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9話:Iron Lessons 〜鋼の鍛錬 〜

乾いた土を蹴る音が、一定のリズムで耳に響き続ける。 容赦なく照りつける太陽が、首筋をじりじりと焼いていた。

肺が熱い。 呼吸をするたびに、鉄の味が喉の奥に広がる。

あの酒場の夜から、ちょうど一ヶ月が経っていた。 俺の毎日は、血を吐くような特訓の日々へと変わった。


たまにラキやシルヴィアさんは、基地から姿を消すことがあった。

近隣の集落への物資輸送や、周辺の危険地帯の偵察任務だ。 一日から二日ほど帰ってこないが、その間の出来事は帰還後に詳しく共有されている。


右隣から、荒い息遣いが聞こえてくる。

ラキが横並びで走っていた。 俺は少しだけ歩幅を広げ、こいつの前に出ようとする。

すると、ラキも負けじと速度を上げて横に並んできた。


「おい。俺の前を走んなや」


ラキが額の汗を拭いもせず、横目で俺を睨みつけてくる。

息は上がっているくせに、憎まれ口だけは健在だ。 昨日の任務の疲れが残っているはずなのに、絶対にペースを落とそうとしない。


「うるさい。遅いから抜いただけだ」


俺も荒い息のまま言い返す。 互いに道を譲る気はない。 肩と肩がぶつかりそうになる距離で、意地の張り合いが続く。 土煙が舞い上がり、汗が目に入って痛んだ。


ふわりと、風が吹き抜けた。 甘い花の香水のような匂いが鼻をかすめる。

気がつけば、俺たちのすぐ横をシルヴィアさんが並走していた。


「二人とも毎日毎日、小競り合い。飽きないわねぇ」


彼女は涼しい顔でこちらを見た。 あんなに走り込んでいるのに、その白い肌には汗一つ浮かんでいない。 呼吸も全く乱れていなかった。

コツコツと一定のリズムで地面を蹴り、あっという間に俺たちを追い抜いていく。 その軽やかな足取りは、まるで重力を感じさせない。


「は、速ぇ」


俺たちは顔を見合わせ、無言のままさらに速度を上げた。 外周コースを回り、格納庫の前を通り過ぎる。


開け放たれた巨大な扉の奥から、けたたましい金属音が聞こえてきた。 オイルと鉄の焼ける匂いが漂ってくる。

ユミィが作業着姿で走り回っていた。 顔には黒い油汚れがべっとりと付いている。

彼女の頭上には、クレーンで吊り上げられた巨大な装甲が浮かんでいた。


分厚い緑色の金属パーツだ。 俺は走りながら、その形に目を奪われた。

見覚えがある。 シミュレーターの中で、俺を徹底的に叩き潰したあの機体。

ウィリディチの腕パーツだった。


ユミィは工具を握りしめ、楽しそうにその巨大な鉄の塊の整備と組み立てを続けている。

あれは仮想空間だけのデータではなかった。

本物のウィリディチの機体が、目の前で組み上げられている。

好奇心が胸の奥で渦巻く。 だが、今は足を止めるわけにはいかなかった。


突然、俺たちのはるか前を走っていたクレティさんが立ち止まった。 彼は大きな手で自分の額を叩く。

「おっと、いけねえ。大事なものを忘れていたぞ」

「ちょっと取ってくる。お前らはそのまま走ってろ」


クレティさんはそう言い残し、自分の個室がある居住棟の方へ猛ダッシュで引き返していった。

俺はラキに怪訝な顔を向ける。

数分後、背後から地響きのような重い足音が近づいてきた。


「ハハハ。ヒカリ坊、ラキ坊、待たせたな」


豪快な笑い声と共に、クレティさんが横に並ぶ。 俺は彼の両手を見て、自分の目を疑った。

彼の左右の手には、真っ黒な鉄の塊が握られていた。 どう見ても、片方で数十キロはありそうな巨大なダンベルだ。


「ハハハ。やっぱりこれを持たないと、走った気がしねえな」


クレティさんはダンベルを胸の高さまで持ち上げ、そのまま腕を振りながら走り始めた。

