24話:Noisy Heroes 〜騒がしき英雄たち〜
意識が深い水底からゆっくりと浮上してくる。
重い鉄の扉を押し開けるように、どうにかまぶたを跳ね上げた。
視界に飛び込んできたのは、自室の灰色の天井だった。
規則的な空調の微かな稼働音だけが耳の奥に届く。
全身が泥のように重く、指先一つ動かすのにもとてつもない気合が必要だった。
壁のモニターへ視線を向ける。
デジタル時計の数字は、夜を迎える少し前の時刻を示していた。
作戦が終わって基地へ帰還したのが昨日の深夜だったはずだ。
単純に計算して、およそ十五時間は死んだように眠りこけていたことになる。
体を起こそうとして、思わず変な声が出た。
「痛っつ」
関節という関節が派手に軋み、筋肉の奥から鋭い痛みが走る。
ただの疲労ではなく、全身の筋繊維がズタズタに引き裂かれているような感覚だ。
ベッドの縁に手をつき、どうにか上半身を起こして息を吐いた。
それにしても、俺はどうやって自分のベッドまで戻ってきたのだろうか。
岩に座り込んだところまでは覚えている。
俺を含めた三人ともボロボロで、一歩も歩けない状態だった。
おそらく、誰かが一人ずつこの部屋まで運んでくれたに違いない。
あの惨状でピンピンして動けそうなのは、間違いなくクレティさんくらいだろう。
冷たいフローリングに裸足で降り立つ。
足の裏から伝わるひんやりとした感覚が、ぼんやりした頭を少しだけはっきりさせた。
ひざがガクガクと震え、生まれたての小鹿のような足取りで部屋を出る。
薄暗い通路には誰の気配もなく、ただ静寂だけが横たわっていた。
金属の壁を伝いながら、ゆっくりと艦橋を目指して歩を進める。
自動ドアが微かな駆動音とともにスライドして開いた。
艦橋内は青白い計器の光に照らされている。
サブオペレーター席に、大きな影が窮屈そうに丸くなっていた。
クレティさんだった。
巨体を椅子に沈め、一定のリズムで豪快ないびきをかいている。
この人も最前線で指揮を執り、限界まで戦い抜いたのだ。
俺たちをそれぞれの部屋に運んだ後、ここで力尽きたのだろう。
せっかくの休息の邪魔をしてはいけない。
俺は足音を殺し、つま先からそっと床に足を下ろした。
「ハハハハ、ヒカリ坊、随分とマヌケな歩き方だな」
突然、雷のような大声が艦橋に響き渡った。
ビクッと肩を揺らし、その場で飛び上がりそうになる。
「起きてたんですか、クレティさん」
「お前のその分かりやすい足音で起きない奴はこの船にはいないぞ」
クレティさんは豪快に笑いながら、太い首をバキバキと鳴らした。
眠気など微塵も感じさせない、いつも通りのギラギラした目だ。
「みんなをベッドに運んでくれたんですよね。ありがとうございます」
「そんなこと気にすんな。」
そこへ、背後のドアが再び開く音がした。
「おやっさん、朝っぱらからうるさいで」
ボサボサの髪を掻き毟りながら、ラキがフラフラと入ってくる。
こいつも相当な筋肉痛らしく、腰をくの字に曲げて手で押さえていた。
「ラキ坊、朝じゃねえぞ。もう夕方だ」
「マジか。俺の貴重な休日が潰れたやんけ」
ラキは恨めしそうに壁の時計を睨みつけた。
ラキもガクガクと震える足取りである。
顔面は青白く、額にはべっとりと冷や汗が張り付いていた。
どうやらこいつも、俺と同じかそれ以上に強烈な筋肉痛に襲われているらしい。
「お前、歩き方ダサすぎるぞ。関節に潤滑油差してこいよ」
俺は鼻で笑い飛ばした。
「うるさいわ、こいつ。お前のそのへっぴり腰も大概やぞ」
ラキは恨めしそうな目で俺を睨みつける。
「俺はまだ両足で立っているだけマシだ」
反論しながら胸を張ろうとした瞬間、背筋にピキッと鋭い痛みが走った。
思わず「ぐふっ」と変なカエルみたいな声が漏れる。
痛みを堪えようとして、俺は中腰のポーズで固まってしまった。
「ダッサ。」
ラキがここぞとばかりに笑い声を上げる。
だが、その笑いはすぐに苦悶の表情へと変わった。
「痛っ、あかん、腹筋ちぎれる。」
こいつは腹を押さえ、その場にうずくまって咳き込んでいる。
俺たちは互いに痛みを抱えながら、不毛な小競り合いを続けていた。
「ハハハハ。お前ら、仲がいいのは結構だが痛々しいぜ」
クレティさんが豪快に笑う。
大きな体が揺れるたび、サブオペレーター席がギシギシと悲鳴を上げた。
「これだけ体がバキバキなら、ユミィもシルヴィアもまだ当分起きてこねえだろうな」
クレティさんはふと表情を和らげ、通路の方へ視線を向けた。
「お前らも無理して起きる必要はねえ。もう少し寝てていいんだぞ」
その優しい提案に、俺は素直に頷いた。
確かに、あの二人が今すぐ起きてくるとは到底思えない。
彼女たちも限界ギリギリの状態で戦い抜いていたのだから。
特にユミィの抱えていた疲労は計り知れない。
今回の過酷な作戦の直前、あいつは格納庫に泊まり込んでいた。
俺たちが乗る機体、ソルダールフレームの最終調整と整備を行うためだ。
ほぼ二日間、一睡もせずに工具に囲まれていたのである。
思い出すだけで、ツンとした強い機械油の匂いが鼻先を掠める気がした。
火花を散らしながら、重い溶接機を小さな手で握り続ける後ろ姿。
充血した真っ赤な目と、目の下にべっとりと張り付いた濃いクマ。
俺たちが万全の状態で出撃できたのは、間違いなくユミィの執念のおかげだ。
あれだけの激務をこなした直後に、実戦へ投入されたのである。
今頃はベッドというに沈み、ピクリとも動かず眠りこけているだろう。
シルヴィアさんも同様だ。
あの人は平然とした涼しい顔で、リノセロスへ突っ込んでいった。
機体に信じられないほどの負荷をかける、無茶な機動の連続だった。
余裕のある微笑みの裏側で、どれだけ神経をすり減らしていたことか。
「そやな。あの二人が起きてくる気配は全くないわ」
