ」

「覚えてるんです。昨日、図書館の本で読んだやつ」

店長は、寸胴鍋のスープをおたまでかき回しながら、ふん、と鼻を鳴らした。

それから、しばらく黙って、スープの湯気を見ていた。

「……蓮」

「はい」

「そのネギ、切り終わったら、ちょっとこっち来い」

怒られる、と思った。昨日、どんぶりを一個割ったからだ。これで通算四個目。くまやのどんぶりは、俺が来てから、確実に絶滅に向かっている。

でも、店長が言ったのは、全然違うことだった。

「毎日五分だけ、教えてやる。仕事の合間にな」

「……何をですか」

「決まってんだろ」

店長は、おたまを置いた。

「負けねえための、基本だ」

◇ ◇ ◇

その日から、くまやの「五分授業」が始まった。

場所は、厨房の奥。段ボールのビールケースを逆さにした椅子が二つ。黒板のかわりは、伝票の裏。チョークのかわりは、注文を書くボールペン。

世界一、ラーメンくさい教室だった。

「いいか。ルールは四つだけだ。四つだけだが、これを守れねえやつは、何回やっても負ける」

店長は、伝票の裏に、太い字で書いた。

――① 買う理由を、一行で書けないなら、買うな。

「一行、ですか」

「一行だ。『この会社は、こういう理由で、これから伸びると思う』。それが一行で書けねえなら、お前はその会社のことを、何もわかってねえ」

「……ネクストフロンティアは、『アキラさんが十倍って言ってたから』って、一行で書けますけど」

「それは、お前の理由じゃねえ。アキラの理由だ」

ぐうの音も出なかった。

――② 「ここまで下がったら売る」を、買う前に決めろ。

「これが、損切りだ。この前、話したな」

「はい」

「人間ってのはな、下がり始めると、『もうちょっと待てば戻る』って思う。戻らなかったら、『あとちょっと待てば』って思う。で、気がついたら、八十万が四万だ」

「……具体的すぎませんか」

「具体的なほうが、覚えるだろ」

覚えた。たぶん、一生忘れない。

「だから、買う前に決めるんだ。頭が冷えてるうちにな。下がってからじゃ遅え。下がってからの人間は、だいたいバカになってる」

――③ 一つのカゴに、全部盛るな。

「これは知ってます。本に書いてありました。卵を一つのカゴに盛ると、落とした時に全部割れる」

「知ってて、やったのか」

「……知ってて、やりました」

「知ってるのと、できるのは、違う。ラーメンの作り方を知ってても、うまいラーメンが作れるとは限らねえのと一緒だ」

店長は、珍しくいいことを言った。と思ったら、続きがあった。

「ちなみに、うちのどんぶりも、一か所に重ねて置くな。お前が来てから、もう四個割れてる」

それは、ルールというより、苦情だった。

――④ 人の言葉で、買うな。

「アキラのことですか」

「アキラも、テレビの偉い人も、新聞も、俺もだ」

「店長も?」

「俺が『これは上がる』って言っても、買うな。自分で調べて、自分で納得したもんだけ買え。人の言葉で買ったやつはな、負けた時に、人のせいにする。人のせいにしてるうちは、何回でも同じ負け方をする」

