26話:Cosmic Ink 〜星空の墨〜
「四日目は私の担当です。ヒカリ、準備はいいですか」
朝の食堂に元気な声が響き渡り、ユミィがマグカップを両手で持ちながら立ち上がった。
トーストの焼ける香ばしい匂いと温かいコーヒーの湯気越しに、彼女の笑顔が弾けている。
その無邪気な宣言を聞いて、テーブルを囲む面々の空気が明らかに柔らかくなった。
昨日までのバイクやギャンブルの時とは、向けられる視線の温度が全く違うのだ。
「ハハハ、今日は平和な一日になりそうだな」
クレティさんが大口でパンを頬張りながら、まるで姪っ子を見るような目で笑う。
「そうね。ユミィちゃんなら無茶なことはしないわよね」
シルヴィアさんも紅茶のカップを傾けながら、心底安心したような優しい眼差しを向けている。
「おやっさんもシルヴィアさんも、あからさまに態度が違いすぎるやろ」
斜め向かいの席でラキがぼやいているが、こいつの顔も心なしかいつもより穏やかだった。
どうせ今日の予定は、格納庫での平和な機械いじりに決まっている。
俺は残りのスクランブルエッグを平らげながら、それならそれで悪くないと密かに納得していた。
機体のメンテナンスや工具の扱いは、操縦席に座る俺にとって立派な勉強になるからだ。
胃袋を極限まで揺らされることもなく、カジノの底なし沼に引き摺り込まれる心配もない。
俺はすっかり安心しきって、自分の食器を片付けるために立ち上がった。
「さあユミィ、さっそく格納庫へ行くなら俺も手伝うぞ」
「いえ、メカのメンテナンスは後半戦です。まずはこれから始めましょう」
俺の言葉を遮るように、ユミィが背中に隠していた丸い筒を元気よく取り出した。
得意げな顔つきで、彼女はテーブルの上にあった食器を手際よく端へと寄せていく。
そして空いたスペースに、丸まっていたものを勢いよくバサリと広げた。
照明の光を弾くほど、その紙の表面は不自然なくらいツルツルと滑らかだった。
「ただの紙ではありません。これは半紙と言います」
ユミィはえっへんと胸を張り、俺たち全員を見回して自信満々に笑った。
自分が誰だったのかも思い出せない記憶喪失の身なのに、この紙は分かる。
真っ黒な墨汁と柔らかい筆を使って、精神を集中させながら文字をしたためる書道という文化だ。
そんな知識は、次々と俺の頭の中に湧き上がってくる。
「なあユミィ、それが半紙だってことは俺もなんとなく知ってるけどさ」
「本当ですか。ヒカリの記憶が戻るかもしれませんね」
俺が顔を引きつらせながら尋ねると、彼女はさらに瞳をキラキラと輝かせた。
メカの油の匂いしかしないような彼女から、なぜ急にこんな古風な道具が飛び出してきたのか。
俺はただツルツルとした白い紙面を呆然と見つめ続けた。
ユミィは次々と道具をテーブルの上に並べていった。
プラスチックの容器から黒い墨汁が注がれると、独特の落ち着いた香りが食堂いっぱいに広がった。
「せっかくですから、皆さんも一緒にやってみますか」
彼女の無邪気な提案に、テーブルを囲む面々は興味津々に身を乗り出した。
普段は銃や工具ばかり握っている手が、見慣れない毛筆に自然と伸びていく。
「面白そうだな。」
俺が素直に答えると、他の三人も楽しそうに大きく頷いた。
朝の静かな食堂が、あっという間に特設の書道教室へと早変わりする。
「いいですね。まずは自分の名前を書いてみましょう」
背筋をピンと伸ばして指導する彼女の姿は、すっかりユミィ先生と呼ぶべき風格だった。
一番手を買って出たのは、最も筆という繊細な道具が似合わない大男だ。
クレティさんは一番太い筆をわしづかみにすると、たっぷりと墨汁を含ませた。
「ハハハ、こんなもん勢いが大事なんだよ」
彼は半紙のツルツルした面に向かって、躊躇なく筆を叩きつける。
墨の飛沫が周囲に飛び散るのもお構いなしで、力強く紙の上を滑らせていった。
書き上がった文字は枠に全く収まっておらず、紙からはみ出すほどの豪快さだ。
「どうだヒカリ坊。俺の魂がこもった見事な字だろ」
「うん、見た目通りの男らしい字だな」
予想を裏切らない見事な筆運びに、俺は感心して小さく拍手を送った。
「おやっさんのはただの力任せや。書道ってもんはもっと芸術的にやな」
ラキが呆れたようにため息をつき、細めの筆を手に取って硯の縁で墨を整える。
気取った手つきで筆を走らせるラキの文字は、線が細くどこか神経質そうだ。
流れるような筆記体に近い崩し字は、確かに綺麗だがやけに気障ったらしい。
「どうやヒカリ。俺の美意識が爆発しとるやろ」
「なんだかお前らしくて少し腹が立つ字だな」