ラキが痛む腰をさすりながら、近くの補助席へどさりと腰を下ろした。
深く息を吐き出し、天井の蛍光灯をぼんやりと見上げている。
「おやっさん、俺は腹減って死にそうなんやけど、なんか食うもんないんか」
力のない声で腹をさするラキに、クレティさんはニヤリと不敵な笑みを向けた。
「焦るな、ラキ坊。今日の飯は適当な携帯食料じゃ済まさないぜ」
クレティさんは大きな手で自分の顎髭をジョリジョリと撫でる。
その瞳の奥に、いつものギラギラとした光が宿っていた。
「全員が起きてきたら、街へ繰り出すぞ」
予想外の言葉に、俺とラキは同時に顔を上げる。
「ド派手に祝勝会をやるんだ。当然、俺の奢りだ」
その一言を聞いた瞬間、俺たちの顔は見事にほころんだ。
痛む体も筋肉の軋みも忘れ、俺たちは満面の笑みで顔を見合わせた。
「ハハハハ、おう、好きなだけ食って飲んで構わねえぞ」
クレティさんの太い声が、艦橋に明るく響き渡る。
ーーーーーーーーー
祝勝会への期待を胸に、俺たちは連れ立って艦橋を後にした。
と言っても、二人とも足取りはボロボロのポンコツそのものだ。
一歩踏み出すごとに、膝からミシッと嫌な音が鳴り響く。
薄暗い通路の壁に肩を預けながら、俺は隣を歩くラキをねめつけた。
自室のドアの前にたどり着く頃には、完全に息が上がっていた。
「祝勝会で一番高い肉を頼むのは俺だ」
「甘いわ。俺はメニューの端から端まで全部頼んだるからな」
憎まれ口を叩き合い、それぞれの部屋へと転がり込む。
ドアが閉まる音が、やけに重々しく耳に響いた。
ベッドに倒れ込むと、シーツの冷たさが火照った体に心地よい。
目を閉じると、激戦の光景が脳裏にフラッシュバックする。
土煙と硝煙の焦げた匂いが、まだ鼻の奥にこびりついているようだ。
重武装の巨大な敵、リノセロス。
分厚い装甲がぶつかり合う鈍い音が、鼓膜の奥で蘇ってくる。
恐ろしい相手だった。
だが、俺はずっと不思議な感覚に囚われていた。
あの二匹は親子でも夫婦でもなく、兄弟だったのではないか。
しかも、一回り体格の小さな方が兄貴分だった気がしてならない。
なぜそんな不確かなことを感じたのだろうか。
俺は何を馬鹿な想像をしているのだろう。
自嘲気味に笑うと、急激な睡魔が波のように押し寄せてきた。
俺の意識は再び、深く暗い泥の底へと沈んでいった。
ーーーーーーーーー
アラームの音で、無理やり現実へ引き戻された。
壁のデジタル時計は、午後七時過ぎの時刻を赤い光で示している。
パチリと目を開けると、視界がさっきよりもずっとクリアだった。
深く息を吸い込むと、肺の隅々まで新鮮な空気が行き渡る。
これはもしや、驚異的な回復力で筋肉痛が完治したのではないか。
「おお、いける。完全に復活したぞ」
歓喜の声を上げ、ベッドから勢いよく飛び起きた。
着地した瞬間、両足のふくらはぎから爆発的な激痛が駆け上がる。
「ぎゃあ」
無様な悲鳴を上げ、そのまま冷たい床にうつ伏せで倒れ込んだ。
気のせいだった。
全く治っていないどころか、筋肉が硬直してさっきより痛みが悪化しているようだ。
幻の超回復を信じた自分を、殴り飛ばしてやりたかった。
冷たいフローリングに顔を押し付け、しばらく亀のようにうずくまる。
このまま床と一体化してしまいたい衝動に駆られた。
だが、祝勝会の肉が俺の胃袋を呼んでいる。
気合を入れ直し、壁にすがりつきながらどうにか立ち上がった。
全身にへばりついた汗の気持ち悪さが、今になって急に気になり始める。
とにかくシャワーを浴びて、この泥のような疲労を洗い流さなければ。
よろける足を引きずり、俺はのろのろと部屋を抜け出した。
共用のシャワールームは、すでに薄暗く静まり返っていた。
熱めの温度に設定し、蛇口を思い切りひねる。
勢いよく飛び出したお湯が、強張った肩や背中を容赦なく叩きつける。
「あっつ!でも良い!」
立ち上る白い湯気が、狭い空間をあっという間に満たしていく。
シャンプーの爽やかな柑橘系の香りが、鼻腔をくすぐった。
熱いお湯が血流を巡らせ、こわばった筋繊維を少しずつ解きほぐしていく。
先ほどまでの絶望的な激痛が、じんわりと心地よい気怠さへと変わっていくのが分かる。
これなら、なんとか自分の足で店まで歩いて行けそうだ。
水滴を拭き取りながら、俺はこれからの宴に思いを馳せてニヤリと笑った。
シャワーを浴びてさっぱりした俺は、艦橋へと足を運んだ。
自動ドアが開くと、石鹸の爽やかな香りと共に温かい空気が漂ってくる。
艦橋のコンソール前には、見違えるほどすっきりした顔のユミィが立っていた。
二日間の徹夜整備で生気を失っていた肌が、嘘のようにツヤツヤと輝いている。
泥のように眠ったおかげで、完全に充電が完了したようだ。
「めちゃくちゃ肌の調子良さそうだな」
俺が声をかけると、ユミィは誇らしげに胸を張った。
「当然です、ヒカリ。十分な睡眠は最高のメンテナンスですからね」
「機械だけじゃなくて自分もメンテナンス完了ってわけか」
隣にいたラキが髪を拭きながら鼻で笑う。
こいつもシャワーを浴びてきたらしく、髪から微かにミントの香りがしていた。
「よし、ユミィ。すまねえが、そろそろシルヴィアを起こしてきてくれねえか」
艦長席に座るクレティさんが、太い腕を組みながら言った。
「わかりました。シルビーさん、起こさないと明日まで寝ちゃいますからね」
ユミィは深く頷くと、軽やかな足取りで艦橋を後にした。
足音が遠ざかり、艦橋内に束の間の静寂が戻ってくる。
クレティさんがゆっくりと首を回し、俺とラキの方を振り返った。
その表情からいつものおちゃらけた雰囲気が消え、真剣な眼差しが変わる。
「ヒカリ坊、ラキ坊。改めて戦闘記録を見させてもらったぞ」
重みのある声が、艦橋の空気をごくりと緊張させた。
俺たちは思わず背筋を伸ばし、顔を見合わせる。
