8話:Fist to Glass 〜拳の咆哮、満たされる杯 〜
私はユミィ。 ユミィ・ディアル。
いずれ世界一のメカニックになる女だ。
右手に握った愛用のスパナから、ひんやりとした鉄の温度が伝わってくる。
鼻をかすめるのは、甘ったるいグリスと焦げたオイルの匂いだ。
ここは私たちの移動拠点、愛艦チュラクシスである。
今、私はひどく困惑している。
目の前の巨大な搬入ゲートは、分厚い装甲板で完全に塞がれている。
外の砂漠の熱風を入れないため、チュラクシスは現在とても厳重に戸締まりされている状態だ。 どこから見ても完璧な密室である。
だが、私が頭を抱えている理由は、この息苦しい閉塞感のせいではない。
視線を少しだけ右へずらす。 そこには、泥と砂にまみれたギエルレウが静かに立ち尽くしている。
ついさっき、ラキがトラックに載せて持ち帰ってきたばかりの機体だ。
装甲の汚れやへこみは、戦闘の勲章だろうからギリギリ許そう。
問題は、機体の両腕だ。 私が設計図を引き、手作業でミリ単位の調整を施した特製のマシンガン。
それが二丁とも、影も形もないのだ。 グリップの破片すら残っていない。
あのバカ、どこかの荒野に見事に捨ててきやがったのか。
腹の底からマグマのような怒りがふつふつと湧き上がってくる。
今すぐこの右手のスパナを、ラキの後頭部めがけて全力でフルスイングしてやりたい。
だが、私がこれほどまでに困惑している最大の理由は、その武器紛失事件ですらない。
格納庫の中央へ視線を向ける。 そこだけ、周囲の温度が急激に下がっているように感じられた。
「おい、さっきから何なんやその目は」
ラキが、低くドスの効いた声で唸った。 任務帰りの汗で髪を額に張り付かせ、不機嫌そうに顔を歪めている。
その真っ直ぐな視線の先には、一人の人物が立っていた。 ヒカリだ。
つい先日、私が保護したばかりの人間だ。 自分の名前以外の記憶をすべて失っている。
ここがどこなのか、自分が何者なのかすら分かっていないはずだ。 普通なら、不安で震えていてもおかしくない。
それなのに、ヒカリの瞳には微塵の恐怖もなかった。 冷たく透き通った赤いガラス玉のような目で、ラキを真っ直ぐに見据えている。
だが、明確で鋭利な敵意がたっぷりと込められている。
意味が分からない。 ラキは今、任務から帰ってきたばかりだ。
ヒカリは目を覚ましたばかりの記憶喪失。
二人は今日、たった今、ここで初めて顔を合わせたのだ。 過去の因縁も、恨みを買うような時間も存在しない。
それなのに、二人の視線が交差する空間だけ、見えない火花がバチバチと散っている。
空気がビリビリと静電気を帯びているように肌を刺す。 互いに一歩も引く気配がない。
私は油で汚れた指先で、自分の前髪をガシガシと乱暴に掻き回した。
メカの不具合なら、どこが悪いのかすぐに原因を見つけ出せる。 ネジの緩みも、配線のショートも、私の目と手で確実に直せる。
でも、目の前で起きているこの人間のバグだけは、どうにも直せそうにない。
どうして記憶もない人間と初対面の人間同士が、親の仇みたいに激しく睨み合っているのか。
誰か私に、論理的で納得のいく説明をしてほしい。
ーーーーーーーーーーーー
薄暗い格納庫の中に、ピリピリとした重たい空気が満ちている。
ラキの履いている分厚いブーツが、鉄の床をガリッと強く擦った。 苛立ちを隠そうともしない、荒々しい足音だ。
ラキの全身からは、戦闘を終えたばかりの熱気と、焦げたオイルのきつい匂いが立ち昇っている。
その熱気に当てられても、ヒカリは全く動じない。 ただ静かに冷たい瞳で真っ直ぐにラキを睨みつけている。
「ユミィ、こいつ何なんや」
ラキが低い声で唸るように言った。 声に明らかな敵意が混じっている。
私は右手に持っていた重たいスパナを、わざと大きな音を立てて近くの作業台へ置いた。
ガツンという硬い金属音が格納庫に響き渡り、二人の視線がわずかに揺れる。
とりあえず、これ以上火花を散らされる前に状況を整理しなければならない。
「二人とも、ちょっとお黙んなさい」
私はわざと大きな声を出して、二人の間に割って入った。 ラキの鋭い視線が、ヒカリから私へと移動する。
「ラキがいない間に、私がヒカリを拾ってきたのよ」
私はポケットから汚れた布切れを取り出し、指先の黒い油汚れをゴシゴシと拭き取った。
「ヒカリは記憶がないの。自分の名前以外のことは、本当に何一つ覚えていないのよ」
ラキの眉間にある深いシワが、さらにギュッと険しく寄った。
信じられないという顔で、再びヒカリをジロリと見る。
「記憶がないやと」
ラキは鼻で短く息を吐いた。 疑いの眼差しが、ヒカリの頭の先から足元までを値踏みするように舐め回す。
「記憶がないくせに、初対面でいきなり噛み付いてくるんか」
ラキの言葉に対して、ヒカリは一切の表情を変えない。
ただじっと、無機質な視線でラキを見つめ返しているだけだ。
言葉の意味を理解しているのかどうかも、その顔からは全く読み取れない。
ラキは乱暴な手つきで自分の後頭部をガシガシと掻き回した。 髪の毛からパラパラと細かい砂が落ち、鉄の床に当たる小さな音が聞こえる。
ラキは深く大きなため息を吐き出し、天井の薄暗い照明を仰ぎ見た。
「こんなん拾ってきて、おやっさんとシルヴィアさんがなんていうか」
呆れ果てたようなラキの声が、広い格納庫に空しく響いた。
格納庫の換気ファンが回る低い唸り音だけが、気まずい沈黙の間に流れ込んできた。
「逆にね。あの二人が、なんて言うと思うの」
私は両手を腰に当て、少しだけ首を傾げてラキの顔を見上げた。
ラキは渋い顔をしたまま、視線を斜め上へと逸らす。
格納庫の天井にある太い配管を、しばらく無言で睨みつけていた。 やがて、ラキの口から深い大きなため息が漏れる。
「どうせ、何も言わんのやろな」
ラキは諦めたように肩を落とした。
「あの豪放磊落なおやっさんも、いつも優しいシルヴィアさんも、こんな得体の知れんやつでも追い出せとは言わんはずや」
ラキのブーツのつま先が、苛立たしげに鉄の床をコツンと叩く。 硬い音が、広い格納庫の中に空しく響いた。
「ましてや、ユミィの命の恩人やって言うんやからな。二人が反対する理由なんかどこにもないわ」
吐き捨てるように言いながらも、ラキの言葉には不思議と納得の響きが混じっていた。
おやっさんと、シルヴィアさんの性格を、ラキもよく分かっているのだ。
困っている人間を絶対に見捨てない、底抜けにお人好しな人たちである。
ラキがこれ以上ヒカリを追い出そうと食い下がることはないと分かり、私は少しだけホッと息をついた。 張り詰めていた肩の力を抜き、改めて格納庫の中を見渡す。
私の視線の先には、二機の巨体が静かに並んでいた。
一つは、ラキが乗ってきたばかりのギエルレウ。
あちこちの装甲が汚れ、私が丹精込めて作ったマシンガン二丁を失った、射撃戦特化の機体だ。
そしてもう一つは、真っ黒な機体。
私が外でヒカリと一緒に見つけて持ち帰ってきた、近接戦闘に特化したルベルジンである。
滑らかな漆黒の装甲が、格納庫の薄暗い照明を反射して妖しく光っている。
遠距離からの精密な射撃を得意とするギエルレウ。 敵の懐へ素早く飛び込み、近接攻撃で圧倒するルベルジン。
この二つの機体が連携すれば、どんな敵が相手でも完璧な陣形が組める。
前衛と後衛で互いの弱点を補い合う、最高のコンビになると思った。
私はこのルベルジンを見た時、ラキのギエルレウと肩を並べて戦う姿を密かに想像していたのだ。
ヒカリが記憶を取り戻し、ルベルジンの操縦席に座る日が来れば。 ラキと二人で、部隊を引っ張る無敵のチームになってくれるかもしれない。
そんな私の淡い期待は、バチバチと火花を散らして睨み合う二人を見た瞬間に完全に吹き飛んでしまった。
二人の間に流れる空気は、相変わらずヒリヒリと肌を刺すように冷たいままだ。 オイルの匂いが漂う格納庫の空気が、そこだけ凍りついているように感じる。
私は再び重たいスパナを手に取り、油にまみれた手で自分の額をパシリと叩いた。
この正反対の二人と二機が、息を合わせて戦う日なんて永遠に来ない。 一瞬でもそんな夢を見てしまった自分が、底抜けのバカだったと痛感するしかなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私は肺の奥まで格納庫の空気を吸い込んだ。
焦げたオイルと、古い鉄の匂いが鼻腔を満たす。 ゆっくりと息を吐き出し、頭の中の熱を冷やした。
目の前でバチバチと火花を散らす二人を、これ以上放置するわけにはいかない。
まずは物理的に二人を引き離すのが一番だ。
「ヒカリ」
私は声をかけ、タラップの下に立つ漆黒の機体を指差した。
「あのルベルジン。いや、ルベルジンカミシモに乗ってちょうだい」
ヒカリが瞬きをして私を見る。
「外に停めてある私のトラックの荷台に、緑の機体パーツが積んであるの」
私は親指で、格納庫の外を指し示した。
「それをこの中へ運び込んで欲しいのよ」
ヒカリは小さく頷いた。 背後で、ラキが不満そうに舌打ちをする音が聞こえる。
「こいつにあの機体を触らせるんか」
ヒカリはラキを一瞥することもなく、真っ直ぐにルベルジンカミシモへと歩いていった。
機体の側面に設置された昇降ワイヤーを使い、身軽にコックピットへ滑り込む。
私は開いたままのハッチ越しに、その内部の動きをじっと観察した。
ヒカリの両手が、左右の操縦桿をしっかりと握りしめる。
指先がグリップのスイッチを弾いた。 低い駆動音とともに、ルベルジンカミシモの太い両腕がゆっくりと持ち上がる。
操縦桿の傾きに、機体の腕が完璧に連動していた。
次に、ルベルジンカミシモの足元が動く。ズシン、ズシンと、重たい金属の足音が格納庫に響き渡る。
足元操作のペダルを踏む力の加減だけで、あの巨体が滑らかに前へと歩き出した。
記憶がないはずなのに、機体の動かし方は完全に体に染み付いている。 私はその無駄のない操縦に少しだけ感心しながら、搬入口へ向かう黒い背中を見送った。
さて、これで邪魔者は消えた。 私はゆっくりと首を回し、振り返る。
ラキが気まずそうに視線を泳がせていた。
私の横には、ラキが乗ってきたギエルレウが泥だらけで立っている。
そして、その両腕はすっきりと空っぽだ。
右手に握った愛用のスパナに、自然と力が入る。 ひんやりとした硬い鉄の感触が、手のひらに食い込んだ。
「ラキ」
私の低い声に、ラキの肩がビクッと跳ねる。
「私が仕上げた、あの可愛いマシンガン二丁」
私はブーツの底で鉄の床を鳴らし、一歩だけラキに近づいた。
「あれはどこかの砂漠に落としてきたの。それとも、跡形もなく壊してきたの」
ラキは気まずそうに唇を噛み、私の目を避けようとする。
今すぐこの右手のスパナを、目の前の頭頂部めがけて全力で振り下ろしてやりたい。
腕の筋肉がピクピクと痙攣し、限界まで殴打の衝動が高まる。
私は大きく息を吸い込み、奥歯を噛み締めて必死に怒りを飲み込んだ。
メカニックたるもの、まずは原因究明が先決だ。 感情に任せて機体のパイロットを破壊してしまっては、元も子もない。
「怒らないから、何があったのか全部話しなさい」
絶対に後で怒るに決まっている。
