第15話「ラーメン屋の不思議な店長」
人生で初めて、ネギに泣かされた。
比喩じゃない。本当に泣いた。ボロボロ泣いた。
くまやでバイトを始めて三日目の午後。俺は厨房のすみっこで、まな板と向き合っていた。目の前には、山。白と緑の、ネギの山。
「蓮、そのネギ、全部小口切りな」
店長――クマさんが、寸胴鍋をかき混ぜながら言った。
小口切りっていうのは、ネギを端から薄い輪っかにしていく切り方だ。ラーメンの上にパラッとのってる、あれ。簡単そうに見えるだろ?
俺もそう思ってた。三分前までは。
「……店長」
「なんだ」
「目が、開きません」
ネギを切ると、目にしみる成分が空気中に飛ぶらしい。タマネギと同じだ。それが十本、二十本と続くと、もう涙腺がダムの放流みたいになる。
包丁を持ったまま、だばだば泣いている高校二年生。
はたから見たら、完全に事件現場だ。
「泣くな。ネギは、泣いたぶんだけうまくなる」
「どういう理屈ですか、それ」
「知らん。今考えた」
クマさんは真顔だった。この人は、ダジャレと名言っぽいセリフを同じ顔で言うから、どっちなのか毎回わからない。
ちなみに、この日の俺のネギは、輪っかがつながっていた。
小口切りのはずが、全部、ネギのネックレスになっていた。
「……蓮」
「はい」
「これは、アクセサリーか?」
「……ネギです」
「客の首にかけるつもりか」
かけません。
◇ ◇ ◇
皿洗いも、なかなかの修行だった。
くまやのどんぶりは、でかくて、重くて、分厚い。洗剤でぬるぬるになったそれを、一日に百個以上洗う。
そして四日目。
ガシャン。
割った。
厨房に、ものすごくいい音が響いた。カウンターのお客さんが全員こっちを見た。
「す、すみません!」
俺は真っ青になった。どんぶりって、いくらするんだ。千円? 二千円? まさか、職人の一点ものとかで、一万円とか――。
給料から引かれる。いや、それ以前にクビになる。
頭の中で、計算が止まらない。時給1050円。どんぶり一個で、何時間ぶんだ。
クマさんが、のっそりこっちに歩いてきた。熊だ。完全に熊だ。
そして、割れたどんぶりを見下ろして、言った。
「どんぶりは割れても、心は割るなよ」
…………。
「……はい」
「あと、笑え」
「えっ」
「今のは、笑うところだ」
いや、店長、面接のとき「俺のダジャレで笑うやつは信用できねえ」って言いましたよね?
笑ったら信用を失い、笑わなかったら怒られる。
この店のルールは、ネギより目にしみる。
ちなみにどんぶりは、給料から引かれなかった。クマさんいわく「割れたどんぶりの数は、店が繁盛してる証拠だ」。
……それも今考えましたよね?
◇ ◇ ◇
一週間もすると、だんだん店の空気がわかってきた。
くまやには、常連さんがいる。それも、めちゃくちゃ濃いのが。
まず、ゲンさん。
八十歳くらいのおじいさんで、毎日、夕方五時半ぴったりに来る。座るのは、カウンターの右から二番目。注文は、しょうゆラーメンの並、ネギ多め。
一日も変わらない。一分もずれない。
駅の時計より、ゲンさんのほうが正確だ、と商店街では言われているらしい。
ゲンさんは、俺のことを毎日ちがう名前で呼ぶ。
月曜は「おう、ケンジ」。
火曜は「タカシくん、水」。
水曜は「そこの若いの」。
木曜は、なぜか「ポチ」だった。
「あの、俺、蓮です」
「知っとるよ」
知ってるなら呼んでください。せめて人間の名前で。
でも、ゲンさんはラーメンを食べ終わると、毎回ちゃんと手を合わせて「うまかった」と言う。どんぶりの中は、スープまで一滴も残っていない。
それを見るたび、なんだか背中がしゃんとした。
次に、岩田さん。
近くの大学のラグビー部で、体がクマさんと同じくらいでかい。注文は、大盛りラーメンにライス大盛り、それに餃子二人前。
「たんぱく質は、裏切らないんで」
それが口ぐせだ。
岩田さんは、食べながらスマホで何かを計算している。何を計算してるのか聞いたら、「今日の摂取カロリー」だった。