「あの凄まじい状況で、よくぞ二匹のリノセロスを相手に持ちこたえた」
クレティさんは大きな手をコンソールの縁に置いた。
「お前たちの土壇場で見せた力、見事だった」
「ソルダールフレームの限界を超えたあの大立ち回りは、データを見ているだけでも痺れたぜ」
「何より、お前たちが無事で、こうして生きて戻ってきてくれたことが最大の戦果だ」
「本当によくやった。俺はお前たちを誇りに思うぞ」
真っ直ぐな瞳で朗々と語られる熱い言葉に、俺の胸が熱くなった。
一切の飾りのない絶賛だ。
なんだか途方もなく照れくさくなり、俺は思わず視線を泳がせた。
首のあたりがじんわりと熱くなっていくのが自分でも分かる。
こういう熱血な空気は、どうにも顔が痒くなって仕方がなかった。
隣に立っているラキを、チラリと横目で見やる。
いつもニヒルな笑みを浮かべてすかしているこいつのは明後日の方向を向きながら、必死に指で鼻の頭をいじっていた。
しかし、全く隠しきれていない。
白い肌の耳たぶが、真っ赤に染まり上がっている。
「なんやねん、こっち見んなや」
視線に気づいたラキが、低い声で威嚇するように囁いてきた。
俺たちは互いに照れ隠しに必死だった。
クレティさんはそんな俺たちのやり取りを見て、満足そうに鼻を鳴らした。
「ハハハハ。二人とも、たまには素直に褒められておけ」
「クレティさん、そういう熱いスピーチはガラじゃないですって」
俺が照れくささを誤魔化すように言うと、艦橋の扉が再び開いた。
艦橋のドアが再び開き、ユミィが戻ってきた。
その背中には、大きな影がもう一つ張り付いている。
「ほらシルビーさん、シャキッとしてください」
「あらあら、ユミィちゃんは本当に面倒見がいいわね」
まるで要介護者のように腕を引かれ、シルヴィアさんがゆっくりと姿を現した。
濡れた長い髪から、フローラルな甘い香りが漂ってくる。
どうやらユミィのスパルタな手ほどきで、シャワーまで浴びさせられてきたらしい。
その顔にはいつもの余裕ある微笑みが浮かんでいる。
だが、足元はやっぱり少しだけふらついていた。
激戦の疲労は、シャワーを浴びたくらいで完全に抜けるものではない。
「全員揃いましたね。ところでクレティさん」
ユミィが手元の端末をピコピコと操作しながら口を開いた。
「祝勝会を開くという話ですが、朗報です」
「おう、なんだ。一番高いコースを見つけてくれたのか」
「いえ。今回はクレティさんのお財布を心配する必要は一切ありません」
その言葉が落ちた瞬間、艦橋の空気がピタリと凍りついた。
俺とラキは顔を見合わせ、目を丸くする。
「ユミィ。それってどういう?」
俺が身を乗り出すと、ラキも横から顔を突き出してきた。
ユミィはアホ毛を激しく動かしながらドヤ顔で端末の画面を俺たちに向けた。
「今回の掘削場護衛ミッション、信じられない額の報酬が振り込まれました」
「マジか。いくらだ」
俺が画面を覗き込むと、表示されたゼロの数にめまいがした。
「なんやこれ。バグか。システムのエラーちゃうんか」
ラキが目をひん剥いて、食い入るように画面を見つめる。
「エラーではありません。正真正銘、私たちの口座にある金額です」
ユミィは端末を胸に抱き直し、誇らしげに胸を張った。
「弾薬の補充費、ソルダールフレームの修理費、すべて差し引いても桁違いの大黒字です」
「どういうことだ。あの依頼、そんなに割りのいい仕事じゃなかったはずだぞ」
俺が尋ねると、ユミィの表情が少しだけ柔らかくなった。
「あの掘削場の人たちからの、感謝の気持ちですよ」
餓死寸前だった彼らを、俺たちはギリギリのところで救い出したのだ。
絶望の底にいた彼らが、なけなしの資金をかき集めて色を付けてくれたらしい。
「それに、もう一つ大きな理由があります」
ユミィは端末を操作し、見慣れないロゴマークを表示させた。
「あの掘削場、実はヴァリィ商会の管轄だったんです」
「ヴァリィ商会って、あの金持ちどもかよ」
ラキの叫びに、クレティさんがニヤリと口角を上げる。
「そこからの特別ボーナスが上乗せされているというわけね」
シルヴィアさんが納得したようにポンと手を打った。
「はい。そういうわけなので、今日は値段を見ずに注文しても誰も怒りません」
「ハハハハ。よくやったユミィ。これで俺の懐も痛まねえってわけだ」
クレティさんが歓喜の雄叫びを上げ、太い腕を天井に突き上げる。
「よっしゃ。今日は食い倒れるまで飲み明かしたるで」
痛む体も筋肉の軋みも、この瞬間完全に吹き飛んでいた。
金と肉の匂いに釣られ、俺たちの士気は今度こそ最高潮に達したのである。
ーーーーーーーーー
分厚い樫の木の扉を両手で押し開ける。
ギィッと古めかしい蝶番が鳴り、温かい空気が全身を包み込んだ。
ここは俺がアヴェントゥラに入った日、クレティさんが最初に連れてきてくれた酒場だ。
あの時は多少の緊張もあったが、今日は胃袋が盛大に自己主張をしている。
ひどい筋肉痛の軋みなど、目の前に広がる景色と匂いの前では些細な問題だった。
店内は石造りの壁には松明を模したランプが掛けられ、柔らかいオレンジ色の光を落としている。
厨房の方からは、香ばしく焼ける肉の脂と焦げたニンニクの匂いが漂ってきた。
天井には太い木の梁がむき出しになり、使い込まれた分厚い丸テーブルがいくつも並んでいる。
いつもは荒くれ者で溢れているが、今日は珍しく客足が落ち着いていた。
俺たちは中央にある一番大きなテーブルを陣取り、木の椅子に腰を下ろす。
席に着くなり、ユミィが両手で抱えるようにして木張りのメニュー表を開いた。
「さあ、今日は口座の残高を一切気にする必要はありません」
ユミィは得意げに胸を張り、俺たちの顔を順番に見渡す。
「好きなものを好きなだけ、お腹がはち切れるまで頼んでください」