それでも今はスパナを握りしめたまま、ラキの口から出てくるであろう言い訳を聞いてやることにした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ユミィの指示通り、俺はルベルジンカミシモのコックピットに滑り込んだ。
左右の操縦桿を両手で軽く握り込む。 指先から伝わる硬いグリップの感触は手に馴染んだ。
両足のペダルへじわりと体重を乗せる。 ズシンと重たい金属音が足元から響き、機体がゆっくりと前へ歩き出した。
薄暗い格納庫の出口を抜ける。
外の強烈な日差しが、メインモニターを真っ白に染め上げた。
すぐに自動調光フィルターが働き、視界がクリアな色彩を取り戻す。
開いたままのハッチから、砂漠の焼け焦げるような熱風が流れ込んできた。
細かい砂の粒が頬を叩き、乾いた土の匂いが鼻の奥を突く。
俺は足元のペダルから力を抜き、機体をピタリと停止させた。
視線を上へと向ける。 砂漠の青空を切り取るように、巨大な鉄の塊が目の前にそびえ立っていた。
チームアヴェントゥラの愛艦。 チュラクシスという名前の戦艦だ。
全長はざっと見積もって百メートルから百五十メートルといったところだ。 ただの移動拠点ではない。 完全に戦闘を想定して設計された、生粋の兵器の形をしている。
装甲のベースカラーは、目を射るような純白だ。 そこに、漆黒のジョイント部分と、冷たく光るシルバーの装甲板が緻密な計算のもとに配置されている。
船体の先端部は、巨大な槍の穂先のように鋭く前方を睨みつけていた。 攻撃的なフォルムだ。
機体の中央には、巨大な円形構造が組み込まれている。
その円形パーツを挟み込むように、左右から鋭利な翼が伸びていた。
通常の航空機とは違い、翼の先端が斜め前方へと鋭く突き出した前進翼の形状をしている。
信じられないほどの旋回性能と機動力を、この巨体に与えているはずだ。
さらに視線を後方へずらす。 分厚い装甲に守られた船体の最後部には、巨大な推進ノズルがいくつも束ねられていた。
アイドリング状態なのか、ノズルの奥で青白い光が静かに瞬いている。
船体のあちこちには、死角を消すように小型の砲塔が等間隔で配置されていた。
どこから狙われても即座に迎撃できる、隙のない要塞だ。 美しいとすら感じる無駄のない構造に、俺はしばらくモニターから目を離せなかった。
自分の過去は何も分からないのに、機体の装甲の厚さや、火線の通り道だけは手に取るように理解できる。 俺の体には、戦いに関する知識だけが深く刻み込まれているらしい。
右足のペダルを軽く踏み込み、トラックの横へとルベルジンカミシモを歩かせる。
両手の操縦桿をゆっくりと内側へ倒し、少しだけ下へ押し込んだ。
機体の太い両腕が連動して動き、荷台の中の丁寧に並べられた緑色のパーツを器用に挟み込む。
そのまま操縦桿を手前に引き、パーツを胸の高さまで持ち上げた。
その時だった。
メインモニターの右端、はるか遠くの地平線に小さな動体反応を示す赤いマーカーが点滅した。
俺は操縦桿を固定したまま、モニターのカメラ倍率を一気に引き上げる。 陽炎で歪む砂漠の向こう側。 一直線に伸びる轍の先で、巨大な土煙が空高く舞い上がっていた。
何だあれは。
目を細めてモニターの映像を凝視する。 土煙の先頭を走っているのは、目の前にあるトラックと同じ型の中型トラックだった。
凄まじいスピードで砂を蹴り上げながら、このチュラクシスに向かって一直線に突っ込んでくる。
俺は左手で操縦桿のグリップを強く握り直し、いつでも機体を動かせるように足元のペダルへ深く体重を乗せた。
モニターのカメラ倍率を最大まで引き上げた。
砂煙の先頭を走るトラックの輪郭が、鮮明に画面へ映し出される。
異常だ。
尋常ではないスピードで、このチュラクシスへ一直線に向かってくる。
ブレーキをかける気配が全くない。
このままでは、あの白い巨体に激突する。
俺が目を覚ました、大切な新しい家だ。
壊させるわけにはいかない。
両手で握りしめた操縦桿のボタンを、親指で強く弾いた。
ガコンと鈍い金属音が響く。
機体の両腕で抱えていた緑色のパーツを、砂漠へ投げ捨てた。
両足のペダルを、床板が軋むほど強く踏み込む。
ズンと腹の底に響く駆動音が鳴った。
ルベルジンカミシモの巨体が前へ出る。
チュラクシスとトラックの間に、巨大な壁として割り込んだ。
左右の操縦桿を内側へ強く倒す。
機体の太い両腕が顔の前で交差し、分厚い盾の構えをとった。
手のひらに冷たい汗が滲む。
衝撃に備え、俺は奥歯を強く噛み締める。
だが、予想した破壊音は聞こえなかった。
俺の機体の数十メートル手前だった。
トラックの前輪が、不自然な角度で急激に曲がる。
巨体が真横に滑りながら、急ブレーキをかけた。
すさまじい摩擦音がコックピットの中まで響き渡る。
換気ファンから、焦げたゴムと乾いた砂の匂いが流れ込んできた。
分厚いタイヤが、砂漠の表面を深くえぐり取る。
壁のような巨大な茶色い砂の波が、こちらへ向かって押し寄せてくる。
視界が完全に砂粒に覆い尽くされた。
バラバラと装甲を激しく叩く音が鳴り響く。
砂埃のせいで、メインモニターが一時的に機能不全に陥った。
俺は舌打ちをして、センサーの回復を待つ。
数秒後、フィルターが作動して視界が少しだけ晴れた。
信じられない光景がモニターに映る。
トラックの運転席のドアが開き、一人の女が外へ飛び出していた。
地面には足をついていない。
重力を完全に無視したような身軽な動きだ。
ドアを蹴り、宙を舞う。
一瞬でトラックの荷台の上へと跳躍した。
無音で滑らかな、暗闇を生きる者のような動きだ。
次の瞬間、荷台の中から、太陽の光を反射する眩しい黄色い装甲が現れた。
ただの荷物じゃない。
人型の機体だ。
黄色い機体が、トラックの荷台を蹴って宙へ飛び上がる。
青い空を背景にして、その巨体が俺の頭上へ覆い被さってきた。
「何だあれは」
俺は口から思わず声を漏らした。
敵なのか。
右手の操縦桿を強く握り直す。
いつでも迎撃できるように、右足のペダルへじわりと体重を乗せた。
頭上から迫る巨大な影が、メインモニターを完全に覆い尽くした。
トラックの荷台から跳躍した黄色い機体が、俺のルベルジンカミシモへ向かって真っ直ぐに落下してくる。
太陽を背にしているせいで、機体の輪郭が黒く潰れて見えた。
ただの落下じゃない。
明確な殺意を持ってこちらを狙っている。
敵だ。
俺は反射的に、両手の操縦桿を強く握りしめた。
グリップの硬い感触が、分厚い手袋越しに手のひらへ食い込む。
両足のペダルにじわりと力を込めた。
機体の太い脚が、砂漠の砂をしっかりと踏みしめるのを感じる。
刀はないものの、迎撃の準備はできている。
黄色い機体の両腕が、空中で滑らかに動いた。
装甲の隙間から、冷たく光る金属の刃が引き抜かれる。
両刃の短剣だ。
それも二本。
両手に握られた鋭い刃先が、ギラギラと太陽の光を反射して俺の目を刺す。
二本の短剣の切っ先が、俺のコックピットを正確に狙いすましていた。
空気を切り裂く鋭い風切り音が、分厚い装甲越しにコックピットの中まで響いてくる。
速い。
俺は右足のペダルを床板まで一気に踏み込んだ。
ズンという重たい駆動音とともに、ルベルジンカミシモの巨体が右へ大きくスライドする。
同時に、両手の操縦桿を内側へ激しく倒し込んだ。
機体の太い腕が、顔の前で交差して分厚い盾を作る。
金属が激突する破壊音を覚悟した。
奥歯を強く噛み締め、全身の筋肉を硬直させる。
その瞬間だった。
コックピットのスピーカーから、鼓膜を破るようなノイズが鳴り響いた。
ザザッという耳障りな音に続いて、聞き覚えのある声が爆音で飛び込んでくる。
オープンチャンネルの緊急通信だ。
「シルビーさん!!ストーーップ!!」
ユミィの必死な叫び声だった。
「そいつは敵じゃないわ」
その声が響いた直後、眼前に迫っていた黄色い機体の動きがピタリと止まる。
殺意に満ちた二本の短剣は、俺のメインモニターのわずか数センチ手前で静止していた。
刃先から伝わる冷ややかな殺気が、コックピット越しに肌を刺す。
換気ファンから流れ込む砂の匂いが、やけに生々しく感じられた。
息が詰まるほどの静寂が、コックピットに降りてきた。
俺は足のペダルを踏み込んだまま、操縦桿を握る手の力を少しだけ緩める。
黄色い機体は、ルベルジンカミシモの太い腕の装甲に片足を引っ掛けていた。
重力すら自在に操っているかのような、異常なバランス感覚だ。
シルビー。
ユミィは確かにそう呼んだ。
この殺意の塊みたいなやつが、ユミィの仲間なのか。
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打っている。
俺はモニター越しの鋭い二本の短剣から、絶対に目を逸らさなかった。
眼前に迫っていた刃が、ふっと遠ざかった。
黄色い機体が、俺の機体の腕を足場にして軽く後ろへ跳躍した。
重力を全く感じさせない、しなやかで滑らかな動きだ。
空中で身を翻し、砂漠の乾いた地面にふわりと着地する。
俺は強く踏み込んでいた右足のペダルから、ゆっくりと力を抜いた。
ルベルジンカミシモの巨体が、わずかに前傾姿勢を解く。
両手の操縦桿のグリップも、少しだけ握りを緩めた。
盾のように交差させていた機体の太い両腕が、ゆっくりと下へ降りる。
メインモニターの向こうで、黄色い機体が動いた。
両手に握られていた鋭い短剣が、機体の手首の動きに合わせてクルリと反転する。
黄色い機体が両腕を腰の後ろへ回した。
背面の装甲の隙間に、二本の刃がカシャリと音を立てて吸い込まれていく。
完全に武器を収納したという明確な合図だ。
俺はまだ警戒を完全に解かず、ペダルの上に足を乗せたまま相手の動きを注視する。
コックピットの中は、俺の流した冷や汗と、換気ファンから入る砂の匂いが混ざり合っていた。
ザザッと、再びコックピットのスピーカーからノイズが鳴る。
今度はユミィの必死な声ではない。
オープンチャンネルを切り替えて、別の通信が入ってきた。
「ごめんなさいね。すっかり敵の襲撃だと思っちゃったわ」
ゆったりとした、落ち着きのある女性の声だった。
さっきまでの鋭い殺気とは全く結びつかない、飄々とした柔らかい口調だ。
緊迫した空気が残るコックピットに、場違いなほどの余裕が響き渡る。
「驚かせちゃったわね。怪我はないかしら」
親戚の子供にでも話しかけるような、気楽なトーンだ。
俺は少しだけ苛立ちを感じて、通信のスイッチを指で弾いた。
「怪我はない。あんたは誰だ」
俺は思ったことをそのまま、短く相手にぶつけた。
先ほどユミィがシルビーと呼んでいたが、俺にはどこの誰なのか全く分からない。
「あら、挨拶が遅れちゃったわね」
スピーカー越しの声は、俺の硬い声色にも全く動じない。
ふふっ、という楽しげな小さな笑い声すら聞こえてきた。
「私はシルヴィア。シルヴィア・スプリングよ。よろしくね」
シルヴィア。
俺はその名前を頭の中で反芻した。
「俺はヒカリだ」
俺も自分の名前だけを端的に返す。
それ以上の情報は、俺自身の頭の中にも存在しない。
自分の過去も、何故ここにいるのかも、全くの空白だ。
奇妙な自己紹介だった。
黄色い機体は、武装を解いたまま完全に動きを止めている。
モニターに映るその姿からは、先ほどの恐ろしいほどの殺意は完全に消え去っていた。
