第16話「元ディーラーの昔話」
図書館の一番奥、誰も来ない棚のいちばん下に、その本はあった。
電話帳みたいに分厚い。表紙は色あせていて、角がまるくなっている。中を開くと、会社の名前と、細かい数字と、短い説明文が、何千社ぶんもぎっしり詰まっていた。
『会社要覧』。
日本中の上場している会社――つまり、株を売り買いできる会社――の情報が、一冊にまとまっている本だ。どんな商売をしているか、もうかっているか、借金はどれくらいあるか。会社の「通知表」を全部集めた本、と言えばわかりやすいかもしれない。
ちなみに、三年前の版だった。新しいのは貸し出し中で、予約が四人待ち。
世の中には、この電話帳を順番待ちしてまで読みたい人が、少なくとも四人いる。
俺は、その五人目になりかけていた。
ちなみに、借りるときに図書館のカウンターのお姉さんに「……お仕事で?」と聞かれた。
高校の制服を着ていたのに。
「いえ、趣味です」と答えたら、お姉さんは、ものすごく優しい目で俺を見た。めずらしい生き物を見つけたときの目だった。
返却期限は二週間。電話帳を二週間持ち歩く高校生の誕生である。
カバンが重い。肩がもげる。健太に持たせたら「これ、筋トレ用?」と聞かれた。違う。
◇ ◇ ◇
くまやの中休み。
昼の営業が終わって、夜の営業が始まるまでの二時間。のれんは下ろされて、店の中はスープを煮こむ音しかしない。
俺は、カウンターのはしっこで『会社要覧』を開いていた。
自分のお金が貯まるまで、株は買わない。それは決めた。
でも、勉強ならいいだろう。読むだけなら、誰の名前も使わないし、一円も減らない。
……そう自分に言い聞かせながら、ページをめくる手が止まらなかった。
ミライ製菓のページを見つけて、俺は思わず「あ」と声を出した。
『主力は星形スナック。映画館向けポップコーンにも強み。財務は安定』
三年前のミライ製菓が、そこにいた。
俺が「ごめんな」と言って売った会社。
なんだか、昔の卒業アルバムで別れた友だちを見つけたみたいな気分になった。
そのとき、頭の上に影が落ちた。
見上げると、熊がいた。
いや、クマさんがいた。白タオルを頭に巻いて、腕を組んで、俺の手元をのぞきこんでいる。
「……懐かしいもん読んでるな」
「えっ」
「それ、三年前のやつだろ。表紙の色でわかる」
表紙の色で、何年の版かわかる。
そんなの、普通のラーメン屋の店長がわかることだろうか。
俺が何も言えずにいると、クマさんは俺の隣の椅子を引いて、どかっと座った。椅子が「ぎしっ」と悲鳴を上げた。
「俺もな、昔、それを毎日読んでた」
「……毎日?」
「毎日。ページの角が全部まるくなるまでな」
クマさんは、カウンターの上の『会社要覧』を、太い指でぱらぱらとめくった。その手つきが、妙に慣れていた。どこに何が書いてあるか、全部知っている人のめくり方だった。
「店長って、昔、何してたんですか」
クマさんは、少し黙った。
それから、なんでもないことのように言った。
「証券会社で、ディーラーやってた」
◇ ◇ ◇
ディーラー。
俺の頭に最初に浮かんだのは、カジノでトランプを配る、蝶ネクタイの人だった。
クマさんが、蝶ネクタイ。
白タオルの下に、蝶ネクタイ。
「……カジノの?」
「違う」
「ですよね」
想像したら、ちょっと吹き出しそうになった。あわてて口を押さえた。クマさんの眉毛が、ぴくっと動いた。
聞いたことはある。でも、ちゃんとは知らない。
「ディーラーっていうのは、会社の金で株を売り買いする仕事だ」
クマさんは、まかない用の小皿を二枚、カウンターに並べた。
「証券会社には、大きく分けて二種類の仕事がある。一つは、お客さんの注文を受けて、代わりに売り買いするやつ。もう一つは、会社自身のお金で、会社のために売り買いして、もうけを出すやつ」