ニヒルに笑う顔を見ながら、包み隠さず正直な感想をぶつけてやった。
「次は私がお手本を見せますよ」
ユミィ先生が袖をまくり上げ、真剣な表情でまっすぐに筆を構える。
普段から緻密なメカの図面を引いている彼女だ。
きっと定規で測ったような、几帳面で整った文字を書くのだろうと皆予想していた。
しかし、半紙に落とされた最初の一画は、クレティさんにも負けないほど太くて力強いものだった。
「えいっ、やあーっ」
気合いの声と共に紙の上を暴れ回る筆先から、彼女のエネルギーが直接伝わってくる。
「ユミィ、随分とダイナミックな字を書くんだな。意外だったぞ」
「そうですか。文字には力強さが一番大切ですからね」
墨で少し汚れた頬を緩ませて、彼女は満足そうに自分の名前を見つめていた。
「ふふっ、みんな個性的で素敵ね。最後は私の番かしら」
シルヴィアさんが優雅な動作で筆を手に取り、ふわりと余裕のある微笑みを浮かべた。
細い指先で筆を持つ姿は一枚の絵画のように美しく、誰もが息を呑んで見守る。
彼女は迷いのない滑らかな動きで、真っ白な半紙に自分の名前をしたためていった。
「はい、完成よ」 自信満々に掲げられた半紙を見た俺たちの動きが完全に静止する。
そこには、ミミズが墨の中をのたうち回ったような、解読不能な謎の記号が踊っていた。
「シルヴィアさん、それ本当に自分の名前を書いたのか」
「失礼ね、ヒカリくん。どこからどう見ても美しいシルヴィア・スプリングという文字じゃない」
あまりにも前衛的すぎる筆跡に、信じられない思いで目をこすった。
容姿端麗で何でもそつなくこなす彼女から、こんな子供の落書きのような文字が生み出されるとは衝撃だ。
「これはシルビーさんの新しい暗号技術かもしれませんね」
ユミィが真面目な顔でフォローを入れる。
シルヴィアさんの前衛的すぎる文字にひとしきり笑った後、ユミィが新しい半紙の束をテーブルの中央にドンと置いた。
「別に文字だけじゃなくて、絵を描いてもいいんですよ。墨の濃淡だけで表現する水墨画というものがあります」
墨汁の入った容器を指差しながら、彼女はまたしても楽しそうに新しい提案をしてくる。
字を書くことすら四苦八苦していた俺たちにとって、それはさらにハードルの高い要求に思えた。
絵を描くのかと、テーブルを囲む全員が少しだけ戸惑ったように顔を見合わせる。
「絵なんて、描いた記憶がないな」
俺が素直にこぼすと、ラキも細い筆を指先で回しながら同意するように頷いた。
「せやな。設計図とかならともかく、風景や人物となると勝手が違うわ」
「ハハハ、難しく考えるこたぁねえよ。目に入ったものをそのまま紙に叩きつければいいんだ」
豪快に笑うクレティさんの言葉に背中を押され、俺たちは自然と食堂の大きな窓へと視線を向けた。
窓の外には、チュラクシスを取り囲む広大な荒野と、その向こうに連なる岩山が広がっている。
高く澄んだ青空には白い雲がゆっくりと流れ、乾燥した風が砂埃を巻き上げていくのが見えた。
これだけ壮大な景色が目の前にあるなら、確かに格好の題材には事欠かない。
俺は新しく配られた真っ白な半紙を自分の前に引き寄せ、硯の縁で筆の先を丁寧に整えた。
誰からともなく筆を取る音が響き、食堂は先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていく。
ふと隣を見ると、いつもは飄々としているラキが信じられないほど真剣な顔で窓の外を睨みつけていた。
筆先から滴る墨の量を微調整しながら、半紙の上で細かく手を動かしている。
向かいの席のクレティさんに至っては、あの巨体を丸めるようにして机に張り付き、完全に自分の世界に入り込んでいた。
ギャンブルの時ですら見せないような恐ろしい集中力だ。
こんな真面目な顔の二人は滅多に見られないと思う反面、
なんだか無性に負けていられないという闘争心が湧き上がってきた。
俺も雑念を振り払い、目の前に広がる岩山の稜線を思い描きながら筆を走らせる。
墨の香りが鼻腔をくすぐり、ツルツルとした紙の表面を濡れた筆が滑っていく感触が心地よい。
太い線で力強い岩肌を表現し、少し水で薄めた墨を使って遠くの雲をぼかすように描いていく。
料理の時と同じように、集中して何かを作り上げる作業は純粋に楽しかった。
静かな時間が流れ、やがて全員がそれぞれの作品を完成させて筆を置いた。
「よし、完成や。俺の繊細なタッチを見てくれ」
ラキが自信満々に掲げた半紙には、驚くほど緻密に描き込まれた窓枠と、その向こうの景色が広がっていた。