俺は小さく息を吐き出し、操縦桿から片手を離した。
額に浮かんだ冷たい汗を、乱暴に拭い取る。
コックピットを包み込んでいた息苦しい緊張感が、砂漠の熱風と一緒に少しずつ薄れていった。
ーーーーーーーーーーーーーー
両手に握った操縦桿のグリップに、じっとりと冷たい汗が滲んでいた。
俺は左右の操縦桿をゆっくりと手前へ引き、そのまま奥へ押し込む。 ルベルジンカミシモの太い両腕が連動して動き、抱えていた緑色の機体パーツを格納庫の隅へ降ろした。
ガコンという重たい金属音が、鉄の壁に反響する。 指定された場所にパーツを整理し終え、俺は右足のペダルから静かに体重を抜いた。
機体の巨体がピタリと動きを止め、完全に待機姿勢に入る。
コンソールパネルのスイッチをいくつか指で弾く。 腹の底に響いていた低い駆動音が止まり、コックピットの照明が少しだけ暗くなった。
頭上のハッチを開け、外の空気を深く吸い込む。 砂漠の乾いた熱気と、古い機械油の匂いが肺を満たした。 機体の側面に設置された昇降ワイヤーを掴み、俺は鉄の床へと滑り降りる。
振り返って格納庫の外を見る。 太陽の光が眩しく差し込む入り口で、砂煙を上げていたトラックがゆっくりと動き出していた。
荷台のコンテナには、すでにあの黄色い機体が綺麗に収納されている。 トラックは低いエンジン音を響かせながら、巨大なチュラクシスの搬入口をくぐり抜けた。
格納庫の奥にある駐車スペースに、トラックが静かに停まる。 エンジンが完全に沈黙し、広大な空間に静寂が戻ってきた。
ガチャリと運転席のドアが開く。 ひらりと身軽な動作で、一人の女性が鉄の床へ降り立った。
コツ、コツと、硬い靴音がこちらへ向かってくる。 俺は近づいてくるその女性をじっと見つめた。
通信越しに聞いた、あの飄々とした声の主だ。 薄暗い格納庫の中で、彼女の姿は異彩を放っていた。
目の前に立つ彼女、肩の辺りまでふわりと流れる髪は、眩しいほどの金色だ。
格納庫の無機質な照明を反射して、絹のように滑らかな光沢を放っている。 色白の肌に、吸い込まれるような大きく透き通った青い瞳。
目元には、大人の余裕を感じさせる柔らかな微笑みが浮かんでいた。 耳元で、紫色のひし形をした小さなピアスがキラリと光る。
彼女が歩み寄るたびに、甘く華やかな香水のような匂いが鼻をくすぐった。
鉄と油の匂いしかしないこの場所には、あまりにも不釣り合いな香りだ。
服装も、軍や傭兵のそれとは全く違っていた。 上半身には、ボディラインにぴったりと密着した白いタートルネックのセーターを着ている。
下半身は、足の細いラインに沿った青いデニムパンツだ。
先ほどまで、あんな殺意の塊のような機体を操り、俺のコックピットに二本の短剣を突き立てようとしていた人間だとは到底思えない。
緊張感の欠片もない、ただの美しい女性にしか見えなかった。
「ヒカリくん、だったわね」
彼女が俺の目の前で立ち止まり、ふわりと微笑んだ。 通信で聞いた通りの、ゆったりとした甘い声色だ。
「さっきはいきなり攻撃してごめんなさいね。驚いたでしょう」
彼女は申し訳なさそうに、右手を軽く頬に当てた。 その仕草すら、どこか計算されたように艶やかだ。
「あんたが、シルヴィアさんか」
俺は感情を交えず、率直に尋ねた。 シルヴィアさんは、ふふっと小さく笑って頷く。
「ええ、そうよ。遠くから見慣れない真っ黒な機体が見えたものだから」
彼女は俺の背後にあるルベルジンカミシモをちらりと見上げた。
「てっきり、大切なチュラクシスちゃんがどこかのならず者に攻撃されているのかと思っちゃったのよ」
悪びれる様子もなく、彼女はあっさりとそう言った。
格納庫の奥から、慌ただしい足音が近づいてくる。 硬いブーツの底が鉄の床を叩く、小走りの音だ。 俺はシルヴィアさんから視線を外し、足音のする方へ首を向けた。
油にまみれた作業着姿のユミィが、右手に巨大なスパナを握りしめたまま駆け寄ってくる。
そのすぐ後ろを、だらだらと歩く男がついてきていた。 さっき俺と一触即発になった、ラキという名前の男だ。 こいつは両手をポケットに突っ込み、ひどく面倒くさそうな顔をしている。
「シルビーさん、ごめんなさいっ」
ユミィが息を切らせながら、シルヴィアさんの前で深く頭を下げた。 ユミィの作業着から、焦げたオイルと鉄の匂いがふわりと漂ってくる。
シルヴィアさんの甘い香水の匂いと混ざり合い、鼻の奥がむず痒くなった。
「ラキにお説教してて、シルビーさんのトラックが帰ってきたのに全く気づかなかったのよ」
ユミィはスパナを持った手で、背後のラキをビシッと指差した。
どうやら俺が外で機体を動かしている間、格納庫の中では別の嵐が吹き荒れていたらしい。 こいつがユミィから激しく怒られている光景が、簡単に目に浮かんだ。
「あらあら、ユミィちゃんも大変ね」
シルヴィアさんは全く気にした様子もなく、口元に手を当てて優雅に微笑んだ。 本当にこの人は、何をしても余裕が崩れない。
「シルヴィアさん、こんなやつ切り刻んだったらええねん」
ラキが鼻で笑いながら、俺の方を顎でしゃくった。 相変わらず、俺に対する敵意を隠そうともしない。
俺は眉間にシワを寄せ、こいつを真っ直ぐに睨み返した。
さっきまで本当に、俺のコックピットの目の前に刃が迫っていたのだ。
ユミィの通信が少しでも遅れていたら、俺は間違いなくあの黄色い機体に串刺しにされていた。
「ふふっ、ラキくんたら物騒ね」
シルヴィアさんが、楽しそうに肩を揺らして笑った。
「でも、私のクナイじゃ、多分あの黒い装甲は切れないわよ」
彼女は俺の背後にあるルベルジンカミシモを見上げて、小首を傾げる。
「あれ、すごく硬そうだもの」
俺は大きくため息をつき、頭をガシガシと掻き回した。
そういう問題じゃない。
切れるか切れないかの話をしているんじゃない。
俺は口を開き、思ったことをそのままストレートにぶつけた。
「装甲の硬さの話じゃない。あんた、本気で俺を殺しに来ただろ」
俺の言葉に、ユミィが慌てて両手を振る。
「ちょっとヒカリ、シルビーさんは悪気があってやったんじゃないのよ」
ユミィのフォローを聞き流し、ラキが再び横から口を挟んだ。
「せやから、そのままザックリいってくれたら俺の手間が省けたんや」
こいつはニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべている。 俺は無言で一歩だけ、こいつの方へ足を踏み出した。
この男とは絶対に仲良くなれないと、俺の中の直感が激しく警鐘を鳴らしている。 俺の動きに合わせて、ラキもポケットから手を抜き出し、臨戦態勢をとった。
またしても、格納庫の空気がビリビリと張り詰める。 火花が散るような俺とこいつの視線の間で、シルヴィアさんがふわりと手を叩いた。
パンという軽快な音が響き、張り詰めた空気が一瞬で霧散する。
「まあまあ、二人とも元気ね」
シルヴィアさんは、まるでじゃれ合う子供を見るような目で俺たちを交互に見た。
殺伐とした空気なんて、この人には全く通じないらしい。 俺は完全に毒気を抜かれ、踏み出した足を元に戻すしかなかった。
俺はシルヴィアさんのさっきの言葉を頭の中で静かに反芻した。
クナイ。
あの黄色い機体が隠し持っていた、二本の手持ち武器の名前だ。 鋭く冷たい光を放っていた両刃の短剣。
あの独特の形状をした刃物を、クナイと呼ぶらしい。 記憶がすっぽりと抜け落ちている俺の頭の引き出しに、また一つ新しい知識が刻み込まれた。
自分の命を奪いかけた武器の名前だ。 忘れることはないだろう。
ーーーーーーーーーーー
ザガガッ。
考えを巡らせていた俺の耳に、耳障りな電子音が飛び込んできた。
格納庫の高い天井の四隅に設置された、巨大なスピーカーからの音だ。 船内のオープンチャンネルが開かれた合図だった。
直後、空気をビリビリと震わせるような巨大な声が頭上から降ってくる。
「おう、お前ら。今帰ったぞ」
腹の底から響き渡るような、ひどく豪放磊落なおっさんの声だった。
声の大きさだけで、その人物の並外れたエネルギーと自信がビシビシと伝わってくる。
スピーカーの音割れすら気にしない、豪快なトーンだ。
声と同時に、格納庫の壁面に設置された巨大なメインモニターの画面が切り替わった。
薄暗い待機画面から、外の強烈な日差しを捉えた外部カメラの映像に変わる。
見渡す限りの茶色い砂漠が映し出された。
その広大な砂の海のど真ん中を、凄まじい土煙を上げながら猛スピードでこちらへ向かってくる車がある。
トラックの太いタイヤが、砂漠の砂を激しく蹴り上げていた。
その豪快な声とモニターの映像に、俺を除く三人が即座に反応した。
ユミィが右手に握りしめていた重たいスパナを、近くの作業台へガチャンと置く。 油で汚れた顔をパッと明るく輝かせた。
「クレティさんだわっ」
弾むような嬉しそうな声が、広い格納庫に響き渡る。
俺に突っかかってきていたラキも、面倒くさそうに頭を掻きながらモニターを見上げた。
「おやっさん、やっと帰ってくれたんか」
相変わらずのニヒルな態度だが、こいつの声から先ほどの刺々しい敵意はすっかり消え去っている。 ラキの肩の力が、目に見えてスッと抜けていた。
シルヴィアさんも、透き通った青い瞳を細めてふわりと微笑む。
「クレティさん、お帰りなさい」
彼女は語尾を甘く伸ばし、余裕たっぷりの足取りでモニターの正面へと歩み寄った。
すれ違いざまに、甘く華やかな香水の匂いが俺の鼻先をふわりと掠めていく。
ユミィは、クレティさん。 シルヴィアさんも、クレティさん。 そして、この気に食わない男は、おやっさんと呼んだ。
俺は壁のモニターの中で土煙を上げるトラックを、無言のままじっと見つめた。
三人の態度と弾んだ声色を見れば、思うことは1つだ。 あの砂漠を爆走してくるトラックに乗っている人物こそが、この船の責任者なのだ。
そして、ラキの言葉を借りるなら、得体の知れない俺の処遇を最終的に決めるトップでもある。
俺は無意識のうちに、下ろしていた両手の拳を強く握り直していた。
新しい家になるかもしれないこの場所で、俺はこれからその男と向き合うことになる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
砂漠の熱風を引き連れたまま、巨大なトラックが格納庫の奥に停車した。
重たいエンジン音がプツリと途切れ、周囲に一瞬の静寂が降りる。
ガチャリと大きな金属音が響き、運転席の分厚いドアが開かれた。
中から一人の男が、鉄の床へ向かって飛び降りてくる。
ドスンという地響きのような着地音が、格納庫の壁に反響した。
ブーツの底から細かい砂埃が舞い上がる。
俺はトラックから降りてきたその男を、無言のままじっと観察した。
まず目を引くのは、その圧倒的な体格の良さだ。
肩幅は異常なほど広く、胸板は分厚い樽のように前へ張り出している。
身につけているのは、飾り気のない深緑色の襟付きポロシャツだ。
はち切れんばかりの筋肉が、シャツの生地を内側から限界まで押し上げている。
短い袖から伸びる両腕は、まるで丸太のように太く逞しい。
日焼けした肌の下に、鋼のような筋肉の隆起がはっきりと見て取れた。
力を込めるたびに、太い血管が腕の表面を網の目のように這い回る。