太い腕の筋肉が、丸太のように隆起している。 ダンベルの重さで、彼が地面を踏むたびにザクッと深い足跡が刻まれた。

満面の笑顔で鉄の塊を振り回すその姿は、常軌を逸している。


俺は口を半開きにしたまま、ただその横顔を見つめることしかできなかった。

呆れるというか、完全に引いていた。

俺は深い溜息をつき、見なかったことにして乾いた土のコースを再び走り始めた。


肺が限界を迎え、喉の奥でゼイゼイと嫌な音が鳴る。 俺は最後の力を振り絞り、地面を強く蹴りつけた。

視界が汗で滲む。 指定された土のラインを、俺とラキは全く同時に踏み越えた。 そのまま数歩進み、俺はたまらず膝に手をついた。

滝のように流れる汗が、顎から乾いた地面に落ちて黒い染みを作る。


右隣で、ラキも荒い息を吐きながら立ち止まっていた。 こいつの顔も汗まみれだ。 肩が上下に大きく揺れている。


「どう見ても、俺の方が一歩早かったわ」


ラキが息も絶え絶えになりながら、それでも負け惜しみを口にする。

俺は顔を上げ、そいつを睨み返した。


「馬鹿言うな。完全に俺の勝ちだった」


言い返すのも面倒なくらい疲労していたが、引き下がれなかった。

焼けた土の匂いと、自分自身の汗の匂いが鼻をつく。 呼吸を整えようと深く息を吸い込んだ時、乾いた音が耳に届いた。


カーン。 カン。


硬い木と木が激しくぶつかり合う音だ。 俺は音のする方へ視線を向けた。

格納庫の前の開けた場所で、クレティさんとシルヴィアさんが向かい合っていた。 いつの間に走り終えたのだろうか。

息一つ乱さず、二人はすでに組み手を始めていた。


クレティさんの手には、彼の背丈ほどもある長い木の棒が握られている。

シルヴィアさんの両手には、短い木の棒。 さらに彼女の腰のベルトには、同じ長さの短い木の棒が二本差してあった。


俺は目を細めた。 ただの棒遊びではない。

あれは、それぞれの機体の武装を模しているのだ。

クレティさんの長い棒は、緑の巨体ウィリディチが振るう真鍮色の槍。

シルヴィアさんの両手と腰の短い棒は、彼女の機体のクナイそのものだ。


シルヴィアさんが地を蹴った。 速い。 土埃を巻き上げ、一瞬でクレティさんの懐に潜り込む。 右の短い棒が、鋭く顔面を狙う。

クレティさんは動じない。

長い棒の中央を軽く押し出し、その突きをいなす。 軌道が逸れた。 シルヴィアさんは止まらない。 身を沈め、左の棒でクレティさんの足元を薙ぎ払う。


短い一撃。 連撃。 息をつかせぬ猛攻だ。


だが、クレティさんはその場から一歩も動いていない。 長い棒をクルクルと指先で回すように操る。

乾いた音が連続して響く。 シルヴィアさんの全ての攻撃が、当たる直前で軽く弾かれていた。

圧倒的な体格差と、リーチの差。 それ以上に、クレティさんの動きには絶対的な余裕があった。


シルヴィアさんが大きく後ろへ跳躍した。 間合いが開く。

空中にいる彼女の腕が、ムチのようにしなった。 両手に握られていた短い木の棒が、二本同時に放たれる。


空気を裂く音がした。 木の棒が縦に回転しながら、クレティさんの顔面と胸へ迫る。


クレティさんが首をわずかに右へ傾けた。 一本の棒が、彼の耳の横を風切り音と共に通り過ぎる。 同時に、彼の手首が返った。

長い棒の先端が跳ね上がる。

カーンという甲高い音が響いた。

もう一本の短い棒が、空中で叩き落とされ、地面に転がった。


だが、シルヴィアさんの攻撃はそこで終わりではなかった。 彼女の右手が、腰のあたりで素早く動く。

空になったはずの右手に、いつの間にか黒いロープが握られていた。


シルヴィアさんの腕がしなる。 蛇のように、黒いロープが宙を舞った。

それは正確に、クレティさんの持つ長い木の棒の先端へ向かう。

シュルリと、不気味な風切り音が鳴った。 ロープが長い棒の先端に幾重にも巻き付く。