クレティさんの半紙には、力強い筆致でそびえ立つ岩山が真っ黒に塗りつぶすように描かれており、彼の性格そのものだった。
「ふふっ、みんな本当に個性豊かね」
最後に自分の半紙を裏返しにしたまま、シルヴィアさんがどこか落ち着かない様子で口を開いた。
さっき自分の名前を自信満々に披露した時の堂々とした態度はどこへやら、視線があちこちを泳いでいる。
「シルヴィアさんの絵も早く見せてくれよ。きっと綺麗なんだろうな」
俺が期待を込めて急かすと、彼女はほんのりと頬を染めて、ためらいがちにその紙をひっくり返した。
そこに描かれていたのは、丸と線がぐちゃぐちゃに絡み合った、得体の知れない模様だった。
岩山にも見えなければ、雲にも空にも見えない、完全に別の次元から呼び出された何かだ。
「ごめんなさい。私、昔から絵を描くのだけはどうしても苦手なのよ」
両手で顔を覆いながら恥ずかしそうに身を縮める彼女を見て、完全に言葉を失ってしまう。
さっきの解読不能な文字と一体何が違うというのか。
それから一時間ほど、俺たちは時間を忘れて半紙に向かい続けた。
食堂のテーブルには、丸められた失敗作の山がいくつも出来上がっている。
クレティさんは相変わらず力任せに墨を飛ばし、ラキは自分の書いた気障な文字を眺めては満足そうに頷いていた。
シルヴィアさんはなぜか独自の暗号のような絵を量産し続け、俺たちはその解読に頭を悩ませる。
手や顔に墨をつけて笑い合うこの空間は、日常の小さな幸せに満ちていた。
ふと隣を見ると、発案者のユミィがひどく真剣な顔つきで姿勢を正していた。
周囲の騒ぎなど全く耳に入っていないかのように、ただ一点を見つめて精神を集中させている。
俺は自分の筆を置き、音を立てないように彼女の手元をそっと覗き込んだ。
彼女の目の前にある硯の中には、普通の真っ黒な液体ではなく、星空を溶かしたような不思議な墨が入っている。
「ユミィ、その墨なんだかキラキラ光ってないか」
俺が小声で尋ねると、彼女は筆を構えたまま少しだけ口角を上げた。
「お。よく気がつきましたね。これは特殊な鉱物の粉末を混ぜた特製の墨汁です」
金箔のような細かい粒子が墨の中で渦を巻き、照明の光を反射して美しく輝いている。
メカに使う特殊な塗料か何かを応用したのだろうかと、俺は彼女の細やかな工夫にすっかり感心してしまった。
「やあーっ」
鋭い掛け声と共に、ユミィが真っ白な半紙に向かって筆を振り下ろした。
先ほどの自分の名前を書いた時よりも、さらに迷いがなく力強い筆運びだ。
太い線と細い線が交差しながら、ツルツルとした紙面を黒と金の光が勢いよく滑っていく。
あっという間に複雑な形が組み上がり、最後のひと筆が美しく跳ねる。
筆を置いた彼女は大きく深呼吸をし、額の汗を拭いながら自分の作品をじっと見つめる。
「よっしゃ、これで完成です」
彼女は両手で半紙の端を丁寧につまみ、俺たち全員に見えるように高く掲げた。
墨の黒さの中に無数の金色の粒が輝き、文字全体が不思議な生命力を放っていた。
ユミィはえっへんと得意げに胸を張った。
「これは遠い異国の言葉なんですよ」
「へえ、ユミィちゃんはそんな教養まであるのね。それで、どういう意味なのかしら」
シルヴィアさんが優しく問いかけると、彼女は少しだけ照れくさそうに頬を掻いた。
「想いを繋ぐ、という意味の言葉なんです」
その言葉を聞いた瞬間、空気がふわりと温かくなったような気がした。
過去の記憶を失い、自分が何者かも分からないままこの場所に辿り着いた俺。
そんな俺を当たり前のように受け入れ、一緒に笑い、一緒に馬鹿なことをしてくれる仲間たちがここにいる。
一枚の半紙に刻まれた力強い金と黒の文字が、今の俺たちの関係をそのまま証明してくれているように思えた。
窓の外から差し込む明るい日差しの中、俺は大切な仲間たちの笑顔をいつまでも心に刻み込むのだった。
ーーーーーーーーー
翌日の朝、俺はすっかり静まり返った食堂の隅で、アイスコーヒーのストローを咥えながらぼーっとしていた。
朝食のトーストを食べ終わり、何も予定のない時間をただ漫然と消費している。
ここ数日、俺はみんなの休日に便乗して、それぞれの趣味に片っ端から付き合わせてもらった。
怒涛のように過ぎ去った四日間を思い返しながら、グラスの中でカラカラと音を立てる氷を見つめる。
色々体験させてもらったはいいが、果たして俺自身の趣味と呼べるものは見つかったのだろうか。
ラキのように感情を乗せてサックスを吹き鳴らすような、芸術的なセンスは俺にはない。
シルヴィアさんのように爆走バイクで荒野を駆け抜けるような、命知らずの度胸も持ち合わせていなかった。