下半身には、動きやすそうな茶色いズボンを履いていた。
太い革のベルトが、分厚い胴回りをしっかりと締め付けている。
年齢は、間違いなく中高年と呼ばれる層に達しているはずだ。
頭髪は完全に真っ白で、無造作に後ろへと流されている。
少しうねりのある白い髪が、男が動くたびにばさりと揺れた。
顎には、同じく真っ白な髭が綺麗に生え揃っている。
目尻には深く刻まれた皺があり、彼が重ねてきた過酷な年輪を感じさせた。
だが、その顔に老いの気配や弱々しさは微塵もない。
口を大きく開け、格納庫の照明を反射する白い歯を見せて豪快に笑っている。
両手を大きく広げる仕草からは、底知れぬ活力と包容力が溢れ出していた。
この男がチームアヴェントゥラの中心なのだと、言葉を交わす前から本能で理解できる。
全身から発せられる熱量とオーラが、その辺の人間とは桁違いだった。
男は立ち止まり、格納庫の中をぐるりと見渡す。
その鋭い視線が、俺の背後にあるルベルジンカミシモでピタリと止まった。
「ハハハ。おいおい、なんだあの見慣れねえ真っ黒な機体は」
男の腹の底から響くような大声が、空気をビリビリと震わせる。
「ユミィ、お前がどっかの賭場でもすっからかんにして買ってきたのか」
冗談を飛ばしながら、男は大きな口を開けて愉快そうに笑った。
ユミィが手に持っていたスパナを作業台に置き、男の元へ駆け寄る。
「クレティさん、私がそんなことするわけないじゃないですか」
ユミィは少し呆れたような声を出してから、心配そうに男の顔を見上げた。
「それより、お怪我の方はもう大丈夫なんですか」
シルヴィアさんも、ユミィの隣へ歩み寄る。
「そうよクレティさん。あまり無理して動いちゃ駄目よ」
シルヴィアさんの声には、いつもの飄々とした余裕の中に確かな気遣いが混じっていた。
クレティと呼ばれた男は、自分の分厚い胸板を大きな手のひらでバンと叩く。
「おうシルヴィア、心配かけたな。もうすっかり元通りに回復したぜ」
彼は自慢の太い腕を曲げて、筋肉の力こぶを作って見せた。
その痛快な笑い声に、格納庫の張り詰めていた空気が一気に解れていく。
だが、一人だけ顔を上げられない人間がいた。
ラキだ。
こいつは先ほどまでの刺々しい態度を完全に消し去り、重い足取りでクレティさんの前へ進み出た。
深く頭を下げ、視線を自分のブーツのつま先に落としている。
「おやっさん。俺のせいで、あんたに怪我させてしもて」
こいつの声は低く、ひどく沈み込んでいた。
初対面の俺に容赦なく噛み付いてきた男とは、まるで別人のような態度だ。
こいつがどれほどこのクレティさんという男を慕い、尊敬しているかが痛いほど伝わってくる。
クレティさんはラキの前に立つと、その大きな右手を高く振り上げた。
そのまま、ラキの肩をバシッと力強く叩く。
「気にするなラキ坊。あんなもん、大穴狙いの賭けに負けたようなもんだ」
クレティさんは、こいつの抱える重たい罪悪感を笑い飛ばすように言い放った。
「生きて帰ってきたんだから俺の勝ちだ。ハハハ」
豪快な笑い声が、再び格納庫の天井に響き渡る。
ラキの肩を叩いていた大きな手が離れる。 クレティさんはゆっくりと振り返り、格納庫の入り口付近に立つ俺の方へ向き直った。
笑い皺の刻まれた目尻の奥で、鋭い光がギラリと光る。
歴戦の傭兵特有の、相手の力量を一瞬で測るような目つきだった。
「ところでユミィ」
クレティさんの太い指が、真っ直ぐに俺を指差す。
「あそこに突っ立ってる、白いメッシュ髪に白い羽織を着たにいちゃんは、うちのお客様か」
自分の外見を指摘され、俺は視線を自分の体へと落とした。
確かに俺は、風に揺れるような真っ白な羽織を羽織っている。
黒い髪の前方には白いメッシュが混ざっていた。
これも自分の趣味なのか、誰かに着せられたものなのか、全く記憶にない。
俺が自分の服を眺めている間に、ユミィがクレティさんの横へ歩み出た。
「ヒカリっていうの」
ユミィは俺の方を向き、誇らしげに胸を張る。
「外で私を助けてくれたのよ。でも、自分の名前以外の記憶が全部なくなってて」
ユミィはそこで一度言葉を切り、クレティさんの大きな背中を見上げた。
「どうかな、クレティさん。ヒカリにうちのメンバーに入ってもらうっていうのは」
ユミィの唐突な提案に、格納庫の空気が少しだけ動いた。 横で聞いていたラキが、信じられないという顔でユミィを睨みつける。
こいつは何か文句を言いたげに口を半分開いたが、クレティさんの前だからか、ギリギリのところで言葉を飲み込んだ。
シルヴィアさんは相変わらずふわりと微笑んだまま、静かに成り行きを見守っている。
クレティさんは太い腕を組み、真っ白な顎髭を大きな手でワシワシと撫でた。 高い天井を見上げ、そして、すぐに大きな口を開けて豪快に笑い飛ばした。
「ハハハ。ユミィを助けてくれたってんなら、我らの大恩人じゃねえか」
ズシン、ズシンと、重たい足音を立ててクレティさんがこちらへ歩いてくる。
目の前に立つと、その異常なほどの体格の良さがさらに際立った。
俺は見上げるような形になり、首を少し後ろへ反らす。 クレティさんの体からは、砂漠の乾いた土の匂いと、強い生命力を感じる汗の匂いがした。
「記憶が戻るまでは、ずっとうちにいてくれて構わねえぞ」
クレティさんはニカッと白い歯を見せて笑う。
その瞳には、疑いや警戒の色は一切なかった。
得体の知れない記憶喪失の人間を、こんなに簡単に受け入れていいのか。 俺の頭の中に小さな疑問が浮かぶ。 だが、この男が嘘をついているようには到底見えなかった。
「よろしくな、ヒカリ」
クレティさんが、丸太のように太い右手を俺の目の前へ差し出してきた。
分厚い手のひらには、無数の古傷と硬いマメが刻み込まれている。 これまで数え切れないほどの修羅場を潜り抜けてきた、戦士の手だ。
俺は差し出されたその大きな手と、男の屈託のない笑顔を交互に見た。 考えるよりも先に、俺の右手が自然と動いていた。
飾るような言葉は、俺の頭の中には見当たらない。 思ったことをそのまま口にするだけだ。
「あんたがここのトップか。俺はヒカリだ。世話になる…なります」
俺はクレティさんの大きな右手を強く握り返した。 硬くゴツゴツとした、確かな熱を持つ感触が手のひらに伝わってくる。
クレティさんは俺の握力を確かめるように、さらに強く手を握り返してきた。
「おう、いい面構えだ。ハハハ」
再び格納庫の天井を震わせるような、豪快な笑い声が響き渡る。
横目で見ると、ラキが忌々しそうに舌打ちをするのが聞こえた。
ユミィはホッと胸をなで下ろし、嬉しそうに笑っている。
自分が何者かも分からないまま。 俺はこのチュラクシスという巨大な船で、この騒がしい連中と一緒に過ごすことになった。
クレティさんの分厚い手から解放された俺は、軽く右手を振って血流を戻した。
ジンジンと痺れるような熱い痛みが、手のひら全体に残っている。
大きく息を吐き出すと、油と埃の匂いが混ざった作業着姿のユミィが俺の正面に立った。
「ええと、改めて自己紹介するわね」
ユミィは少しだけ姿勢を正し、コホンと小さく咳払いをした。
「私がこのチュラクシスのメカニック兼、艦長代理のユミィよ」
艦長代理。 その響きに、俺は少しだけ目を丸くした。 こんな若い少女が、この巨大な船を取り仕切っているのか。
「代理ってことは、本物がいるのか」
俺の率直な疑問に、ユミィは少しだけ困ったように眉を下げた。
「うん。でも、みんな機体に乗って出撃しちゃうから、私が留守番しながらやるしかないのよ」
ユミィはわざとらしく両手を広げ、小さななため息をついて見せた。
その横で、シルヴィアさんがふふっと楽しそうに笑う。 ラキはそっぽを向いて、首の後ろをボリボリと掻いていた。
ユミィは気を取り直すように、パンと両手を叩いた。 乾いた音が格納庫に響く。
「メンバーはさっきから見ての通りよ」
ユミィは順番に指をさしていく。
「こっちのうるさいのが、クレティさん」
「おう、ヒカリ坊。改めてよろしくな。ハハハ」
クレティさんが白い歯を見せて、再び豪快に笑った。
ヒカリ坊。 さっきと呼び方が変わっているが、この豪放磊落な男ならそんな些細なことは気にしないのだろう。 俺は短く頷き返した。
「こっちの綺麗な人が、シルビーさん」
「よろしくね、ヒカリくん」
シルヴィアさんは優雅に頭を下げた。
「で、そこの目つきが悪いのがラキ」
「なんやと。俺はいつでもこんな顔や」
ラキが忌々しそうに舌打ちをした。 俺はこいつをじっと見つめ、正直な感想を口にした。
「俺もユミィと同じ意見だ。こいつの目つきはひどく悪い」
「ああん? こいつ、喧嘩売ってんのか」
ラキが眉間にシワを寄せ、鋭い声で凄んでくる。 再び火花が散りそうになる空気を、ユミィが慌てて両手を振って遮った。
「ちょっと二人とも、やめてよね」
ユミィがため息をつき、俺の顔を真っ直ぐに見上げた。
「これでこの場にいるのは全員。でも、もう一人いるの」
「もう一人?」
「うん。放浪癖があって、滅多に船に帰ってこない人がいるのよ」
ユミィの声のトーンが、少しだけ落ち着いたものに変わった。
格納庫の奥を見つめる彼女の瞳には、強い信頼と尊敬の色が浮かんでいる。
「ふらふらしてて全然寄り付かないんだけど。でも、すごく頼りになる…と思う」
俺はその言葉の響きから、ユミィが心からその人物を慕っているのを感じ取った。
表情や声の震えから、それが単なる仲間以上の存在であることが痛いほど伝わってくる。
その人がこの船の本当のリーダーなのだろうか。 俺は何も言わず、ただ静かに頷いた。
しんみりとした空気を切り裂くように、大きな拍手の音が響いた。
パンッ、という破裂音が、鉄の壁に反響する。
クレティさんが、丸太のような両手を強く打ち合わせた音だった。
「よし、挨拶はこれで終わりだ」
クレティさんはニヤリと口角を上げ、ユミィを見下ろした。 その目には、大勝負の前のギャンブラーのような、悪戯っぽい光が宿っている。
「ところでユミィ」
クレティさんは太い親指で、俺の背後にあるルベルジンカミシモを指し示した。
「お前のことだ。あの黒い見慣れねえ機体のこと、ただ黙って見てるだけじゃねえだろ」
ユミィの肩が、ビクッと跳ねた。 図星を突かれた人間の反応だ。
「もうとっくにシミュレーターへ機体データを放り込んであるんじゃないのか」
クレティさんの言葉に、格納庫の空気が再びピリッと引き締まった。
ラキが鋭い視線を俺と黒い機体に向け、シルヴィアさんも興味深そうに目を細める。
ユミィは少しだけバツが悪そうにオイルで汚れた頬を掻き、そして、観念したように満面の笑みを浮かべた。
ユミィはオイルで汚れた顔をほころばせ、悪戯を見つけられた子供のように笑った。
「ばれちゃった。実はさっき、ヒカリの機体データをこっそり船のシミュレーターにコピーしておいたの」
ユミィのあっけらかんとした告白に、クレティさんはさらに大きな声で笑い声を上げた。 格納庫の太い鉄骨がビリビリと震えるほどの音量だ。
「ハハハ。さすがだ。仕事が早いじゃねえか」
クレティさんは満足そうに何度も頷き、それから俺の方へと鋭い視線を向けた。
猛獣が獲物を値踏みするような、ギラついた目だ。
「どうだヒカリ坊。お前の腕前と、その黒い機体の性能。俺のシミュレーターで一丁手合わせして試してみねえか」