シルヴィアさんが両手でロープを強く握りしめた。 足腰を深く沈め、全体重をかけて後ろへ引き込む。

鋭い摩擦音が響いた。

巨漢のクレティさんの身体が、大きく前へのめり込む。 あの分厚い岩のような体勢が、完全に崩された。


シルヴィアさんはロープから手を放した。

そのまま腰のベルトへ両手を伸ばす。

残っていた二本の短い木の棒を、左右の手で同時に引き抜いた。

土を蹴り、前傾姿勢で突進する。 彼女の機体が持つ、近接戦闘の動きそのものだ。


狙うは無防備になったクレティさんの胸元。

勝負は決まったと俺は思った。 だが、クレティさんは笑っていた。


「ハハハ。甘いぞシルヴィア」


クレティさんの両手が、長い木の棒からパッと離れる。

ロープの絡まった棒が、土煙を上げて地面に落ちた。

彼は丸腰になった。 しかし、その動きに迷いは全くない。


シルヴィアさんの右の棒が、鋭く突き出される。 クレティさんは半歩だけ横へ動いた。

分厚い手が、シルヴィアさんの右手首を外側から強く叩く。 木の棒には一切触れていない。 強烈な衝撃で、シルヴィアさんの右腕が大きく外側へ弾き飛ばされた。


シルヴィアさんは止まらない。

体勢を立て直し、左の棒でクレティさんの脇腹を薙ぎ払う。

さらに速い一撃だった。 だが、クレティさんの動きはそれを上回っていた。


彼の左手が、下から上へ跳ね上がる。

シルヴィアさんの左肘の関節を、掌底で的確に打ち上げた。

くぐもった打撃音が鳴る。

シルヴィアさんの顔が苦痛に歪んだ。 衝撃で力が抜け、彼女の左手の握りが緩む。


クレティさんの右手が、そこへ滑り込んだ。

空中に浮いた短い木の棒を、見事な手際で奪い取る。

そのままの流れで、クレティさんはシルヴィアさんの足元へ足を掛けた。

手首を返し、軽い力で押し込む。


シルヴィアさんの身体が宙に浮いた。 完全にバランスを失っている。

しかし背中から地面に叩きつけられるはずの重い音は響かず、彼女は受け身を取り、構え直していた。


クレティさんは奪い取った短い木の棒を、シルヴィアさんの鼻先に突きつけていた。

彼の額には、ほんの少しだけ汗が滲んでいる。 圧倒的な逆転劇だった。


「やっぱりクレティさんには敵わないわ」


シルヴィアさんが土埃にまみれながら、短く息を吐いた。

飄々とした態度は崩していないが、声には確かな悔しさが滲んでいる。


「ハハハ。腕を上げたな、シルヴィア」


クレティさんが短い木の棒を投げ捨て、大きな手を差し出す。

シルヴィアさんはその手を掴み、軽やかに立ち上がった。 服の汚れを払いながら、小さく肩をすくめる。


俺は横にいるラキを見た。 こいつも言葉を失い、食い入るように二人の戦いを見つめていた。

あの模擬戦は、ただの棒遊びではない。

生身の格闘術は、機体の操縦技術そのものだ。


俺たちの乗る機体の腕の動きは、コクピットの左右にある操縦桿を押し引きする腕の動きに連動する。

機体の足の運びや姿勢制御は、コクピットの足元にある複雑なペダル操作がそのまま反映される。

生身の腕の振り、足の踏み込み、そして重心の移動。 その身体の使い方が、機体の挙動へ直結するのだ。

俺は自分の未熟さを、改めて思い知らされていた。


シルヴィアさんが土埃を払って立ち上がるのを見届けた後、クレティさんがゆっくりとこちらを振り向いた。

彼の分厚い胸板が、規則正しく上下している。 顔にはまだ余裕の笑みが張り付いていた。


「ハハハ。二人とも、見てたな」


クレティさんが太い指で、俺とラキを順番に指差す。


「わかってると思うが、自身の体の動かし方が機体の動かし方そのものだ。生身でできない動きは、機体でも絶対にできない」


俺は息を呑んだ。


「コクピットの左右にある操縦桿は、機体の腕だ。お前らが腕を振る軌道、手首を返す角度。それがそのまま装甲の拳に伝わる」