クレティさんのように顔面を歪ませてカジノの底なし沼に沈んでいくのは、絶対に御免被りたい。
昨日のユミィが披露した書道にしても、俺が筆を持ったところで小学生の落書きの域を出ないのは明白だ。
自分の内側から湧き上がってくるような情熱の矛先は、未だ見つからないままだった。
あえて一番ピンときたものを挙げるなら、二日目にシルヴィアさんと行った森でのキャンプかもしれない。
川で釣った魚を自分でさばいて塩焼きにする。
あの生きるためのシンプルな作業には、不思議と心が落ち着くような心地よい達成感があった。
次に休みが取れたら、今度は一人でテントを担いで森の奥へ行ってみるのも悪くない。
そんなことを呑気に考えていると、食堂の入り口から軽い足音が近づいてきた。
「ヒカリ、こんなところで何をぼんやりしているんですか」
油汚れのついた姿のユミィが、小首を傾げながら俺の顔を覗き込んでいる。
手には分厚いパーツカタログのようなものを抱え、相変わらず朝から元気いっぱいだ。
「いや、これからの人生の過ごし方について少し考えていただけだ」
俺がストローを離して大げさに答えると、彼女は全く興味がなさそうにカタログをテーブルに置いた。
「そんなことよりヒカリ、今は暇ですか」
単刀直入すぎる質問に、俺は警戒することもなく赤べこのように首を縦に振ってしまった。
「ああ、見事に暇を持て余しているところ。」
「ちょうどよかったです。これから隣街のジャンク屋まで買い出しに行こうと思っていたんですよ」
彼女の顔に浮かんだ満面の笑みを見た瞬間、背筋に嫌な汗がツーッと流れ落ちる。
よく考えれば、このメカオタクの少女が買い出しに行くものが、両手でひょいと持てるような軽い部品なはずがないのだ。
「買い出しって、まさかまたクレーンで吊るすような重い鉄の塊じゃないよな」
俺が引きつった顔で尋ねると、彼女はふふんと得意げに鼻を鳴らした。
「安心してください。今日は私の背丈くらいしかない、コンパクトなパーツを十本ほど買うだけです」
「それを世間では立派な重労働と呼ぶんだよ」
完全に無給の荷物持ちとしてロックオンされたことを悟り、諦めて大きなため息を吐き出した。
チュラクシスを出発したトラックは、乾燥した砂漠のひび割れた道を土煙を上げながら走っていた。
容赦なく照りつける太陽の熱がフロントガラスをジリジリと焦がしているが、車内にはエアコンの冷たい風が心地よく吹き込んでいる。
ハンドルを握る俺は、流れていく赤茶けた岩肌の景色を眺めながら、密かに安堵の息を漏らしていた。
買い出しと聞いて背筋が凍ったが、さすがのユミィも巨大なパーツを人力で運ばせようという悪魔のような発想はなかったらしい。
運転手の役目くらいなら、重い鉄の塊を背負って砂漠を歩かされるより百万倍もマシだ。
「ヒカリ、トラックの運転もすっかり板についてきましたね」
助手席でご機嫌に揺られているユミィが、窓の外から視線を戻して俺に話しかけてきた。
「まあな。このトラックもルベルジンに比べれば、素直でずっと扱いやすいよ」
俺が軽く笑って答えると、彼女は少しだけ真面目な顔つきになって腕を組んだ。
「ヒカリのルベルジンは特殊ですからね。カミシモモードのせいで、新しいパーツや武器の増設が本当に難しいんですよ」
どうやら機体のメンテナンスについて、彼女なりに色々と頭を悩ませてくれているらしい。
パーツが分離合体するというあのアクロバティックな機構が、拡張性の面では完全に足を引っ張っているのだ。
俺が相棒の扱いにくさに苦笑いしていると、彼女は足元に置いていた大きな筒を手に取った。
「でも、他の機体の改修プランはばっちり進んでいますよ」
狭い車内で器用に丸まった紙を広げ始めた彼女の手元を、俺は横目でチラリと覗き込む。
広げられた図面を見て、俺はすぐにそれがラキのギエルレウの新型装備だと気がついた。
独特の鋭角的なフォルムが一目でそれと分かる。
しかし、俺の目は機体の構造よりも、その図面を描き出している手法に完全に釘付けになった。
「おいユミィ、この図面の線ってまさか」
「はい。細かい数値や注釈以外は、すべて昨日の半紙と同じように筆で描き上げました」
彼女は笑顔を浮かべ、誇らしげに墨の香りが漂う設計図をポンポンと叩く。
定規で引いたような無機質な直線ではなく、墨の濃淡と筆の勢いだけで精密なメカのパーツが見事に表現されていた。
あまりの規格外な才能に驚愕していると、図面の右端に堂々とした達筆で力強く書かれた文字が目に飛び込んでくる。
『青鉄天魔轟雷破砕砲』