「よっしゃ。じゃあとりあえず、この骨付き肉の盛り合わせを五皿や」
ラキが身を乗り出し、メニュー表の端から端まで指でなぞっていく。
「それから串焼きと海鮮のフリットも追加や。全部特盛りで頼むで」
「こいつの言う通りだ。今日は遠慮してたらバチが当たるぞ」
俺も便乗して、近くを通りかかった店員さんに向かって大きく手を挙げた。
「ふふっ、二人とも本当にいい食べっぷりね」
シルヴィアさんが頬杖をつき、嬉しそうに目を細めて笑う。
「ヒカリくんもラキくんも、怪我が治る前に胃袋が破裂しそうね」
「ハハハハ、お前ら本当に元気だな」
クレティさんが豪快に笑いながら、どっかりと椅子に深く背中を預ける。
しばらくして、テーブルの上に巨大な木樽のジョッキが五つドンと置かれた。
表面には冷たい水滴がびっしりと付き、縁からはふんわりとした白い泡がこぼれ落ちている。
キンキンに冷えた特製のエールだ。
ジョッキの太い持ち手を握ると、ずっしりとした重みが腕の筋肉に伝わってくる。
全員の手に琥珀色の液体が行き渡ったところで、クレティさんがゆっくりと立ち上がった。
「よし、全員ジョッキを持て」
低く通る声が響き、テーブルの上の空気が少しだけ引き締まる。
俺たちは背筋を伸ばし、重いジョッキを目の高さまで持ち上げた。
「お前ら、今回の作戦は本当によく戦い抜いた」
クレティさんは俺たち一人一人の顔を、いつになく真剣な眼差しで見つめていく。
「極限の状況で仲間を信じ、全員揃ってよく生きて帰ってきた」
その真っ直ぐで飾らない言葉に、俺は自然とジョッキを握る手に力を込めた。
隣を見ると、ラキも真顔になって静かに頷いている。
「俺たちの輝かしい勝利と、この馬鹿みたいにでかい稼ぎに」
クレティさんがニヤリと不敵な笑みを浮かべ、ジョッキを高く掲げた。
「「「「「乾杯」」」」」
五つの分厚い木のジョッキが、テーブルの中央で勢いよくぶつかり合う。
ガァンと鈍く重い音が鳴り響き、白い泡が宙を舞って机に飛び散った。
俺は一気にジョッキを傾け、冷たいエールを喉の奥へ流し込む。
炭酸の心地よい刺激と、麦の深い苦味が口いっぱいに広がっていく。
喉を鳴らして半分ほど飲み干し、プハァと大きな息を吐き出した。
最高だ。
体の隅々の細胞まで、冷たい液体が染み渡っていくのが分かる。
「くぅー、五臓六腑に染み渡るで。」
ラキが口の周りに泡をつけたまま、天井を仰いで叫ぶ。
「疲れが一瞬で吹き飛びそうです」
ユミィも両手でジョッキを抱え、パッと顔を明るく輝かせた。
シルヴィアさんも優雅にジョッキを傾け、くすくすと笑い声を漏らす。
テーブルには次々と湯気を立てる肉料理が運ばれてくる。
ユミィとラキが最後の一つの肉を巡って、フォークで小競り合いを始めた。
シルヴィアさんがそれを楽しそうに眺め、クレティさんが大きな口を開けて肉にかぶりつく。
この騒がしくて温かい空間こそが、今の俺の帰る場所なのだ。
俺はもう一度ジョッキを口に運ぶ。
この冷たくて苦いエールの一口を、絶対に一生忘れないだろう。
ーーーーーーーーーーー
テーブルの上はあっという間に空の皿とジョッキで埋め尽くされていく。
分厚い肉の塊に齧り付き、冷たいエールで胃袋へ流し込む。
腹の底からじわじわと湧き上がる満腹感が、たまらなく心地よかった。
だが、ラキは余計な口を滑らせた。
「なあ。今回のMVPは誰やと思う」
ラキのその一言で、テーブルの空気がピタリと止まった。
ユミィが海鮮のフリットを頬張る動きを止める。
シルヴィアさんもグラスを口元へ運ぶ手を空中で止めた。
クレティさんに至っては、巨大な骨付き肉を両手で持ったまま目を瞬かせている。
誰が一番活躍したか。
それはこの場にいる全員が、密かに自負していることだったからだ。
ユミィの功績は計り知れない。
彼女は丸二日間一睡もせず、ソルダールフレームの整備と修理を完璧にこなしてくれた。
鼻先をかすめる強烈な機械油の匂いと、真っ赤に充血したあの目。
彼女の執念の調整がなければ、俺たちは出撃から五分で鉄くずになっていただろう。
縁の下の力持ちとして、彼女の貢献度は間違いなくトップだ。
ラキの活躍も凄まじかった。
巨大なリノセロスが怒り狂い、突進してきたあの絶望的な瞬間。
こいつは機体を強引に押し込み、巨大な口の中へ最大出力のハンドガンをぶち込んだのだ。
装甲の隙間から噴き出す高熱の蒸気と、鼓膜を破るような激しい爆発音。
あの命知らずな一撃がなければ、俺たちは間違いなく敗北していた。
シルヴィアさんの働きも忘れてはいけない。
前日に小型竜の群れを単騎で掃討し、安全な進行ルートを確保してくれたのはこの人だ。
さらに本戦では、土煙で視界が潰れる乱戦状態を俯瞰で完璧に把握していた。
俺たちを的確な位置へ誘導し、あの強固な装甲を打ち破るトドメの作戦を立案したのも彼女だ。
戦場の支配者として、その手腕は完璧の一言に尽きる。
そして、何より規格外だったのがクレティさんである。
あの凶悪なリノセロスを相手に、たった一人で正面から殴り合いを演じたのだ。
長年の経験からくる戦術の冴え。
あの化け物じみた強さは、思い出すだけで背筋がゾクっと震える。
それぞれの顔を交互に見ながら、俺は静かに息をのんだ。
全員が文句なしの英雄であり、誰が欠けても勝利はなかった。
だが、俺だってここで簡単に引き下がる気はない。
シルヴィアさんの作戦通りに動き、あの分厚い装甲の隙間にトドメの刃を突き立てたのは俺なのだ。
極限の緊張感の中で放ったあの一撃の感触が、まだ右手に熱く残っている。
俺の視線がラキとぶつかった。
「けどな」
ラキがジョッキをドンとテーブルに置き、唐突に口を開いた。
俺は身構えたが、こいつの様子がどうもおかしい。
いつもは皮肉めいた笑みを浮かべる顔が、首の根元まで真っ赤に染まっている。
目はとろんと濁り、焦点が全く合っていない。