「さっき、3800を超えました」
「それ、大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃないです」
正直な人だった。
そして最後に、トミ子さん。
商店街の八百屋「八百富」のおばちゃんで、くまやのネギは全部この人の店から仕入れている。
つまり、俺を毎日泣かせているネギの、出どころの人だ。
「あらあら、新人さん! 目が真っ赤じゃないの! うちのネギ、しみるでしょう? いいネギはね、しみるのよ!」
なぜか、うれしそうだった。
トミ子さんは、とにかくしゃべる。ラーメンが来てから食べ終わるまで、しゃべり続ける。麺がのびることを、まったく気にしていない。
しかも、情報が速い。
俺が働き始めて三日後には、商店街じゅうの人が「くまやに高校生が入った」「ネギでネックレスを作った」「どんぶりを割った」ことを知っていた。
健太の「誰にも言わない」は三十秒もたないけど、トミ子さんは、そもそも言わないつもりがない。
商店街の、生きたニュース速報だ。
◇ ◇ ◇
まかないの話もしておきたい。
閉店前、お客さんが少なくなった時間に、クマさんが作ってくれる。
メニューにはない、まかないだけのラーメン。スープはお店と同じだけど、チャーシューの切れはしがどっさりのっている。形が悪くて、お客さんには出せない部分だ。
初めて食べた日のことを、俺はたぶん一生忘れない。
一口すすって、箸が止まった。
うまい。
いや、うまいのは知ってた。客として何回も食べてたから。
でも、ちがった。
立ちっぱなしで足がパンパンで、手は洗剤でしわしわで、目はネギで真っ赤で。その全部のあとに食べるラーメンは、客のときの百倍うまかった。
「……世界一うまいです」
「知ってる」
クマさんは、ちょっとだけ鼻をふくらませた。たぶん、喜んでいる。熊の喜び方だ。
◇ ◇ ◇
二週目の土曜日。
のれんをくぐって、見覚えのありすぎる巨体が入ってきた。
「らっしゃ――」
「蓮ーーーっ!!」
健太だった。
声がでかい。店の中の空気がびりびり震えた。ゲンさんが、レンゲを持ったまま固まった。
「お前、本当に働いてる! エプロンしてる! すげえ! 似合わねえ!」
「声でかいって。あと、似合わねえは余計だ」
健太は、カウンターにどかっと座ると、メニューも見ないで言った。
「大盛り! いや、特盛! いや、一番でかいやつ!」
「うちに特盛はねえ」
クマさんが、厨房の奥から言った。
「じゃあ大盛りを二杯!」
「……お前、前に七杯食った兄ちゃんか」
「覚えててくれたんすか!」
健太が、なぜか誇らしげに胸を張った。そこ、自慢するところじゃない。
ラーメンを運んでいくと、健太は目をキラキラさせた。
「これ、蓮が作ったのか!?」
「いや、運んだだけ」
「すげえ! 運んだのか!」
運んだだけで褒められたのは、人生で初めてだった。
隣の席の岩田さんが、健太の食べっぷりを見て、ぼそっと言った。
「……いい筋肉してますね」
「あざっす!」
なぜか、二人は意気投合していた。ラグビー部と野球部。筋肉は国境を越える。
そこへ、もう一人。
のれんの向こうから、すっと入ってきたのは千夏だった。
「様子、見に来ただけだから」
そう言いながら、千夏はまず店の中をぐるりと見回した。それから、俺の手元をじっと見た。
「蓮、爪、切ってる?」
「切ってるよ」
「エプロンのひも、ほどけかけてる」
「……はい」
「手、洗った?」
「洗ってるって!」
生徒会の抜き打ち検査かと思った。この人は、ラーメン屋に来ても書記だ。
千夏は、健太から一つ離れた席に座った。
「千夏、こっち空いてるぞ!」
「いい。ここで」
千夏は、なぜか健太のほうを見ないで、小さな声で「しょうゆの、少なめで」と頼んだ。いつもの千夏なら、もっとはきはきしゃべるのに。
まあ、ラーメン屋で緊張してるんだろう。たぶん。
トミ子さんが、千夏と健太を交互に見て、「あらあらあら」と言った。何が「あらあら」なのかは、わからなかった。
