25話:Blank Itinerary 〜白紙の休日〜
重たいまぶたをゆっくりと押し上げると、無機質な灰色の天井が視界に飛び込んできた。
ズキズキと小さく脈打つ頭痛と、喉の奥に張り付いたようなエールの苦味。
昨日の熱狂的な宴の余韻が、寝起きのひどく曖昧な頭の中にまだ色濃く残っている。
体を起こして周囲を見渡すと、見慣れた鉄の壁に囲まれた空間だった。
間違いなくここは、俺たちの母艦であるチュラクシスの自分の部屋である。
壁際のハンガーには、俺の白い羽織がきちんと掛けられていた。
誰かが脱がせて掛けてくれたのか、自分で無意識のうちにやったのか全く思い出せない。
サックスの音色を聞きながらジョッキを呷った記憶のあたりから、意識が完全に途切れているのだ。
大きく伸びをして凝り固まった関節を鳴らし、ベッドから這い出した。
冷たい水で顔を洗い、居住区の細い廊下を抜けて艦橋へと向かう。
分厚いハッチを開けると、すでに三人の姿がそこにあった。
「おはようございます。ヒカリ、少し顔色が悪いですよ」
端末を操作していたユミィが、キーボードを叩く手を止めてこちらを振り向く。
「おう、ヒカリ坊。よく眠れたか」
クレティさんも操舵席から振り返り、豪快な笑い声を上げた。
「おはよう。昨日はどうやって帰ってきたのか全然覚えてないんだ」
俺が正直に白状すると、コンソールに寄りかかっていたラキが鼻で笑った。
「こいつ、自分がおやっさんに肩担がれてイビキかいてたのも覚えとらんのか」
朝から減らず口を叩くこいつの足元が、まだ少しふらついているのを俺は見逃さなかった。
軽く睨み合っていると、ふと艦橋の中に足りない人物がいることに気がつく。
「あれ、シルヴィアさんはまだ起きてないのか」
俺が尋ねると、ユミィは小さくため息をついて肩をすくめた。
「さてと。全員揃ってはいませんが、今後の予定について話しておきます」
ユミィは表情を引き締め、手元のタブレット端末を軽く指先で叩いた。
「昨日も少し話しましたが、今回の任務はとんでもない額の特別報酬が出ています」
画面に表示されたゼロの羅列に、俺もラキも思わず目を丸くする。
「やったな。これでしばらくは美味い肉が食い放題だぞ」
手放しで喜んだのも束の間、ユミィはすぐに厳しい現実を突きつけてきた。
「まあ、機体の修理費や弾薬の補充費用もすごい額なんですけどね」
実直なメカニックの言葉に、俺の浮かれた気分が一気にしぼんでいく。
「特にヒカリの機体は、装甲がボロボロですから。完全に予算オーバー寸前です」
「悪かったな」
言い訳をする俺を無視して、彼女はさらに説明を続ける。
「軽傷なウィリディチ以外の三機は、しばらく修理で使い物になりません」
ユミィは端末を閉じ、真っ直ぐな視線をクレティさんへと向けた。
「徹底的なオーバーホールが必要です。一週間くらいゆっくり休んでもバチは当たらないと思います」
それは遠回しな、いや、かなり直接的な長期休暇の要求だった。
俺たちは息を呑み、クレティさんの口からどんな言葉が飛び出すのかをじっと見守る。
「ハハハハ、そうだな。たまには羽を伸ばすのも悪くねえ」
クレティさんは立ち上がり、巨大な両手をパンと大きく打ち鳴らした。
「よし、決まりだ。今日から一週間は休暇にする。もちろん訓練もお休みだ」
その力強い宣言に、艦橋の空気が一気に明るく華やぐ。
「よっしゃ」
ラキが嬉しそうに背伸びをする横で、俺も思わず頬を緩めていた。
死線からの帰還と馬鹿騒ぎの夜を経て、俺たちに思いがけない平穏な時間が訪れようとしている。
一週間の休暇という言葉に盛り上がっていると、艦橋の奥にある居住区へのドアが静かに開いた。
寝起きの重い足音を響かせながら、人影がゆっくりと歩いてくる。
シルヴィアさんが自分の長い髪を適当に手ぐしで整えながら、あくび混じりに姿を現した。
目は半分しか開いておらず、歩くたびに体が左右にゆらゆらと揺れている。
相変わらず恐ろしいほどの寝起きの悪さだが、顔色自体は極めて健康的だった。
あれほど大量に飲んでいたというのに、二日酔いの気配すら微塵も感じられない。
驚異的なタフさである。
彼女は俺たちの顔を順番に見つめ、ぼんやりとした声を漏らした。
「なにやら朝から賑やかね。何か美味しいものでも届いたの」
「おはようございます、シルビーさん。ちょうど良いところに」
ユミィが手にしていた端末を操作し、嬉しそうに胸を張る。
「今回の任務の特別報酬が出たので、機体の整備期間に合わせて今日から一週間のお休みですよ」
報告を聞いた瞬間、シルヴィアさんの動きがぴたりと止まった。
半分閉じていた彼女の大きな瞳が、みるみるうちに丸く見開かれていく。
「わお」
パチパチと何度か瞬きを繰り返すと、彼女の顔に一気に鮮やかな生気が戻ってきた。
どうやら一週間のお休みという言葉の響きだけで、完全に頭の靄が吹き飛んだらしい。
「一週間も自由時間があるなんて最高じゃない。クレティさん、本当なの」
「おう、本当だ。機体の修理が終わるまでは全員休業だ」
クレティさんが豪快に笑いながら、太い腕を組んで深く頷いた。
シルヴィアさんは満足そうに微笑むと、さっそく頭の中で予定を組み立て始めているようだ。
買いものに行こうか、それとも美味しいお酒を探そうかと、楽しそうに独り言を呟いている。
全員が思い思いの休みの過ごし方を想像して、顔を綻ばせていた。
だが、俺だけがその輪の中で腕を組み、眉間にシワを寄せている。
一週間の休みと言われても、具体的に何をすればいいのかさっぱり分からないのだ。
命のやり取りがない日々に、自分の体をどう動かせばいいというのか。
「なぁ、ユミィ。休みって言われても、俺は何をすればいいんだ」
率直な疑問を口にすると、周りの視線が一斉に俺へと集まった。
「何をすればいいって、普通に過ごせばいいんですよ」
ユミィは呆れたように肩をすくめ、俺の顔を覗き込んでくる。
「自分の好きな趣味に没頭したり、部屋でゆっくり羽を伸ばしたりするんです」
「趣味か」
彼女の口から出たその単語に、俺は言葉を詰まらせてしまった。
趣味という言葉の概念自体は頭で理解できている。
自分が好きでやっていることや、心を休めるための娯楽のことだろう。
しかし、記憶喪失の俺には自分が何を好きなのかが全く分からないのだ。
昔どんなことに熱中していたのか、どんな時間に喜びを感じていたのか、思い出せる過去が一切存在しない。
空っぽの頭の中をどれだけ探っても、そこには冷たい暗闇が広がっているだけだった。
「なんや。お前、趣味の一つも持っとらんのか」
隣で見ていたラキが、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて煽ってくる。
「悪いか。俺には記憶がないんだから、昔何が好きだったか分かるわけないだろ」
俺が開き直って言い返すと、こいつは顎に手を当ててフッと鼻で笑った。
「思い出せへんなら、新しく探せばええだけの話やろ」
ラキの身も蓋もない指摘に、俺はハッとして口を噤む。
過去の記憶がないからと落ち込む必要は最初からなかったのだ。
これから自分が面白いと思えることを見つければいい。
俺の目の前には、誰も踏み込んでいない真っ白な自由な時間が広がっていた。
ーーーーーーーーー
ラキの身も蓋もない言葉に、俺がハッとして口を噤んだその時。
「いいじゃないですか、そのアイデア」
ユミィがポンと両手を打ち鳴らし、目を輝かせて大きく頷いた。
「この一週間の休暇で、ヒカリも新しい趣味を見つければいいんです」
ユミィの顔には、なぜか新しい機体の設計図を見るような熱意が満ち溢れている。