クレティさんは自分の両腕を軽く振って見せた。 空気を切る鈍い音が鳴る。


「足元にあるペダルは、機体の足だ。重心の移動、踏み込みの強さ、ステップの踏み方。一つでも狂えば、あの巨大な鉄の塊は簡単にバランスを崩して倒れる」


彼は一度言葉を区切り、ニヤリと口角を上げた。


「というわけで、次はお前らの番だ。二人まとめてかかってこい」


突然の指名だった。 俺は横にいるラキを見る。 こいつも顔をしかめ、忌々しそうに舌打ちをした。


「おやっさん、手加減なしやで。怪我しても知らんからな」


ラキが地面に転がっていた短い木の棒を二本拾い上げる。 シルヴィアさんが使っていたものだ。

こいつの機体は、両手に持つ二丁の銃器を主武装としている。

両手に短い棒を構えるその姿は、銃を構える姿勢そのものだった。


俺も近くの木箱に立てかけられていた、長めの木の棒を手に取る。

俺の機体の武器は、実体剣だ。 刀を両手で握るように、俺は長い木の棒を正眼に構えた。


「ハハハ。威勢がいいな。ヒカリ坊が前衛、ラキ坊が後衛。来い」


クレティさんは丸腰のまま、両手をだらりと下げて立つ。

一切の構えがない。 それが逆に、圧倒的な隙のなさを生み出していた。


太陽の熱が、頭上から容赦なく降り注ぐ。 俺はペダルを踏み込む感覚を足裏に意識した。 地面を蹴る。 土煙が舞い上がった。


一気に距離を詰める。 速い踏み込みだ。 両手の操縦桿を振り下ろすイメージで、木の棒を上段から叩きつける。 狙うはクレティさんの頭頂部だ。


空気が割れる。 だが、そこには誰もいなかった。


クレティさんの巨体が、ほんのわずかに左へスライドしていた。 俺の木の棒は空を切り、地面に激突して鈍い音を立てる。 衝撃で両手が痺れた。


「遅い」


耳元で低い声がした。 次の瞬間、俺の胸元に強烈な衝撃が走る。 クレティさんの膝蹴りだった。 息が完全に詰まった。 視界が真っ白になる。


俺の身体がくの字に折れ曲がり、後方へ吹き飛ばされた。

背中から固い土に叩きつけられる。 肺の中の空気が全て吐き出された。

咳き込むことすらできない。


「何してんねん」


背後でラキの怒鳴り声が聞こえた。 俺の頭上を越えて、ラキが突進していく。

右の短い棒が、クレティさんの顔面に向けて鋭く突き出される。 銃弾を撃ち込むような、直線的で鋭い突きだ。


クレティさんは顔を逸らさない。 飛んでくる右の突きに対して、自分の左手を軽く添える。 手首を返し、その軌道を外側へ流した。 ラキの体勢が前のめりに崩れる。


すかさず、ラキの左の棒が下から跳ね上がった。 クレティさんの顎を狙う。 だが、クレティさんの右手が上から無造作に振り下ろされた。


乾いた音が響く。 ラキの左手首が、クレティさんの分厚い手刀で正確に叩かれていた。 短い棒が手から滑り落ち、土の上に転がる。


「痛っ」


ラキが顔を歪め、後退しようとした。 遅かった。 クレティさんが一歩踏み込む。 その分厚い両手が、ラキの胸倉を鷲掴みにした。


そのままラキの身体が軽々と持ち上げられる。 「うわっ」という情けない声が漏れた。

クレティさんはラキを宙に浮かせたまま、俺の方へ向かって放り投げた。


空からラキが降ってくる。 俺は痛みで動けないまま、そいつの下敷きになった。

二人の骨がぶつかり合う鈍い音がする。

土煙が上がり、口の中にジャリジャリとした砂が入った。 鉄の匂いと、汗の匂いが混ざり合う。


「ハハハ。どうした。もう終わりか」


クレティさんの豪快な笑い声が、上から降ってきた。

俺はラキを突き飛ばし、這いつくばるようにして立ち上がる。 胸の奥が焼けるように痛い。


「うるさい。まだだ」


俺は地面に落ちていた長い木の棒を再び握りしめる。 足が震えていた。

隣でラキも、フラフラと立ち上がる。 こいつも短い棒を拾い集め、俺を睨みつけた。