突然の模擬戦の誘いだった。 俺は自分の両手を見つめる。 記憶はない。
だが、あの黒い機体に乗って戦った時の、体に染み付いた感覚だけは鮮明に残っていた。 断る理由はない。
「俺は構わない。あんたが相手をしてくれるなら、こっちの性能も確かめられる」
俺が即答すると、横にいたラキが鼻で短く笑った。
「こいつ、おやっさんに勝てる気でおるんか。シミュレーターやからって泣きべそかくなよ」
こいつの安い挑発を、俺は完全に無視した。 シルヴィアさんが、ふふっと楽しそうな声を出して手を叩く。
「なんだか面白そうね。私、見学させてもらおうかしら」
「おう、みんなで見に来い。ただしヒカリ坊、今回は実機じゃねえぞ」
クレティさんは太い指で、格納庫の奥にある区画を指差した。
「俺の本物の機体は、ちょっと前の仕事で派手にやらかしてな。今は絶賛修理中なんだ」
だからシミュレーターを使うのかと、俺は一人で納得した。 ユミィの案内で、俺たちは格納庫の奥にあるシミュレーションルームへと移動した。
部屋の中は、電子機器を冷却するための冷たい空調が効いていた。 オゾンと埃が混ざったような、無機質な匂いが鼻を突く。
部屋の中央には、巨大なコックピットポッドが二基、並んで設置されていた。
俺は指定された左側のポッドへ乗り込む。 ハッチが閉まると、外の音は完全に遮断された。
真っ暗な空間に、モニターの青白い光だけが浮かび上がる。
シートに深く腰を沈める。 革張りのシートが、俺の体をすっぽりと包み込んだ。
両手を伸ばし、左右の操縦桿のグリップをしっかりと握り込む。
硬い感触が、手のひらにピタリと馴染んだ。
両足は、床から斜めに突き出た金属製のペダルに乗せる。
ペダルの重みを足の裏で確かめるように、軽く踏み込んでみる。 油圧の確かな抵抗感が返ってきた。 シミュレーターとはいえ、実機と全く同じ感覚だ。
「ヒカリ、聞こえる?ルベルジンの機体データ、ロードするわよ」
通信機から、ユミィのクリアな声が響いた。 直後、目の前の視界を覆うモニターが眩く発光する。
光が収まると、そこは先ほどまで外で見ていたのと同じ、どこまでも続く茶色い砂漠だった。
熱気で空気が歪むエフェクトまで、完璧に再現されている。 俺は左右の操縦桿を軽く手前に引き、足元のペダルを踏んだ。
画面の中で、俺の乗る黒い機体が砂を蹴って前傾姿勢をとる。 足裏から伝わる仮想の振動が、腹の底を揺らした。
「ヒカリ坊、準備はいいか。俺の相棒だ」
クレティさんの豪快な声と共に、砂煙を切り裂いて巨大な影が姿を現した。
「クレティさんの機体。名前はウィリディチっていうの」
ユミィの補足説明を聞きながら、俺はその姿をモニター越しにじっと観察した。
無骨。
その一言に尽きる機体だった。 俺の乗るスマートな赤いルベルジンとは対極にある、凄まじい重装甲だ。
機体の基本カラーは、鮮やかな緑色をしている。
砂漠の風景の中で、あえて迷彩効果を捨てているかのような威圧感があった。
分厚い肩の装甲と太ももの外側には、白いペイントが大きく施されている。
各パーツの縁取りや関節部には、くすんだニビ色の装飾が鈍く光っていた。
全体的に岩の塊を繋ぎ合わせたようなゴツゴツとしたシルエットだ。
胸部の装甲は異常なほど分厚く、どんな砲弾も弾き返しそうに見える。
頭部には、角のように鋭く突き出たアンテナが二本備わっていた。
メインカメラのバイザーの奥で、冷たい青色の光が鋭く光っている。
そして何より目を引くのは、その右手に握られた巨大な武器だった。
機体の全長を優に超える長さの、長大な槍だ。
その先端には、通常の鋭い刃ではなく、巨大な真鍮色のドリルが取り付けられていた。
螺旋状の溝が刻まれた重たい穂先が、仮想の太陽の光を反射してギラギラと輝いている。
あれで突進されたら、装甲ごと粉々に粉砕される。 本能がそう告げていた。 俺はグリップを握る手に力を込め、冷たい汗を一つ流した。
ーーーーーーーーーーーーー
モニター越しに見上げる緑色の巨体。
ウィリディチ。
その無骨な姿をじっと見つめていると、俺の中に一つの疑問が浮かび上がった。 この機体の設計コンセプトは、俺のルベルジンカミシモとかなり近いのではないか。
極端に分厚い装甲。 機体そのものの圧倒的な突進力で距離を詰める戦法。
そして、敵を粉砕するための巨大な一撃用の武器。
戦い方の根本的な思想が、俺の乗る黒い機体とそっくりなのだ。 色が違い、武器の形が違うだけだ。
親近感のような、あるいは同族嫌悪のような。 不思議な感覚が腹の底に湧き上がる。
俺は足元のペダルに、少しだけ力を込めた。 油圧の確かな反発が足の裏に伝わる。
いつでもブーストを吹かせるように、ふくらはぎの筋肉をピンと張る。
両手は操縦桿のグリップをしっかりと握り込んだ。 手汗で滑らないように、操縦桿の感触を確かめる。
「両機とも、準備はいいわね」
密閉された空間のスピーカーから、ユミィの明るい声が響く。
「はじめっ」
開戦の合図だ。 俺は右足のペダルを強く踏み込んだ。
黒い機体が仮想の砂を蹴る。 大きく横へスライドする。
正面のウィリディチも動いた。 鈍重そうな見た目を完全に裏切る速度だ。
重装甲が信じられない軽やかさでステップを踏む。 クレティさんが足元の操作を完璧に行っている証拠だ。
緑の右腕が大きく跳ね上がった。 巨大な槍が回る。 空気を叩き割るような豪音が響く。
長大な柄を軸にして、重たい武器が空中で円を描いた。 クレティさんの操縦桿の捌きだ。
あんなにも重いドリル槍を、まるで指揮棒のように美しく回転させている。
遠心力を完全に制御しきった、圧倒的な技量だった。
ピタリと動きが止まる。 真鍮色の巨大なドリルが、真っ直ぐに俺の機体を捉えた。
分厚い装甲が前傾姿勢をとる。 いつでも突進してくる恐ろしい構えだ。
俺は短く息を吐き出す。 両手のグリップをさらに強く握り込む。
左右の操縦桿を、同時に手前へと引き絞った。 機体の両腕が連動して動く。 背中にマウントされていた巨大な黒い大剣を、両手で引き抜いた。
そのまま右腕の操縦桿を前へ押し込む。 黒い機体が右腕を突き出す。 長く鋭い黒の切先を、ウィリディチのコクピットへ向けてピタリと止めた。
真鍮色のドリル。 黒い刃。 二つの巨大な武器が、熱風の吹く砂漠の真ん中で真っ向から向かい合う。
モニターの中で砂埃が風に流れていく。 俺は瞬きを忘れ、緑の巨体の次の動きを待った。
緑の巨体が動いたっ。 ウィリディチが爆発的な推進力で仮想の砂を蹴り上げる。
分厚い装甲が、信じられない速度で俺の視界に迫ってきた。
俺は両足のペダルを床の奥底まで一気に踏み抜いた。 仮想のブースターが強烈に火を吹く。
腹の底から突き上げるような振動が、シートを通して背骨を激しく震わせた。
黒い機体が真っ直ぐに前へ飛び出す。 ルベルジンカミシモもまた、全速力で緑の巨体へと突進した。
モニター越しの景色が猛烈な勢いで後ろへ流れていく。
密閉されたコックピットに、冷却ファンの無機質な音が響く。
二つの巨大な鉄の塊が、砂漠の真ん中で正面からぶつかり合う。
距離がゼロになるまで、あとコンマ数秒。 俺は右手の操縦桿を強く握り、大剣を振り上げる準備をした。
グリップに、手のひらの汗がじわりと滲む。
交差する。 そう思った直前だった。
俺の視界のど真ん中に、巨大な真鍮色が割り込んできた。
ウィリディチの長大な槍の先端だ。
螺旋状の溝が刻まれた重たい穂先。 それが、俺の機体の喉元であるコックピットブロックにピタリと狙いを定めていた。
信じられない踏み込みの速さだった。 俺が剣を振るよりも早く、あの巨大なドリルが俺の装甲を貫く。
頭で理解するよりも前に、脳が強烈な死の危険を告げていた。
驚く暇すらなかった。 俺の両手は、無意識のうちに操縦桿を動かしていた。
機体の両腕が、俺の手の動きに完璧に連動する。
構えていた白と黒の大剣を、咄嗟の判断で横に傾けた。
機体の胸元の前で、斜めの盾のように大剣の広い腹を配置する。
ガガガガッ。
鼓膜を破るような、凄まじい金属の激突音がコックピットに鳴り響いた。
シミュレーターのスピーカーから発せられた仮想の音響だ。 だが、シートから伝わる衝撃は本物としか思えなかった。
真鍮の穂先が、装甲を激しく削り取ろうとしていた。 オレンジ色の火花がモニターの画面いっぱいに散る。
俺は奥歯を強く噛み締めた。 口の中に、ほんのりと血の味が広がる。
両足のペダルを踏ん張り、機体の姿勢を必死に保つ。 操縦桿から伝わる強烈な反発力に、両腕の筋肉が悲鳴を上げた。
力任せに押し切られる。 そう直感した俺は、右足のペダルだけを少し緩めた。
同時に操縦桿を捻り、大剣の角度をさらに傾ける。 槍の理不尽な突進力を受け流す。 いなす。
ズギュン、という鈍い音が響いた。 槍の穂先が刀身の上を滑り、俺の機体の肩口のすぐ横をすり抜けていく。
強烈な一撃の軌道を、ほんの数センチだけ外へ逸らすことに成功した。
激しく弾かれたように、二つの機体が大きく交差する。仮想の砂地に機体の足を踏み込ませ、強引にブレーキをかける。
ズザーッと長い砂煙を上げながら、ルベルジンカミシモが停止した。
背後でも、同じように砂を削る重たい音が聞こえた。 俺はすぐさま操縦桿を操作し、機体を振り返らせる。
足元のペダルで機体の重心を調整する。
少し離れた場所で、緑の重装甲が再びこちらへ向き直っていた。
「ハハハ、今のをよく防いだぜヒカリ坊」
通信機から、クレティさんの愉快そうな笑い声が聞こえてくる。
「大した反射神経だ。だが、ここからが本番だぞ」
俺は荒くなった呼吸を整えながら、再び両手でグリップを握り直した。 額から流れた冷たい汗が、顎を伝ってぽたりと落ちる。
コックピット内の冷たい空気を、深く肺へと吸い込んだ。
この男の強さは、本物だ。
「うっそ。ヒカリ、今の本気で捌いたの」
密閉されたコックピット内に、ユミィの驚きに満ちた声が響き渡った。
通信回線が開いたままになっているらしい。
格納庫で見学している三人の声がクリアに聞こえてくる。
「ふふっ。驚いたわね。クレティさんの初撃をあんなに綺麗にいなすなんて」
シルヴィアさんの楽しげな声が続く。 飄々とした余裕の中に、確かな感嘆の色が混じっていた。
「チッ。まぐれやろ。せやけど、おやっさんのアレを正面から捌きよったのは、たいしたもんやな」
ラキの声が最後に鼓膜を打った。 相変わらずの憎まれ口だが、こいつの言葉にも隠しきれない驚きが滲んでいる。
俺の腕前を認めたというよりは、俺があの一撃を生き延びた事実そのものが信じられないという口ぶりだ。
外野の三人は、今の攻防を見て同じような感想を抱いたらしい。
あの突撃を捌くなんて、なかなかやるじゃないか。 そんなニュアンスが、スピーカー越しの空気からヒシヒシと伝わってくる。
だが、当事者である俺の心境は全く違っていた。
額から流れ落ちる冷や汗が止まらない。
冷え切ったコックピットの空気を吸い込んでも、肺の奥の熱がちっとも引かなかった。
俺は目の前のモニターに映る緑色の巨体を、穴が開くほど強く睨みつけた。
完全に見誤っていた。 ウィリディチと、俺のルベルジンカミシモ。