「新しい趣味って言われても、何から始めればいいか分からないぞ」
俺が正直に首を傾げると、彼女は得意げに人差し指をピンと立てた。
「簡単ですよ。一番手っ取り早いのは、みんなの趣味に付き合ってみることです」
自分一人で探すのが難しいなら、他人の真似から入ればいい。
言われてみれば、とても理にかなった合理的な提案だ。
俺はなるほどと頷き、艦橋にいるメンバーの顔を順番に見渡した。
「というわけで、じゃあ言い出しっぺのラキからですね」
ユミィは満面の笑みを浮かべ、隣にいたラキの鼻先をビシッと指差す。
その瞬間、ラキの顔がこれ以上ないほど露骨に歪んだ。
まるで腐った木の実を丸ごと噛み潰したような、とてもとても嫌そうな顔である。
こいつは慌てて一歩後ずさりし、両手で防御の姿勢をとった。
「なんで俺からやねん。勝手に巻き込むなや」
「言い出しっぺの法則です。さあ、あなたの趣味をヒカリに教えてあげてください」
ユミィは全く引く気配を見せず、さらに一歩踏み込んでラキを追い詰める。
シルヴィアさんも面白そうにくすくすと笑い、クレティさんも腕を組んで深く頷いていた。
四面楚歌の状況に追い込まれたラキは、深いため息を吐き出してガクリと肩を落とす。
「分かったわ。教えたらええんやろ、教えたら」
ラキは不貞腐れたように髪を掻き乱し、俺の方をジロリと睨みつけた。
「俺の趣味っていうと、昨日のあれや」
投げやりな口調で吐き出されたその言葉に、俺は記憶をたぐり寄せる。
昨日こいつがやっていたことといえば、酒を飲んで泣き言を言っていたことくらいだ。
いや、一つだけ信じられないような光景を見た。
居酒屋の喧騒の中、あの泥臭い男たちを熱狂させるほどの色気ある音色を奏でていたのだ。
「昨日のあれって、あの金色のやつか」
俺が確認するように尋ねると、こいつは忌々しそうに小さく頷いた。
「せや。サックスいうんや」
昨夜のあの美しくも熱い旋律が、俺の頭の中に再び鮮やかによみがえってくる。
音楽のことは全く分からない俺でも、素直にいい音だと思った。
あんな風に空気を震わせることができたら、きっと気分がいいに違いない。
しかし、ソルダールフレームの操縦桿と剣の柄しか握ったことのないこの不器用な俺に、あんな繊細な楽器が扱えるものなのだろうか。
「一週間の休みがあるんです。毎日順番に誰かの趣味につきあってみればいいんですよ」
ユミィがすかさずスケジュールを口にする。
すでに俺の休日の工程表が組み上がっているらしい。
「初日はラキ。明日はシルビーさん。明後日はクレティさん。四日後は私。これでどうですか」
有無を言わさないはっきりとした口調で、俺の予定が勝手に決定されていく。
「あら、面白そうね。私の日は楽しみにしていてちょうだい」
シルヴィアさんが優雅に微笑んで、あっさりとその提案に賛同した。
「ハハハハ。いいじゃねえか。俺の日はたっぷりしごいてやるから覚悟しておけよ」
クレティさんも太い腕を組んで、大声で笑いながら大きく頷く。
俺の目の前で、とんとん拍子に一週間の予定が埋まっていった。
ただ一人、隣にいる男だけが盛大に顔をしかめている。
「なんで俺が初日やねん。勝手に決めんなやぁ」
ラキが必死に抗議の声を上げるが、ユミィは全く気にする様子もない。
「文句は受け付けません。私はとりあえず三機の修理プランを組んできます」
彼女は手元のタブレットをパタンと置き、居住区の方へと歩き出した。
「オートモードで機体の分解作業だけは進めておかないと。それじゃあ、また後で」
言うが早いか、彼女は小走りで艦橋から出ていってしまった。
その後ろ姿を見送る間もなく、今度は巨大な影が勢いよく立ち上がる。
「さてと。俺も日課の筋トレだけはしとかないと体が気持ち悪くてな」
クレティさんが太い首の骨をボキボキと鳴らしながら、ハッチへ向かって歩き出す。
「ちょっと汗を流してくるぜ。じゃあな、二人とも」
豪快な笑い声を残して、扉の奥へと姿を消した。
残されたのは、俺とこいつと、眠そうな目をこするお姉さんだけである。
「ふぁあ。それじゃあ、私は二度寝させてもらうわね」
シルヴィアさんが小さくあくびをして、来た道を優雅に引き返し始めた。
「お肌のゴールデンタイムはとっくに過ぎているけれど、睡眠は大事よ」
ひらひらと手を振りながら、彼女の背中も扉の向こうへ消えていく。
パタンと重いハッチが閉まる音が、静かになった艦橋にやけに大きく響いた。
広い空間に、俺とこいつの二人だけが完全に取り残される。
コンソールの電子音だけが、等間隔で鳴っていた。
気まずい沈黙が、冷たい鉄の床に重くのしかかってくる。
換気扇の回る低いモーター音だけが、耳元でやけにうるさい。
俺は無言のまま腕を組み、ラキをじっと見つめた。
こいつも負けじと、鋭い三白眼でこちらを睨み返してくる。
空中を交差する視線から、バチバチと火花が散る音が聞こえそうだ。
どちらも一歩も引かず、無言のまま数秒が経過する。
俺は音楽の知識など欠片も持っていないし、こいつも人に物を教えるような柄ではない。
どう考えても、この組み合わせで休日を過ごすのは前途多難である。
だが、どれだけ睨み合っても、ユミィが決定した今日の予定が変わるわけではないのだ。
先に折れたのは、どうやら相手の方だった。
こいつは観念したように肩を落とし、大げさに天を仰いだ。
「はあ。しゃあない、付き合うたるわ」
ーーーーーーーーー
深くため息をついたラキは、髪をぐしゃぐしゃと乱暴に掻き回した。
コンソールに背中を預け、腕を組んで俺の顔をじろじろと見つめてくる。
「教えたる言うてもな、一つ問題があるんや」
「問題ってなんだよ。お前、教え方が分からないのか」
俺が茶化すように言うと、こいつは呆れたように肩をすくめた。
「アホ。俺のサックスはあの一つしかないんやぞ」
「じゃあどうするんだ。楽器がないなら何もできないだろ」
「素人はこれやから困るわ。楽器を触る前にやることがあるんや」
こいつは一歩前に出て、真っ直ぐに俺の目を見据えた。
「まずは音程の練習からや。自分の声で正しい音を出せるようにならんと話にならん」
音程という聞き慣れない単語に、俺は思わず首を傾げる。
戦闘時の索敵レーダーの波長ならともかく、音楽の専門用語なんてさっぱり分からない。
「音程の取り方を教えたる。まずはレの音を出してみろ」
こいつは軽く咳払いをして、喉の調子を整えた。
「レーーーーー」
よく響く声が、静かな艦橋の空気を震わせる。
なんとなく理屈は分からないが、要するに同じように声を出せばいいらしい。
俺は大きく息を吸い込み、こいつの真似をして口を開いた。
「レーーーーー」
艦橋の冷たい鉄の壁に、俺の出した平坦な声が虚しく反響する。
ラキの眉間にとんでもなく深いシワが刻まれた。
「え。お前、ふざけとんのか」
底冷えするような低い声で、ラキが俺を睨みつけてくる。
「ふざけてないぞ。言われた通りに真似しただけだ」
「どこがやねん。ちゃんと俺の音を聴いて真似しろや」
苛立ちを隠そうともせず、もう一度大きく息を吸い込んだ。
「よう聴けよ。レーーーーー」
先ほどと同じ、透き通った音が俺の鼓膜を打つ。
俺も負けじと腹に力を入れ、全く同じように口を動かした。
「だから、レーーーーー」
少し声量を上げてみたものの、こいつの表情はさらに険しくなるばかりだ。
ラキは両手で顔を覆い、天を仰いで深々とため息をついた。
「あのな。お前はただ口で『レ』っていう言葉を発音してるだけや」
こいつは顔から手を離し、呆れ果てたような目を俺に向ける。
「今お前が出してる音の高さは、レやなくてファやぞ」
ファ。
ファ?