「足引っ張るなや。次は俺が先に行く」


ラキが足元のペダルを踏み込むように、地面を強く蹴った。

今度は左右の棒を交互に突き出しながら、連続して攻撃を仕掛ける。 俺も遅れて飛び出した。 ラキの攻撃の隙間を縫うように、長い棒を横に薙ぎ払う。


二人がかりの波状攻撃だ。 だが、クレティさんの手足には一切触れることができない。


右へ避ける。 左へ流す。 手首を叩く。 足を払う。


クレティさんの動きには、無駄が一つもなかった。

俺たちが振るう木の棒を、まるで羽虫を追い払うかのように軽くあしらっていく。 俺の棒が弾かれ、ラキの棒が弾かれる。


視界の端ではシルヴィアさんが、壁に寄りかかってこちらの様子を楽しそうに眺めている。

その隣では、ユミィがタブレットを片手に、俺たちの動きを真剣な顔で記録していた。


瞬間、俺の足首がすくわれた。 視界が反転する。 またしても、背中から強かに地面へ叩きつけられた。


すぐ横で、ラキも腹を抱えてうずくまっていた。 二人揃って、泥だらけの無様な姿だ。


「ハハハ。機体の性能以前の問題だな。これじゃあ実戦に出ても、一瞬で鉄屑になるだけだぞ」


クレティさんが腰に手を当て、太陽を背にして俺たちを見下ろしていた。

息一つ乱れていない。 全身の筋肉が軋み、起き上がることもままならない。

圧倒的な力の差だった。 俺は乾いた土を握りしめ、自分自身の無力さを全身で噛み締めていた。


あの凄惨な生身の組み手の後、休む間もなくシミュレーターに押し込まれた。

狭く薄暗い球体のコクピットの中。 焦げたような機械の匂いが鼻をつく。 俺は左右の操縦桿をきつく握りしめた。


正面のメインモニターに荒野が広がる。 隣にはラキの青い機体が立っていた。 足元のペダルに力を込める。 機体が前傾姿勢をとった。


前方に巨大な緑の装甲が現れる。 クレティさんの乗るウィリディチだ。

俺は右足のペダルを深く踏み込んだ。 機体が右斜め前へ鋭く踏み出す。

同時に右の操縦桿を前へ押し出す。 機体の右腕が連動して動き、実体剣を振りかぶる。


だが、緑の巨体はすでにそこにいなかった。 視界の端で真鍮色の槍が閃く。

左のペダルを蹴り、左の操縦桿を引いて盾を構えようとした。

その直前に、強烈な衝撃がコクピット全体を揺らした。


耳をつんざくような警告音が鳴り響く。 赤い光が狭い室内を激しく点滅して照らした。

俺の機体はバランスを崩し、地面に倒れ込む。 モニターがプツリと暗転した。 またしても完全な敗北だった。

隣のポッドからも、ラキが舌打ちをしながら壁を蹴る鈍い音が聞こえてきた。


ーーーーーーーーーーーーー


日が完全に落ちた頃、俺たちは基地の小さな会議室に集められていた。

天井の蛍光灯が、規則的な低い羽音を立てている。

空気は冷たく、コンクリートの壁から冷気が伝わってくる。

俺は冷たいパイプ椅子に深く腰掛け、重い頭を両手で支えていた。


全身の筋肉が熱を持ち、悲鳴を上げている。

生身の組み手とシミュレーターでの連続した敗北。 肉体も精神も限界に近かった。


右隣の席で、ラキが机に突っ伏している。

こいつの顔にも青ざめた疲労の色が濃く出ていた。 口数すら極端に減っている。


「二人とも、ちゃんと聞いてる?」


部屋の前方から、ユミィ、いやユミィ先生の明るい声が飛んできた。

彼女はホワイトボードの前に立ち、手にしたタブレットを操作している。

背後の白い壁に、複雑な機械の図面が投影された。


「皆が乗っている機体には、正式な名前があるの。ソルダールフレームという総称よ」


ユミィの目がキラキラと輝いている。

彼女は本当にメカが好きなのだろう。 実直な口調の中に、隠しきれない熱がこもっていた。


ソルダールフレーム。 俺はその響きを頭の中で反芻してみた。

だが、メンバーの中でその名前を口にする者は誰もいない。