中二病の妄想をこれでもかと煮詰めたような痛々しいネーミングが、圧倒的な書道の腕前で半紙に刻み込まれているのだ。
俺はそっと視線をフロントガラスの彼方へと戻し、何事もなかったかのようにアクセルを静かに踏み込んだ。
「私の設計図はいつもこうです。気合いが入るんですよね」
満面の笑みで語る彼女の横顔を見ながら、俺はラキがこの名前を知った時の反応を想像して密かに同情してしまう。
呆れたようなあいつの顔が目に浮かぶようだ。
俺は横目でチラリと助手席の図面を盗み見ながら、再び前方の赤茶けた一本道に視線を戻した。
「それにしても、ギエルレウはこういう、いかにも遠距離兵器って感じの重火器は積んでないよな」
ラキの乗る機体は、高い機動力を活かした近中距離での戦闘を主体としている。
俺のルベルジンのようにトリッキーな機構はないが、その分だけ付かず離れずの動きをするのだ。
ユミィの手元にある中二病全開の巨大な大砲は、あいつの戦闘スタイルとはどうも結びつかない。
「そうですね。機動性を殺したくないという本人の強い希望もありますし」
ユミィは手元の半紙をくるくると器用に丸めながら、少しだけ遠くを見るような目をした。
「それにラキは、お父ちゃっ、いえ、彼の師匠に憧れてますから」
途中で明らかに言葉の軌道修正を図ったのが分かった。
実直すぎる彼女は、隠し事や嘘をつくのが壊滅的に下手なのだ。
「へえ、なるほどな。そのお父ちゃっ、じゃなくて師匠って人は、接近戦を中心にした銃撃が得意だったのか」
俺がわざと言い淀んだ部分を強調して尋ねると、助手席の空気がピリッと張り詰めた。
「からかわないでください」
バサリと図面の束を膝に置き、彼女は頬を思い切り膨らませてこちらを睨みつけてくる。
目尻を吊り上げてプンスカと怒る姿は、子供のようだった。
「悪い悪い、つい出来心で」
俺は片手をハンドルから離して軽く上げ、笑いながら素直に降参のポーズをとった。
「だいたい、ラキがあのガラでユミィの父親を師匠呼びしてるなんて、なんだか微笑ましいじゃないか」
俺がフォローを入れるように言うと、彼女はふいっと窓の外へ顔を向けてしまう。
それでも耳の先が少し赤くなっているところを見ると、怒りのピークはもう過ぎたらしい。
「もう、絶対にラキには内緒ですよ。私がバラしたと知られたら、すごく怒られますから」
数秒の沈黙の後、ユミィは小さくため息をついてから俺の方へ向き直った。
「分かってるよ。俺とユミィの秘密の約束だ」
俺が力強く頷くと、彼女の顔にようやくいつもの笑顔が戻ってくる。
トラックの単調なエンジン音が車内に響く中、ユミィは膝の上の図面を愛おしそうに優しく撫でた。
「ラキのギエルレウは、基本的にビーム兵器のみを搭載した機体です」
彼女は少しだけ誇らしげな声色で、昔語りをするようにゆっくりと口を開く。
「でも、彼の師匠であり私の父でもある人が乗っていたティカヌスという機体は、全く違うコンセプトでした。実弾のリボルバー銃のみを装備した、近中距離での一撃必殺に特化したピーキーな機体だったんです」
その極端すぎる仕様を聞いて、俺はなるほどと小さく頷いた。
「だからラキのやつは、ビーム兵器の機体でわざわざ近中距離での立ち回りにこだわっていたのか」
「はい。ずっと父の背中を追いかけて、その戦闘スタイルに強く憧れていたんだと思います」
実弾とビームという決定的な違いはあっても、あいつなりに師匠の美学を貫こうとしていたのだろう。
普段はニヒルに気取っているくせに、根っこの部分は随分と不器用で熱い男らしい。
「でも、この前お酒を飲んだ夜に、少しだけ心境が変わったみたいなんです」
ユミィがふふっと小さく笑うと、俺の脳裏に数日前の光景がフラッシュバックした。
完全に限界を超えて酔いつぶれ、顔を真っ赤にしてテーブルに突っ伏していたラキの姿だ。
しゃっくりを繰り返しながら、「もっと強うならんとあかんのに」と涙目でくだを巻いていた情けない光景が鮮明に蘇る。
あの時の完全にへべれけ状態の男が、まさかこんな真面目な決意表明をしていたとは驚きだった。
「ラキがどうしても強くなりたいと言うので、二人で相談してこの新しい武器の構成を考えたんです」
嬉しそうに語る彼女の熱意は痛いほど伝わってくるが、俺の視線はどうしても図面の右端に向かってしまう。
「それであの、この横に達筆で書かれているものすごい名前は誰が考えたんだ」
俺が恐る恐る尋ねてみると、ユミィはぱっと顔を輝かせて助手席から身を乗り出してきた。
「もちろん私ですよ。青鉄天魔轟雷破砕砲、すごくかっこいいでしょ」