俺の頭は完全にショートした。
レと声に出しているのに、ファの音が出ているとはどういう理屈なのだろうか。
「お前、頭がおかしくなったのか。俺は今、はっきりとレって言っただろ」
「言葉の話をしてるんやない。音の高さの話をしてるんや」
言葉と音が違うという謎の概念に、俺の頭上にはさらに「?」が浮かぶ。
ーーーーーーーーーー
艦橋の横長なモニターに映し出された外の景色が、いつの間にか鮮やかな茜色に染まっていた。
水平線の向こうへ沈みゆく太陽が、冷たい金属調の艦内に長い影を落としている。
気づけばもう、すっかり夕方になっていた。
俺たちがこの場所で声を張り上げ始めてから、すでに数時間が経過していたのだ。
だが、これだけ長い時間を費やしたというのに、俺の頭の中は相変わらず真っ白のままだった。
音程という目に見えない怪物の正体が、最後まで一切理解できなかったのだ。
「高さを合わせる」とか「音を引っ張り上げる」というラキの説明は、俺にとって未知の言語を聞いているのと変わらなかった。
音に高さなんて概念があること自体、どうしても納得がいかない。
俺にとっては低い声も高い声も、ただの「声」でしかなかった。
「ええか、よう見ろ。これがドで、これがレや」
ラキは手を変え品を変え、実に辛抱強く俺に教え込もうとしてくれた。
空中に手で階段のような形を作ってみせたり、電子コンソールを叩いて人工的なビープ音を鳴らしてみたりした。
さらには自分の首筋を押さえながら、声帯の震え方まで俺に触らせて体感させようと試みたのだ。
ニヒルな気取り屋の見た目に反して、こいつの指導は熱血そのものだった。
しかし、教えを受ける側の俺に決定的な才能が欠落していた。
最後の方には、あの生意気なラキも呆れを通り越して完全に燃え尽きかけていた。
コンソールに力尽きたように突っ伏し、虚ろな目で夕暮れの空を見つめている。
「お前、ほんまに耳ついてるんか」
掠れた声で呟くラキの姿は、丸一日戦い抜いた後のようにボロボロだった。
俺だって真剣にやっていただけに、上手くいかないもどかしさで胃が痛い。
「なぁ、もう一度最初からやってみようぜ。次はもっと上手く声を伸ばせる気がするんだ」
俺が意気込んで胸を張ると、ラキは首だけをゆっくりと横に振った。
「やめとけ。これ以上やったら、俺の耳が永久にイカれてまうわ」
こいつが深い絶望の淵に沈み込んでいた、まさにその時である。
「はいはい、二人ともそこまで。ご飯だよ」
居住区に続くハッチが軽やかな音を立てて開き、シルヴィアさんがひょっこりと顔を出した。
「ユミィちゃんが腕を振るって、美味しそうなスープを作ってくれたわよ」
漂ってくる香ばしいスープの匂いが、俺の鼻腔をくすぐった。
「ご飯」という救いの単語を聞いた瞬間、ラキの瞳に光が戻った。
「……助かった」 深く長い溜め息を吐き出すと、力なく床から立ち上がった。
そして、二度と見たくもないと言わんばかりの手つきで、テーブルの上のサックスケースを勢いよくバタンと閉じる。
カチリと金属留め具が鳴る音が、この不毛な音楽レッスンの終了を告げていた。
「もうええ。お前には音楽の才能は欠片もないことがよく分かったわ」
ラキはケースをガッチリと抱え込み、二度と俺に触らせないという強い意志を示してくる。
完全に諦めた顔で首を振るこいつを見て、俺は少しだけ悔しい気持ちになった。
「そんなにはっきり言わなくてもいいだろ。明日になれば急に覚醒するかもしれないぞ」
「絶対にないから安心せぇ」
バッサリと切り捨てられ、俺は肩を落としてシルヴィアさんの後ろについて歩き出した。
こうして、俺の「趣味探し」の初日は壮大な徒労と共に終わりを迎えたのだった。
結局、俺には音程の取り方も、サックスの魅力もさっぱり分からないままだった。
だが、明日はまた新しい一日がやってくる。
「明日はシルヴィアさんの趣味に付き合うんだったな」
俺が尋ねると、前を歩くお姉さんは嬉しそうに振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
ーーーーーーーーーーー
休日二日目の朝がやってきた。
昨日の無駄に終わった発声練習のせいで、俺の喉は心なしか少しだけ痛い。
朝食のパンを口に押し込みながら首を振ると、向かいに座るシルヴィアさんと目が合った。
今日という一日を仕切るのは、優雅に紅茶を嗜んでいるこのお姉さんだ。
「ヒカリくん、準備はいいかしら。今日は私の趣味に付き合ってもらうわよ」
シルヴィアさんはカップをソーサーに静かに戻し、綺麗に微笑んだ。
「一応言っておくと、私には趣味が三種類あるの。今日はそのうちの二つを体験してもらうわね」
三つもあるのかと呆れつつも、昨日よりはマシな一日になることを俺は祈るしかなかった。
シルヴィアさんは小ぶりなリュックサックを片手で軽々と背負い、立ち上がった。
俺も彼女の後ろについて歩き出そうとしたが、ふと背後に猛烈な視線を感じて振り返る。
そこには、クレティさん、ユミィ、そしてラキの三人が並んで立っていた。
なぜか全員が、囚人でも見るかのような気の毒そうな目を俺に向けている。
「ヒカリ、気をつけてね」
ユミィが悲痛な面持ちで、ボソリと真剣な声を漏らした。
「絶対に怪我だけはしないように、無理だと思ったらすぐ逃げるんですよ」
その深刻すぎる言葉が、頭の中に警報音として重く響き渡る。
ラキに至っては無言で胸の前に手を合わせ、拝むようなポーズをとっていた。
「おい、なんでそんな目してるんだよ」
俺が抗議の声を上げても、三人は哀愁を漂わせながら黙って手を振るだけだった。
何か恐ろしい罠にでもハメられるのではないかと、急激に胃がキリキリと痛み始める。
背後からの視線に冷や汗を流しながら、俺はシルヴィアさんの背中を追って格納庫へと続く廊下を進んだ。
重厚な防音ハッチが開き、広大な格納庫の冷気が肌を刺す。
壊してしまった俺たちのソルダールフレームが並ぶ整備デッキに向かうものだと思っていた。
だが、シルヴィアさんは巨体の機体には目もくれず、薄暗い倉庫の奥へと足を進めていく。
予備パーツや不要な資材が乱雑に積み上げられた、ひっそりとした区画だ。
「シルヴィアさん、整備デッキはあっちだぞ。どこに行くんだ」
俺が尋ねると、彼女は振り返ることもなくひらひらと手を振った。
彼女が立ち止まったのは、部屋の隅に追いやられた小山のような場所だった。
そこには分厚く巨大なグレーの防塵シートが、すっぽりと何かを覆い隠すように被せられている。
「これよ」
シルヴィアさんは振り返り、目の前の大きな布の塊を自慢げに指差した。
「布が趣味なのか。」
俺がストレートに感想を口にすると、彼女はくすりと可憐に笑った。
「まさか。本当の姿を見せてあげるわ」
彼女が両手でシートの端を掴み、一気に勢いよくバサリと引き剥がした。