確かに、分厚い装甲と巨大な武器で押し潰すという機体コンセプトは似通っている。 だからこそ、どこかで対応できると高を括っていた。
同じような動きをするなら、俺の反射神経でなんとかなるはずだと。
大きな間違いだった。 機体の設計思想が同じでも、それを動かす操縦者の技量が桁違いなのだ。
あの巨体であの速度を出すための、絶妙なペダルワーク。
あんなにも重くて長大なドリルの槍を、手足のように振り回す操縦桿の捌き。
そして何より、迷いのない踏み込みの鋭さ。
クレティという男の操縦技術は、俺なんかよりも圧倒的に上だった。
偶然だ。 さっき俺が死を免れたのは、本当に運が良かっただけだ。
咄嗟に操縦桿を捻って大剣を盾にした。 足元のペダルを緩めて力を逃がした。
無意識の反射神経が、たまたま最善の選択をしてくれたに過ぎない。
今回はなんとか捌けた。 首の皮一枚で繋がった。
だが、次も同じように上手くいく保証なんてどこにもない。
次こそは、あのドリルで装甲ごとコックピットを串刺しにされる。 本能が警鐘を鳴らし続けている。
両手のひらにべっとりと汗をかいていた。 俺は左右の操縦桿のグリップを一度強く握り、そしてパッと手を離す。
ズボンで手汗を乱暴に拭い取り、すぐさまグリップを握り直した。
足元の金属ペダルに、力を込め直す。
油圧の反発を足の裏で感じ取りながら、機体の重心を少しだけ前へと傾けた。
モニターの中の黒い機体が、白と黒の大剣を斜め前に構え直す。
油断すれば一瞬で終わる。 俺は息を細く長く吐き出し、精神の糸を限界まで張り詰めた。
緑の巨体が、再び低い姿勢をとった。
モニターの向こうで、ウィリディチが足元の砂を深く抉る。
穂先についた螺旋の刻まれた巨大なドリルが、またしてもゆっくりとこちらへ向けられた。
次の突撃が来る。
俺は両手の操縦桿を強く握り直した。
足元のペダルに、痛いほど力を込める。
だが、嫌な予感は全く消えなかった。
このまま防御に徹しても、ジリ貧になるだけだ。
いや、それどころか、次の一撃で完全に装甲をぶち抜かれる。
先ほどの攻防で、相手との技量の差は骨の髄まで理解した。
正面からやり合って勝てる相手ではない。
俺の視線が、コックピット内の暗い計器盤をさまよった。
今の俺は、ただのシミュレーターのポッドの中にいる。
実機に乗っているわけではない。
それでも、試してみる価値はあるはずだ。
俺は乾いた唇を舐めた。
喉の奥から、無意識のうちに一つの名前を絞り出していた。
「ルベルジン」
声に出して、機体のシステムへと語りかける。
密閉された冷たい空間に、俺の低い声が反響した。
ほんの少しの沈黙があった。
そして、コックピットのスピーカーから小さな電子音が鳴る。
「Yes」
それは、以前にも聞いたことのある声だった。
まるで内気な女性のような人工音声だ。
ユミィが用意したシミュレーターのデータ空間にまで、このシステムは再現されているらしい。
俺は少しだけ安堵の息を吐き出した。
モニターの中のウィリディチが、重心をさらに前へと傾ける。
猶予はない。
俺は自分の記憶の底から湧き上がってきた、一つの単語を口にした。
「10秒後だ。そこでアンクロスはいけるか」
言ってから、俺自身でも無茶な提案だと思った。
ここはあくまで仮想空間だ。
実機の特殊なシステムが、プログラム上で完璧に機能する保証なんてどこにもない。
それでも、頭の奥底で直感だけが確かな熱を持って告げている。
これならあの巨大な槍を破れる。
根拠のない自信が、俺の血流を熱く加速させた。
システムからの返答は、間髪を容れずに返ってきた。
「Totally」
内気な電子音声が、今度は少しだけ自信ありげに響いた。
もちろんです、完全に可能です。
そう言って微笑んでいるかのように聞こえた。
俺はニヤリと口角を上げた。
右足のペダルを軽く踏み込み、機体の姿勢をさらに低く保つ。
両手の操縦桿を手前に引き、大剣を再び体の正面に構え直した。
頭の中で、ゆっくりとカウントダウンを始める。
10、9、8。
仮想の砂漠の熱風が、モニターの中で激しく吹き荒れた。
緑の巨体が再び動いた。 モニターの中でウィリディチが低く沈み込む。 分厚い装甲が仮想の砂を深く抉り取った。
砂煙が爆発するように舞い上がる。 猛烈な勢いで緑色の塊が突進してくる。
地響きがシミュレーターの床を激しく揺らした。 足元のペダルから伝わる振動が、背骨を強く打つ。
カウントダウンは進んでいる。 俺の頭の中で数字が確実に減っていく。
7。 6。 俺は両足のペダルを強く踏み込んだ。
ルベルジンカミシモの推進器が火を吹く。 仮想の重力が俺の体をシートに深く押し付けた。
黒い機体が真正面からウィリディチへと向かっていく。
だが、全速力ではない。 俺は右足のペダルから少しだけ力を抜いた。
油圧の反発を足の裏で感じながら、機体の突進スピードを繊細にコントロールする。
狙いはただ一つだ。 システムが約束した十秒後。 そのほんの一秒か二秒前に、あの巨大な槍と接触する。
そんな絶妙な速度と距離を計算して、あえて自分からぶつかりにいく。
頭がおかしい作戦だ。 だが、今の俺にはこの得体の知れないシステムを信じるしかない。
操縦桿を握る両手に、じっとりと冷たい汗が滲む。 硬いグリップが滑りそうになる。
俺は指の関節が白くなるほど、さらに強くグリップを握り込んだ。 コックピット内に充満するオゾンの匂いを深く肺へ吸い込む。
5。 4。 緑の巨体が視界いっぱいに広がる。
異常なまでの踏み込みの速さだ。 空気を切り裂く風切り音が、スピーカーから轟音となって響き渡る。
俺は息を止めた。 冷房の効いた薄暗い空間の中で、俺の体だけが熱く燃え上がっている。 血の巡りが極限まで加速し、心臓の音が耳の奥でうるさく鳴っていた。
3。 2。 クレティさんが両手の操縦桿を動かした。 ウィリディチの太い右腕が真っ直ぐに前へ突き出される。
巨大なドリルが、正確にこちらへ向けられた。 螺旋の溝が仮想の太陽光をギラギラと反射する。
狙いは俺のコックピットだ。 寸分の狂いもなく、黒い機体の喉元を真っ向から射抜こうとしている。
回避する距離ではない。 大剣を盾にする時間も残されていない。
真鍮色の鋭い穂先が、モニターの画面を完全に埋め尽くした。 濃密な死の気配が全身の産毛を逆立てる。
ペダルを踏み込む両足が恐怖で震えそうになる。 俺は奥歯を砕けるほどの力で食いしばり、恐怖を気合いでねじ伏せた。
1。 巨大な槍の先端が、ルベルジンカミシモの漆黒の装甲に触れる。 金属がひしゃげる破滅の音が鳴り響く直前だった。
冷え切ったコックピットの中に、あの声が落ちた。
「Uncloth Kamishimo」
静かな電子音声。 それは死の突撃を前にして、あまりにも場違いで、そして絶対的な宣告だった。
ーーーーーーーーーーーー
手応えは確かにあったはずだ。
通信機から漏れ聞こえたクレティさんの短い息の音がそれを物語っていた。
勝利を確信した者の確実な踏み込みだった。 誰もが黒い機体の敗北を疑わなかった。
だが、真鍮色のドリルは虚空を穿った。
ガキィンという凄まじい衝撃音が鳴り響かない。 手応えが完全に消失する。
ウィリディチの真鍮色の穂先が突き刺さったのは、ただの空箱だった。
ルベルジンカミシモが纏っていた、黒く分厚い装甲パーツだけだ。
脱ぎ捨てられたカミシモパーツが砂漠に飛び散る。 中身はすでにそこにはいなかった。 黒い殻を破って現れたのは、全く異なる姿の機体だった。
鮮烈な赤と白。 それがルベルジンの本当の姿だった。
モニターの端に表示された自機ステータスのグラフィックが、一瞬で塗り替わる。
重装甲をパージした反動で、機体は激しくバランスを崩していた。 視界が猛烈な勢いで右側に傾く。
コックピット全体が大きく斜めに歪んだ。 シートベルトが俺の鎖骨に強く食い込む。
痛みが走る。 だが、俺は操縦桿を離さなかった。
右足のペダルを力任せに踏み抜いた。 床の金属が軋む音が足の裏から伝わる。 油圧が一気に高まる。
機体の右脚部が仮想の砂地へと深く突き刺さった。 モーターが限界まで駆動する。 地面を強烈に踏みしめる感覚が、シートを通じて腰に響いた。
機体の傾きが止まる。 強引に姿勢を制御し、踏みとどまった。
目の前には、突撃の勢いを止められずに通り過ぎようとするウィリディチの背中があった。 がら空きだ。
俺は左の操縦桿を胸元へと引き寄せた。 分離した大剣の中から、新たな武器が滑り出してくる。
白い鞘に収まった一本の刀だった。
直刀ウルグラ。
頭の裏側に、その名前が直接殴り書きされたような感覚がした。
無駄な装飾は一切ない。 守りをつかさどる鍔すら存在しない。 ただ真っ直ぐに伸びた、洗練された白鞘の直刀だった。
俺は右の操縦桿を一気に前方へと押し出した。
ルベルジンの右腕が白い鞘からブレードを引き抜く。
シャリィンという、冷たく澄んだ金属音がコックピットに響き渡ったような気がした。
現れた刀身がモニターの光を浴びて妖しく輝く。
そこには、幾重にも重なる波のようなダマスカス模様が刻まれていた。
金属の層が複雑に絡み合い、まるで生き物の皮膚のようなうねりを見せている。
美しい。
戦場には不釣り合いなほどの芸術品だった。
俺は両手の操縦桿を同時に斜め下へと振り下ろした。 ルベルジンの赤と白の右腕が、ウルグラの柄を逆手に握り直す。
足元の左ペダルを蹴り上げ、機体の体を反転させる。 ひねり出された推進力が、機体をウィリディチの懐へと滑り込ませた。
白銀の閃光が走る。 ダマスカス模様の直刀が、緑色の無骨な重装甲に向かって真っ向から振り下ろされた。
白銀の閃光が緑の装甲に迫る。
完璧なタイミングだった。
ウィリディチの動きが一瞬だけ完全に硬直した。 モニターに映る緑の巨体が、不自然に右肩を上げる。
姿勢制御の仮想スラスターが、意図しない方向へ火を噴いていた。
機体の明らかな挙動の乱れだ。 百戦錬磨のクレティさんが、俺のトリッキーな動きに本気で驚いた証拠だった。
いける。 俺は両手のグリップをさらに強く握り込んだ。 右の操縦桿を限界まで押し込む。 ダマスカス模様の直刀が、分厚い装甲を切り裂く軌道を描く。
だが、甘かった。 さすがと言うべきか、あの男の反射神経は異常だ。
ウィリディチの太い腕が、信じられない速度でブレた。
長大な槍が、手首のスナップだけで空中で高速回転する。 巨大な扇風機のような風切り音がシミュレーター内に響き渡る。
ガキィン。
コックピットのスピーカーが破裂しそうなほどの爆音が鳴った。
俺の両腕に、操縦桿を通して強烈な反発力が叩き込まれる。 手首の骨が軋むほどの衝撃だ。 予期せぬ迎撃だった。
振り下ろしたウルグラの刃先は、緑の装甲には届いていない。 回転させた槍の太い柄の部分で、見事に俺の斬撃を弾き飛ばしたのだ。
渾身の一撃をいなされた。 ルベルジンが大きく体勢を崩す。
俺は咄嗟に両足のペダルを踏み込んだ。 だが、仮想の砂地は無情にも崩れ去る。
機体の重心が完全に右へと流れていく。 油圧の抵抗が抜け、足の裏から地面の感覚が消え去った。 シートベルトが胸に食い込み、視界が斜めに傾いていく。
立て直せない。 右の操縦桿を必死に引いても、機体の腕は言うことを聞かなかった。
視界の端で、緑の巨体が動く。 クレティさんは追撃の手を緩めなかった。