彼女の背中には、目に見えない巨大なひまわりの花が満開に咲き乱れているかのようだ。
これだけ純粋な瞳で満面の笑みを向けられてしまえば、否定する言葉など口が裂けても言えるはずがない。
「お、おう。めちゃくちゃ強そうだし、ラキにぴったりの素晴らしい名前だと思うぞ」
俺が引きつった笑顔で親指を立てると、彼女はえへへと心底嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ヒカリにそう言ってもらえると自信が湧きます。早く部品を揃えて機体に組み込みたいですね」
完全に機嫌を良くしたユミィは、図面を再び丁寧に丸めて筒の中へとしまい込んだ。
師匠への憧れと、弟子本人の涙ぐましい決意、そして痛すぎるネーミングセンスが奇跡の融合を果たそうとしている。
完成した青鉄天魔轟雷破砕砲を突きつけられたラキがどんな顔をするのか、俺は今から楽しみで仕方がなかった。
フロントガラスの向こうで蜃気楼が揺れる砂漠の果てに、ようやく目的の街の輪郭がうっすらと浮かび上がり始めている。
街のジャンク屋とパーツショップを何軒かハシゴして、俺たちは無事に目的の買い物を済ませた。
トラックの荷台には、機体の整備に使う資材や塗料の缶が所狭しと積み込まれている。
もちろんその中には、あの青鉄天魔轟雷破砕砲を組み上げるための重たいパーツもしっかりと含まれていた。
オイルと鉄の入り混じった独特の匂いが、すべての買い出しを終えた達成感を静かに刺激してくる。
トラックの荷台から響く微かな金属音が、新しい武器の完成への期待を密かに煽っていた。
「これで当分の間は、部品のやり繰りに頭を悩ませなくて済みそうですね」
冷房の効いた助手席で、ユミィは冷たいスポーツドリンクのペットボトルを美味しそうに傾ける。
喉を鳴らして飲む彼女を横目に、俺もトラックのエンジンキーをゆっくりと回してアクセルを踏み込んだ。
「ラキのやつばっかりズルいな。俺のルベルジンにも何か新しい武器をつけてくれないか」
冗談交じりに尋ねてみた俺に対して、彼女がどんなメカニックの視点を語るのか少し身構えてしまう。
「ヒカリのルベルジンカミシモや、クレティさんのウィリディチのような重装甲の機体は難しいんですよ」
職人の顔つきに切り替わり、彼女は手ぶりを交えながら熱心に解説を始めた。
「あの手の機体は、すでに装甲の厚さと出力のバランスが極限まで緻密に計算されています」
「下手に追加装備を乗せると、今のバランスが崩れてしまうってことか」
「はい。結局のところ、今のままのバランスが一番良いという結論になりかねないんです」
俺の推測に頷きながら、彼女は少しだけ残念そうに小さく息を吐いた。
「でも、シルビーさんのフラウスレイなら、いくつか面白い追加装備の案が頭の中にあるんですよ」
彼女の口から思いがけない機体の名前が飛び出し、俺は思わずハンドルを握る手に力を込めた。
あの超軽装で高機動を売りにしている機体に、一体何を足そうというのかと俺の興味は強く惹きつけられる。
「フラウスレイって、あの極端に装甲を削った身軽な機体に追加装備をつけるのか」
俺の率直な疑問に対して、彼女はニヤリとメカオタク特有の悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「装甲の薄さをさらに補うほどの、限界を突破した構想です」
「なるほど。ただでさえ速いのに、それじゃあ完全に目で追えなくなるな」
「ただ、実現するにはとんでもない金額になるので、今はまだ夢の設計図ですね」
資金不足という現実的な壁を前にして、彼女は照れ隠しのように肩をすくめる。
小柄な彼女の頭の中には、俺たちの想像もつかないような恐ろしい設計図がいくつも眠っているらしい。
その途方もない計画の全貌がいつか具現化する日を、俺もこの目で確かめてみたい気がする。
「いつか資金が潤沢になったら、ヒカリのルベルジンにも最高の追加装備を作ってあげますからね」
助手席から身を乗り出し、ユミィは太陽のように明るい満面の笑みをこちらへ向けた。
そのあまりにも無邪気で真っ直ぐな笑顔に、俺の心臓がトクンと大きく音を立てて跳ねる。
油汚れのついた姿の彼女が、今の瞬間だけはどんな着飾った姿よりも眩しく見えたのだ。
「あ、ああ。その時は俺の相棒もよろしく頼むよ」
動揺を悟られないようにわざとぶっきらぼうに返事をし、俺は慌てて前方の道路へと視線を戻す。
火照った顔を隠すようにアクセルを踏み込むと、砂漠の風がまた新しい日常の始まりを予感させていた。
ーーーーーーー