どうやらこいつは、俺が思っていた以上に酒に弱いらしい。
「俺は、全然あかんかった」
ぽつりとこぼれたその声は、ひどく弱々しかった。
「口の中に銃を突っ込むんが精一杯やった」
ラキは両手で顔を覆い、大きく肩を落とした。
グラスの氷がカランと音を立てて溶ける。
「おやっさんみたいに一人で敵を圧倒する力もない。シルヴィアさんみたいに冷静な判断もできへんかった」
こいつの口から出るのは、珍しいほど素直な後悔の言葉だった。
「もっと強うならんとあかんのに。俺はまだまだガキや」
湿っぽい声が、騒がしい酒場の喧騒の中にゆっくりと溶けていく。
俺たちは誰も言葉を発せず、ただ静かにこいつの言葉を聞いていた。
「ラキ、あなたは十分に自分の役割を果たしましたよ」
ユミィが手元のナプキンを丁寧に畳みながら、真っ直ぐにラキを見つめる。
「そうよ。ラキくんが隙を作ってくれたから、私の作戦も生きたの」
シルヴィアさんも優しい声で相槌を打ち、空になったグラスをテーブルへ置いた。
ラキは顔を覆ったまま小さく肩を震わせている。
「ハハハハ、お前は本当に面倒くせえ奴だな」
クレティさんが大笑いし、巨大な手でラキの頭を乱暴に撫で回した。
「強くなりてえなら、明日から俺が直々にしごいてやる。覚悟しておけよ」
「やめてくれや、おやっさん。死んでまうわ」
ラキが涙目で抗議するが、その声には少しだけ照れくささが混じっていた。
俺は目の前のエールを飲み干し、ふと煤けた天井を見上げた。
記憶のない俺に、明日を生きる理由をくれたこの場所。
背中を預けられる仲間がいる。
これ以上の幸せが、果たして世界のどこにあるのだろう。
胸の奥から湧き上がる熱い感情を、俺は力強く言葉に乗せた。
筋肉痛の軋みも、激戦の疲労も、今はただ心地よい。 俺たちの騒がしくて愛おしい日々は、きっとこれからも続いていく。
ーーーーーーーー
気恥ずかしい表明が終わると、テーブルには再び騒がしい日常が戻ってきた。
ラキは先ほどの涙目を誤魔化すように、巨大なソーセージへ豪快にかぶりついている。
俺も負けじと、分厚いステーキ肉をナイフで切り分けて次々と胃袋へ放り込んだ。
クレティさんは店員さんを呼び止め、新しい木樽のジョッキを三つ同時に注文している。
香ばしい肉の脂とエールの苦い匂いが、テーブルの周りを濃厚に漂っていた。
しばらくの間、俺たちは中身のない他愛もない話で盛り上がった。
命のやり取りから遠く離れた、ただただの平和で騒がしい時間だ。
満腹感が頂点に達し、少しだけ眠気が襲ってきた頃だった。
ユミィが突然、テーブルにドンと両手をついて身を乗り出してきた。
「今回のミッション記録もそうですし、いつもそうなんですけど」
真っ直ぐな視線が、俺たち全員の顔を順番に射抜いていく。
その声は普段の実直なトーンよりも、少しだけ熱を帯びて上ずっていた。
なんだか嫌な予感がして、口に運ぼうとしたフライドポテトを皿に戻す。
「戦ってる時、みんな静かすぎませんか」
唐突な問いかけに、テーブルの空気がまたしてもピタと止まった。
俺は思わずシルヴィアさんと顔を見合わせる。
ラキも口の端にマスタードをつけたまま、ぽかんと口を開けていた。
クレティさんに至っては、ジョッキを持ったまま完全に動きを停止していた。
全員の頭の上に、巨大な「?」が浮かんでいるのが見える。
激戦の最中に静かになるのは、当たり前のことではないか。
一瞬の油断が死に直結する極限状態だ。
操縦桿を握る手に全神経を集中させていれば、自然と無口にもなる。
だが、ユミィは俺たちの戸惑う視線を完全に無視した。
「ギリギリの戦いだから、余裕がないのは分かります」
彼女は胸の前で両手をギュッと握り締め、さらに身を乗り出してくる。
顔が近い。
吐息に混じる強いアルコールの匂いが、俺の鼻先をかすめた。
「でも、もっとこう、必殺技とか叫んでほしいんです」
ユミィの口から飛び出した予想外の単語に、思考回路がショートする。
必殺技。
ヒッサツワザ。
正義の味方が悪者を倒す時に放つアレのことだろうか。
戦場で、そんなものを叫ぶが余裕どこにいるというのか。
「い、いきなり何を言い出すんや。」
ラキがたまらずツッコミを入れるが、ユミィの耳には全く届いていない。
「装甲を貫く時とか、せめて武器の名前くらい叫ぶべきです」
「叫んだからって威力が上がるわけじゃないだろ」
俺の真っ当な指摘も、彼女の謎の情熱の前には無力だった。
「気合の問題です。機体への愛とロマンが足りていません」
バンバンとテーブルを叩きながら、ユミィは力説を続ける。
普段の冷静な彼女からは想像もつかない、異様なテンションの高さだ。
顔は真っ赤に染まり、焦点も少しだけ合っていないように見える。
だいぶ酔っているのではないかと思い、俺はふと彼女の横へ視線をずらした。
そこには大きな木樽のジョッキが、まるで城壁のように高く積み上げられているのだ。
ざっと数えただけでも、十個は下らない。
いつの間にこんな量のアルコールを胃袋に流し込んでいたのだろうか。
徹夜明けの空きっ腹に、度数の高いエールを浴びるように飲んだ結果がこれだ。
「おーい、ユミィ。お前ちょっと飲みすぎだぞ」
俺が慌てて止めに入ろうとすると、彼女はドンと自分の胸を叩いた。
「私は酔っていません。メカニックとしての切実な願いを訴えているだけです」
「いや、完全に出来上がってるやんけ。目ぇ座っとるぞ」
ラキが引きつった笑いを浮かべ、椅子ごとジリリと後ずさる。
「ヒカリくんもラキくんも、ユミィちゃんの言う通り少し静かかもしれないわね」
シルヴィアさんが面白そうにくすくすと笑い、火に油を注ぐ。
「シルヴィアさんまで何言ってるんですか。戦場で叫んでたら舌噛みますよ」
「ハハハハ。いいじゃねえか、必殺技。俺も次から何か考えておくぜ」