クレティさんもシルヴィアさんも、単に機体とかマシンとしか呼んでいなかった。 長いし、少し仰々しいからかもしれない。


ユミィがタブレットをスライドさせる。 投影された図面が切り替わった。 機体の胸部にあたる位置に、奇妙な形の装置が描かれている。


「これがソルダールフレームの心臓部。ツァイトモーターよ」


俺は重い瞼をこすり、その図形を見つめた。

ガラスの管のようなものが二つ、上下に連結されている。 真ん中が細くくびれたその形は、古い砂時計にそっくりだった。


「このモーターは、燃料で動くわけじゃないの」


ユミィがホワイトボードを指し棒で叩く。 カンという乾いた音がして、俺の意識が少しだけ引き戻された。


「時間を溜めるの。そして、溜めた分に比例して、機体を動かすことができる仕組みになっているわ」


時間を溜める。 俺はその言葉の意味を理解しようと、ぼんやりとした頭を働かせた。

砂時計の上の管に砂が溜まっていくように、見えない動力を蓄積していくということか。

そして下の管へ砂が落ちる間だけ、あの巨大な鉄の塊が動く。 つまり、無制限に戦い続けることはできないのだ。


「だから、戦闘中はツァイト残量に常に気を配らないといけないの。時間が尽きれば、ただの鉄の塊になっちゃうからね」


ユミィの説明はさらに熱を帯びていく。 ツァイトモーターの重力への干渉や、時間の蓄積方法についての詳細な話が始まった。

俺の、俺たちの頭はもう完全に限界を超えていた。 彼女の声が、遠くの波の音のように聞こえ始める。


視界がゆっくりとぼやけていく。 冷たい机の上に両腕を組み、俺はそこに額を押し付けた。

金属の冷たさが心地いい。 隣からは、ラキの規則的な寝息がすでに聞こえ始めていた。 こいつ、完全に寝落ちしている。


「ツァイトモーターの材質は特殊な水晶でできていて、それが時間と…」


ユミィの言葉が途切れた。 パタパタという軽い足音が近づいてくる。 俺はなんとか顔を上げ、細い目を開けた。


ユミィが俺たちの目の前に立っていた。 呆れたような、それでいて少し優しい顔をしている。


「もう。二人とも」


彼女は小さなため息をつき、手にしたタブレットの電源を落とした。 壁に投影されていた図面が消え、部屋が少し暗くなる。


「仕方ないわね。今日の座学は基礎の基礎だけにしましょう」


ユミィはホワイトボードの前に戻り、マーカーを置いた。


「ヒカリもラキも、今日はもう休んでいいわよ。明日も早いからね」


俺は無言で頷き、ふらつく足で立ち上がった。 横で眠るラキの肩を強めに揺さぶって起こす。


「おい、終わったぞ」


こいつは不機嫌そうに顔をしかめ、忌々しそうに口を開いた。


「うるさいな。おやっさんのしごきで全身痛いねん。もう寝させろや」


ラキは文句を言いながらも、重い足取りで立ち上がった。 俺たちはユミィに軽く一礼をして、這うようにして部屋の出口へ向かった。


時間を溜める砂時計の心臓。 その奇妙な機構の形だけが、俺の疲れた頭の片隅に焼き付いていた。


-----------------


あの座学の夜から数日が経った。 俺の体は相変わらず、毎日の猛特訓によって悲鳴を上げ続けていた。

朝一番の走り込みは、もはや生活の一部になっている。 冷たい朝の空気を肺いっぱいに吸い込み、固い地面を蹴る。

右隣にはいつも、不機嫌そうな顔をしたラキが並んで走っていた。


俺たちは毎日のように張り合い、互いの歩幅を意識しながら泥だらけになって走った。

シルヴィアさんはその前を、まるで風のように軽い足取りで進んでいく。 彼女の足元からは土煙すらほとんど上がらない。

あの信じられないような身軽さを少しでも盗もうと、俺は走りながら彼女の腰の動きや足の着地をじっと観察していた。