オレンジ色の夕日が砂漠の地平線に沈みかけ、トラックのヘッドライトが前方の荒れた砂地をぼんやりと照らし出していた。
エンジン音とタイヤが砂を噛む音だけが響く車内で、俺はふと自分の相棒である機体のことを思い出す。
「そういえばさ、ルベルジンに搭載されてるナビの音声って、なんか独特だよな」
俺が何気なく口にすると、助手席のユミィは持っていたペットボトルを下ろしてパチリと瞬きをした。
「あのアナウンスシステムのことですか。普通の機体にはあんな親切な音声案内なんてまず入っていませんよ」
へえ、と俺は小さく声を漏らしながらハンドルを握り直す。
俺の機体だけの特別な機能だったとは少し驚きだ。
「普段は戦闘に集中しているから聞き流しちゃってるけどさ、あれってなんだか不思議な声質だよな」
「不思議、ですか」
ユミィが小首を傾げたので、俺は頭の中に残っているあのシステム音声を思い返しながら言葉を探した。
「なんだろうな。内気で大人しい女の人が、無理をして必死に声を張り上げているような感じに聞こえないか」
俺が自分の感じた印象をそのまま伝えると、助手席の彼女は目を丸くした後に深く何度も頷いた。
「わかります。ヒカリの言う通り、どこか無理をしているような声ですよね」
彼女が意外なほど強く同意してきたので、俺は少しだけ嬉しくなって隣の顔を見る。
しかし、ユミィの表情はなぜか少しだけ曇っていた。
「でも、私はあの音声、あんまり好きじゃないんですよね」
メカのことになると目の色を変える彼女が、システム音声に対してそんなネガティブな本音を漏らすのは珍しい。
「どうしてだ?機械的なアナウンスとしては、人間味があっていいじゃないか」
不思議に思って尋ねると、彼女は急に眉をひそめて腕を組んだ。
そして、職人としてのこだわりを爆発させる。
「だって、まったく似合っていないじゃないですか。あの無骨でゴツいルベルジンカミシモの姿を思い浮かべてください」
身振り手振りを交えながら、彼女はトラックの狭い車内で必死に力説する。
「あんな重装甲の塊から、あんな内気な女の子の裏返ったような声が聞こえてくるんですよ。違和感しかありません」
「まあ、言われてみれば確かにアンバランスかもしれないな」
苦笑いしながら相槌を打つと、彼女はさらにヒートアップして前のめりになってきた。
「それに、分離した後のスタイリッシュで細身なルベルジンの形態にも、あの声は全然マッチしていません」
「もっとクールな電子音とかの方がいいってことか」
「その通りです。機体のフォルムとシステム音声のイメージが完全に喧嘩しているんですよ。設計者の美学を疑います」
プンプンと怒りながら力説する彼女の様子がおかしくて、俺は思わず吹き出してしまった。
メカニックの視点から見ると、あの声は愛嬌どころか許しがたい設計ミスらしい。
「そんなもんかな。俺はあれを聞くと、なんだか少しだけ和むんだけどな」
俺が笑いながら言うと、彼女は信じられないものを見るような目でこちらを見つめてきた。
「ヒカリの美的センスはどうなっているんですか。今度時間がある時に、もっと渋いおじさまの声に書き換えておきましょうか」
「頼むからそれだけは勘弁してくれ。戦闘中にそんな声が聞こえたら気が散ってしょうがない」
焦って断ると、ユミィはふふっと楽しそうに笑い声を上げた。
夕闇が迫る砂漠の帰り道は、くだらない会話の余韻でほんのりと温かい空気に包まれていた。
ーーーーーーーーー
トラックは来た道を折り返し、傾きかけた夕日をフロントガラスに受けながらチュラクシスへと向かって走り続けていた。
荷台に積まれた資材が段差のたびにガタガタと音を立て、車内に心地よい振動を伝えてくる。
西の空はすでに鮮やかな赤銅色に染まり始め、荒野に落ちるトラックの影がぐんぐんと長く伸びていた。
俺は冷房の風向を少しだけ調整し、隣で図面の入った筒を大事そうに抱えているユミィに声をかけた。
「この数日間の休み、みんなの趣味探しに付き合ってもらったけど、結局俺自身の趣味と呼べるものは何も見つからなかったよ」
何気なくこぼした俺の言葉に、ユミィはぱちくりと瞬きを繰り返した。
手元のペットボトルをドリンクホルダーに戻し、どういうことですかとばかりに俺の顔をじっと見つめてくる。
「だから、ラキみたいに気取ってサックスを吹くセンスもないし、シルヴィアさんみたいに爆走バイクで荒野を暴走する命知らずな度胸もないってことだ」
「暴走は言い過ぎですよ。シルビーさんはいつも安全運転です」
「あんなスピード狂のどこが安全なんだよ。それに、クレティさんみたいにカジノで顔を真っ青にして有り金を溶かす趣味なんて絶対に御免だ」