俺は、アキラのアカウントを、まだ時々見に行っている自分を思い出した。投稿は、あの日から全部消えている。アカウントだけが、空っぽのまま残っていた。

人のせいにするのは、簡単だった。

でも、ボタンを押したのは、俺の指だった。

◇ ◇ ◇

「店長、質問です」

「なんだ」

「損切りって、やっぱりつらいですか。プロでも」

店長は、腕を組んで、少しだけ天井を見上げた。

湯気の向こうで、白いタオルの頭が、ゆっくりうなずいた。

「つらいさ。損切りってのはな、失恋と同じだ」

「失恋」

「好きだったもんを、自分から手放す。認めたくねえ。まだ可能性があるんじゃねえかって、何回もスマホ見る。でもな、早いほうが、傷は浅いんだ」

なんだか、かっこよかった。

ラーメン屋の店長が、湯気の中で、人生を語っている。映画のワンシーンみたいだった。

だから、俺は、正直に答えた。

「すみません。俺、失恋したことないんで、わかんないです」

「…………」

店長は、俺の顔をじっと見た。

三秒くらい、見た。

それから、心の底から気の毒そうな顔をした。

「……そっちのほうが、重症だな」

「なんでですか!」

「十六で失恋の一つもしてねえのは、損切り以前の問題だ。そもそも、何も買ってねえ」

「株の話ですよね!?」

「株の話だ」

絶対に、株の話じゃなかった。

その時、ちょうど店の引き戸が開いて、毎日同じ席で同じ注文をする常連のおじいさんが入ってきた。

「らっしゃい!」

店長は、何事もなかったように立ち上がった。そして、厨房に戻りながら、ぼそっと言った。

「……失恋の授業は、また今度な。そっちは俺も、損切りが遅えほうだ」

最後の一言は、聞こえなかったことにした。

◇ ◇ ◇

その帰り道、俺は駅前の文房具屋に寄った。

大学ノートを、一冊買った。

百五十円。罫線の入った、どこにでもある、ふつうのノートだ。表紙は、なんの模様もない、うす青い色。

家に帰って、机の上に置いた。

油性ペンのキャップを外した。

――天才トレーダー REN

前のノートの表紙には、そう書いた。千夏に「十年後に見たら、たぶん死にたくなるよ」と言われた、あのノートだ。あれは、まだ引き出しの奥にある。捨てられなかった。捨てたら、なかったことになる気がしたからだ。

ペンを持ったまま、しばらく考えた。

かっこいい名前をつけたい気持ちが、まだ、ちょっとだけあった。「RENの逆襲」とか。「不死鳥ノート」とか。

……不死鳥は、さすがにない。千夏に正座させられる。

結局、俺は、こう書いた。

――取引ノート 高橋蓮

それだけ。

かっこよくも、なんともない。

でも、ちゃんと、俺の名前だった。

◇ ◇ ◇

一ページ目を開いた。

最初に何を書くかは、もう決めていた。

――ネクストフロンティアで、なぜ負けたか。

ペンが、なかなか進まなかった。

書けば書くほど、自分のかっこ悪さが、紙の上に並んでいくからだ。

でも、書いた。

――買った理由:アキラが十倍になると言ったから。(←俺の理由じゃない。ルール④違反)

――会社のこと:社員三十人。五年連続赤字。売上ほとんどなし。「次世代電池」が何なのか、俺は一回も調べなかった。(←ルール①違反。一行で書けない)

――お金の入れ方:八十万円、全部。ミライ製菓まで売った。(←ルール③違反。カゴを丸ごと落とした)

――損切り:決めてなかった。下がってから「いつか戻る」と思った。戻らなかった。(←ルール②違反。全部違反)

――見なかったもの:「自己責任」の小さい字。朝のニュース。「仕手株」のコメント。俺はブロックした。見たくないものを見えなくしただけで、なくなったわけじゃなかった。

四つのルール、全部違反。

満点の逆。零点だ。テストで零点を取ったことは一回もないのに、人生で一番大事なテストで、零点を取った。

ページの一番下に、最後の一行を書いた。

――一番の原因:自分の名前じゃなかったから、自分のこととして考えてなかった。

書き終わって、ペンを置いた。

手のひらが、汗で湿っていた。ネギの匂いがした。

ノートを閉じて、表紙の「高橋蓮」の字を、指でなぞった。

――次は、自分の名前でやりな。

姉ちゃんの声を、もう一回、思い出した。

◇ ◇ ◇

それから、一週間くらいたった、雨の夜だった。

朝から降り続いていた雨は、夜になって、ますます強くなっていた。商店街のアーケードの外れにあるくまやには、屋根がない。のれんが、雨を吸って重たそうに垂れている。

こんな日は、客が来ない。

八時を過ぎると、店の中は、俺と店長と、寸胴鍋のスープだけになった。

「暇だな」

「暇ですね」

「こういう日はな、蓮。相場も同じだ。何もしねえのも、仕事のうちだ」

「それ、今、暇なのをごまかしてません?」

「ごまかしてる」

正直だった。

俺は、カウンターを拭きながら、ポケットの中の絆創膏の箱を指で確かめた。今日は、どんぶりは割っていない。指を一か所、包丁でちょっと切っただけだ。成長だ。

その時。

ガラガラ、と引き戸が開いた。

「らっしゃい!」

店長の声と同時に、雨の匂いが、店の中に流れ込んできた。

入ってきたのは、紺色の傘をたたむ、女の子だった。

長い黒髪の先から、しずくがぽたぽた落ちていた。白いブラウスの肩が、少しだけ濡れている。

背筋が、まっすぐだった。

俺は、ふきんを持ったまま、固まった。

――白石さん?