弾いた槍を、そのままの勢いでさらに回転させる。
真鍮色の巨大なドリルではない。 武器の反対側がこちらへ迫ってきた。
後に聞いたが、石突というそうだ。
槍の持ち手の最後尾に取り付けられた、金属製の重しのようなパーツ。
本来は全体の重心のバランスを取るための部位だ。 だが、今の勢いで叩き込まれれば立派な鈍器になる。
柄の端が、モニターの中で急速に拡大する。
回避のペダルを踏む時間はなかった。 腕を交差させて防御する余裕もない。
俺はただ、迫り来る鉄の塊を直視することしかできなかった。
コツン。
軽い音がコックピットに響いた。
シミュレーターのポッド全体が小さく揺れる。 想像していたような、機体を粉砕する破壊的な衝撃ではなかった。
槍の石突は、ルベルジンのおでこの部分を軽く叩いただけだった。 まるで悪戯をした子供をたしなめるような、優しい一撃だった。
傾いた視界の中で、ウィリディチが静かに立っている。
槍の石突を俺の機体の頭部に当てたまま、ピタリと動きを止めていた。
「ハハハ。よくやったぜヒカリ坊」
通信機から、クレティさんの愉快そうな笑い声が聞こえてくる。 余裕たっぷりの豪快な声だ。
「まさか装甲をパージしてくるとは思わなかった。俺の負けでもおかしくなかったぞ」
俺は操縦桿からゆっくりと手を離した。 両手は汗でびっしょりと濡れている。
大きく息を吐き出すと、全身の筋肉がどっと疲労を訴え始めた。 足のペダルからブーツを離す。 仮想空間での模擬戦は、俺の完全な敗北で幕を閉じた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
どっと、肺の奥から熱い空気を吐き出した。 シートに背中を預け、全身の力を抜く。
操縦桿から離した両手は、まだ小刻みに震えている。 ひどく疲労していた。 冷房の効いたコックピットの空気を、何度も深く吸い込む。 汗で額に張り付いた前髪が、じわじわと冷やされていく。
俺はすっかり忘れていた。 ここがただの仮想空間であることを。
安全なシミュレーターのポッドの中だという事実が、頭から完全に抜け落ちていた。
あの重たい槍の石突が目の前に迫ってきた瞬間。 俺は本気で、自分の頭が砕け散って死ぬのだと思った。
「あ、ありがとうござ…いました」
喉の奥から、ひどく掠れた声が漏れた。
マイクを通して、気の抜けた自分の言葉がスピーカーに響く。
ガコン、とハッチのロックが外れる重い音がした。 プシューという空気の抜ける音と共に、頭上のカバーがゆっくりと上に開く。
ポッドの外から、格納庫の強い照明が差し込んできた。 眩しさに目を細める。 オゾンと機械油の混ざった匂いが、鼻の奥をツンと突いた。
俺は重たい体を革張りのシートから引き剥がす。 金属のステップに足をかけ、少しふらつく足取りでポッドの外へ降り立った。
硬いコンクリートの床に靴が触れる。 すぐ横から、声が聞こえてきた。
「私の勝ちね」
「チッ。なんでやねん。絶対チョキやと思たのに」
声の方へ顔を向ける。 ラキとシルヴィアさんが、少し離れた場所で向かい合って立っていた。 二人はちょうど、じゃんけんを終えたところだった。
シルヴィアさんがパーを出した右手を下ろしている。 ラキはグーを握った自分の手を、ひどく恨めしそうに睨みつけていた。
俺とクレティさんが息の詰まるような模擬戦をしている間に、外野はずいぶんと気楽なものだ。
どうやらあの二人は、次のシミュレーターにどちらが乗るか順番を決めていたらしい。
シルヴィアさんが、ふらふらと歩く俺の姿に気がついた。
彼女は不満げなラキをその場に残し、こちらへ歩いてくる。 コンクリートの床で、コツコツとヒールの音が鳴った。
相変わらず余裕のある、飄々とした足取りだ。 俺の目の前でピタリと立ち止まる。
「惜しかったわ。ヒカリくん」
彼女は俺の顔を覗き込み、労うような声を出した。 いつもの余裕のある口調の中に、確かな感心の色が混じっている。
「装甲を脱ぎ捨てる動き、すごく綺麗だったわ。本当にあと一歩だったわね」
俺は額の冷や汗をシャツの袖で乱暴に拭い、小さく息を吐いた。
シルヴィアさんが空いているシミュレーターのポッドへ向かって歩いていく。
入れ替わるように、ユミィが小走りで俺のところへやってきた。 分厚いタブレット端末を胸の前に抱えている。
さっきまで食い入るように戦闘データを見ていたらしい。
「ヒカリ、すごく惜しかったよ。あのアンクロス、完璧なタイミングだった」
ユミィが目を輝かせながら早口に言った。 慰めではなく、本気でそう思ってくれている声だった。
メカ好きの彼女にとって、あのシステムの起動のさせ方はかなり興奮する出来事だったらしい。
だが、その評価に素直に頷く気にはなれなかった。
「おめでたい頭やな。おやっさんに勝てると思うなよ」
格納庫の壁に寄りかかっていたラキが、鼻で笑うように言った。 冷たいコンクリートの床を蹴り、ポケットに両手を突っ込んだままゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「最初から最後まで、手のひらの上で遊ばれとっただけや」
相変わらず憎たらしい口調だ。 だが、こいつの言うことは全くの正論だった。
「ああ。こいつの言う通りだ。手も足も出なかった」
俺は額の汗を手の甲で拭いながら、正直に認めた。 あの重たい槍の連撃。 隙のない絶妙な足捌き。
どれをとっても、俺の未熟な技術とは雲泥の差だった。
偶然が助けてくれなければ、最初の数秒で串刺しにされて終わっていただろう。
格納庫の壁面に設置された巨大なメインモニターが、不意に切り替わった。
砂嵐のようなノイズが一瞬だけ走り、新たな仮想空間の映像が鮮明に映し出される。
シルヴィアさんのポッドの準備が整ったらしい。
荒涼とした岩場のフィールドだった。 画面の右側に、先ほど俺を叩き潰した緑の巨体ウィリディチが立っている。
そして左側に現れた機体は鮮やかな黄色の装甲。 空気を切り裂くような鋭角的なフォルム。
見間違えるはずがない。 さっき外で、ルベルジンに乗った俺を突然襲撃してきたあの機体だ。
「行くわ。クレティさん」
スピーカーから、シルヴィアさんの静かな声が格納庫に響いた。 普段と変わらない、飄々とした余裕のある口調だ。
「ハハハ。手加減はしないぜ、シルヴィア」
クレティさんの豪快な笑い声が応える。 次の瞬間、画面の中の空気が爆発した。
黄色い機体が消えた。 そう錯覚するほどの、異常な初速だった。
足部のブースターが強烈な光を放つ。
岩場の地面がすり鉢状に吹き飛んだ。 凄まじい砂煙が巻き起こる。
黄色い機体が、地面を滑るようにウィリディチの懐へ潜り込んだ。
緑の巨体が動く。 クレティさんが操縦桿を捻ったのがわかる。 真鍮色の巨大なドリルが、黄色い機体を迎撃する鋭い軌道で振り下ろされた。
黄色い機体が右へ跳んだ。 足元のペダルを細かく、そして猛烈な速度で踏み変えているはずだ。
ドリルの先端が黄色の肩口をギリギリでかすめる。 オレンジ色の火花が散る。
回避と同時に、黄色い機体の右腕が跳ね上がった。 シルヴィアさんが操縦桿を引き絞る。
至近距離からのクナイの三連撃。
ウィリディチの分厚い胸部装甲に正確に直撃する。 緑の巨体が大きく後方へ仰け反った。
速い。 視線で追うのがやっとの攻防だ。 俺はメインモニターから目を離せなかった。
背筋を冷たい汗が流れていく。 二つの機体の動きは、どちらも俺とは次元が違った。
無駄な動きが一つもない。 足元のペダル操作も、両手の操縦桿の動きも、完全に機体と一体化している。 流れるような連撃。 息を呑むような回避。
もし今の俺が、あの黄色い機体と戦ったらどうなるか。 想像するまでもない。 軽く一蹴される。
あんな速度で死角に潜り込まれたら、剣を振るどころか反応することすらできない。
さっき外で俺が生き延びられたのは、彼女が本気を出していなかったからだ。 圧倒的な格の違い。
それを目の当たりにして、俺は言葉を失い、ただ画面を見上げ続けるしかなかった。
格納庫の巨大なメインモニターには、まだ仮想空間の激戦が映し出されている。 緑の巨体と黄色の機体が、目にも留まらぬ速度で交錯していた。
火花が散るたびに、重低音が床を揺らす。 俺はその光景から目を離せないまま、壁際に立ち尽くしていた。
胃の腑のあたりに、重くて黒い泥のような感情が渦巻いていた。
両手が微かに震えている。
シミュレーターから降りた直後の恐怖や疲労からくるものではない。 もっと別の、芯から沸き立つような熱だった。
悔しい。
その一言が、頭の中をぐるぐると回り続けている。 クレティさんとの圧倒的な技量の差。 シルヴィアさんの無駄のない完璧な動き。
それを見せつけられて、俺の心は完全に叩き潰されていた。 自分の未熟さがどうしようもなく腹立たしい。
ペダルを踏み込むタイミング。 操縦桿を引く角度。 機体の重心の捉え方。
すべてが素人同然だった。
俺は何もできなかったのだ。 手も足も出ず、ただいいように遊ばれて終わっていた。 その事実が、たまらなく惨めだった。
ズボンに押し当てた両手は、いつの間にか固い拳を握っていた。
爪が手のひらの肉に深く食い込む。 痛い。 だが、その物理的な痛みすらも足りないくらいに、胸の奥が焼けるように熱い。 奥歯を強く噛み締める。 口の中に、微かに鉄の味が広がった。
無意識のうちに唇を噛み破っていたらしい。
ただただ悔しい。
モニターの中で黄色い機体が華麗に攻撃を避けるたび、自分の不甲斐なさが浮き彫りになる。
どうしてあんな風に機体を動かせない。 どうしてあの時、もっと早くペダルを踏み込めなかった。
もっと操縦桿を押し込んでいれば。 後悔と苛立ちがドロドロに混ざり合い、喉の奥から這い上がってくる。
大声で叫び出したいような衝動を、俺は必死に飲み込んでいた。
冷房の効いた格納庫にいるはずなのに、背中から噴き出す汗がちっとも止まらない。
ふと、俺は我に返った。
悔しい。
俺は今、悔しいと思っていた。
モニターの眩しい光から視線を外し、自分の小刻みに震える両手を見つめ直す。
手のひらには、硬い操縦桿のグリップを握りしめていた感覚がまだ生々しく残っている。
足の裏には、重い金属ペダルを押し返した油圧の記憶がべっとりとこびりついている。
おかしい。
ただ仮想空間のシミュレーターで負けただけだ。 実際に命を取られたわけではない。
そもそも、俺は自分が何者なのかすら分かっていない記憶喪失の人間だ。
それなのに、どうしてここまで心が掻きむしられるように痛む。
人が何かに対して腹の底から悔しいと思うのには、明確な理由があるはずだ。
その物事に対して、持てる全てを懸けて本気で打ち込んできた時だ。
血を吐くような努力をして、真剣に向き合ってきたからこそ、負けた時に心が壊れそうになるほどの挫折を味わう。 適当に遊んでいた人間が抱く感情ではない。
俺には記憶がない。 自分がどこで生まれ、どう生きてきたのか、肝心なことは何も思い出せない。
だが、体は確実に覚えている。 無数の計器が並ぶコックピットに座った時の、あの妙な安心感。 操縦桿とペダルに触れた瞬間の、手足の延長線にあるような奇妙な一体感。
そして今、敗北を喫して血の涙を流しそうなほど荒れ狂うこの感情。