激しく舞い上がった埃の向こうから、朝日を浴びて強烈な金属光沢を放つ巨大な物体姿を現す。
それは、俺が今まで見たこともないほど圧倒的な存在感を放つ二輪車だった。
二つの巨大なタイヤの上に、荒々しくも洗練された美しさを誇る黒い鉄の骨格が組み上げられている。
濡れたように深みのある漆黒に塗られた、滑らかな流線型の燃料タンク。
その下には、冷たいたたずまいで鈍く光る巨大な二連のエンジンが剥き出しで鎮座していた。
空を突き刺すように高く斜め上に伸びた、威圧感溢れるクロームメッキのハンドル。
車体の右側からは、極太の排気管が後ろへ向かって優美な曲線を描いて伸びている。
低いシートの位置と、前方に大きく投げ出すような足置きのステップ。
クラシカルな装飾と現代の力強い造形美が融合した極上のメカニックだった。
巨大なソルダールフレームとは全く異なる、男心を猛烈に刺激する圧倒的な格好良さだ。
「すごいなこれ。めちゃくちゃ格好いいじゃないか」
俺は思わず息を呑み、吸い寄せられるようにその黒い車体へ一歩踏み出していた。
「そうなの、すごくかっこいいでしょ」
シルヴィアさんは愛おしそうに、漆黒の燃料タンクを細い指先で優しく撫でた。
「この大排気量の空冷Vツインエンジンが生み出す独特の鼓動感と排気音がたまらないのよ」
彼女の言葉には、普段の飄々とした態度からは想像もつかないほどの熱がこもっている。
メカのことはよく分からないが、この黒い鉄の塊がとんでもないパワーを秘めていることだけは肌で感じ取れた。
「はい、これ」
感心して見入っている俺に、シルヴィアさんが唐突に丸い物体を押し付けてきた。
両手で受け取ってみると、それはやけに頑丈な作りをした特大のフルフェイスヘルメットだった。
さらにその下には、分厚いウレタン材でできた見慣れない装具がセットになっている。
「なんだこれ。欠けたドーナツみたいなクッションは何に使うんだ」
俺が首を傾げている間に、彼女は素早い手つきで俺の頭にヘルメットを被せてしまった。
顎のストラップをカチンと鳴らして固定し、続けてその謎のクッションを俺の首回りにがっちりと巻きつける。
大げさな固定具に、俺は視界を奪われたまま混乱を深める。
「ちょっと待ってくれ。これじゃ首が全く動かせないんだけど」
ヘルメットの中でくぐもった声を上げる俺をよそに、彼女はポンポンと俺の肩を叩いて満足そうに頷いた。
「細かいことは気にしないで。ほら、早く後ろに乗ってちょうだい」
有無を言わさぬ笑顔で促され、俺は訳も分からないままバイクの後部座席へとまたがる。
分厚い革のシートは思いのほか深く沈み込み、俺の腰をしっかりとホールドした。
シルヴィアさんも慣れた動きで前方に跨がり、キーシリンダーを回す。
キュルルという短いセルモーターの音の直後、爆発のような轟音が格納庫の壁を激しく揺らした。
ドコドコドコという腹の底に響くような重低音が、鉄の床を伝わって俺の足元までビリビリと震わせる。
まさに彼女の言っていた独特の鼓動感というやつだ。
シルヴィアさんがスロットルを軽く捻ると、巨大なエンジンが猛獣の唸り声のような咆哮を上げた。
その凶悪なまでの迫力に、俺は思わず前のシートの縁を両手で強く握りしめてしまう。
「それじゃ、行くわよ」
シルヴィアさんが格納庫のスイッチを押すと、格納庫の正面にある巨大なハッチが重々しい駆動音を立てて動き始めた。
ゆっくりと持ち上がる分厚い装甲板の隙間から、眩しいほどの強烈な光が一直線に差し込んでくる。
完全にハッチが開き切ると、そこには見渡す限りの広大な砂漠が広がっていた。
雲一つない快晴の青空と、地平線の彼方まで続く乾いた砂の海。
熱を帯びた砂っぽく乾いた風が吹き込み、ヘルメットのシールドを強く叩く。
出撃前のような興奮が入り交じる中、俺たちの乗る黒い鉄馬は野に放たれる瞬間を静かに待ち構えていた。
「行くわよ」
「え、ちょっと待っ」
ドコドコドコという野太い爆音が耳元で鳴り響いたかと思った瞬間だった。
景色がぐにゃりと歪み、気づいた時には俺たちはすでに強烈な日差しの降り注ぐ外の世界に居た。
あまりにも理不尽な加速度に、俺の体は後ろへ丸ごと吹っ飛ぶかと思ったほどだ。
「どう。私の自慢の相棒、すごい加速でしょう」
「まだまだ序の口よ。しっかり捕まっててね」
俺は慌てて前方の細い腰に両腕を回し、必死にしがみついた。
フルフェイスのヘルメット越しに聞こえてくるシルヴィアさんの声は、まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のようにご機嫌だ。
「ここは見渡す限りの広大な砂漠よ。限界までスピードを上げても全く問題ないわ」
「道なんて必要ないわ。私たちが走った場所が道になるのよ」
彼女は嬉々としてスロットルをさらに大きく捻り上げた。
「少しだけ遊ぶわよ。振り落とされないようにね」
彼女の楽しそうな宣言の直後、後輪が激しくスライドし、車体が真横に滑りながら巨大な砂煙を巻き上げた。
信じられない速度のまま車体を傾けてドリフトしたり、前輪を高々と持ち上げてウィリーしたりと、完全にやりたい放題である。
遊ぶというレベルを遥かに超えた曲芸乗りに、俺はただ目を白黒させるしかなかった。
「最高ね。エンジンもよく回るわ」
荒馬のように暴れ回る車体に揺られながら、俺の頭の中はなぜかひどく冷めきっていた。
なるほど、出撃前に無理やり装着させられたあの分厚い首のクッションは、こういうことだったのか。
格納庫で見送ってくれた三人のあの気の毒そうな視線の意味が、今になってようやく痛いほど理解できた。
俺は必死に声を張り上げようと、思い切って口を開いた。
ガキッという嫌な音がして、激しく上下に跳ねる車体の振動が俺の顎を下から容赦なく突き上げた。
「痛っ。あぐっ」
「あら、どうしたの。急に変な声を出して」
今この状況で不用意に喋れば、確実に自分の舌を噛み切って大惨事になる。
俺は命の危険を察知して、これ以上の抗議を諦めてそっと静かに口を閉じることを選んだ。
ーーーーーーーーー
しばらく走ると鼓膜を突き破るようなエンジンの咆哮が、ふっと唐突に止んだ。
狂ったように跳ね回っていた車体が落ち着き、俺の視界を上下に揺らしていた振動がゆっくりと収まっていく。
激しい砂埃の向こうに現れたのは、豊かな緑の木々だった。
気づけば、どこかの山まで走ってきたようだ。
振り返るとチュラクシスは影も形もない。
俺たちの乗る黒い鉄馬は、巨大な森の入り口の木陰で静かにその歩みを止めた。
「到着よ。お疲れ様、ヒカリくん」
前席のシルヴィアさんが機嫌よく声をかけ、手際よくヘルメットを脱いで長い髪をファサリと揺らす。
俺も慌てて重いフルフェイスと、命の恩人である分厚い首クッションをむしり取った。
肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込むと、土と草の混じったような青臭い匂いが一気に鼻腔を満たしていく。
まさかこの地獄のドライブに、まともな目的地が存在していたとは夢にも思わなかった。
ただ砂漠を無軌道に走り回って、俺の胃袋を破壊することだけが目的だと思っていた。
「死ぬかと思ったぞ。とんでもないスピードだったじゃないか」
俺がふらつく足で地面に降り立ちながら文句を言うと、彼女は不思議そうな顔をした。
「そうかしら。あなたが普段操縦している機体の方が、ずっと速く飛べるはずよ」
「そうかもだけど、そういう問題じゃないだろ」
分厚い装甲に守られた快適なコクピットと、生身で外の空気に叩きつけられるバイクとでは条件が違いすぎる。
風景が暴力的な速さで後方に飛んでいくあの感覚は、今まで味わったことのない恐怖だった。
だが同時に、風を直接切り裂いて進む吹きっさらしの環境が、スピードの印象をこれほど変えるものなのかと妙に感心もしてしまう。
機体のモニター越しに見る景色とは違う、むき出しの世界の生々しい迫力というやつだ。
熱を持ったエンジンから立ち昇る陽炎を見つめながら、俺は荒くなった息を整えた。
「まあ、無事に着いたんだから良しとしましょう」
シルヴィアさんは楽しそうに笑いながら、黒い車体の横に立って大きく伸びをした。
「さてと。それじゃあ、ここからはいよいよ後半戦よ」
恐ろしい宣言を聞いて、一気に血の気が引いていく。
「嘘だろ。もう船に帰るのか」
俺はたまらず地面にへたり込み、情けない声で懇願した。
「頼むから、もう少しだけここで休ませてくれ。今すぐ乗ったら絶対に吐くぞ」
胃の中身がシャッフルされた状態で再びあの悪夢のドライブが始まれば、俺の意識は確実に持たない。
必死に両手を合わせて祈る俺を見て、シルヴィアさんはくすくすと上品に笑い声を漏らした。
「心配しないで。バイクに乗るのはここまでよ」
彼女は背負っていた小ぶりなリュックサックを軽く叩き、森の奥へと続く獣道を指差す。
「ここからは自分の足で歩くの。ついてきてちょうだい」
言うが早いか、彼女は迷いのない足取りで鬱蒼と茂る森の中へ入り始めてしまった。
バイクの次は山登りか何かかと、俺は重い足を引きずってその後を追いかける。
「趣味の二つ目って、森の中を散策することなのか」
俺の問いかけに、前を歩く彼女は機嫌よく振り返った。
木漏れ日が彼女の顔を照らし、足元の落ち葉がサクサクと心地よい音を立てる。
「大自然の中でサバイバル、と言いたいところだけどね」
彼女は歩きながらリュックの紐を指先で弾き、悪戯っぽく微笑んだ。
「お休みは一日しかないから、今日はただのキャンプよ」
キャンプという長閑な響きに、俺は少しだけホッと胸を撫で下ろした。
ーーーーーーーーー
「ヒカリくん、疲れてないかしら?」
「全然」
獣道をかき分けながら、気がつけば小一時間ほど森の奥へと歩き続けていた。
普通ならとっくに膝が笑い出してもおかしくない、起伏の激しい険しい山道だ。
日頃から課せられている地獄の猛特訓の成果が、こんなところで発揮されるとは思わなかった。
「そろそろね」
「本当だ。川が流れる音がする」
彼女が立ち止まって耳を澄ますと、サラサラと冷たい水の流れる音が木々の間から届いてきた。
少し開けた場所に出ると、そこには透き通った水が流れる美しい渓流が広がっている。
岩肌を滑る水しぶきが、森のひんやりとした空気をさらに心地よく冷やしていた。
「さて、ここからが本番よ」
彼女がリュックから取り出したのは、金属製の短い筒状の物体だった。
カチカチと手際よくパーツを伸ばしていくと、あっという間に二本の折りたたみ式釣竿が完成する。
シルヴィアさんは水辺の手頃な岩の上に腰を下ろし、一本の竿を俺の方へ差し出した。
「釣り、したことあるかしら」
「さあ、どうだろう。やったことがあるような気もするけど」
「そうよね。記憶がないんだから、自分でも分からないわよね」
彼女は少しだけ申し訳なさそうに微笑み、隣の岩をポンポンと手で叩いた。
隣に座れという合図に従って腰を下ろす。
シルヴィアさんは小さい岩をひっくり返し、素手でうねる小虫を摘み上げる。
「うわっ」
「魚を釣るんだから当然よ。ほら、元気に動いているわ」
嫌な予感が岩の裏を覗き込むと、大量の小さな虫がうじゃうじゃと蠢いていた。
シルヴィアさんは全く動じる様子もなく、釣り針の先端にその虫をグサリと容赦なく突き刺していった。
「ほら、ヒカリくんの針にもつけてあげるわ」
「いや、自分でやるよ。男が虫にビビってたら情けないだろ」
「ふふっ、無理しなくていいのよ。はい、どうぞ」
俺は強がって虫をつまもうとしたが、指先で激しく暴れる感触に思わず手を引っ込めてしまった。
結局、綺麗に虫がセットされた竿を大人しく受け取る羽目になり、小さくため息をつく。
「こういう何気ない動作が、ふと記憶を思い出すきっかけになるかもしれないわよ」
「虫を見て思い出すような過去なら、むしろ忘れたままでいたいぞ」
俺の気の抜けた返答に、彼女は楽しそうにくすくすと笑い声を上げた。
水面に浮かぶ小さなウキが、穏やかな流れに乗ってゆらゆらと揺れ始める。
「さっきのバイクからの落差が凄まじいな」
「そうかしら。どちらも自然を満喫する素晴らしい遊びよ」
あの悪魔のような加速と、この気が遠くなるほど平和な釣りのギャップに頭がクラクラする。
ただ、この冷たい水音を聞いていると、不思議と心が落ち着いてくるのは確かだ。
ウキが沈む瞬間を待ちながら、俺は岩の上で大きく背伸びをした。
穏やかな水音が響く渓流で、ひたすらウキを見つめるだけの時間が過ぎていった。
結論から言うと、俺の釣り針には見事なまでに一度も魚がかからなかった。
ピクリとも動かない俺の竿とは対照的に、隣のシルヴィアさんは次々と獲物を釣り上げていく。
小さなクーラーボックスの中には、銀色に輝く立派な魚がすでに五匹も跳ねていた。
「大漁ね。そろそろ日も傾いてきたし、帰ろっか」
「結局、俺は一匹も釣れなかったな」
「ふふっ、自然が相手だもの。そういう日もあるわよ」
シルヴィアさんは満足そうに微笑み、手際よく二本の竿を片付け始めた。
俺は悔しさを噛み殺して立ち上がる。
森の中を抜けてバイクを停めた場所まで戻る足取りは、行きよりもずっと重く感じられた。
黒い鉄の塊を見た瞬間、帰りもあの地獄の暴走に付き合わされるという現実を思い出した。
「さあ、ヒカリくん。しっかり捕まっててね」
またしても俺の頭には、特大のフルフェイスと分厚い首クッションが装着された。
巨大なVツインエンジンが咆哮を上げ、車体が猛烈な勢いで砂漠へと飛び出していく。
帰り道も彼女は一切の手加減をせず、荒野を切り裂くようにスロットルを回し続けた。