白石結衣だった。

学年トップの。図書委員の。「株なんて、博打でしょ」の。

なんで、ここに。

白石さんは、俺には気づいていないようだった。傘を傘立てにさして、ハンカチで髪を軽く押さえて、それから、カウンターの一番端の席に、すっと座った。

座り方まで、きれいだった。ラーメン屋のカウンターなのに、まるで図書室のカウンターみたいだった。

◇ ◇ ◇

俺は、とっさに、厨房の柱の陰に隠れた。

なんで隠れたのか、自分でもわからない。たぶん、クローゼットの時と同じだ。パニックになると、人間は一番意味のないことをする。

「……蓮。お前、何してんだ」

店長が、小声で言った。

「い、いや、ちょっと……」

「注文、取ってこい」

「店長が取ってください」

「俺は今、スープと大事な話をしてる」

スープは、何もしゃべっていなかった。

俺は、エプロンのひもを結び直して、頭のタオルを巻き直して、深呼吸を三回して、それから、伝票を持ってカウンターに出た。

「い、いらっしゃいませ……」

白石さんが、メニューから顔を上げた。

目が合った。

一秒。

二秒。

白石さんの目が、ほんの少しだけ、大きくなった。

「……高橋くん?」

「……はい。高橋です」

なぜか、フルネームで名乗りそうになった。

白石さんは、俺のエプロンと、頭のタオルと、手の絆創膏を、順番に見た。それから、ほんのわずかに、肩が固くなった。

何か言われる、と思った。「何してるの」とか。「顔、ゆるみすぎ」とか。

でも、白石さんは、何も言わなかった。

かわりに、メニューの、一番下を指さした。

「……これ、ください」

指の先にあったのは、くまやで一番安いメニューだった。

ふつうの、ラーメン。チャーシュー二枚と、メンマと、ネギ。トッピングなし。大盛りなし。

学年トップで、いつも姿勢がよくて、持っているペンケースが、どう見ても高そうな革のやつで、話し方まで上品な白石さんが。

一番安い、ラーメン。

「……か、かしこまりました」

俺は、厨房に戻った。

「店長、ラーメン一つです。ふつうの」

「あいよ」

店長は、麺をゆで始めた。それから、湯切りのざるを持ったまま、ちらっとカウンターの白石さんのほうを見た。

その時の店長の顔を、俺は、うまく説明できない。

驚いたような。何かを思い出したような。それとも、何かを確かめるような。

ほんの一瞬だけ、店長の手が止まった。

それから、何事もなかったように、ざるを振った。チャッ、チャッ、と、いつもより少しだけ丁寧な音がした。

「……店長?」

「なんでもねえ。ネギ、多めにしとけ」

「え、ふつうのって言われましたけど」

「雨の日は、ネギのサービスデーだ」

そんなサービスデーは、聞いたことがなかった。

◇ ◇ ◇

ラーメンを、白石さんの前に置いた。

「お、お待たせしました……」

白石さんは、小さく「ありがとう」と言った。

それから、割り箸を、ぱちん、ときれいに割った。

両手を合わせた。

「――いただきます」

小さな声だった。でも、すごく、ちゃんとした「いただきます」だった。

白石さんは、まず、れんげでスープを一口飲んだ。

目を閉じた。

ふう、と、小さく息を吐いた。

それから、麺を、少しずつ、少しずつ、すすった。熱いのか、何回もふうふうと冷ましながら。メンマを一本、大事そうに食べた。チャーシューは、最後まで取っておくタイプらしい。