記憶を失う前の俺は、一体どんな日々を送っていたんだ。
戦うこと以外に何も持たないような人間だったのだろうか。
格納庫のスピーカーから、ひときわ大きな爆発音が響き渡る。
俺はゆっくりと顔を上げ、もう一度モニターの中を見つめた。
戦うという行為そのものに。
そしてあの赤と白の機体、ルベルジンという存在に。
過去の俺は、これほどまでに心を焼き尽くすほど、本気で打ち込んでいたのだろうか。
答えのない問いが、機械油とオゾンの匂いと一緒に頭の奥底へ静かに沈んでいった。
俺には過去の記憶がない。 自分がどこで生まれ、どうやって生きてきたのか、本当のところは何も分かっていない。
頭の中は空っぽだ。 だが、操縦桿を握る手のひらの感覚だけは確実にここにある。
赤と白の機体、ルベルジン。 あの機体に乗り込み、戦う技術。
それだけが、今の俺を形作る唯一のものだ。
記憶を持たない俺にとって、それは自分自身の存在証明そのものだった。
その唯一の拠り所が、あの緑の巨体の前に全く通用しなかったのだ。 手も足も出ず、ただいいように遊ばれて終わった。
だからこんなにも、胸の奥が焼け付くように痛むのだろうか。
俺は自分の不甲斐なさを噛み締め、冷房の効いた空気を深く吸い込んだ。
不意に、格納庫のメインモニターから激しい衝突音が鳴り響いた。 俺は弾かれたように顔を上げる。
仮想空間の岩場に、凄まじい砂煙が巻き起こっていた。
黄色い機体が、推進器から強烈な光を放って右へ跳躍する。 見事な回避行動だ。
だが、緑の巨体ウィリディチはそれよりも一瞬だけ早かった。
クレティさんが足元のペダルを限界まで踏み込んだのがわかる。 緑の分厚い装甲が、岩を砕きながら猛烈な速度で前へ出た。
真鍮色の巨大な槍が、空気を引き裂いて真っ直ぐに突き出される。 黄色い機体の動きを完全に読み切った、無慈悲な一撃だった。
ひしゃげるような破壊音がスピーカーから響き渡る。
巨大な槍の先端が、黄色い機体の右肩を完全に貫いていた。
オレンジ色の火花が滝のように噴き出す。 鮮やかな黄色の装甲が砕け散り、内部の黒いフレームがむき出しになった。
勝負ありだ。 画面の中で、ウィリディチが静かに槍を引き抜く。
よく見れば、無敵に思えた緑の巨体も無傷ではなかった。
分厚い胸部の装甲はあちこちが黒く焦げている。 黄色い機体が放った斬撃を、いくつもその身に受けていた証拠だ。
それでも、緑の巨体は崩れる岩場にどっしりと立ち続けていた。
モニターの映像が暗転し、シミュレーターの駆動音が静まる。
格納庫の奥で、ガコンと重いロックの外れる音が鳴った。 シルヴィアさんが乗っていたポッドのハッチが開く。
白い冷却ガスがシューッと音を立てて漏れ出した。 薄暗いポッドの中から、彼女がゆっくりと姿を現す。
コンクリートの床に、硬いヒールの音が響いた。
「やっぱり駄目ね」 シルヴィアさんは肩をすくめて、小さく息を吐いた。
声にひどく落ち込んだ様子はない。 いつもの余裕のある、飄々とした態度のままだ。
「クレティさんの壁は厚いわ。そう簡単には抜かせてくれないわね」 彼女は額に少しだけ滲んだ汗を、指先で優雅に拭い取った。
その横を、ラキが通り過ぎる。 ズボンのポケットから両手を抜き、首の骨をポキポキと鳴らした。 開いたままのポッドへ向かって、意気揚々と歩いていく。
「まあ、見とけや。俺が引導を渡したるわ」 ラキはニヤリと口角を上げ、ニヒルな笑みを浮かべた。
こいつの足取りには、敗北への恐怖など微塵も感じられない。 自信に満ち溢れた背中が、シミュレーターの座席へと迷いなく潜り込んでいった。
--------------------
メインモニターに新たな仮想空間が映し出された。 荒涼とした岩場に、ラキの乗る青い機体が立っている。
細身で、いかにも機動力の高そうな装甲だ。 開始の合図と同時に、青い機体が動いた。
背部の推進器が火を吹き、直線的な軌道で一気にウィリディチとの距離を詰める。
速い。 だが、緑の巨体は微塵も慌てていなかった。
クレティさんが足元のペダルを軽く踏み直したのがわかる。 ウィリディチがほんの半歩だけ、右へズレた。
たったそれだけで、青い機体の突撃軌道から完全に外れる。 クレティさんが操縦桿を軽く払うように動かした。
真鍮色の巨大な槍が、コンパクトな円を描いて横薙ぎに振られる。
青い機体の足元を、太い柄の部分が正確に薙ぎ払った。
激しい破砕音が格納庫のスピーカーから鳴り響く。 青い機体は無様に宙を舞い、岩の壁に激突して動かなくなった。
モニターが暗転する。 シミュレーターの駆動音が停止した。 時間にしてわずか40秒足らず。 見事なまでの瞬殺だった。
「なんだ、あっという間じゃないか」
俺はシミュレーターから降りてきたラキに向かって、思ったことをそのまま口にした。
彼はひどく不機嫌そうな顔をして、コンクリートの床を歩いてくる。 さっきまでの余裕ぶった態度はどこにもない。
「こいつの自信はどこから来てたんだ」
俺が鼻で笑うと、ラキは眉間に深く皺を寄せた。 俺を鋭い目で睨みつけてくる。
「うるさいな。おやっさんの動きが読めんかっただけや。こいつに偉そうに言われる筋合いはないわ」
ラキはポケットに両手を突っ込み、顔を背けた。 負け惜しみにしか聞こえなかった。 俺がさらに言葉を返そうとした時、隣のポッドの重いハッチが開いた。
「ハハハ。ラキ坊、突っ込んでくる動きが単調すぎるぞ」
クレティさんが豪快な笑い声を上げながら姿を現した。
彼は首の後ろをさすりながら、満足そうに金属のステップを降りてくる。
圧倒的な強さの3連勝を見せつけた後だというのに、息一つ切らしていない。 彼は格納庫の天井を見上げ、大きな声で宣言した。
「よし。今日の訓練はこれくらいにしておくか。ヒカリ坊が新しく入った歓迎会と、俺が退院した快気祝いを兼ねて、今日はパーッと飲みに行くぞ」
「いいですね。私、お腹すきました。クレティさんのおごりですよね」
ユミィがタブレットを脇に抱え直し、嬉しそうに目を細めた。
「もちろん賛成よ。クレティさんの財布を空にするいい機会ね」
シルヴィアさんも飄々とした態度のまま、優雅に微笑んだ。 反対する者は誰もいなかった。
基地の外へ出ると、すでに日は落ちていた。 俺たちはクレティさんの案内で、近くの街へと向かって歩き出した。
石畳の道が続く、どこか古い時代の面影を残す街並みだ。 街灯の数は少なく、建物の窓から漏れるオレンジ色の光が道を細々と照らしている。
目的の店は、裏路地を少し入った場所にあった。 分厚い樫の木で作られた、重厚な両開きの扉。
取っ手には黒く錆びた鉄の輪が取り付けられている。 クレティさんがその鉄の輪を掴み、力任せに扉を押し開けた。
強烈な熱気と匂いが、一気に顔へ吹き付けてきた。
獣の肉が直火で焼ける、焦げた脂の匂い。 樽からあふれた安い酒の、酸いような甘い匂い。 それらが混ざり合い、鼻の奥をガツンと殴りつけてくる。
店内は薄暗かった。 太い木の柱が何本も立ち並び、そこに鉄の籠に入ったランプが掛けられている。
揺れる炎が、煤けた石造りの壁に巨大な影を落としていた。
足元には、こぼれた酒や脂を吸い取るための木屑がたっぷりと撒かれている。
歩くたびに、ザクザクという乾いた音が鳴った。
異常なほどの人口密度だった。 荒くれ者や傭兵らしき男たちが、肩をぶつけ合うようにして長いテーブルに座っている。
大きな木のジョッキをぶつけ合う鈍い音。
腹の底から絞り出すような、下品で大きな笑い声。 誰かが怒鳴り合う声。 部屋の隅の方では、古い楽器をかき鳴らす音が微かに聞こえるが、喧騒に完全に掻き消されていた。
「ハハハ。ここはいつ来ても活気があっていいな。奥の席が空いているぞ」
クレティさんが人の波を強引にかき分け、奥の円卓へ向かって歩き出す。 俺たちははぐれないように、彼の広い背中を慌てて追いかけた。
案内されたのは、店の最も奥にある丸いテーブルだった。 長年使い込まれた分厚い木の板でできている。
表面は幾重にもついた傷と、こぼれた酒の跡で黒光りしていた。 手を置くと、べたべたとした不快な感触が手のひらに張り付く。
俺が席につくと、すぐに恰幅の良い女主人が注文を取りに来た。
クレティさんが慣れた様子で、適当な肉料理とエールを人数分頼む。
待つ間もなく、巨大な木のジョッキが五つ、テーブルの上にドンと乱暴に置かれた。 ジョッキの縁から、白い泡がとめどなく溢れ出ている。
泡は冷たく、麦の強い香りがした。
「よし。ヒカリ坊の歓迎と、俺の復帰に。乾杯だ」
クレティさんがジョッキを高く掲げた。 俺たちもそれに倣って重いジョッキを持ち上げる。
木の器同士がぶつかり合い、ゴンという鈍い音が響いた。
冷たい液体を一気に喉へ流し込む。 炭酸は弱いが、強烈な苦味とアルコールが喉を焼くように滑り落ちていった。
胃の腑がカッと熱くなる。 俺はジョッキをテーブルに置き、息を吐き出した。
記憶がない俺にとって、ここは全く見知らぬ世界だ。
自分が何者なのか、どこから来たのか、いまだに何もわからない。 手の中にあるのは、ルベルジンを操縦する技術だけだ。
今日だって、その唯一の頼みの綱を粉々に砕かれたばかりだ。 それでも。
ランプの匂いと、喧騒に包まれたこの丸いテーブル。
隣には文句ばかり言う同年代の男がいる。
向かいには機械に目を輝かせる少女がいる。
余裕のある笑みを浮かべる年上の女性いる。
豪快に笑う分厚い胸板の男がいる。
不思議と、居心地が悪くなかった。 むしろ、空っぽだった自分の中に、少しずつ確かな熱が流れ込んでくるような気がした。
俺は目の前にある木のジョッキを見つめたまま、口を開いた。
「俺は、自分の過去がわからない。でも、あんたたちに拾われてよかったと思っている。
これから、本格的にお世話になります」
飾らない、素直な言葉だった。 少しだけ照れくさくて、俺はわざとぶっきらぼうな声を出した。
「ハハハ。気にするなヒカリ坊。お前はもう俺たちの仲間だ」
クレティさんが大声で笑い、俺の背中をバンバンと力強く叩いた。 痛いくらいの力強さが、頼もしかった。
「足手まといにだけはならんといてや。面倒見る気ぃないからな」
ラキがジョッキを傾けながら、ニヒルな笑みを浮かべて横槍を入れる。 口では冷たいことを言っているが、目は微かに笑っていた。
「ヒカリ、ルベルジンの整備は私に任せて。絶対に最高の状態にしてあげるから」
ユミィが両手でジョッキを握りしめ、真っ直ぐな目で力強く頷く。 その声には、メカに対する絶対の自信が溢れていた。
「無理はしなくていいわよ。ヒカリくんには、これからたっぷり働いてもらうんだから」
シルヴィアさんが顎に手を当て、飄々とした態度でふわりと微笑んだ。
店の喧騒は、夜が深まるにつれてさらに勢いを増していく。 どこかでグラスが割れる音がした。 酔っ払いの歌声が、天井の太い梁を震わせている。
俺はもう一度ジョッキを手に取り、残っていた苦いエールを飲み干した。 喉の奥で燃えるような熱さが、俺が今ここで生きていることを証明している。
明日から、血を吐くような特訓が始まるのだろう。 ルベルジンに乗り込み、戦う日々が待っている。
だが、今の俺には帰る場所があった。
このあたたかい場所から、俺の新しい記憶が始まっていく。