小皿の片方を、指でこつんと叩く。
「こっちがディーラーだ。もうければ会社の利益。損すれば会社の損。毎日、何千万、何億って金を動かす」
「何億……」
「一日でな」
俺の80万円が、急に小銭みたいに思えてきた。
いや、実際、小銭なんだろう。この人から見たら。
「なんで、辞めたんですか」
聞いてから、しまった、と思った。
クマさんの目が、一瞬だけ、遠くを見た。窓の外の、もっとずっと向こうを。
「……いろいろあってな」
それだけだった。
それ以上は聞いちゃいけない気がして、俺は口を閉じた。
クマさんは、頭のタオルをきゅっと結び直した。
「で。今は、ラーメンの値段の動きしか追ってねえ。チャーシューの仕入れ値は、毎日チェックしてるぞ。あれは、高値づかみすると痛い」
真顔だった。たぶん、冗談だ。……たぶん。
◇ ◇ ◇
「蓮。今度はお前の番だ」
「え?」
「前に客で来たとき、お前、勝ってる顔してたろ。で、面接のときは、負けた顔してた」
見られていた。全部。
「何があった」
俺は、しばらく迷った。
それから、話した。
ネクストフロンティアのこと。80万円を全部入れたこと。ストップ高で117万円になって、浮かれていたこと。次の日から、毎日ストップ安で、売りたくても売れなかったこと。それでも「いつか戻る」と思って、売らなかったこと。最後には、約4万円しか残らなかったこと。
話しながら、俺は一つだけ、ずっと避けていた。
口座の、名前のことだ。
「……で、親は、許してくれてたのか」
クマさんが、ぽつりと聞いた。
「え、あ、はい、まあ……」
声が裏返った。
姉ちゃんの声をまねて、電話に裏声で答えたときと、同じ裏返り方だった。
クマさんは、何も言わなかった。ただ、じっと俺を見ていた。
スープの味見をするときの顔で。
一分くらい、そのまま。
厨房の奥で、寸胴鍋がこぽこぽ鳴っていた。
俺は、もう無理だった。
「……すみません。嘘です」
「おう」
「口座、姉ちゃんの名前でした。姉ちゃんの免許証と印鑑を、勝手に使いました。電話も、俺が姉ちゃんのふりをして……」
全部話した。
誕生日の夜の封筒のこと。ろうそくの消えたケーキのこと。姉ちゃんが「あんたは私の信用まで賭けたんだよ」とだけ言って、部屋に戻ったこと。あの日から、ちゃんと口をきいてもらえていないこと。
話し終わったとき、俺はうつむいていた。
笑われるかもしれないと思った。
「高校生のくせに、なにやってんだ」って。「バカだなあ」って。
でも、クマさんは笑わなかった。
ダジャレも言わなかった。
◇ ◇ ◇
「蓮」
低い声だった。
「負けたことは、どうでもいい」
「……え」
「相場で負けたことのないやつなんて、この世に一人もいねえ。俺だって、数えきれねえほど負けた。だから、負けたことはどうでもいい」
クマさんは、俺の目をまっすぐ見た。
「なんで負けたか、わかるか?」
なんで負けたか。
三日間、株のことを忘れようとした日にも、田村先生に同じことを聞かれた。あのときは、答えられなかった。
今度は、答えようと思った。
「……アキラを、信じたからです」
「違う」
即答だった。
「じゃあ……運が、悪かった?」
「違う」
二回目も、即答。
俺は、黙った。
他に、何があるんだ。アキラがあおって、売り抜けて、俺はそれに巻きこまれた。運が悪かった。それ以外に、何が――。
クマさんは、カウンターの上の小皿を三枚、横に並べた。
一枚目を、指でとん、と叩いた。
「お前は、"理由"で買ってない。"気分"で買った」
二枚目。
「"祈り"で持った」
三枚目。
「そして、"恐怖"で何もできなかった」
三枚の小皿が、カウンターの上に並んでいた。
気分。祈り。恐怖。
俺は、息が止まりそうになった。