商店街のニュース速報は、俺の知らない何かを受信していたらしい。
◇ ◇ ◇
その日の休憩時間。
中休みの、お客さんがいない時間帯だった。くまやは昼の営業と夜の営業のあいだに、二時間くらい店を閉める。
俺が裏口でネギの皮をむいていると、カウンターの奥にクマさんが座っているのが見えた。
新聞を、読んでいた。
最初は、スポーツ新聞かと思った。でも、ちがった。字ばっかりで、細かい数字がずらっと並んでいる。
経済新聞だった。
それだけなら、別にめずらしくない。大人は新聞くらい読む。
気になったのは、クマさんの顔だった。
真剣だった。
スープの味見をするときより、真剣だった。
クマさんがスープの味見をするときの顔は、それはもう怖い。小皿にちょっとだけスープを取って、目を閉じて、口に含んで、しばらく動かない。俺は最初、寝てるのかと思ったくらいだ。
その顔より、もっと真剣だった。
クマさんは、胸ポケットから赤いペンを出した。新聞の一か所に、きゅっと丸をつける。それから、別のところに、短い線を引く。
俺は、その紙面に見覚えがあった。
細かい数字の列。会社の名前と、その横に並ぶ数字。
株価の欄だ。
うちの父さんが、毎朝一秒でめくっているページ。
俺が、一か月前まで、スマホで何百回も見ていた数字たち。
「……蓮」
顔も上げずに、クマさんが言った。
「ネギの皮、むく手が止まってるぞ」
「あ、はい!」
俺はあわててネギに向き直った。
背中ごしに、新聞をたたむ音がした。
なんで、ラーメン屋の店長が、株価に赤ペンを入れているんだろう。
面接の最後に、「で、もう株はやめたのか?」と聞いてきたのも。前に客として来た日、俺のスマホを見て「勝ってる時の顔してるな」と言ったのも。
全部、たまたま、なんだろうか。
――今なら、わかる。
たまたまなんかじゃ、なかった。
◇ ◇ ◇
そして、七月に入って最初の金曜日。
給料日がやってきた。
くまやの給料は、昔ながらの手渡しだ。閉店後、クマさんが茶色い封筒を一枚、俺の前に置いた。
表には、太いマジックで「高橋蓮くん」と書いてあった。
「今月分だ。確認しろ」
封筒の中には、お札と小銭と、手書きの明細が入っていた。
働いた時間、三十七時間。
時給、1050円。
合計、三万八千八百五十円。
どんぶり代は、どこにも引かれていなかった。
俺は、封筒を持ったまま、しばらく動けなかった。
三万八千八百五十円。
一か月前の俺なら、鼻で笑っていた金額だ。株なら一日で動く。ストップ高一回ぶんにもならない。
でも。
この三万八千八百五十円には、ネギの涙と、どんぶり百個と、ゲンさんの「ポチ」と、まかないの湯気が、全部入っている。
自分の手で稼いだお金は、なんだか、ずっしり重かった。
紙と小銭の重さじゃない、何か別の重さだった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは、こっちのほうだ」
クマさんはそれだけ言って、厨房の電気を消した。
◇ ◇ ◇
その足で、俺は千夏の家に向かった。
夜の九時すぎ。インターホンを押す前に、スマホで連絡すると、千夏はすぐに玄関から出てきた。部屋着にカーディガンをはおっている。
「どうしたの、こんな時間に」
「これ」
俺は、手のひらを差し出した。
五百円玉が一枚。百円玉が一枚。五十円玉が一枚。十円玉が四枚。
合わせて、六百九十円。
封筒から出したばかりの、くまやの小銭だ。
千夏は、俺の手のひらを見て、それから俺の顔を見た。
「……ポップコーン?」
「ポップコーン」
映画館で借りた、ポップコーン代。最初は八百円で、それが七百円になって、いつのまにか六百九十円になった。
利息なし。催促なし。でも、ずっと千夏のスマホに残っていたやつ。
「俺が、自分で稼いだ金で、返したかった」
言ってから、ちょっと照れくさくなって、目をそらした。
千夏は、しばらく黙っていた。