クレティさんまでが大声で笑い飛ばし、悪ノリに参加し始めた。
「クレティさんは分かってくれますよね。やっぱりロマンは大事です」
ユミィは嬉しそうに頷き、さらに空のジョッキを高く掲げた。
「まずヒカリ。あなたのことです」
ユミィが空のジョッキをドンと置き、俺の鼻先へビシッと指を突きつけてきた。
突然の指名に、俺はビクッと肩を揺らす。
「なんで俺なんだよ。俺は普通に戦ってただけだぞ」
「その普通が問題なんです。もったいないオバケが出ますよ」
アルコールの回った熱い吐息が、テーブル越しに吹き付けてくる。
ユミィの目は完全に据わっており、有無を言わさない迫力があった。
「あなたには『直刀ウルグラ』という素晴らしい専用武器があるじゃないですか」
「なのに、なぜそれを振るう時に名前を叫ばないんですか」
怒りを滲ませた声が、居酒屋の喧騒を切り裂いて響き渡る。
「研ぎ澄まされたウルグラが泣いています」
「泣いてないだろ。」
「心がないですね。あれはロマンの結晶なんです」
バンバンとテーブルを叩きながら、彼女は猛烈な勢いで捲し立ててくる。
俺はたじろぎ、椅子の背もたれに深く寄りかかった。
助けを求めて、チラリと周囲のメンバーへ視線を送る。
シルヴィアさんは琥珀色のエールを傾けながら、ただニコニコと微笑んでいた。
クレティさんは腹を抱えて、さらに大きな声でガハハと笑っている。
この二人は底なしの酒豪らしく、何杯飲んでも全く様子が変わらない。
ならば隣のラキはどうだと、すがるような思いで視線を送る。
「お前、なんとか言ってやってくれ」
「俺は関係ないわ。お前が悪いんやろ、ヒカリ」
先ほどまで涙目で酔っ払っていたはずのラキが、涼しい顔で言い放った。
こいつの手には、なぜか温かい緑茶の入った湯呑みが握られている。
どうやらお茶を数口すすっただけで、完全に元の憎たらしい性格へ回復したようだ。
「裏切り者め。さっきまで泣いてたくせに」
「なんのことや。俺の記憶には一切存在せえへんな」
ラキがしれっと湯呑みをすする横で、ユミィの矛先がさらに別の方向へ向かう。
「そもそも、名前が適当すぎるんですよ」
彼女は俺の顔から指を外し、今度は空中の見えない何かを指差した。
「カミシモモードのルベルジンだってそうです」
俺とラキは顔を見合わせた。
「あんなにカッコいい大剣を装備しているのに、名前がそのまま『大剣』ってどういうことですか」
「いやぁ。分かりやすいだろ」
「かわいそうです。あの巨大な刃が悲しみの涙で錆びてしまいます」
ユミィは両手で顔を覆い、大げさに天を仰いだ。
「もっとこう、魂を震わせるような名前があるはずです」
「たとえばどんな名前だよ」
俺が恐る恐る尋ねると、彼女はバッと顔を上げて目を輝かせた。
その瞳には、メカニックとしての狂気じみた情熱が宿っていたが、一気に熱が引いていく。
「本当は分かっています。実戦でそんな余裕がないことくらい」
彼女は急に声のトーンを落とし、しんみりとした口調になった。
「でも、本当はもっと叫んでほしいんです」
「だから、どんな?」
「何々ドライバー、とか。何々ハンマー、とか」
ユミィは両手をギュッと握りしめ、仮想の武器を振り下ろすポーズをとった。
「そういう必殺技の名前を叫んでから、敵にトドメを打ってほしいんです」
ユミィの理不尽な必殺技の要求に、俺たちは完全に言葉を失っていた。
ラキはお茶をすすりながら露骨に目を逸らしている。
シルヴィアさんは楽しそうに笑い、クレティさんも腹を抱えていた。
俺が適当な必殺技の名前をでっち上げようと口を開きかけた時。
背後でギィッと分厚い樫の木の扉が大きな音を立てて開いた。
冷たい夜風と一緒に、大勢の足音が店内へなだれ込んでくる。
五人や十人ではない。
ざっと数えても二十人以上の大人数だ。
酒場の空気が、一気にざわめきに包まれた。
俺はジョッキを置き、入り口の方へ視線を向ける。
土埃にまみれた作業着姿の男たちが、店の入り口でキョロキョロと辺りを見回している。
やがてその中の一人が、俺たちのテーブルを指差した。
集団の視線が一斉にこちらへ集まる。
ドドドドと床板を揺らしながら、大人数が一目散に駆け寄ってきた。
何事かと俺は身構え、腰を浮かせる。
「誰だ。おやっさんの借金取りか」
ラキが湯呑みを置き、低い声で鋭く言った。
「ハハハハ、馬鹿野郎。俺はツケでギャンブルをしたことはないぞ」
クレティさんは目を泳がせながら、押し寄せる集団を見つめている。
どうやらこの顔の広いおやじにも、全く見当がついていないらしい。
俺たちのテーブルを囲むように、男たちがずらりと立ち並んだ。
先頭に立つのは、日に焼けた顔の中年男性だ。
分厚い手には、いくつもの擦り傷やタコが刻まれている。
男は俺たちの顔を順番に見渡すと、突然深く頭を下げた。
後ろに続く男たちも、一斉にバサッと頭を下げる。
「本当に、本当にありがとうございました」
震えるような太い声が、居酒屋の喧騒を切り裂いた。
「あんたたちのおかげで、俺たちは地獄から生還できました」
「餓死寸前だった俺たちを、誰一人欠けることなく助け出してくれた」
「この命の恩は、一生忘れません」
俺は瞬きを繰り返し、目の前の状況を頭の中で必死に繋ぎ合わせた。
作業着、大所帯、餓死寸前、そして昨日の任務。
「なるほど。あんたたち、救出された掘削場の人たちか」
俺が尋ねると、代表者らしい男が顔を上げて力強く頷いた。
目にはうっすらと涙が浮かんでいるのが見える。
「緊急搬送されなかった、自分の足で歩けるメンバーだけで来ました」
男は照れくさそうに頭を掻いた。
「どうしても直接お礼が言いたくて、あちこち探し回っていたんです」
「入院した連中も、みんなベッドの上で泣いて感謝していました」
熱を帯びた言葉の数々が、俺たちの胸の奥にじんわりと染み込んでくる。