前後左右に激しく揺さぶられながら、俺は首のむち打ち防止クッションの存在に心の底から感謝した。
これがなければ、今頃俺の首は確実にあらぬ方向へ曲がっていただろう。
しばらく走りチュラクシスの格納庫に、野太い排気音が響き渡ってようやくバイクが停まる。
俺は震える足で後部座席から転げ落ちるようにして、冷たい鉄の床に両手をついた。
ヘルメットを外した途端、周囲の景色がぐるぐると猛烈な勢いで回転し始める。
「ヒカリ、大丈夫ですか」
不安そうな声と共に、小走りで近づいてくる軽い足音が聞こえた。
見上げると、作業着姿のユミィが心底心配そうな顔で俺を覗き込んでいる。
「な、なんとか生きてる…」
「無事でよかったです。本当に心配してたんですよ」
俺が青ざめた顔で強がると、ユミィは安堵したように胸を撫で下ろした。
「ほらユミィちゃん、見て。今日は大きなヤマメが五匹も釣れたのよ」
目を回してうずくまる俺を横目に、シルヴィアさんはご機嫌な声だ。
「わあ、すごいですね。シルビーさん、夕食が楽しみです」
「ヒカリくんも手伝ってくれるから、とびきり美味しいご飯になるわよ」
「えっ、俺もやるのか」
いつの間にか俺が料理を手伝う流れになっており、抗議する気力すら残っていなかった。
フラフラする足を引きずりながら、俺は二人の後ろについてチュラクシスのキッチンへと向かう。
まな板の上に置かれた五匹のヤマメは、まだピチピチと新鮮な命の弾力を保っていた。
「それじゃあ、下処理をお願いするわね」
シルヴィアさんはエプロンを身につけながら、俺の前に鋭い出刃包丁をことりと置いた。
「いや、俺にそんな高度な料理スキルがあるわけないだろ」
記憶喪失の俺が魚を捌けるわけがないと、当然の疑問を口にする。
「案外、体が覚えているかもしれないわよ。試してみて」
促されるままに包丁の柄を握った瞬間、指先から手首にかけて不思議な感覚が走った。
包丁の重さがしっくりと手のひらに馴染み、頭で考えるよりも先に右手が自然と動き出す。
滑りのある魚体を左手で軽く押さえ、刃先を躊躇なくエラの裏側へと滑り込ませた。
骨に当たる感触を確かめながら、流れるような動作で腹を開いて内臓を掻き出す。
自分でも信じられないほど手際よく、あっという間に一匹目の処理が完了してしまった。
俺の中に眠っていた過去の記憶が、確実にこの両手に刻み込まれていた証拠だった。
次々とヤマメの内臓を処理しながら、俺は自分の手の動きにどこか他人事のような感心を持っていた。
記憶を失う前の俺は、もしかすると休日のたびに山へ出かけてキャンプを楽しむような人間だったのかもしれない。
焚き火の煙に目を細めながら、こうやって釣ったばかりの魚をナイフで捌いていたのだろうか。
だが、そんな過去の不確かな推測はどうでもよくなるくらい、今の俺はこの作業に没頭していた。
自分の手で食材を整え、こうしてキッチンに立って料理をするという純粋な行為が、どうしようもなく楽しいのだ。
「すごく手際がいいわね。それじゃあ、次は一番大切な下ごしらえよ」
シルヴィアさんがキッチンペーパーを切り取り、俺の横からひょいと手元へ差し出してくる。
「魚の表面についた水分を、これでしっかりと拭き取ってちょうだい」
「水分を残したままだと駄目なのか」
「ええ。水気が残っていると、焼いた時にどうしても生臭さが出ちゃうの」
言われた通りに、俺はペーパーでヤマメの表面を優しく、しかし念入りに拭き取っていく。
腹の中の血合いも綺麗に洗い流し、水気を完全に取ると、魚体が引き締まって美しい光沢を取り戻した。
「完璧よ。次は塩を振るんだけど、化粧塩って知ってるかしら」
「化粧塩?」
俺が首を傾げると、彼女は小さなガラスのボウルに入った粗塩を指先でひとつまみすくい上げた。
「飾り塩とも言うわね。ヒレや尻尾の部分に、こうやってたっぷりと塩をすり込むのよ」
彼女の細い指が、ヤマメの背ビレと胸ビレを立たせるようにして真っ白な塩をまぶしていく。
「ここには火が通りやすいから、塩でガードして焦げ落ちるのを防ぐの」
「なるほど。ただ味をつけるだけじゃないんだな」
「そうよ。焼き上がった時にヒレがピンと張って、見た目がすごく美味しそうに仕上がるわ」
俺も彼女の動きを真似て、残りの四匹にたっぷりと化粧塩を施していく。
少し高い位置から全体にもパラパラと塩を振り、グリルの中に丁寧に並べた。
点火スイッチを押すと、青い炎が魚を包み込み、しばらくしてチリチリという心地よい音が響き始める。
香ばしく焼けた皮の匂いと、新鮮な魚の脂が焦げる強烈に食欲をそそる香りがキッチンいっぱいに広がっていった。
この匂いだけで白飯が何杯でもいけそうだと、ごくりと喉を鳴らす。
ダイニングテーブルに大皿を運ぶと、待ち構えていた三人の目が一斉に輝いた。
こんがりと黄金色に焼き上がった五匹のヤマメは、化粧塩のおかげでヒレが美しく扇状に広がっている。
「ハハハ。こいつは豪快で美味そうじゃねえか」
クレティさんが大声を上げて笑い、真っ先に箸を伸ばして大きな身をむしり取った。
「ヒカリ坊、お前さん記憶がないくせに大した腕前だな。塩加減も絶妙だ」
「私が釣った新鮮なヤマメだからね。素材の勝利よ」
シルヴィアさんも上品に箸を動かしながら、得意げに微笑んでいる。
「本当に美味しいです。皮はパリッとしていて、中の身はふっくらと仕上がっていますね」
ユミィは真剣な顔つきで魚の断面を観察し、熱の入り方が完璧だと褒め称えた。
メカの分析をする時と同じような真面目なトーンに、思わず吹き出しそうになる。
「こいつが作ったにしては、まあまあ食える味やな」
斜め向かいの席では、ラキが猛烈な勢いで箸を動かしていた。
口では偉そうなことを言っているが、その視線はすでに二匹目のヤマメを狙っているのが丸わかりだ。
俺は白飯をかき込むラキの姿を見つめながら、ニヤリと口角を上げる。
昨日の無駄すぎる発声練習で喉を痛めた借りは、この極上の塩焼きで完全に返してやった。
俺の得意げな視線に気づいたのか、ラキがピタリと動きを止めて顔を上げる。
俺の顔に書かれた優越感を正確に読み取ったようで、眉間がピクッと険しく引きつった。
ぐぬぬと悔しそうに唸りながらも、どうしても魚を食べる手だけは止められないらしい。
賑やかな食卓の笑い声に包まれながら、波乱に満ちた休日二日目の夜が穏やかに更けていく。
ーーーーーーーーーーーー
休日三日目の朝がやってきた。
今日の一日を仕切るのは、朝からやけに上機嫌なクレティさんだ。
俺たちが向かったのは、予想通りというか何というか、街と砂漠の境界線ギリギリに建つ怪しげな施設だった。
眩しい太陽が照りつける昼間だというのに、派手なネオンサインがギラギラと光を放っている。
中からはジャラジャラという硬貨の音や、電子的なファンファーレが絶え間なく漏れ聞こえてきた。