俺が指折り数えながら仲間の極端すぎる趣味を羅列すると、助手席の彼女は少しだけ唇を尖らせた。
「ユミィみたいな達筆で書道を楽しむ教養もないからな。俺が筆を持っても小学生の落書きにしかならない」
「練習すれば誰でも上手になりますよ。あの青鉄天魔轟雷破砕砲の文字も、最初はもっと線が細かったんですから」
なぜかそこだけ得意げに胸を張る彼女のズレた反応に、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「そういう問題じゃないんだよ。自分の内側から湧き上がってくるような情熱の矛先が、俺にはまだ見つかっていないんだ」
俺が真面目な顔で言うと、彼女は少しだけ首を傾げてこちらの様子を伺ってきた。
「強いて言えばキャンプが一番ピンときたくらいだ。静かな自然の中で過ごすのは、それなりに楽しかったしな」
俺なりの自己分析を披露したつもりだったが、ユミィの反応は予想外に薄いものだった。
「そうなんですか?」
彼女は全く腑に落ちていないような顔で、きょとんとした目をこちらに向けてくる。
そのあまりにも意外そうな表情に、俺の方が思わず戸惑ってしまった。
「なんだよ、その顔。俺が何か変なことでも言ったか」
尋ねる俺に対して、彼女は悪戯っぽく笑うでもなく、ただ真っ直ぐな瞳で事実を述べるように口を開く。
「だってヒカリは、もうとっくに自分の趣味を見つけているのだとばかり思っていましたから」
「はあ」
俺は間抜けな声を漏らし、思わずアクセルを踏む足の力を緩めてしまった。
完全に身に覚えのないことを正面から指摘され、頭の中が果てしない疑問符で埋め尽くされていく。
ここ数日の記憶をどれだけ掘り返しても、俺が何かに熱中したような覚えは全くない。
俺がいったいどこでどんな趣味を見つけていたというのか。
「とっくに見つけているって、一体何の話だ。俺、この数日間の休みで何かに熱中したっけ」
不思議そうに尋ねると、ユミィはきょとんとした顔で首を傾げた。
「だってヒカリ、楽しそうに食堂の厨房に立っているじゃないですか。私はてっきり、料理が趣味なのだとばかり思っていました」
彼女の口から飛び出した予想外の言葉に、大きな衝撃を受ける。
目を丸くしたまま、思わず息を呑んで前方へと視線を固定した。
言われてみれば、確かに俺はこの休みの間も隙あらば何かを調理している。
シルヴィアさんと行ったキャンプでも、清流で釣り上げた川魚を嬉々として塩焼きにしていた。
クレティさんに付き合って海釣りに出かけた時も、釣り上げた海魚をどう美味しく食べるかばかり考えていたのだ。
川魚と海魚で全く違う火の通し方や、塩の振り方のコツを彼から教わる時間は、純粋に楽しかった。
俺の頭の中に、厨房で火の加減を調整したり包丁を握ったりしている自分の姿が次々と浮かび上がってくる。
「でも、こないだの茶碗蒸しはひどかったぞ。海水をそのまま飲んでいるみたいに塩辛かったしな」
俺が照れ隠しのように失敗談を持ち出すと、彼女はくすくすと楽しそうに笑い声を上げる。
「あの時のラキの顔、今思い出しても笑ってしまいます。一口食べた瞬間に完全に固まっていましたからね」
関西弁で文句を言う気力すら奪われ、白目を剥きかけていたラキの顔が鮮明に蘇ってきた。
だが、あのしょっぱい失敗作を前にした時も、俺の心は決して折れていない。
次は出汁の割合を改善しようとか、卵の溶き方を変えてみようとか、リベンジの方法を熱心に考えていたのだ。
「そうか。言われてみれば、俺はずっと料理のことを考えていたのかもしれないな」
ハンドルを握る手に少しだけ力を込め、俺は夕日に染まる地平線を見つめ直した。
自分の内側から湧き上がる情熱の矛先は、ずっと一番身近な場所にあったらしい。
仲間たちが美味そうに飯を食う顔を見ることや、新しい味の工夫を凝らすことが、俺にとっての何よりの楽しみになっていたのか。
全く無自覚だった自分の本心に気づかされ、胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていく。
「料理か。それもいいかもしれないな」
俺が自然と笑みをこぼすと、助手席のユミィも太陽のように明るい笑顔をこちらに向けた。
「はい。これからもヒカリの美味しいご飯、みんなで楽しみにしていますね」
トラックの窓から入り込む生温かい風が、照れた俺の頬を優しく撫でていく。
オレンジ色に輝く砂漠の道を走りながら、俺は次の休みに挑戦する新しいレシピのことで頭をいっぱいにしていた。