「なんや。わざわざそんなことのために歩き回ってたんか」
ラキが呆れたように言っているが、口元をわずかに緩ませた。
「みんな無事で何よりです。しっかり食べて、ゆっくり休んでくださいね」
シルヴィアさんが優しく微笑み、男たちに労いの言葉をかける。
「機材の修理が必要なら、いつでもアヴェントゥラに依頼してください」
ユミィも立ち上がり、真っ直ぐな瞳で男たちを見つめた。
すっかり酔いも冷めたようで、いつもの実直なメカニックの顔に戻っている。
「ハハハハ。お前ら、無事に生きて帰れて本当によかったな」
クレティさんが立ち上がり、大きな手で男の肩をバンバンと叩いた。
男の体がグラグラと揺れるが、その顔には満面の笑みが浮かんでいる。
気がつけば、俺もユミィと顔を見合わせて笑っていた。
全身の関節はまだミシギシと悲鳴を上げている。
必殺技を叫べという無茶振りも、まだ解決していない。
だが、そんなことはもうどうでもよかった。
誰かの命を繋ぎ止めることができたという確かな実感が、俺たちの体温を少しだけ上げている。
「おやっさん。こうなったら、この人たちの分も全部奢りやな」
ラキの言葉に、クレティさんが豪快に笑い声を上げる。
「おう、もちろんだ。今日はアヴェントゥラの奢りだ。全員腹いっぱい食っていけ」
「おーい。こいつら全員に極上のエールを持ってきてくれ」
クレティさんが太い腕を振り上げ、店中に響き渡る声で注文を入れた。
「一番でかい樽ごと持ってきて構わねえぞ。今日は俺の奢りだ」
腹の底から湧き上がるような笑い声が、石造りの壁をビリビリと震わせる。
「いや、ちょっと待ってください」 先頭に立っていた掘削員のリーダーが、すっと前に進み出た。
ゴツゴツとした厚い手で、クレティさんの大きな腕を優しく、だが力強く制する。
日に焼けた顔には、これ以上ないほど満面の笑みが浮かんでいた。
「冗談じゃないですよ。ここは我々に支払わせてくれませんか」
男の言葉に、後ろに控えていた作業着の集団も一斉に力強く頷く。
「命を救ってもらった上に、酒までご馳走になるわけにはいきません」
「俺たちのポケットマネーから、ありったけの感謝を払わせてください」
熱を帯びた言葉が、温かい居酒屋の空気の中に溶け込んでいく。
だが、その感動的な空気をに水をさすような声が横から響く。
「お言葉ですが、皆さんからはすでにものすごい額のお支払いを受け取っています」
ユミィが携帯端末を片手に、極めて冷静なトーンで切り出したのだ。
「桁を間違えたのかと思うほどの特別報酬でした」
「これ以上の散財は、皆さんの今後の生活再建に支障をきたす確率が高いです」
実直すぎるメカニックの正論に、男たちは見事に言葉を詰まらせてしまう。
「おい、ユミィ。そこは野暮なことを言うもんじゃねえぞ」
クレティさんが大きな手で、ユミィの口を塞ぐように前に出た。
「クレティさん、私はただ事実と財務状況を」
「男が一度腹を括って奢ると言ったんだ。漢気に水を差すんじゃねえ」
クレティさんのギラギラした瞳でユミィを見据える。
ユミィもその気迫に押されたのか、少しだけ不満そうに口を閉ざす。
俺も隣のラキも、ただ黙って大人たちのやり取りを見守っていた。
「そういうことなら仕方ねえな」
クレティさんはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、両手をポンと打ち鳴らす。
「俺は奢るのを引っ込めて、この宴を全力で盛り上げる方に回るとしよう」
そう言うが早いか、クレティさんはお店の端っこから黒い棒状の物体を取り出してきた。
カラオケ用のマイクである。
スイッチを入れると、キーンという甲高いハウリング音が店内に鳴り響いた。
「テステス。おう、マイクの入りは最高だな」
巨大なスピーカーからの音声が、鼓膜をビリビリと震わせる。
「ハハハハ。さあ、宴の第二ラウンドの始まりだぞ」
シルヴィアさんが楽しそうに手を叩き、掘削員たちも一斉に拳を突き上げた。
香ばしい肉の匂いとエールの苦い香りが、再び俺たちの周りを濃厚に包み込む。
痛む体も忘れて、俺は空になったジョッキを片手に立ち上がった。
クレティさんが手にしたマイクを強く握りしめ、大きく息を吸い込んだ。
店内のどこに設置されているのか分からないスピーカーから、重低音の効いた前奏が鳴り響く。
地響きのようなドラムの音に合わせ、太い声で歌い始めたのは見た目通りに雄々しい曲だった。
荒波に揉まれる海の男たちを歌ったような、泥臭くて熱いメロディーだ。
居酒屋の木組みの天井が、その強烈な声量でビリビリと震えている。
掘削員たちが目を輝かせ、手にしたジョッキをドンとテーブルに置いた。
周りの男たちも顔を見合わせ、一斉に手拍子を打ち始める。
どうやら彼らの間では、誰もが知る有名な歌らしい。
あっという間に男たちは肩を組み合い、クレティさんと一緒に大合唱を始めた。
ただ馬鹿騒ぎをしているだけに見えて、実は相手の年齢層や好みに合わせた完璧な選曲のようだ。
こういうさりげない気遣いができるからこそ、この人は誰からも慕われる。
俺は感心しながら、熱気に包まれた店内を眺めていた。
すると隣に座っていたラキが、突然ガタッと音を立てて立ち上がった。
なぜか妙に焦ったような顔をしている。
「ちょっと待っとけや」
それだけ言い残すと、こいつは脱兎のごとく居酒屋の入り口へ向かって駆け出した。
ラキは重い木の扉を勢いよく開け放つ。
そのまま夜の暗闇の中へ、筋肉痛の関節を軋ませながら全速力で走り去ってしまった。
「なんだあいつ。」
俺が首を傾げていると、クレティさんの熱唱がクライマックスを迎えた。
割れんばかりの拍手と歓声が湧き起こり、店内の温度が三度ほど上がった気がする。
「よし、次はシルヴィアの番だ。思い切り歌ってこい」