「クレティさん、ここって昼間からやってるんだな」 俺が呆れ半分で尋ねると、彼は大股で歩きながら豪快に笑った。 「ハハハ、当たり前だろヒカリ坊。勝負の神様に昼も夜も関係ねえんだよ」 彼の分厚い背中からは、これから戦場にでも向かうかのような異様な熱気が立ち昇っている。 俺は派手な電飾で彩られた入り口の看板を見上げ、思わず口を開いた。
「それにしても、こんな街の外れ」
言いかけた俺の口を、クレティさんの巨大な手が背後からバシッと塞いだ。
突然の乱暴な扱いに、俺は目を白黒させて彼の手を振り払う。
「痛っ。いきなり何するんだよ」
抗議する俺に向かって、彼はいつになく真剣な顔つきで人差し指を立てた。
「ヒカリ坊、ここでその言葉は絶対に禁句だ。外れなんて口にしたら、せっかくの運が逃げちまうぜ」
どうやら外れという言葉が、ギャンブラーにとっては縁起の悪い響きを持つらしい。
「なるほど、験担ぎか」
「おうよ。言葉には魂が宿るんだ。今日は大当たりしか言っちゃいけねえぞ」
彼は再び大声でハハハと笑い飛ばし、分厚いガラス扉を勢いよく押し開けた。
中に入ると、冷え切ったエアコンの風と独特の甘い芳香剤の匂いが鼻を突く。
薄暗いフロアには色とりどりのランプが点滅し、欲望にまみれた熱気に満ちていた。
俺たちが足を踏み入れた瞬間、周囲にいた常連客やスタッフの視線が一斉にこちらへ向く。
彼らの目には、ああまたこの大男が来たのかという呆れと諦めの色がはっきりと浮かんでいた。
いたたまれない空気を感じて俺は身を縮めるが、当のクレティさんは全く気にする様子がない。
「さあて、今日はどこから攻めるかな」
彼は両手を擦り合わせながら、フロアをぐるりと見渡した。
入り口近くには、派手な音を立てて回るスロットマシンがズラリと並んでいる。
俺がそっちへ視線を向けると、彼はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「機械相手の勝負は好きじゃなくてな」
「なんでだ。どれも同じギャンブルじゃないのか」
「機械には血が通ってねえからな。相手の息遣いを読んでこそ、本当の勝負ってもんだ」
彼はスロットの列には目もくれず、フロアのさらに奥へとずんずん進んでいく。
その迷いのない背中を追いかけながら、深い溜め息をこぼした。
彼が最終的に腰を下ろしたのは、緑色のラシャが敷かれたテキサスホールデムポーカーのテーブルだった。
俺も隣の空いた席に座らされるが、ルールすらろくに分からない。
正面に立つ蝶ネクタイ姿のディーラーと目が合うと、彼は俺に向かって微かに気の毒そうな視線を送ってきた。
身ぐるみを剥がされる前に早く逃げろと、目で警告されているような気がしてならない。
「ハハハ、お兄さん。今日は俺の可愛い弟分も一緒だ。手加減してやってくれよ」
クレティさんは手持ちのチップをテーブルにドンと置き、豪快に笑い声を上げる。
周囲の冷ややかな視線も、ディーラーの同情の目も、この男には一切届いていないらしい。
これから一体どんな泥沼が始まるのか、俺の胃は昨日とは違う意味でキリキリと痛み始めていた。
ーーーーーーーーーー
気がつけば、カジノに足を踏み入れてから一時間も経っていなかった。
テーブルに高く積まれていたはずのクレティさんのチップの山は、見事なまでにすっからかんになっている。
緑色のラシャの上には、最初に持たされた参加費の極小チップが数枚転がっているだけだ。
頭を抱えて唸る巨漢を横目に、俺は冷たい氷の入った無料のオレンジジュースを静かに傾けた。
彼がここまであっという間に負け越した理由は、火を見るよりも明らかだった。
相手の息遣いを読んで勝負するとか豪語していたくせに、この男はあまりにも顔に全てが出すぎるのだ。
手元に絵札やエースなどの強いカードが来れば、口元が緩んでニヤニヤと笑い始める。
逆にどうしようもない数字の羅列が配られると、途端に眉間に深いシワを寄せてぐぬぬと唸り声を上げる。
ポーカーフェイスという概念が、彼の辞書には最初から存在していないらしい。
対面に立つプロのディーラーさんでなくても、このテーブルにいる全員が彼の狙いを見透かしていた。
勝負に出るべきか降りるべきか、彼の顔色を観察していれば透視能力でも手に入れたかのように丸わかりなのだ。
「くそっ、次だ次。次こそ。」
たまにクレティさんが勝つ場面もあった。
それは決して彼の運や実力などではない。
最初のうちはディーラーさんの親切な配慮かと思っていたが、すぐに気がついた。
適度に小さな勝利を与えて喜ばせ、脳内に気持ちのいい汁を分泌させる。
そして完全に気が大きくなったところで、大きく張らせて身ぐるみ全てを剥ぎ取るのだ。
それがこの煌びやかなカジノという底なし沼に客を引き摺り込む、常套手段の手練手管だった。
「ハハハ、見たかヒカリ坊。俺の読み通りだぜ」
たまに小銭を取り返して大喜びしている姿が、今となってはひどく滑稽で哀れに思えてくる。
そんな巨大なデコイとなって散っていくクレティさんの隣で、俺はひたすら息を潜めていた。
彼とディーラーさん、そして他の客たちが繰り広げる(自称)心理戦の横で、安いチップをちまちまと賭け続ける。
誰も俺のような地味な初心者の動向など気にしておらず、完全にカジノの空気と同化していた。
目立たないように勝ったり負けたりを繰り返しているうちに、俺のテーブルの前にはいつの間にかちょっとしたチップの山ができあがっていた。
「なあクレティさん、俺のチップを少し分けてあげようか」
完全に資金が尽きて虚空を見つめる彼に、俺は手元の山を崩しながら声をかけた。
「ヒ、ヒカリ坊。お前、いつの間にそんなに稼いでやがったんだ」
信じられないものを見るような彼の悔しそうな視線が、見事に俺の手元へと突き刺さる。
完全にチップを溶かして虚空を見つめる大男に、俺はできるだけ刺激しないよう静かに声をかけた。
「クレティさん、今日はどうも流れが違うんじゃないか。一旦引いた方がいいんじゃ」
この人はあまりにも顔に出すぎるから、ポーカーなんて絶対にやってはいけない種目だ。
対人戦にこだわる気持ちは分かるが、まだ感情の読まれない機械相手のスロットの方がマシだとさえ思えてくる。
俺の慰めの言葉を聞いて、彼は大きなため息と共に頭をガシガシと乱暴に掻きむしった。
「おかしいな。今日は絶対に行ける気がしたんだけどなぁ」
悔しそうに唸る彼の横顔を見つめながら、どうしても納得がいかない気持ちでいっぱいだ。
リノセロスと戦った時の、あの的確で冷静な指示を出していた姿を思い出す。
閉じ込められた掘削員たちの安否を状況から瞬時に見抜いた、あの鋭い戦術眼は一体どこへ行ってしまったのだろうか。
ギャンブルの席に座った瞬間、この人の知能指数は著しく低下してしまうのかもしれない。