その顔が。

――すごく、幸せそうだった。

教室では、一回も見たことのない顔だった。図書室のカウンターでも、掃除当番の時でも、見たことがない。いつもの、見えない壁の向こうにいる白石さんじゃなかった。

雨の夜の、古いラーメン屋で、一番安いラーメンを、世界で一番おいしいものみたいに食べている、ただの女の子だった。

俺は、厨房の柱の陰から、それを見ていた。

見てはいけないものを見ている気がした。

でも、目が離せなかった。

なんで、白石さんが、こんなところで。

なんで、一番安いラーメンを、あんなに幸せそうに。

いつも高そうなペンケースを持っている人が。株の話をすると、悲しそうな顔をする人が。

わからないことが、また一つ増えた。

俺の取引ノートには、まだ「わからないこと」のページがない。作ろうかと、本気で思った。

「……蓮」

「は、はい」

「見すぎだ」

店長に、頭を軽くはたかれた。

「客の顔を見すぎるな。食いにくくなる」

「……すみません」

「あと、口、開いてるぞ」

開いていた。慌てて閉じた。

◇ ◇ ◇

白石さんは、スープを、最後の一滴まで飲んだ。

どんぶりの底に描かれた、くまのイラストが見えた。くまやのどんぶりの底には、全部、くまの絵がある。スープを全部飲んだ人だけが会える、くまだ。

白石さんは、そのくまを、少しだけ見つめていた。

それから、顔を上げた。

その時、初めて、白石さんは、俺がずっと見ていたことに気づいたらしい。

ぴたり、と固まった。

れんげを持ったまま。

一秒。二秒。三秒。

学年トップの白石さんが、完全にフリーズしていた。

それから、すごく小さな声で、言った。

「……ここ」

「は、はい」

「内緒に、してね」

それだけだった。

何を内緒にするのか。ここに来たことか。一番安いラーメンを頼んだことか。あの、幸せそうな顔のことか。

聞けなかった。

「……う、うん。言わない。健太にも、千夏にも」

白石さんは、小さくうなずいた。

「絶対に、言わない」

健太に言ったら、三十秒もたない。それは、俺が一番よく知っている。

◇ ◇ ◇

会計の時。

白石さんは、財布から、小銭をきっちり、ぴったりの金額で出した。お釣りは、いらなかった。千夏と同じ種類の人だと、また思った。

小銭を受け取る時、白石さんの視線が、俺の手に落ちた。

あかぎれと、絆創膏と、今日、包丁で切ったところ。

白石さんは、しばらく、それを見ていた。

「……株は」

「え?」

「株は、やめたの?」

静かな声だった。

図書室で、「株で幸せになった人、私、見たことないから」と言った時と、同じ声だった。

俺は、少しだけ考えた。

嘘は、もうつかないと決めていた。

「やめてない」

白石さんの目が、ほんの少しだけ、揺れた。

「今度は、ちゃんとやる。自分で稼いだお金で。自分の名前で」

白石さんは、何も言わなかった。

返事のかわりに、紺色の傘を、傘立てから抜いた。引き戸に手をかけた。

雨の音が、大きくなった。

――何も、言ってもらえなかった。

そう思って、俺が視線を落とした時だった。

「……ごちそうさまでした」

引き戸の向こうから、小さな声がした。

「おいしかった」

振り返った時には、もう、紺色の傘は、雨の中に消えていた。

◇ ◇ ◇

閉店後。

俺は、カウンターのどんぶりを洗いながら、ずっと、あの顔のことを考えていた。

店長は、一人で、白石さんが座っていた席を、ふきんで拭いていた。いつもより、ずっと長い時間、拭いていた。

「……店長」

「ん」

「さっきの子、知ってるんですか」

「知らねえよ」

店長は、即答した。

即答すぎた。

「ただな」

店長は、ふきんを持つ手を止めて、雨の音のするほうを見た。

「……昔、ああいう食い方をするやつを、一人だけ、知ってた」

「誰ですか」

「忘れた」

それきり、店長は何も言わなかった。

どんぶりの底のくまが、泡の中から、俺を見上げていた。

その夜、俺は取引ノートの一番最後のページを開いて、小さな字で、こう書いた。

――わからないこと:白石さんは、なんであんなに幸せそうだったのか。

株とは、なんの関係もない一行だった。

でも、その一行が、この先、俺の人生の一番大きな相場につながっているなんて。

この時の俺は、まだ、知らなかった。

(第18話 終わり)



第18話を読んでいただき、ありがとうございます!

ビールケースの椅子と伝票の裏で始まった、くまやの「五分授業」。四つのルールは、蓮のネクストフロンティアでの失敗に、見事に全部当てはまっていました。満点の逆です。

そして、新しいノートの表紙は「取引ノート 高橋蓮」。不死鳥ノートにならなくて、作者はほっとしています。

ちなみに、店長の「そっちのほうが重症だな」は、作者にも刺さりました。

雨の夜、一番安いラーメンをあんなに幸せそうに食べた白石さん。そして、店長の止まった手。「内緒にしてね」の意味は、まだ蓮にもわかりません。

次回、第19話「十二月の決意」。季節が一気に進みます。

続きが気になった方は、ブックマークや評価をぽちっとお願いします。どんぶりの底のくまが、きっと喜びます。


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