満足げな顔で戻ってきたクレティさんが、マイクをシルヴィアさんへ差し出した。
「あら、私が歌ってもいいのかしら」 シルヴィアさんは優雅に微笑み、すっと立ち上がってマイクを受け取る。
しっとりとした大人のジャズか、甘いラブソングでも歌うのだろう。
俺もユミィも、ゆったりとした気持ちでグラスを傾けた。
だが、スピーカーから流れ出したのは、予想を完全に裏切る激しいイントロだった。
ドンドンと腹に響く太鼓の音と、哀愁を帯びた弦楽器のメロディー。
シルヴィアさんは目を閉じ、マイクを両手で包み込むように構えた。
そして、普段の余裕ある口調からは想像もつかない、力強い声で歌い出す。
それは泥臭い人間模様を描いた、やけにこぶしの効いた人情的な曲だった。
信じられないほど歌が上手く、声の震わせ方が完全にプロのそれである。
俺とユミィはぽかんと口を開け、手にしたポテトフライを落とした。
「シルビーさん、あんな引き出しも持っていたんですね」
ユミィが目を丸くして呟く隣で、俺はただただ圧倒されて頷くしかない。
のちに聞いた話だが、これは彼女の故郷で古くから歌い継がれている伝統的な曲らしい。
洗練されたお姉さんの意外すぎる一面に、掘削員たちも涙ぐみながら聞き入っていた。
しっとりとした、しかし熱い拍手の中でシルヴィアさんが歌い終わる。
「ふふっ、少し懐かしい気分になっちゃったわね」
彼女が席に戻ろうとしたその時、再び居酒屋の扉がバンッと乱暴に開かれた。
「待たせたな。俺の出番やで」
肩で激しく息をするラキが、汗だくになって立っている。
「お前、今までどこで何をしてたんだよ」
尋ねるよりも早く、こいつの手元に視線が釘付けになった。
ラキの両腕には、大きな四角い箱が握られている。
どう見てもただの荷物ではない。
ラキが抱えてきた巨大な箱を、ドスンとテーブルのど真ん中に置いた。
危うくジョッキが倒れそうになり、俺は慌ててグラスの縁を掴む。
こいつはニヤリと得意げな笑みを浮かべた。
ラキは丁寧に分厚い黒いケースを開いた。
中から姿を現したのは、鈍い光を放つ金色の複雑な金属の塊だった。
無数のボタンや管がぐねぐねと入り組んでいて、まるで新兵器のパーツのようにも見える。
「これは武器でも機械の部品でもないで。サックスっていうんや」
ラキは呆れたように言いながら、その金色の塊を大事そうに取り出した。
首から黒いストラップを下げ、金属の管を器用に引っ掛ける。
薄い木の板のようなものがついた先端を、こいつは迷いなく口にくわえた。
そのまま大きく息を吸い込み、指先を複雑なボタンの上で滑らせる。
プァーンという、低くて甘い音が突然店内に響き渡った。
俺は目を見開き、その奇妙な金属の塊をマジマジと見つめる。
音楽の良し悪しなんて、俺のすっぽ抜けた記憶の中には一切残っていない。
だが、その音がとてつもなく心地よく、心が震えるほど美しいことだけはすぐに分かった。
「ハハハハ。あいつ、いっちょ前に色気のある音を出しやがる」
クレティさんも腕を組み、目を細めてこいつの演奏に聴き入っている。
流れてきたのは、どこか懐かしく、そして徐々に熱を帯びていくアップテンポな旋律だった。
最初は静かに聴いていた掘削員たちが、そのメロディーにハッと顔を上げる。
「故郷の祭りで歌ったよ」
「ああ。親父たちがよく歌っていたあの歌だ」
男たちの間に、あっという間に熱狂の渦が広がっていった。
どうやらこいつは、彼らの世代なら誰もが知っている大衆歌謡を選んだらしい。
ラキの指が管の上を激しく踊り、金色のサックスが泣き叫ぶように高音を奏でる。
それに呼応するように、掘削員たちが一斉に大声で歌い始めた。
手拍子が鳴り響き、足を踏み鳴らす音が地響きのように店を震わせる。
むさ苦しい男たちの合唱に、こいつの吹くサックスの艶やかな音が絶妙に絡み合っていた。
さっきまで泣き言を言っていたはずのラキが、今は信じられないほど輝いて見える。
「ちくしょう、あいつだけいい所を持っていきやがって」
俺はジョッキの冷たい表面をなぞりながら、少しだけ離れたところからその光景を眺めていた。
胸の奥に、チクリと冷たい棘のようなものが刺さるのを感じる。
死と隣り合わせの戦場にいる時、俺は自分が記憶喪失であることを不都合に思ったことはない。
弾を避けるのに過去の思い出は必要ないし、剣を振るうのに生い立ちなんて関係ないからだ。
今を生き延びることだけで精一杯で、空っぽの頭を振り返る余裕なんてなかった。
だが、こういう平和で温かい場所では話が違う。
誰もが当たり前のように共有している懐かしい曲を、俺は一つも知らない。
故郷の景色を思い出すメロディーも、昔の仲間と歌った記憶も、俺の中には存在しないのだ。
みんなが同じ歌で一つになっている中、俺だけが透明な壁の外に取り残されているような気がした。
喉の奥から、言葉にならないもどかしさがゆっくりとせり上がってくる。
「ハハハハ、お前は本当に分かりやすい顔をするな」
不意に肩を叩かれ、俺はビクッと体を震わせて顔を上げた。
クレティさんが豪快に笑いながら、俺の背中をバンバンと叩いている。
「別に。俺は何も言ってないぞ」
俺が少し拗ねたように答えると、おやっさんはニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「過去の歌がないなら、今ここで覚えちまえ。明日からこれが俺たちの歌だ」
その言葉に、ユミィも優しく微笑んでこちらを見ている。
「そうですね。機体と同じで、記憶もこれから新しく組み上げればいいんです」
そうだ。
過去がないなら、これからこの騒がしい日々を記憶として刻んでいけばいいだけだ。
俺は胸につかえていた重い空気を吐き出し、立ち上がって熱狂の渦の中へ飛び込んでいった。