◇ ◇ ◇
「ネクストフロンティアって会社、何を作ってる会社だ」
「次世代の、電池です」
「どんな電池だ」
「……えっと」
「社員は何人だ」
「三十人です」
「もうかってるか」
「……五年連続で、赤字です」
言いながら、自分で自分の声が小さくなっていくのがわかった。
「そんな会社に、全財産を入れた理由は?」
「……上がりそうだったから。みんな、買ってたから」
「それが"気分"だ」
クマさんは、一枚目の小皿をこっちに押した。
「上がりそう。みんな買ってる。乗り遅れたくない。全部、気分だ。理由ってのは、"この会社は、こういう理由で、これから価値が上がる"って、一行で言えることだ。言えなかったろ」
言えなかった。
今だって、言えない。
「次。下がり始めたとき、お前は何を考えてた」
「……いつか、戻るって」
「なんでそう思った」
「……なんでって」
なんでも、何もなかった。
ただ、戻ってほしかった。戻らなかったら困るから、戻ると思いこんでいた。
「それが"祈り"だ」
二枚目の小皿が、こっちに来た。
「相場はな、お前の都合なんか一ミリも知らねえ。お前が困ろうが泣こうが、下がるときは下がる。"戻ってくれ"ってのは、分析じゃねえ。神だのみだ。神社でやれ」
「……はい」
「最後。ストップ安が終わって、売れるようになった日もあったろ。なんで売らなかった」
「……売ったら、損が、本当になる気がして」
「それが"恐怖"だ」
三枚目。
俺の前に、三枚の小皿が並んだ。
なんの変哲もない、白い小皿だ。毎日、俺が洗っているやつ。
なのに、そこに俺の失敗が全部のっていた。
◇ ◇ ◇
「蓮。"損切り"って言葉、知ってるか」
「聞いたことは、あります」
「損を、自分で切ることだ。買う前に"ここまで下がったら、売る"って決めておく。で、本当にそこまで下がったら、迷わず売る。小さな損で、さっさと逃げる」
「でも、売ったあとで上がったら……」
「上がることもある」
クマさんは、あっさり言った。
「損切りした次の日に上がって、地団駄ふむこともある。何回もある。それでいい。損切りってのは、"当てる"ための技じゃねえ。"生き残る"ための技だ」
生き残る。
「お前の80万が4万になったのは、ネクストフロンティアが下がったからじゃねえ。下がったあと、お前が何も決めてなかったからだ。最初に"一割下がったら売る"と決めて、その通りにしてたら、どうなってた」
一割。80万円の一割は、8万円。
「……72万、残ってました」
「ストップ安で売れねえ日もあるから、ぴったりとはいかねえ。それでも、七十万近くは残ってたはずだ」
言われて、自分で驚いた。
七十万円。
4万円じゃない。七十万円。
ばあちゃんのポチ袋も、大叔父さんの500円も、16年分のお年玉も。ほとんど全部、残っていた。
姉ちゃんの誕生日に、「すげえやつ」を買えていた。
俺は、膝の上で拳をにぎった。
「相場で一番大事なのは、勝つことじゃねえ」
クマさんが、静かに言った。
「退場しないことだ。生きてりゃ、次の勝負ができる。退場したら、そこで終わりだ」
◇ ◇ ◇
しばらく、店の中は静かだった。
寸胴鍋だけが、こぽこぽと鳴っていた。
それから、クマさんは、もう一つだけ言った。
さっきよりも、もっと低い声で。
「それと、蓮。名前の話だ」
俺は、顔を上げた。
「人の名前でやる勝負はな」
クマさんの目は、怒っていなかった。
でも、笑ってもいなかった。
「勝っても負けても、人の人生を賭けてる」
その言葉は、ネギよりずっと、目にしみた。
「お前が勝ってたら、どうなってたと思う。117万が、500万になってたら。その金は、姉ちゃんの名前のまま増えて、姉ちゃんの知らないところで税金がかかって、姉ちゃんの知らないところで、姉ちゃんの名前が使われ続けてた。それに、ばれたら、口座は止められて、姉ちゃんが頭を下げる」