しかし、その真似をしようとするたびにバランスを崩し、ラキに笑われるのがいつものパターンだった。


走り込みが終われば、今度はクレティさんによる容赦のない組み手が待っている。

素手のクレティさんに対して、俺とラキは木の棒を抱えて何度も突撃した。

だが、結果はいつも同じだった。

何度挑んでも、俺たちは泥と埃にまみれて地面に転がることになる。

投げ飛ばされた背中の痛みや、手首を叩かれた時の痺れが、今も皮膚の奥に鈍い痛みとして残っている。


シミュレーターでの特訓も過酷を極めた。

狭いコクピットの中で、左右の操縦桿を限界まで引き絞り、足元のペダルを狂ったように踏み鳴らす。

それでも、モニターの向こうで踊る緑の巨体、ウィリディチの槍を捉えることはできなかった。

警告音が鼓膜を震わせ、目の前が真っ赤に染まるたびに、俺は自分の無力さを突きつけられた。

格納庫からは、毎晩のようにユミィがパーツを組み上げる金属音が響いていた。

彼女はウィリディチの緑色の外装を一枚ずつ丁寧に磨き上げ組み上げていく。その様子を、俺は特訓の合間に遠くから眺めていた。


そんなある日の午後、いつものように走り込みを終えた時のことだった。

俺とラキが汗を拭いながら格納庫の前にへたり込んでいると、建物の奥からクレティさんの地響きのような大声が響いてきた。


「おーい、全員集合だー。」


クレティさんが巨大な体を揺らしながら、格納庫の入り口に姿を現した。

その手には、いつも持っているダンベルではなく、1枚の紙が握られている。

彼の呼びかけに応じて、作業台の下から顔を汚したユミィが這い出てきた。

さらに、日陰で涼んでいたシルヴィアさんも、軽やかな足取りでこちらに歩いてくる。


「何や、おやっさん。改まって全員集合なんて」


ラキが額の汗を手の甲で拭いながら、気だるそうに立ち上がった。

俺も重い腰を上げ、クレティさんの前へと歩み寄る。

全身の筋肉が軋むような感覚があったが、クレティさんの真剣な眼差しを見て、自然と背筋が伸びた。


「ハハハ。そんなに警戒するな、ラキ坊。悪い話じゃない」


クレティさんは手にした紙を見せた。 そこには細かな文字と、何かの紋章のようなものが印刷されている。


「近場でちょっとした仕事が入った。実戦の依頼だ。いい稼ぎになる」


仕事、という言葉に俺の心臓がどきりと跳ね上がった。

ついに、この基地の外に出て本物の戦いに臨む時が来たのだろうか。 俺は思わず一歩前に踏み出し、クレティさんの顔を見上げた。


「仕事って、俺たちも行くのか」


「当然だ、ヒカリ坊。お前も連れていく。いつまでもこの狭い艦内で、木の棒を振り回しているわけにもいかねえからな」


クレティさんはそう言って、俺の肩を大きな手で強く叩いた。

その衝撃で体が少し沈む。 痛かったが、不思議と嫌な気分ではなかった。


「マシンの整備は完璧よ。ツァイトモーターの調整も充電もバッチリ終わっているから、いつでも動かせるわ」


ユミィが胸を張り、自信たっぷりに言った。 彼女の鼻の頭には、黒いグリスが少しだけ残っている。

その実直な笑顔を見ると、言葉にできない安心感が湧いてきた。


「あら、久しぶりの遠出ね。少しは体が鈍っているから、ちょうどいい運動になりそうだわ」


シルヴィアさんが腰に手を当て、楽しそうに微笑む。 彼女にとっては、これから行く戦いも日常の延長に過ぎないようだった。


「よし、そうと決まればまずは手続きだ。街のギルドへ向かうぞ。全員、支度をしな」


クレティさんの号令とともに、俺たちは各自の準備を始めた。

と言っても、俺が持つものはそれほど多くない。

いつもの羽織りを着て、靴の紐をきつく締め直すだけだ。

ラキは襟を立て、ニヒルな笑みを浮かべながらすでに歩く準備を終えていた。


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