それから、小銭を一枚ずつ、ていねいに受け取った。五百円玉、百円玉、五十円玉、十円玉、十円玉、十円玉、十円玉。
数え終わると、千夏はスマホを取り出した。
メモのアプリを開く。
画面には、見慣れた一行があった。
「蓮 ポップコーン 690円」
ああ、これでやっと消えるんだな、と俺は思った。
正座させられた日、千夏は「これは、まだ消さないから」と言った。あの一行は、俺への信用がゼロになった証拠みたいなものだった。
それが、今日、消える。
千夏の指が、画面の上で動いた。
でも、消さなかった。
「690円」の後ろに、何かを打ちこんでいる。
それから、保存のボタンを押した。
千夏が、画面をこっちに向けた。
「蓮 ポップコーン 690円 完済」
「……消さないの?」
「消さないよ」
千夏は、スマホを胸の前でぎゅっと握った。
「蓮が、自分で稼いだお金で返した記念だから」
そう言って、千夏は少しだけ笑った。
正座の日に見た、泣きそうな顔じゃなかった。ちゃんと、笑っていた。
俺は、何か言おうとして、何も言えなかった。
鼻の奥が、つんとした。
ネギは切ってないのに。
「……千夏」
「なに」
「ありがとな」
「お礼を言われることじゃないでしょ。借りたものを返しただけ」
千夏は、いつもの書記の顔に戻って言った。
「それと、蓮」
「うん」
「くまやのネギの匂い、すごいよ」
「えっ」
「すごいよ」
二回言われた。千夏が同じことを二回言うと、勝ち目はない。
俺は自分の手のにおいをかいだ。
……ネギだった。完全に、ネギだった。
◇ ◇ ◇
帰り道、俺は給料袋をポケットの上から何度もさわった。
六百九十円ぶん、軽くなった封筒。
でも、なんだか、さっきより重い気がした。
六百九十円は返せた。
でも、俺には、まだ返していないものがある。
家に帰ると、二階の姉ちゃんの部屋のドアは、閉まっていた。
すき間から、明かりがもれている。
あの誕生日の夜から、姉ちゃんとは、ちゃんと口をきいていない。俺が「ただいま」と言っても、姉ちゃんは返事をしない。廊下ですれちがっても、俺の存在は、たぶん空気と同じあつかいだ。
ドアの前で、俺は少しだけ立ち止まった。
ノックしようとして、手を上げて。
そのまま、下ろした。
六百九十円は、小銭で返せる。
でも、姉ちゃんから借りてしまった「信用」は、いったい何円なんだろう。
いくら働いたら、返せるんだろう。
俺は自分の部屋に入って、給料袋を机の引き出しにしまった。
引き出しの奥には、ばあちゃんのポチ袋がはさまった通帳が入っている。
「だいじに つかってね」
その文字を、俺はしばらく見ていた。
◇ ◇ ◇
次の週の、中休み。
俺は、図書館で一冊の本を借りてきた。
電話帳みたいに分厚くて、細かい数字がびっしり並んだ、古い本だった。
今度は、自分のお金で、正しくやる。そう決めた。
でも、まだそのお金がない。だから今は、勉強だけ。それなら、いいよな?
俺はくまやの裏口で、その本をこっそり開いた。
まさかそれが、熊みたいな店長の、昔の扉を開ける鍵になるなんて。
この時の俺は、まだ知らなかった。
(第15話 終わり)
第15話を読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、蓮のバイト生活スタート回でした。ネギのネックレス、割れたどんぶり、毎日ちがう名前で呼んでくるゲンさん、カロリーに正直すぎる岩田さん、商店街のニュース速報・トミ子さん……くまやの常連さんたちを、どうぞよろしくお願いします。
そして、ついに690円、完済です。「消さないよ」の一言に、千夏の全部が詰まっている気がします。
ちなみに作者も、この回を書いたあと無性にラーメンが食べたくなりました。ネギ多めで。
次回、第16話「元ディーラーの昔話」。赤ペンを握る店長の、もうひとつの顔が明らかになります。
「くまや、通いたい!」と思っていただけたら、ブックマークと★評価で、のれんをくぐっていただけるとうれしいです!