勝っていても、同じだった。
俺は、負けたから悪いんだと思っていた。
負けたから、姉ちゃんに迷惑をかけたんだと思っていた。
違った。
あの口座を開いた瞬間に、俺はもう、姉ちゃんの人生をテーブルの上に乗せていたんだ。
勝つか負けるかなんて、関係なく。
「勝負ってのはな、自分の名前と、自分の金でやるもんだ。負けたとき、"自分のせいです"って、自分の口で言えるやつだけが、勝負していい」
姉ちゃんの声が、頭の中で重なった。
――自分のお金のことは、自分の名前で、自分で責任を持つの。
ずっと前に、姉ちゃんが言った言葉だった。
俺は、あのとき、ちゃんと聞いていなかった。
◇ ◇ ◇
気がつくと、カウンターにぽたっと、何かが落ちていた。
ネギは、切っていなかった。
クマさんは、何も言わずに、ティッシュの箱をこっちに滑らせた。
俺は三枚くらいまとめて引き抜いて、顔をごしごしふいた。
「……すみません」
「謝る相手は、俺じゃねえだろ」
「……はい」
クマさんは、立ち上がった。椅子が、ほっとしたように「ぎしっ」と鳴った。
それから、厨房へ向かう途中で、背中を向けたまま聞いた。
「それでも、まだやりたいのか?」
俺は、すぐには答えられなかった。
やりたい、と言ったら、また同じことをくり返すんじゃないか。
姉ちゃんを、また傷つけるんじゃないか。
母さんは、きっと泣く。
三日間、アプリを消した。それでも、気づいたら布団の中で株価を見ていた。
株が嫌いになれなかった。嫌いになったのは、ずるをした自分のほうだった。
だったら。
「……やりたいです」
声は、小さかった。
でも、震えてはいなかった。
「今度は、自分の名前で。自分の金で。ちゃんと、"理由"で買えるようになりたいです」
クマさんは、振り返らなかった。
でも、その大きな背中が、ほんの少しだけ揺れた。
笑ったんだと思う。
熊の笑い方だった。
「……そうか」
それから、いつもの声に戻って言った。
「なら、まずネギ切れ。夜の分、三十本」
「三十本!?」
「株も、ネギも、基本が大事だ。"根気"よくやれ。ネギだけに」
…………。
「……笑うところですか」
「笑ったらクビだ」
どっちなんですか、店長。
◇ ◇ ◇
その夜、俺はネギを三十本切った。
今度は、ネックレスにならなかった。
全部、ちゃんと輪っかになった。
目は、やっぱり真っ赤だったけど。
閉店後、クマさんは何も言わずに、まかないのラーメンを出してくれた。
チャーシューの切れはしが、いつもより、少しだけ多かった気がした。
帰り道、俺は、カウンターに並んだ三枚の小皿のことを考えていた。
気分。祈り。恐怖。
あの三枚の皿を、いつか全部、洗い流せる日が来るんだろうか。
――今なら、わかる。
あの日、白い小皿が三枚並んだカウンターが、俺にとっての、本当の一時間目だった。
そしてこの熊みたいな先生は、次の日から、とんでもない宿題を出してくることになる。
(第16話 終わり)
第16話を読んでいただき、ありがとうございます!
ついに、クマさんの正体が明らかになりました。元・証券会社のディーラー。蓮の頭に浮かんだ「蝶ネクタイのクマさん」は、作者も想像して吹き出しました。
そして、カウンターに並んだ三枚の小皿。「気分で買って、祈りで持って、恐怖で何もできなかった」。耳が痛い……という方、作者も一緒に正座しています。千夏の前で。
辞めた理由の「いろいろ」は、まだしばらく秘密です。
次回、第17話「次は自分の名前でやりな」。ずっと口をきいていない、あの人の話です。
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