「ねえ、俺のチップをちょっと分けてあげようか。これならまだ戦えるだろ」
俺は手元に積み上がったチップの山を指差し、彼に向かって軽く提案してみた。
すると彼は大慌てで両手を横に振り、ものすごい剣幕で俺の申し出を拒絶する。
「馬鹿野郎。人から恵んでもらったチップで勝負したら、運の女神がそっぽ向いちまうんだよ」
どこまでも勝負師としての矜持があるのか、ただの意地っ張りなのかよく分からない理屈だ。
スッカラカンになったポケットを叩き、彼は諦めたように大きく肩をすくめた。
「金もなくなっちまったし、こうなったら仕方ねえ。久しぶりに釣りでもするか」
その思いがけない提案に、吹き出してしまった。
「昨日もシルヴィアさんと森へ行って、釣りをしてきたばっかりだぞ。どうして揃いも揃って釣りなんだよ」
俺が小さく笑うと、彼もつられたように大声でハハハと豪快に笑い声を上げる。
「そりゃそうだ。シルヴィアにサバイバルの基礎や釣りのイロハを叩き込んだのは、俺と相棒だからな」
彼のその言葉に、俺はピタリと笑いを止めて目を丸くした。
あの飄々としたお姉さんのアウトドアスキルの源流が、まさか目の前の豪快な男だったとは驚きだ。
意外な繋がりを知って妙に感心していると、彼は俺の背中をバンと力強く叩いて歩き出す。
「さあ、カジノはこれくらいにして、潮風を浴びに行くぞヒカリ坊」
俺たちはギラギラとしたネオンの建物を後にし、歩いていける距離にある近くの湾へとやってきた。
潮の香りが混じった風が頬を撫で、太陽の光が穏やかな海面をキラキラと反射している。
近くの貸しボート屋で調達してきた安物の釣竿に仕掛けをつけ、勢いよく海へ向かって投げ入れた。
糸が風を切る心地よい音が響き、赤いウキが波間にぽつんと浮かぶ。
カジノの薄暗い空間とは打って変わって、ここはどこまでも開放的で爽やかな空気が流れていた。
しばらくぼーっと海を眺めていると、俺の持っている竿が突然グンと力強くしなった。
慌ててリールを巻き上げると、銀色に光る元気な魚が水しぶきを上げて跳ね回る。
「おっ、ヒカリ坊。なかなかいいサイズじゃねえか」
隣を見ると、クレティさんのバケツの中にもすでに何匹かの魚が泳いでいた。
さっきまでの不運が嘘のように、面白いように次から次へとアタリが来る。
「ポーカーは大外れだったけど、こっちは文句なしの大漁だな」
俺がバケツの中を覗き込みながら言うと、彼は満足そうに鼻歌を歌いながら新しい餌をつけている。
「おうよ。魚の機嫌を読むのは、ディーラーの顔色を読むよりずっと簡単だからな」
負け惜しみにしか聞こえないセリフだが、その表情は生き生きとしていた。
潮風に吹かれながら糸を垂らすこの時間も、悪くない休日の過ごし方だと思えるのだった。
ーーーーーーーーー
チュラクシスの居住区に戻ると、すでに窓の外は夕闇に包まれていた。
大漁の獲物が入ったクーラーボックスをキッチンの床に置き、俺は勢いよく腕まくりをする。
昨日の塩焼きがうまくいったことで、自分の中で料理への情熱に火がついていた。
「今日は俺が調理してみたい。全部一人でやってみるよ」
包丁を手に取って振り返ると、クレティさんが腕を組んで壁によりかかっていた。
「ハハハ、いい心意気だ。やってみな」
彼は豪快に笑い、俺の手元を覗き込みながら真剣な顔つきに変わる。
「いいかヒカリ坊。川魚は皮から、海魚は身から、焼くんだぜ」
その簡潔で的確なアドバイスに、思わず感心の声を漏らした。
やはりこの大男はギャンブル狂なだけではなく、本物のサバイバル技術を持っているのだ。
「なるほど。魚の種類で焼き方を変えるのか」
素直に感心していると、彼は鼻を鳴らして得意げに胸を張った。
「海魚は脂が多いため、強めの火で短時間に、身から焼くことで旨味を閉じ込めるんだ」
理にかなった説明に感心しながら、俺は手際よく魚を捌き始める。
昨日のヤマメと同じように、体が勝手に動いて包丁が滑らかに魚を下ろしていった。
綺麗な切り身がバットに並んだところで、ふと物足りなさを覚える。
「せっかくだから、もう一品何か作りたいな」
冷蔵庫の中身を確認しながら呟くと、クレティさんが顎髭を撫でた。
「和風の魚料理なら、茶碗蒸しとか合うんじゃないか」
「茶碗蒸しか。記憶にはないけど、レシピ本を見ればなんとかなるだろ」
戸棚から古びた料理本を引っ張り出し、該当のページを開いて調理台に置く。
卵をボウルに割り入れ、菜箸で白身を切るようにシャカシャカと混ぜ合わせた。
レシピには白だしを水で割ると書いてあるが、急いでいた俺はその文字を見落としていたらしい。
濃縮タイプの原液をそのままドボドボとボウルに注ぎ込み、器に分けて蒸し器にセットする。
強火で蒸し上がるのを待つ間、グリルからは海魚の脂が焦げる極上の香りが漂い始めていた。
テーブルに並べられた夕食は、見事な出来栄えだった。
身から焼き上げた海魚は外がパリッと香ばしく、中はふっくらとジューシーに仕上がっている。
ただ、問題はその横に鎮座する、プルプルと黄金色に輝く茶碗蒸しの方だった。
みんながスプーンを手に取り、一口目を口に運んだ瞬間に空気が完全に凍りつく。
激しい塩辛さが舌を突き刺し、全員の動きがピタリと停止した。
「うわっ、塩分濃度が限界を突破しています。ヒカリ、これは致死量のナトリウムですよ」
ユミィが目を白黒させながら、慌ててコップの水を一気に飲み干した。
「完全に目が覚める味ですね。白米の推進剤としては非常に優秀です」
彼女は律儀にフォローを入れながら、白飯を大量に口へと放り込む。
「あかん、舌がビリビリ痺れるわ。絶対なんかの分量間違えとるやろ」
ラキは顔をしかめながらも、スプーンを置くことなく次の一口をすくった。
「まあ、男の料理って感じで嫌いちゃうけどな。おやっさんのカジノの負けより強烈なインパクトやな」
憎まれ口を叩きながらも、こいつは意外と嬉しそうに塩辛い茶碗蒸しを食べている。
「ふふっ、海の潮風がぎゅっと凝縮されているみたいね。ヒカリくんの気合いが入りすぎちゃったのかしら」
シルヴィアさんは優雅に微笑みながら、涼しい顔で茶碗蒸しを味わっている。
「でも、お魚の焼き加減は最高よ。ユミィちゃん、お水のおかわりをもらえるかしら」
彼女の優しい気遣いに、恥ずかしくなってうつむいた。
「ハハハ、こいつは目が覚める味だぜ。ラキ坊の言う通り、カジノの大負けも吹き飛ぶパンチ力だ」
クレティさんは大声で笑い飛ばし、小さな器を豪快に空っぽにしてしまった。
「塩分補給には最高じゃねえか」
誰も残すことなく、俺の失敗作を綺麗に平らげてくれたお皿が並んでいる。
お茶をすすりながら笑い合う四人の顔を見て、俺の胸の奥に温かいものが広がっていった。
自分が誰だったのか、過去の記憶はまだ沈んだままである。
それでも、こうして不器用な料理を笑い合える仲間がここにいる事実が心強かった。




